徘徊する僕と、散歩の君

マルチューン

前編

 あの日おかしくなったのは、世界だったのか、それとも僕の方だったのか。



 放課後、夕焼けを背に自分の影を踏みながら、ふとそんなことを考えた。

 馬鹿馬鹿しい妄想だ。そんなの、答えはもう決まってる。おかしくなったのは僕だ。世界はどうしようもなくいつも通りで、それを見る僕の頭の方が先にイカれてしまったのだ。


 けれど今日も試しに、いつもの通学路から一歩脇にそれてみる。僕の頭が壊れたままでいるかを確かめる。家の近くの交差点をいつもとは逆に、右に曲がった。


「君はおかしくなんてないよ」


 その瞬間に、耳元で囁く声。横を見ると、夕焼けに照らされながら女の子が呆れたように笑っていた。突然現れた彼女にもう驚くこともなく、僕はなぜだか安心さえしてしまう。

 長くも短くもない黒い髪と、少し眠そうな大きな眼。僕と同じ年頃の女の子。もう、同じ年頃になってしまった。

 僕は知っている。彼女と話すために足を止めると、彼女は消えてしまう。だから僕は止まらずに、彼女の横をそのまま歩いて通り過ぎる。すると彼女はいつも通り、僕の横に並んで歩き始めた。


「そうかな。君が見える時点で、僕はだいぶ、おかしいと思うけれど」


「たしかに、私と一緒に歩けるのはキミだけだけれど。それをおかしいなんて言われると、流石の私でも、傷付いちゃうな」


 そう言って、彼女はあからさまに肩を落として、俯いた。声は変わらずに楽しげだから本当は傷付いてなんていないんだろうけど、下を向いた顔には夕陽が差さず、どんな顔をしているのかは僕には見えなくて、少しだけ不安になる。

 別に、彼女のことを邪険に思っている訳ではないのだ。むしろ、感謝しているくらいで。だから、落ち込ませたくはない。

 そう思っていると、彼女はぱっと顔を上げた。いたずらが上手くいった時のようににたりと笑っていて、僕はまた、頭の中を覗かれたことに気付く。


「まあ、キミの頭の中なんて今はどうでもいいじゃないか。さあ、歩こうよ。今日は、どこまで行こうか?」


 そう言って、彼女は僕の横から一歩前に出た。すぐに僕の方へ振り向いて後ろ向きに歩きながら、まだいたずらっぽく笑っている。僕もつられて笑ってしまう。二人で笑いながら歩き続ける。壊れた僕の、いつもの日常。今日は川沿いでも歩こうか。



 彼女といる時は、僕は歩き続けないといけない。

 けれど目的を持って歩いてはいけない。

 彼女と会うこと自体を、目的にしてもいけない。


 それさえ守れば彼女は僕の傍に現れて、僕は彼女と歩くことができる。僕にしか見えず、僕としか話せない、名前も無い彼女。

 彼女について僕が知っていることはそれくらいだった。


 どう考えたって、僕の頭はおかしくなっている。見えるべきものでないものが見えて、聞こえるべきものでないものが聞こえる。

 けれど彼女といる間は、馬鹿なことをひとりぐるぐると考え込まずに済む。ころころと表情を変える彼女と街を歩くのは楽しかった。彼女と会いたいと思わずにいることが今ではもうかなり難しくて、最近は今日のように無理矢理別のことを考えながら、彼女と会うようになっていた。




 彼女と初めて会ったのは、小学生の頃だっただろうか。

 母さんが帰ってこない日が何日か続いて、その後で父さんから、もう母さんとは会えないと言われて。言葉の意味を飲み込めないままにどうしてか胸が苦しくなって、家を走り出て知らない道を歩いている時に、彼女は突如現れた。そのはずだ。

 あの頃の僕から見て年上のお姉さんが、いつの間にか僕の横を歩いていた。その時僕は泣いていたのに、彼女はそんなこと全く気にもせず笑っていて、僕をあちこちに連れ回した。矢継ぎ早に話題を変える彼女と話している内に、すっかり日が暮れて涙も枯れて、家に帰らなきゃと思った時には彼女は消えていた。その後、探しに来てくれた父さんに生まれて初めて怒られて、また泣いたことを憶えている。


 それから、中学生になって、高校生になった今も、僕が通学路を抜け出た途端に彼女は現れて、僕の横を歩いている。

 僕は放課後に街を徘徊する男として、クラスで気味悪く噂されているのかもしれない。噂されているのかどうかもはっきりと分からないほど、僕はクラスに馴染めていなかった。




「そういえばキミ、彼女とかは作らないの?」


 土手の上、川と僕の間を歩きながら彼女が僕に尋ねた。ついさっきまではじゃがいもの芽について話していたのに、彼女の話題はいつも何の前触れも無く変わる。


「高校生と言えば、青春でしょ。淡い恋愛、放課後に二人きりの教室。そういうの、キミには無いの?」


「無いよ。あったら、得体の知れない君とこうしてあてもなく歩いてないさ」


「それもそうだね。けど、欲しくはないの?彼女」


 いつもは本当にとりとめもないことばかりを話すのに、今日はいつになく生々しい話で、僕は一瞬戸惑ってしまった。横から僕をじっと見つめる彼女の方を向くのが照れくさくて、川とは逆方向の、なんの面白みもない道路と道行く車を見るふりをしてしまう。

 けど、黙っていても結局彼女には全部筒抜けだ。正直に話すしかない。

 思ったことをそのまま打ち明けるしかない彼女との会話は、逆に気楽で心地良かった。僕はどうして、父さんやクラスの同級生と話す時、まず顔色を伺ってしまうのだろう。


「欲しくない訳じゃない。だけど、彼女を作るのってすごく大変なことなんだよ」


「そうなの?例えば、何が大変なのかな」


 彼女はいつも通り興味津々で、楽しげだ。

 いつも思うけれど、僕の壊れた頭が見せている妄想にしては、彼女は愛想が良すぎる。それとも僕は、彼女のような明るさに憧れているのかな。


「例えば、そうだな。まず女の子の気を惹くには、見た目に気を遣わなきゃいけない。僕のような冴えない顔なら、髪にも眉毛にも人一倍入念に、さ」


「ふむ。キミはたしかに冴えないね」


「うるさいよ。それに見た目だけじゃない。話し方、気遣い、面白さ。色んな基準をクリアして、きちんとした手順を踏んで、ようやく彼氏彼女の関係になれる。僕には夢物語だよ」


 話していて悲しくなる。けれど本当のことだ。女の子の眼も真っ直ぐに見れないうえに、そもそもクラスに居場所さえ無い僕には、青春なんて、布団に入って寝る前の妄想でしか触れられないものだ。

 彼女が静かになってしまった。気になって、彼女の方を向く。彼女は眼を見開いて、きょとんとした顔をしていた。


「難しく考えすぎじゃないかな。だって、キミはこうして、私と歩いているでしょ。さっき自分で言ったこと、何もしてないのに、私と歩けてる。ごく普通に、いつも通り」


「……キミは、色々と特別だろ」


「そうだね。……えへへ。でも、こうやって一緒に歩くだけで、私はキミのこと、好きになったよ」


 突然の言葉に、どきりとしてしまう。


「一緒にいれば、キミの良さ、分かる人もいると思うけどな。キミはもっと自然に歩いていいんだよ。今みたいにさ」


 そう言って、今良いこと言ったでしょと笑う彼女。夕陽はもう沈みかけていて、濃い赤が彼女の頬に差している。きっと夕陽の赤だけなのだろう。そのことが、少しだけ寂しく思えてしまう。


 彼女は、卑怯だ。僕から会いに行くと絶対に出てきてくれないくせに、僕がただひとりになりたい時にだって彼女はひょっこりと出てくる。そんな彼女が、僕のことを好きだと言う。そんなの、不公平だ。

 僕だって君と長いこと一緒に歩いていて、君の暖かさにもうずっと、惹かれているのに。



 それから、僕と彼女は日が沈みきって暗くなるまで、川沿いを歩き続けた。

 彼女が投げつけるとりとめもない話題に答えながら、夕陽の赤と濁った川を眺めながら、彼女に言われた言葉をずっとひとり、どうしようもなく思い返しながら。

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