後編

 それから、少しだけ時が経って。

 けれど僕らは何一つ変わっていない。



「ねえ、見てよ。あの辺り、この間歩いたところじゃない?遠くまで来たねえ」


 僕らは家から遠く離れて、高台の上を歩いていた。

 僕の隣で彼女が遠くを指差して、街を見下ろしながら笑っている。笑う度に揺れる黒髪と、響くあっけらかんとした声。どこからどう見ても、本物の女の子にしか見えない。


 僕はもう高校を卒業して、働き始めて何月か経っている。でも僕の毎日は欠片も変わっていなかった。

 通う先が学校から職場に変わっただけで、仕事終わりに彼女と適当に街をぶらつく。そこには目的も何も無い。本当に、ただ歩くだけ。



 これが、僕の人生なのかもしれないな。ふと思った。

 家にも学校にも、たぶん職場にも、僕の居場所は無い。僕以外の皆にはみんな、打ち込むものや帰るべき場所があって、大好きな人がいる。それはとても眩しく見えるし、羨ましいとも思う。いつか僕にもそんな素敵なものが手に入るといいなとさえ思っている。

 だけど、手に入れる方法は分からない。彼女と一緒に街を歩いている時、僕は第一に彼女との時間を楽しんでいるけれど、同時に何かが起こることを期待している気がする。何か、誰かが僕の人生に飛び込んできてくれるのを。


 そして何も起こらない。当たり前だ。僕はただ街を徘徊しているだけだ。目的も無く歩くだけの僕が、何かを見つけられるはずもない。

 彼女が傍で笑ってくれていることだけが救い、なのだろう。だから僕は彼女のことを好きになったのかもしれない。彼女だけは僕を見つけてくれたから。



「……キミはほんとに、歩くのが下手だね」


 横から呆れたような声が聞こえた。歩きながら、彼女が僕を見つめていた。


「ねえ、人はなんでこうして、ぶらぶら歩くんだと思う?」


 唐突な質問に、戸惑ってしまう。すぐに答えられなくて、しばらく無言のまま歩いた。


「……嫌なことから、目を背けたいから?」


「それもあるだろうね。歩いていると頭を空っぽにできるから。でも、歩きのプロである私からすればね、」


 そう言って彼女は一旦言葉を切った。じっと僕を見る。眼には力がこもっていて真剣な雰囲気のつもりなのかもしれないけれど、もう彼女を見慣れてしまった僕には可愛らしい表情にしか見えない。

 でも僕のために色んな顔を見せてくれる彼女のことは、愛しかった。


「歩いてると、世界の大きさが分かるでしょ?いろんな人とすれ違って、いろんな景色を見て。見慣れた街にも知らない場所があって、いろんな表情があってさ。この街だけでも、街ぜんぶをまるっと知ることなんてぜったい無理だなって、思えるじゃない?」


「それは、そうだね」


「……でも、ぜんぶを知らなくても私たちは歩けるんだよ。意味なんて無くたって、歩けるの。……生きるのだって、歩くのといっしょ」


 そう言って彼女は笑った。いつものように満面の笑みで、けれどいつもより小難しいことを言ったからか、照れ隠しのようなわざとらしさが少しだけ覗いていた。


「こうやって適当に歩いて、こんなふうにもっと気楽に生きていいんだって、みんな思い出すの。キミもそうやって歩いていいんだよ。私が言いたかったのは、それだけっ」


 それから彼女はまた前に向き直って、いつも通り歩いていく。その足取りに迷いは無くて、見ているだけで元気が貰えるような、そんな歩き方。流石は自称歩きのプロだ。



 彼女の横を歩きながら、彼女の言葉の意味を考える。

 僕はもっと気を抜いて生きて良いと彼女は言う。たぶん彼女の言う通りなのだろう。僕は頭の中では馬鹿みたいにあれこれ考えているけれど、結局やっていることといえば、ただこうして歩いているだけだ。なら僕は難しく考えることも止めるべきなのだろう。



 だけど。

 結局僕は考えることを止められない。いつだってそうだった。


 母さんがずっと家にいてくれたら。僕にやりたいことがあったら。クラスに居場所を作れていたら。

 僕が何か一歩踏み出せていれば変わっていたのかもしれないことを、僕は頻繁にぐるぐると思い出してしまう。その度に自分の勇気の無さを嘲笑って、けれど何かできたのではないかと後悔してしまう。

 今だって、そうだ。隣を歩く彼女のことが好きなのに、彼女以外のことを考えながら歩かないとそもそも彼女と出会えない今を、もどかしく思いながら結局、何もできていない。

 結局、怖いだけなんだ。何か行動して、自分以外の誰かを傷付けて、誰かに嘲り笑われることが。

 でも僕は――



「そう思うなら、気楽に一歩、踏み出してみればいいんだよ。今歩いてるみたいに、さ」


 いつの間にか彼女は、僕のすぐ横、鼻先が僕の頬に触れそうなくらい近くにいた。彼女の吐く息が頬に触れるような錯覚がした。

 それだけ言って、またにひひと笑う。それがあまりに邪気の無い笑い方で、僕も思わず笑ってしまう。肩から力が抜けて、なるほど彼女の言っている意味が理解できた気がした。


「私たちが歩いているのを、誰も気にしてないでしょ?だからキミも、気にしたら損だよ。さあ、行こっ」


 彼女は僕から顔を離して、僕の横で歩調を速めて、少しだけ僕の前に出る。僕は置いていかれたくなくて、思わず、本当に無意識に彼女の手を取ろうと手を伸ばしていた。

 彼女の手に触れた瞬間、僕の手は彼女をするりと抜けて、何も掴めない。彼女はそれに気付かず、そのまま数歩分僕の前に出てしまった。


 ちくりと胸が痛む。……何も考えずに行動したって、変わらないこともある。

 きっと僕がいくら望んでも、どれだけ努力しても、彼女との関係は今のまま、何も変わらないだろう。


 けれど不思議と暗い気持ちにはならなかった。

 触れなくても彼女は僕の傍にいてくれる。僕が頭を空っぽにして歩けるようになるまで、僕の隣を歩いてくれる。僕と一緒に他愛もない景色を探してくれる。僕にはもうそれで十分すぎるくらいなのかもしれない。


「ほら、はやくっ」


 彼女はどうしてか走れない。けれど相当な早足では歩けるらしく、僕らの距離はさっきよりも開いていた。僕にしか聞こえない声が、誰もいない高台に響く。


「今、行くよ」


 僕はできるだけ明るい声で答えた。一緒に歩く彼女には、できるだけ明るくいてほしい。泣いた顔より笑った顔の方が彼女はずっと可愛いから。

 追い付くために、僕も歩調を速めた。気付くと、いつかのようにまた夕焼けが街に差し始めていて、彼女の笑みを赤く染め始めていた。けれど今度は、彼女の頬には夕陽の赤とは違うあかも差しているように見えた。

 そう思って、また笑う。都合の良い、目の錯覚だ。でも無性に嬉しかった。




 僕を待ちながら後ろ向きに歩く彼女は、散歩の君。

 歩く僕にしか見えない不思議な女の子。僕の大好きな、特別な人。


 僕はそんな彼女と一緒にまた、街を彷徨う。

 答えが見つかる頃には僕はひとりになっているかもしれないけれど、少なくとも今は彼女が傍にいる。

 今はそれでいいと、思えている。

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徘徊する僕と、散歩の君 マルチューン @cultive173

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