中編
教室の窓から外を眺めている。
誰もいない校庭はがらんとしていた。今日は天気も良いから、あの真ん中で寝っ転がったらきっと気持ちいいに違いない。視界いっぱいの青空と雲。何もかも忘れて良く寝れそうだ。そこまで考えて、季節はまだ冬と春の変わり目で、外は肌寒いことを思い出した。
教室に目を戻す。僕は後ろの方の席だけれど、僕の前にも人はあまりいなかった。早めに受験が終わった彼らは授業に出る意味を失って、今頃何処かで遊んでいるのだろう。僕がクラスに馴染むより早く、クラス自体が消えていこうとしていた。
この間彼女に言われたことが、ふと頭をよぎる。僕は難しいことを考えずにもっと自然に歩くべきだと彼女は言う。それは、そうなのかもしれない。けれど、少なくともこのクラスで僕が自然に歩き始めるには、もう遅すぎたみたいだった。もっと早く気付いていれば、何か変わっていただろうか。
僕も、卒業後の進路はもう決まっている。父さんの知り合いの会社で働かせてもらうことになっていた。どんな仕事をするのかは分からないけれど、僕のことだ。どんな仕事でもきっと人より下手くそに、けれど落第点は取らない程度に、こなせるだろう。働いてお金を稼いで、これまでお世話になった分を父さんに返していくつもりだった。
別に父さんはそんなこと求めてはいない。だからこれは僕の自己満足だ。いくら返せば僕が満足するかは分からない。満足したら、次は何を目的に生きるのかも、分からない。
僕が授業に出ているのは、授業をサボってまですることも特にないからだ。本当は彼女と会って、彼女と目的もなく歩きたかったけれど、もしそうすれば彼女と歩いている間ずっと、授業に出なかったことが頭の片隅にひっかかって落ち着かなくなる気がした。僕は小心者だから。
後ろめたさを抱えながら彼女と歩けば、きっと彼女は悲しい顔をする。それを見るのは嫌だった。
『私と歩いているときはね、頭を空っぽにするんだよ。空っぽにして、遠くを見る。頭に浮かんだことをそのまま話す。そうしてると、そのうち歩いていること自体、忘れられるから』
彼女がよく言う言葉を思い出す。彼女には、歩くことに関して彼女なりの流儀があるみたいだった。
『歩いてることを意識しちゃうと、脚の疲ればっかり気になっちゃうじゃない?何も考えなければ、いつまでだって歩けるよ』
そう言ってえへんと胸を張る彼女の笑った顔を、良く憶えている。
僕の壊れた頭が見せている幻覚であるはずなのに、彼女は僕よりもずっと人間臭かった。授業中なのに思い出して笑ってしまう。
クラスで僕を見る人なんていない。だから唐突に笑うのも僕の自由だった。
そんなふうに時をやり過ごしていると、ようやく授業終わりのチャイムが鳴った。先生が教室を出て、皆は帰る準備を始める。
今日は、どうしようか。あてもなく歩けば彼女は出てきてくれるだろうか。もう無理かもしれない。僕はもう歩いて街の知らない景色を知ることや、歩いて気を紛らわすことより、彼女と会うことを楽しみに思ってしまっている。
まあ、会えないならそれでもいいか。家に帰ったってすることはない。ただ時間をつぶすなら、歩いていた方が時間が過ぎるのもいくらか早くなるだろう。そう思って、僕はかばんを手に誰よりも早く教室を出た。
家の方向とは反対の、大通り沿いを歩いている。通学路はもう遠いけれど、彼女は現れなかった。
僕は生まれた時からこの街に住んでいる。だからこの大通りも良く知っている。けれどこうして歩くのは久しぶりな気がした。彼女とも歩いたことがあるはずだけれど、記憶にある街並みとはところどころが違って見えた。僕の知らぬ間に、街も変わっているのだろう。
まだ昼なのにシャッターを下ろしたままの店が増えている気がする。コンビニをより頻繁に見かけるようになった気がする。車の走る音が静かになったような、日陰が増えたような。
「そうだね。ここも随分、変わったなあ」
聞き慣れた声がして、横を見る。隣で、見慣れた黒髪が揺れていた。僕の眼を真っ直ぐに見返して、いつものように本当に嬉しそうに、彼女は笑っていた。
僕がどうでもいいことを考え始めると彼女は現れてくれるのだろうか。良く分からない。
「ぜんぶ、些細な違いだけどね。こういうのはやっぱり、歩いてみないと分からないや。キミも歩く楽しさ、分かってきた?」
「……どうだろう。街が変わっていくのを見るのは、寂しくなる気もするよ」
別に、昔は良かったなんてこれっぽっちも思っていない。けれど、良く知っているはずのものが知らない新しいものに変わっていくのは、寂しいというか、どうしてか怖かった。
彼女は僕の横を歩きながら眉をへの字に曲げて、困ったような悲しんだような顔をした。
「気持ちは分かるよ。でも変わらないものなんてないから、さ。歩いてるときくらいは前向きにいこうよ。ねっ」
そう言ってまた彼女は笑った。僕にも笑ってほしいと思っているのかもしれない。でも僕はどうしてか、胸の内がささくれ立つのを感じていた。
だって、君は変わらないじゃないか。出会った時から今まで、少女のままだ。一緒に歳をとることさえできない。変わってほしいと僕が思っていることは何も変わらないくせに、そのままにしておきたいことは勝手に変わっていく。
君との関係だって、きっと僕の望むようには変わらない。だけどこのままずっと二人で歩ける訳でもないのだろう。いつもいつも、何もかも、嫌な方に転がっていく。僕が悪いのか。
「……私は、これからもずっとキミの傍にいるよ?キミが歩けば、私だって――」
「傍にいてくれるだけ、だろ。僕は君に触ることもできないのに。僕が君に会いたいと思ったら、会うこともできないのに」
彼女の声は曇っていた。彼女と会えて嬉しいはずなのに、こんなことを言いたいはずじゃないのに、けれど僕は彼女の前で、思ったことを止められない。
君は僕があてもなく歩く限りずっと僕の傍にいて、僕の気持ちを緩く掴まえて、そうやって僕をずっと、ひとりにさせるんだろ。そんなの、辛いだけだ。
「……そんなつもりじゃ、ないよ。私は、誰より悪いふうに考え込みがちなキミに、もっと気楽に歩いてほしくて。そう思ったから、あのとき、キミのところに来たんだよ」
彼女の声が揺れていた。横を見ると、彼女はぼろぼろと涙を零していた。大きな瞳が濡れて、震える。震える度に涙が落ちる。それを見て、僕は何も言えなくなる。だけど、頭の中は止まらなかった。
どうして泣くんだよ。急に現れたり急に消えたりして、僕を苦しくさせるのは君の方じゃないか。
「私だって、もっと傍にいたいよっ!歩くこと以外だって、キミといっしょにしてみたいよっ!だけど私は、そういうものなんだもの!キミが歩くときだけ傍にいられるのが、私なんだものっ」
彼女はそう叫んで、ただ泣き続けている。女の子が本気で泣いたところを、僕は初めて見たのかもしれない。僕はもう本当に何も言えなくなって、ただ口ごもる。大通りをまばらに走り抜ける車の音だけが聞こえる。
こんな、恋人同士の別れ話みたいな状況でも、二人とも足だけは止めずに歩いていることが可笑しかった。相変わらず、彼女が僕の傍にいてくれる条件は良く分からない。けれど、止まってしまえば彼女が消えてしまうことだけは確かだった。今彼女がいなくなるのは、嫌だ。
彼女が鼻をすする音が聞こえる。女の子もこんなに堂々と鼻をすするんだな。
「……別れ話とか、やめてよ。まだキミはちゃんと歩けてないもの。息抜きに歩くときも難しいことばっかり考えてるキミには、見せなきゃいけない景色がまだたくさん、あるんだから」
そう言って、彼女は目を擦って、顔を上げた。赤い眼で僕を睨んでいる。
「泣かせた分、今日はいっぱい付き合ってもらうんだから!さあ、行こっ」
そう言って、彼女は僕に背を向けてすたすたと前へ行く。怒っているのだろうか。女の子を怒らせたのも、たぶんこれが初めてだろうな。
彼女は僕に触れないから手を引かれた訳じゃないけれど、彼女の背が遠ざかるのが嫌で、僕は思わず早足になってすぐに彼女を追いかけた。
誰かを泣かせたのも怒らせたのも、彼女が初めてだ。だからどうやって機嫌を取れば良いのか分からない。今日は彼女の機嫌が直るまで延々とあてもなく歩き回る羽目になるのかもしれない。
けど僕は嬉しかった。どうして嬉しいのかは分からない。僕の妄想であるはずの彼女も僕と同じように悩んでいることが分かったからか、泣いて怒った後も僕の隣にいようとしてくれているからか。
それとも、生まれて初めて誰かに感情をぶつけて、それを真っ直ぐに受け止めてもらえたから、だろうか。
「もう、また難しいこと考えてるなっ!禁止禁止!私といるときは、空っぽにしてっ」
横からの厳しい声も少しだけ調子が和らいでいて、僕はそれも嬉しくて、とうとう笑ってしまっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます