シャッター音と君の声。
ピントを絞る時の、一瞬のスローモーションが好きだ。
余計なものが多すぎるこの世界を、ふたりきりに閉じ込めてくれるから。
___放課後の教室には、君の声が満ちていく。
ガラガラッ、と勢いよく部室を開ける。
西日がさす窓際から、よく通る声が響いた。
「はーい、2分遅刻」
「誤差の範囲じゃないっすかそれ…」
「普通の人ならね。熊谷くんは遅刻がデフォだから厳しめにしてるの」
日頃の行いを悔やんでね、と笑っているボブカットの少女を「熊谷くん」と呼ばれた少年は睨み付ける。
「どーせ幽霊部員だらけなんだから、俺が来るだけマシでしょ」
「はいはい、ありがとなす」
「俺なす嫌いです」
写真部、なんてのは大抵義務付けられた部活動に形だけ籍を置くためにあるものだと思っている。現にリトルリーグで野球をやってるような奴らはみんな写真部だ。丸坊主でガチムチの汗臭い男が写真なんか撮るわけない。そういう扱いなんだ、と思っている。
……だから入ったのに。
「まさかの落とし穴だよなぁ…」
「んー?なんか言ったぁ?」
「んや、なんもないっす」
背中越しに曖昧な返事をする。
窓際で一眼レフカメラのレンズを磨いている声-つまり、唯一活動している現部長の三嶋先輩-を眺めながら出会った時のことを思い出していた。
__________
部活動登録の用紙をもって、廊下をふらふらとさまよっている。
期限は今日まで。通路を挟んで隣の席になった見るからに陽キャラなあいつは、部活動紹介のその日にすぐバスケ部に入っていた。真横に座った学級委員のあの子は吹奏楽部。
俺、どーでもいいんだけどな。
何がしたいとか別にねーし。
1年生は部活動が義務付けられていると聞いた時には「だるい」以外の感情がなかった。
渡り廊下を進んだ突き当たりを右に進むと、古い本と同じような匂いのする教室がある。その教室の前には海辺で拾えそうな流木が転がっており、でかでかと「写真部」と書かれている。
…はっきり言ってセンスを疑う。
とは言え、逆に安心した。ここまで(色々と)酷いとほぼ全員が幽霊部員という噂は本当だろうと謎に確信を持つ。
この調子なら写真部で適当に過ごせそうだ、という不純過ぎてもはや純粋な動機を抱えたまま、ガラリと扉を開けた。
「あ、1年生?入部希望かな」
黒いソファに座った制服と目が合う。
「私、部長の
ボブカットをさらりと揺らしながら立ち上がり、三嶋はボールペンを熊谷に渡した。
「期限今日までだよね?早く出さないとあの先生うるさいよ」
生活指導担当の
「あぁ、はい。書きます。あーす」
雑に返事をして、氏名欄に「1年3組
「君、字綺麗だね」
「っうぉあっ」
ソファの後ろから突然覗き込まれた宗太はそのまま、「太」の払いを思いきり引いた。
「ありゃ、やけにのびのびとした字になって」
「誰のせいっすかもう…」
まぁいいや、と鞄に突っ込んだ宗太が立ち上がると、目の前の棚に一眼レフカメラが置いてあった。
「あれ、先輩のすか」
「そうだよー、完全に私物なんだけど置かせてもらってる」
触ってみる?と渡されたそれは、思ったよりもずっと重くてごちゃごちゃとしていた。
「撮る?」
「いーっすよ、よくわかんないし。てか俺別に本気で写真撮るつもりな」
「そこ上のボタン押すだけだよ。とりあえずは写真部なんだしさ」
___ほら、なんでもいいから。
「撮ってみなよ」
開けた窓から風が吹く。
西日がカーテンを貫いたその時。
カチリ、と音がした。
……あ、スローモーション。
__________
幽霊部員しか居ないだろうから、あわよくば自分も幽霊にと思っていた宗太だったが、結局無欠席で部室に通っている。
実質二人きりのこの教室は、普段は物置になっているらしく、物に溢れて少し手狭だ。
「そうだ、そろそろコンクールの時期なんだけどさ。特にテーマとかないんだけど、熊谷くんは何か撮りたいものある?」
「撮りたいもの?」
「うん。熊谷くんこの半年間2枚しか撮ってないよね?毎日通ってるのにそれって逆にすごいよ」
だから無理やり撮らせるの!と何故か得意げな夕奈を横目に、じゃあなんか選びます、と宗太は机に積み上げられている写真集を適当に選んで手に取った。
「あ、KAGAYAだ」
「かがや?…なんすかそれ」
知らないの?と心底驚いた顔をした夕奈は、彼が世界的に有名な星景写真家であることを滔々と力説し始めた。
「イラストレーターでもあるんだけど、その絵も凄く幻想的でね、A4サイズの宇宙があるみたいなの」
初めて見たのは飛騨にある小さいプラネタリウムだという。壮大な星空の中に描かれた神話のモチーフに、すぐさま心を奪われた。
「私さそり座だからこれ買ったの、だいぶ前だけどまだ持ってる」
ちょっと待ってね、と言いながら鞄から取り出したのはポストカードだった。
___それは、一面の青と銀の世界だった。
到底この目で見ることは出来ない世界を、宗太の手のひら1枚分が閉じこめている。
「……へぇ、めっちゃ綺麗すね」
「でしょ?熊谷くんの星座もあるはずだよ」
「あー、俺ちょうど星座の切り替わりの日に産まれたんで雄牛か双子がわかんないんすよ。5月21日なんで。」
写真集のページをめくりながら、KAGAYAの世界を眺めている。モチーフは宇宙のはずなのに、まるで溺れるような青だ、と思う。
「この人に憧れて写真を…とかっすか」
「ん?んーん、そこはあんま関係ない」
「あ、そっすか」
__________
その夜、夕食を終えた宗太は庭で一眼レフカメラを見つめていた。星景を撮るなら携帯の搭載カメラじゃ間に合わないからと言って、夕奈が貸したものだ。
放課後、部活終わりに唐突に手渡されたそれは紛れもなくあの一眼レフカメラで、軽く狼狽しながら宗太は聞いた。
「これ大丈夫なんすか、もし壊したら俺返せないっすよ」
「大丈夫だよ、よっぽど壊れないし。弁償は3万5000くらいだから平気平気」
「は?!いや、俺無理っすそんなん嫌だ要らない!!!」
「冗談だってば、いいから持って行きな。熊谷くん今までで1番食いつきよかったし、今日は晴れだからオリオン座とか良く見えると思うよ」
値段に恐れ慄いて持ち上げもできない宗太を見て、苦笑しつつも夕奈は続ける。
「写真ってさ。その一瞬を切り取るものだから、その時の気持ちとか状況とか、色んなものがあるじゃんか。だからなるべくなら良いものを使って大事に撮りたいなと思ったの」
___それに誰にでも貸すわけじゃないよ、熊谷くんはきっと大切に扱ってくれると思うから。と続けられ、押し切られた形で宗太は人生初の「写真を撮るためのカメラ」を触る事になるのだった。
「切り取る、なんてすげぇ表現だよな…」
今俺がここで写真を撮ったら、俺は空を切るはさみみてーなもんか。
夕奈の読み通り、立冬の今夜はオリオン座が一際輝いている。カメラを構えてみる。ファインダーを通して眺めても、肉眼と変わらない。ピントを絞る。
ピピ、と視界が狭まる。
…オリオン座、そうか。もう冬なんだな。
カチリ、と音がしたと思ったら、すぐに開放された。
「なんだこりゃ、どアップじゃん」
一眼レフカメラの中で酷く不格好なオリオン座が、煌々と輝いている。
__________
翌日、宗太が写真を見せると「これはひどい」とケラケラ笑いながら夕奈は夜景の撮り方を教えた。
「シャッタースピードをゆっくりにするとか、感度を上げるとかするともう少しはっきり映るかも。でも下手にやるとなんか線がいっぱいのよく分からないものができるからそこは調整がいるけど」
でもなんだか熊谷くんらしいよ、と現像した写真を壁に飾ろうとする夕奈の腕を掴んだり掴まれたりひとしきりじゃれたあと、宗太はおもむろに口を開いた。
「切り取る、ってのはよくわかんなかったすけど」
「ん?」
「なんか、俺が全部もってる感じしました」
あまりにもらしくないセリフに一瞬の沈黙が流れ、夕奈はにやにやと笑いながら宗太の肩をつつく。
「ほっほーう、熊谷くんは詩人だね」
「っ、…なんでもないです」
「あはは、ごめんごめん。でもそれってすごく素敵じゃない?世界の一部がシャッターを切ったその瞬間から熊谷くんのものになったってことでしょ?」
「そう…ですかね」
シャッターが下りるスローモーションから開放されたときの、ふと我にかえるようなあの感覚をどう伝えたらいいのかわからず、宗太はまた曖昧に返事をした。
「俺よりよっぽど詩人じゃないっすか」
「そ、私実はゲーテの末裔なの」
「それはあまりにも嘘過ぎる」
「それくらいの方が突っ込みやすいでしょ」
教室の壁一面には夕奈の個人的に撮った写真が貼られている。友だちも多いはずなのに、意外にも風景画や静物画ばかりだ。
「人、撮らないんすか」
「なーに、撮ってほしいの?」
「いえ、なんとなくそう思って」
全部人が居ないんで、と宗太が続けると夕奈は合点がいったように頷いた。
「あぁ、私撮りたい人がいるから。その人以外はあんまり興味が無いかも」
宗太が目を丸くして固まっている横で、夕奈はそのまま話を続けた。
「私ね、好きな人がいるんだ」
宗太はまだ動かない。
「もう卒業だから、今年は絶対告わないと」
「へぇ、頑張ってくださいね」
「うん。そしたら熊谷くんも撮るよ」
放課後の教室。
西日がカーテンを貫いた。
スローだった世界は、3倍速で回り出す。
____________
数ヶ月借りっぱなしの一眼レフカメラを、今夜も宗太は庭で構えていた。
冬が深まるに連れてオリオン座はやはり一際目立って見える。
___私ね、好きな人がいるんだ。
「…あ」
ピントはオリオン座の隣の星に当たり、肝心の星座はぼやけてしまった。
___ねぇ先輩、知ってます?
オリオン座って、さそり座と仲悪いんすよ。
__________
その日は雪がチラついていた。
渡り廊下を通って部室に向かっていた宗太は、何故か右に進むはずの通路を左にそそくさと曲がっていった。
柱の影で、部室の方をみる。
夕奈は誰かと話している。
古い校舎の壁は声を吸収してくれるはずもなく、迷惑なことに宗太の耳にも律儀に届けてくる。
耳を塞ぎたい。聞きたくない。この次に来るのはきっと、きっと。
___私ね、好きな人がいるんだ。
あ、先輩、そーいう声で好きって言うんだ。
スローモーションな世界が終わる。
カチリ、と音がして、俺は放り出される。
ガラガラッ、と音がした。
夕奈が部室に入ったことを確認してから、宗太も何食わぬ顔を装って扉を開ける。
黒いソファに座った制服と目が合う。
「…あ、熊谷くん、……あー、そっかぁ、君は毎日来るんだった、忘れてた……」
___見てたよね?多分。
肯定も否定もできず、視線を泳がせる宗太を夕奈は半笑いで隣に呼んだ。
「ここ座りなよ」
「あ、はい」
「何、めちゃくちゃ気使うじゃん。珍し」
「いや、だってそりゃ」
先輩泣きそうだし、と口まで出かかった言葉を飲み込む。
「後輩、ですし」
普段ならツッコミの一つや二つ飛んできそうなセリフを選んでみたのだが、意にも介さず夕奈はあーー、と頭を抱えた。
「熊谷くん、駄目だった」
「…はい」
「ちゃんと言ったんだけどなぁ」
「はい」
俺んとこまで聴こえてました。そんで多分、俺の方が聴いてました。
鞄の中には、オリオン座からピントのズレた写真が入っている。
「私がもっと可愛いとかだったら良かったかなぁ…とか、思うよね、多分関係ないけどさ、それでも思うよね、あーーぁーー」
「はい」
「卒業したらもう会えないかな、連絡とかもだんだん取らなくなって、とかさ」
窓枠に夕奈は寄りかかる。
「ここから、良く見えるんだよ。トラック走る時のフォームもめちゃくちゃ綺麗なの」
…だからさぁ。
涙声が宗太の方を振り返る。
「切り取って、私のものにしたかった」
零れた涙は、きらきらと教室に落ちていく。
あぁ、溺れるような青だ、と思った。
___せん、
「先輩、こっち向いて」
「ん?」
ピントを合わせて、世界を閉じ込める。
西日がカーテンを貫いたその時。
___ねぇ、先輩。
俺は逃げないから。
世界はもう一度スローモーションになる。
「なにもう、こんな顔じゃ恥ずかしいよ」
泣き笑いで立っている夕奈にもう一度、宗太の持つカメラがシャッターを切る。
「先輩」
「もう撮られないからね、顔洗ってくるから待っ」
「写真撮るのって、多分一瞬を切り取るだけじゃねーんすよ」
一眼レフカメラを返して、宗太は独り言のように呟く。
そこに全部詰め込むことも出来るんすよ。
「だから、その、…特別だから撮らない、もすげぇいいんすけど、特別だから撮りたい、でもいいと思うんすよ…なんていうか」
困ったように頭を掻く宗太に、夕奈はそっと瞬きをしながら聞いた。
「熊谷くんは、最初はそりゃ幽霊部員目当てって言ってたけど…なんで写真撮りたくなったの?」
宗太は深呼吸をして、夕奈を見つめる。
世界がふたりきりに閉じ込められる。
「先輩と、同じです」
狭い部室が、来月からは広くなる。
_________
ピントを絞る時の、一瞬のスローモーションが好きだ。
余計なものが多すぎるこの世界を、ふたりきりに閉じ込めてくれるから。
___放課後の教室には、君の声が満ちていく。
俺、好きな人がいるんすよ。
その人を撮りたかったんです。
だから、初めて撮ったあの写真が一番好きなんです。
ピピ、とピントを絞る。
カチリ、と音がした。
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