旋律の使徒

真夜中 緒

第1話 アリス

 最初は人形かとおもった。

 黒っぽい格好のごつい男の肩に、小柄な少女が乗っている。

 鮮やかな菫色の瞳。

 ほんのり桜色の唇。

 陶器人形ビスクドールめいた整った顔立ちに、似合い過ぎているフリルのドレス。大きなつばのレースとリボンで飾られたボンネットに、やわらかそうな革の編み上げ靴。

 人形じゃないとわかったのは、少女が歌ったからだった。

 歌詞のない、ハミングだけの歌。

 少女の澄んだ声は天上の楽器のように、たえなる旋律をつむぐ。

 世界が組み変わる。

 全てが調和してゆく。

 本当に、そうだったのかも知れない。

 その日から私の耳に触れる音は、全て旋律を持つようになった。

 鳥の声。

 風に鳴る草。

 ひび割れて砕ける陶器の音でさえ。

 あれは誰だったのだろう。

 私は今も、答えを知らない。


 アリスはあまり魔法が得意ではない。

 アリスの力が及ぶのはアリスを中心に半径五十センチがせいぜいで、これほど弱い力しか持たないのは、力のある者の中では珍しい。

 これなら力なんてなくても同じだった。

 そんなふうに思う事もある。

 力のない者は魔法などなくても普通に生活しているし、半径五十センチの魔法ではどうせできることははかがしれている。

 そんなアリスがその少女に初めて出会ったのは、まだ初等学校に通っていた頃のことだ。

 もしかしたら出会った、というほどではないのかもしれない。

 見た、という方がたぶん正しい。

 それもアリスが一方的に。

 少女はとても可愛くて綺麗だった。

 たっぷりのフリルとレースとリボンで飾られたドレスとボンネットは、瞳に合わせた菫色。ボンネットの下に覗く巻毛は紅茶色。濃い茶色の革の編み上げ靴はレースめいた飾り穴で飾られている。

 少女が大きな男の肩に乗っていたのは覚えているけれど、その男の方は黒っぽい格好だったことしか覚えていない。

 それほどに少女は印象的だった。

 少女は歌った。

 歌詞のない、旋律だけの歌をハミングで。

 それはとても綺麗な声で、とても綺麗な旋律だった。

 アリスが異変に気づいたのはその夜の事だ。

 音がどれも旋律に変わっていた。

 足音

 風

 屋根をたたく雨音

 コップに注ぐ水の音

 ふと聞こえた猫の鳴き声

 なんでもない生活音、雑音の全てが旋律を奏でている。

 アリスは戸惑った。

 しかもさらに戸惑う事に、両親に訴えてもわかってはもらえなかった。

 どうやら全ての音が旋律を奏でるように聞こえているのはアリスだけらしい。

 ひどく戸惑うことではあったけれど、そのうちにアリスはその状況に慣れた。

 世界は音楽に満ちている。

 少なくともアリスにとっては。


 アリスが再びその少女に出会ったのは、アリスの成人の日だ。十五歳になると春の祭りで成人の祝福を受ける。

 毎年、この地方でその年に成人を迎えるピッタリの数、アルフの木に花が咲く。新成人はアルフの木から一輪ずつ花を摘んで祝福とする。花は胸に飾られて、その夜は初めて夕暮れのあとのダンスに参加する事を許される。

 その、成人の夜のダンスの席に少女がいた。

 高く、低く歌われる美しい歌。

 世界を満たす音楽が、その歌の伴奏へと変わる。

 なんて、美しいのだろう。

 とても、とても、とても、綺麗。

 ふと、青年と目があった。

 同じ新成人の青年は、胸に花を飾っている。

 この人は、同じものを聞いている。

 世界を満たすこの音楽を。

 青年が手を差し伸べる。

 アリスがその手に触れる。

 二人は音楽に合わせて踊りはじめた。


 「三組か。」

 人間プレイヤー同士のカップルは多くない。

 どちらにしても子供は体外受精と人工子宮で生まれるのだから、人間同士の夫婦でなければならない理由もない。両親ともNPC《ノンプレイヤーキャラクター》ということも珍しくはないし、だからといって人間の子供がちゃんと育たないという事もない。

 そもそも世界の人口の七割はNPCなのだから。

 だが、できれば人間同士のカップルが存在する方が望ましい。

 だから受胎可能年齢である十五歳を迎えると、様々な形で人間同士を引き合わせ、お互いを意識するためのきっかけを与える。成人の夜から始まるダンスもその一つだ。

 ただ、彼女の歌は本来そのためにあるわけではない。

 彼女、旋律の使徒、メロディ。

 美しい少女の姿をした彼女は、世界というプログラムを整えるのが役目だ。

 ただ、NPCの両親に育てられた人間の中には、彼女の歌に独特の反応を示す者がいる。彼らには全ての音が旋律を持って感じられるようになるらしい。彼らの中からは多くの美しい音楽を生み出す者が現れている。

 そして、その現象を経験している人間同士がカップルになる事も多い。

 誰もが経験するわけではない現象を共有する事は、人間を結びつけるわかりやすいきっかけになる。

 「だからといって、ダンスのたびに呼びつけられるのもなあ。」

 男はガリガリと頭をかいた。

 メロディが自らの従者である男に微笑う。

 「まさか。無理なのはわかっているもの。」

 美しい世界を美しいままに保つ事。

 それがメロディの役割だ。

 だけどそのついでにちょっと他の役割を、果たしても構わない。

 「受精調整があるから報告はしといてね。」

 人間同士のカップルには、基本的に「実の子」が手配される。だからカップル成立の可能性がある場合は、早めに報告しておくのだ。

 メロディが歌う。

 経年劣化で揺らぐ世界プログラムが旋律によって整えられる。

 世界は音楽に満たされる。

 

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旋律の使徒 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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