その星はまるで硝子のようで。

そいつは夜空に光の線を描いていく。

つかず離れず回っている、衛星のように。


そいつは俺を、退屈な世界から引きずり出したんだ。






人生は長い暇つぶしだと思っている。

「退屈」を下地にして、その上から「楽しいこと」を上塗りしていく感じ。

だから一日中なにかしていないと気が済まない。

壱星いっせい、今日ヒマ? カラオケ行かね?」

「おー!部活終わったら合流する!!」

友達は多分多い方。つか、喋れねー相手は多分いない。

けど、まぁ。たまに下地に敷いてる退屈が見え隠れする時はあるよな。

―壱星は、時々そんなことを考える。


決まったルーティンをこなす事は、とても簡単で楽なことだと思う。しかし、それで満足しているかと思えば、答えはNOだろう。

ゲームの主人公ならラスボスとのバトル、物語の主人公なら熱い友情が待っている。しかしここは偏差値50前後の公立高校、最近起きた事件といえばA組の吾妻が足の骨を折ったくらいのレベルだ。

なんでも家の窓から足を滑らせたらしいが、詳しいことはよくわからない。いつもぼーっとしてイヤホンをしているだけの印象しかないが、顔立ちは割と綺麗だった気がする。

「…無口なイケメンなんてぜってぇ女の子にモテるじゃんね」

「あ?何だ急に」

「いやー、Aの吾妻。こないだ骨折ったっぽい奴。割とイケメンじゃん」

「さぁ…おれ喋ったことないし…つかモテるとかどーでもいいし」

「そりゃ慎は小川先輩いるもんな!!!こっちは死活問題なんだよ!!!」

この大矢&小川のセットは、壱星の所属する陸上部で1番の有名カップルである。柔軟体操中、悲痛な叫びを上げる壱星に慎は冷たい視線を浴びせながら思い切り背中を押した。

「あでぁぁぁ」

「お前は彼女の前に背筋柔らかくっ…な!!!おら!!」

「いやっ、おま、おも、むっむりいでぁぁぁ」

「身体硬いと怪我すんぞ、おれの優しさを受け取れ!っ、それこそ吾妻みたいにギプス生活になりかねねーんだから」

至極もっともな指摘を受けながら、壱星は断末魔を繰り返す。

「あっ………あいつは、なんかっ、うぁでででででっっ、あいつは、なんか家の窓から滑った?みたいなこといっ…でぁぁええいでででで」

「何言ってんのかわからんぞ」

「だーーからっ、家の窓から滑ったらしいってそんだけ」

やっと解放された壱星が息も絶え絶えに言うと、慎は少し首を捻って呟いた。

「家の窓から滑ったァ……?」

「ん?どした」

「いや、そんな事あるか?と思って。あいつ天文部だから天体観測してたとかならわからんでもないけど」

「へぇー…無口でイケメンで天文部か。モテ街道無双してんな」

壱星がそうボヤいた時、背後から突然物理的なレベルでの重圧がかかった。恐る恐る振り向くと、仁王立ちした郁が視線だけで射殺せそうな表情でハードルを振り上げている。

「…練習、やるの?やらんの?」

「「やります!!すんません!!!!」」



__________




平日の終了は18:00。いちゃいちゃと二人で帰っていく慎と郁を舌打ちの連打で見送った後、壱星は部活着のままカラオケボックスに駆け込んだ。

「おー遅せぇぞ」

「わりーって、これでも急いで来たんだよ…あれ、カズヤは?」

「飲みもんいれて来るってよ」

リョータとカズヤは1年の時からの友人だ。何かと問題行動は多く、部活動の義務期間が終わった2年生になった途端即行で帰宅部に切り替えるような奴らだが、根はいい奴だと思っている。クラスが代わっても放課後は遊びに誘ってくれるのだ。

「はーっ、疲れたァ」

「陸上部とか、走ってるだけの何が楽しいんだよ」

「うーん…確かにそう言われると間違いないけどな。でもあれだ、スカッとする」

そう答えながらデンモクを操作していると、明らかに何種類かの飲み物を適当に混ぜたとても飲めそうにないシロモノを持って騒ぎながらカズヤが帰ってきた。

「お前それまじかよ!!!」

「壱星飲めよ遅れた罰に」

「遅れたも何もねーだろ!!おい!!」

まさに馬鹿騒ぎ。

でもそれでよかった。壱星は思い出す。

馬鹿らしい事をするだけでも、何となく満たされたような気になるのだから。




―本気になり過ぎでしょ。

―たかが走るだけの競技になにムキになってんだか。


―俺、お前について行くの無理だわ。青春ごっこなら一人でやっててくれ。



多分だけど、こいつらみたいなのが「正解」なんだよな。


__________



その日、朝練を終えて教室に戻ろうとした壱星は危なっかしく松葉杖で階段を上がろうとしている耀をみつけた。

「おう、吾妻じゃん」

「あ、ぁ、…も、ちづきくん」

「お?俺の事知ってんのか…って、ちょっと待て、それ上がりにくいだろ。肩使えよ」

「あ、あ、うん。ありがと、」

ぎこちないなー、人見知りかよ。壱星が笑いながら無理やり肩に手を回させると、耀の身体が少し強ばった。

「ところで何で俺のこと知ってんの、他人なんかどうでもいいですって感じなのに。あ、ごめんな適当な事言ってるけど」

「……名前が、綺麗で」

「ん?」

「望月壱星って、宇宙みたいですごい綺麗だと思う。おれ、星好きだから。…それで」

「へー!お前天文部だもんな!なんか慎が…あ、Bの大矢な。あいつが言ってたわ」

「うん…人、3人しかいないけど」

「それ部として成立してんのか?!」

「実質おれしかいない……から、ほかの2人はおれの衛星みたいな感じ…かな」

「あっはは!意味わかんねぇ、なんだそれ」

へへ…と苦笑いとも取れるような照れ笑いを返した耀に、僅かに驚く。

「お前笑えんじゃん」

「え…」

「そんな辛気臭い顔してっからだよ、もっと元気出そうぜ!慎もそうなんだけどさ、あいつ普段ちょけてるくせに肝心なとこ物事を深く考えすぎなんだよな。マジになりすぎってか。リョータとカズヤみたいなのの方が多分マシだぜ」

お前同じクラスだろ?と耀に向き直ると、かすかに影が落ちた気がした。

「……そう、だね」

不思議に思いながらも、A組の前で肩から下ろすと、壱星まで聴こえるかどうか微妙なラインの声量でお礼を言い、足を引き摺りながら教室に入っていった。



「遅かったな」

朝の会ギリギリにB組に走り込んだ壱星に、慎が横からボソリと言う。

「人助けだよ」

「は?」

「吾妻が階段上がりにくそうだったから」

「あー、なるほどね」

「案外あいつ喋るんだな」


日直、号令。起立、礼。着席。


またルーティンの始まりだ。



__________



部活動がある日は帰りの会が終わると、真っ先に玄関に直行する。これもいつもの壱星のルーティンだ。


今日も階段を駆け下りて玄関に走り込もうとした壱星だったが、その日は運が悪かった。

「あ、望月くんちょうど良かった。蔵書整理しなきゃいけないから手伝ってくれる?」

「なんっ……」

「図書委員のくせに毎週毎週部活だからって逃げ回ってるから知らないかもしれないけど、君に振り分ける仕事が溜まりに溜まってて他の子に押し付けなきゃいけない1歩手前なの。この状況で拒否権はあると思う?」

「……行きます」

図書館司書の先生は美人だが怒るとヤバいらしい。そんな噂が脳裏を掠めた。

『わり、今日遅くなるかも』

LINEで慎に送っておく。

てか、部活行けるかな……。


__________



案の定、そして自業自得なのだが解放されたのは部活動終了の15分前だった。

今日はもうこのまま帰るか…と意気消沈して下駄箱に向かうと、聞き慣れた声が聞こえてきた。リョータとカズヤだ。


声を掛けようと伸ばしかけた手が、止まる。






何かボソボソと話している。


壱星は3年生の下駄箱の裏に回り込む。


気付かれていないようだ。





―心拍が、上がっていく。



「チクってねぇだろうな」

「調子乗ってんなら殺すぞ」




―明らかに不穏なセリフに背筋が泡立つ。

混乱する頭を鎮めて、息を潜める。

もう一人の声は小さくて聞こえない。

嫌な予感が首筋を伝う。


待てよ、待て、アイツらそんな、さすがに、さすがにそんなこと。


「だい、じょぶだよ」


ぎこちなく下手くそな強がりだけが、耳に飛び込んで来た。





__________



『悪ぃ、今日も行けねぇわ』

『何だ珍しいな』

『ちょっとな。小川先輩に謝っといて』


LINEを送って、そのままいつもとは逆方向の図書館に駆け上がる。

「あ、望月くん。めっずらしい」

「今日は部活休みましたんで、ちゃんと仕事しますよっと」

本棚を作家順に並べ直していく。

決まったところに、決まったように。

「何でわ行がこんな所にあんだ…」

異質な物は、取り除く。


―お前について行くの無理だわ。

―そんなに熱くなってどうすんの。


―チクってねぇだろうな。


―調子乗ってんなら殺すぞ。


単調な作業は嫌いだ。

余計な事が、頭を走り回っていく。


__________



確証はない。

とはいえ気になる。

壱星は、昨日と同じ時間に切り上げて下駄箱に向かっていった。


今日は静かだ。

誰も居ない。



―ほっと胸を撫で下ろし、言い聞かせた。

ほら見ろ、いくら何でもアイツらがイジメなんてクソだせぇことする訳ねーよ。多分喧嘩かなんかだろ。



その時だった。





「いたっ…」







中履きのまま声の方まで走っていく。

玄関の砂が巻き上げられ、中履きがじゃりっと音を立てた。

目の前が信じられなかった。





「お前ら、ふざけんなよ」



白いギプスが宙に浮いている。

リョータと、カズヤだった。



「何だ、壱星か」

「何マジ顔してんだよ、遊んでるだけ」


声が途切れる。

カズヤの頬を殴ってしまったのだと気付くのは、リョータの怒声を聞いてからだった。


「……何マジ顔してんだよ」

遊んでんだろ?

挑発するように顎を上げた壱星に対し、頬を押さえたカズヤが声を荒げる。

「てめぇ、ダチに手ぇ上げんのかよ!!」

「は?」

壱星はおろおろと立ち竦む耀を後ろ手に庇いながら、カズヤを見下ろす。視界の端でリョータが拳を握り締めるのが見えた。

「ダチでも何でもねぇよ、クソ野郎」

根はいい奴なんだよ。

数えきれないほど言ってきたそのセリフが、壱星の首を絞めていく。

ちょっと馬鹿なだけだろ、羽目を外すのが好きなだけの奴。馬鹿だけど一緒にいて楽しい奴。

「ほんと、ふざけんなよ」

なんで気づかなかったんだよ、ダチだったのに。


―家の窓から滑ったァ?そんなことあるか?


あるわけねーんだよな。

だから口止めしてたんだもんな。


「お前ら、馬鹿もほどほどにしとけ」

「何熱くなってんだよ、偽善者ぶってんじゃねぇぞ」

「お前に関係ねーだろ!!」

リョータの拳が飛んでくる。

頬で受け止めると、ぐらりと視界が揺れた。

体勢を立て直し、睨みつける。

「ほら、ダチが殴られたらお前も切れんだろうが。なんでそれをほかの子にはやっちゃいけねーってわかんねぇんだよ、それが馬鹿だっつってんだ!!!」

じゃり、っと足を踏み込んで思い切り握る。


―もう一度壱星が振り上げた拳は、当たらなかった。


「っ、まって、おれはもういいから」

右手を掴んだのは耀だ。

「別にもう痛くないし、ね、大丈夫」

「そういう問題じゃ…」


抑えきれない怒りの矛先が耀に向いてしまいそうになったその瞬間、苛立った舌打ちが聞こえた。

「お前、うぜぇんだよ。部活だか何だか知んねぇけど無駄に暑苦しいし」

「なんかキャラ違うしだりぃわ」


脳裏に言葉が降ってくる。

あ、俺また。



リョータとカズヤの後ろ姿を、呆然と眺めていた。



「あ、ぁりがと…」

「お、おう。ほかに痛いところ、ないか。俺が見たとこだけか、怪我とか」

「んーん、平気。それより、あのふたりは」

「あー…まぁ。うん。仕方ねぇだろ」


そっか、とバツの悪そうな顔をする耀を横目に、壱星は頭を抱えて座りこんだ。

「ごめんな」

「え、望月くんは悪くないよ」

「こないだ、無神経なこと言っちまった。…それに、信じられねぇかもしれんけど、俺、ほんとにお前に、その…嫌がらせしてるって知らなくて」

部活にすぐ行ってたしクラスも違うから…とまでは続けられず、壱星は奥歯を噛みしめて黙り込んだ。

言い訳じゃん、だっせぇ。自分だけ許されようとして。

―俺、お前についていくの無理だわ。


あの時と、同じだ。


「…信じてるよ」


壱星の脳内でこだまする声を切り裂いて降ってきたのは、聞こえるかどうかもわからないような小さな声だった。


「望月くんは、おれをたすけてくれた。…それに」

顔を上げた壱星と目が合う。

耀のこげ茶の目が柔らかくなり、西日が下りていく。



「名前、すごく綺麗だから」



呆気にとられた壱星の真上を、耀は指さした。

「あ、一番星。宵の明星ってやつだよ、金星なんだ」

「…へぇ」

望月くんだね、と呟いた耀の声は、聞こえないふりをした。


__________



「お前最近吾妻としゃべんだな」

外周ランニング中、慎が壱星にそう話しかけてきた。

「あー、あいつ面白れぇよ」

「そうなのか」

「陸上部だって言ったらやたら尊敬された」

「ははっ、なんだそりゃ」

「なんか忘れたけど宇宙一速い星?があるんだと」

「速い…?って、何が」

「忘れた」


タン、タン、タン。

吸って、吸って、吐く。


同じリズムを繰り返す。

呼吸が乱れると一気に体力を奪われてしまうのだ。


同じリズムで一糸乱れず。

陸上なら、こんな簡単なことなのに。


…いや、陸上でもできなかったな。俺。

振り払うようにスピードを上げ、先頭に躍り出た。

「おい待て壱星!!」

「慎はゆっくりこいよ、どうせ息切れすんだろ」

「あ!?余裕に決まってんだろ!!!」

後ろから猛ダッシュで追ってくる慎から逃げながら、壱星は笑う。

―あー、俺、走んの好きだな。

ほんとさ、そんだけでいいのにな。


____________



今までの壱星なら、部活がない日は基本的に誰かと遊んでいたのだが、リョータとカズヤと仲違いしたのは早々に知れ渡り、じわじわと遊びに誘われる回数も減っていった。

馬鹿らしいと思う。同時に、当然だとも。

―俺、誰か特定の子とがっつり仲いいみたいなの、ないもんな。

表面的な付き合いでいいと思っていた。

打ち込んで、入り込んで、それで何になんだ?

結果として残されたのは苦い記憶だけだ。

「じゃ、俺帰るな」

じゃあねーと手を振る集団は、今までの壱星呼びから「モッチー」に変えていた。

小さくため息をついて教室を出たその時、耀が大量の本を抱えて歩いているのが見えた。

「おーい、耀。どした、なんだその本」

「ギリシャ神話。色々調べてたら楽しくなっちゃって、借りすぎちゃった」

ふーん、と言いながらぱらぱらとページを捲ってみる。

どれもこれも分厚くて、字が多い。

「む、難しいな…あ、そうだ。返しに行くなら手伝うぜ、俺今日暇なんだ」

壱星は、遠慮するように狼狽した耀から本を何冊か取った。



がらりと引き戸を開けると、整然と並んだ書架が目に留まる。司書の先生に軽く会釈をして、「科学」の表札の下の本棚まで向かう。

「ここ、あんまじっくり見たことねーわ」

「…ん?」

カタン、カタンとテンポよく耀が片付けていく音を聞きながら、壱星は背表紙を眺めて呟いた。

「んや、俺実は図書委員なんだけどさ…って、なんだよその顔。そんな意外か?…んで、蔵書整理とかたまにするんだけどさ。ここ、今まであんま興味なかったから」

宇宙の本って案外いっぱいあるんだな。そう壱星が言うと、耀は明らかに目を輝かせて囁いた。

「もし、よかったらなんだけど、今日おれ部活あるから、来る?」

「天文部か?俺星とかなんもわかんねぇけど」

「いーよ、綺麗なのが分かれば」


―走るのが好きならいいんだよ。走ったことねー奴なんていないじゃん?



おー、とあいまいに返事をした壱星の手を、耀はそっと引いていった。



___________



ここ、と連れてこられた場所は、古い本と同じような匂いのする教室だった。その教室の前には海辺で拾えそうな流木が転がっており、でかでかと「写真部」と書かれている。

「…いや、天文部なんだろ!?」

「そう、でも両部とも人が少なすぎて今年から合同になっちゃったんだ」

ガラリと扉を開けると、黒いソファに座ってカメラレンズを磨いている制服と目が合った。

「誰?」

「あ、俺Bの望月壱星。暇してたら耀が連れてきてくれたんだけど」

「あーね。俺、Cの熊谷宗太。耀は写真部じゃないけど…って、もう聞いてるか」

まぁ座んなよ、と宗太に促され、壱星はソファにもたれかかった。

柔らかいソファの感触で伸びをした壱星がふと横を見ると、一枚の星空の写真が目に留まった。

何かよくわからないが、星座のような気がする。

「おい、あの写真撮ったのお前?」

「ん?あー、そう。オリオン座」

宗太がそっけなく答えたのに被せて、ポットの横でコーヒーの粉を量っていた耀が聞いたこともないような大きな声で割り込んできた。

「そう!それ凄い綺麗じゃない?!熊谷くんが撮ったんだけどね、オリオン座って冬の代表的な星座で」

「今まったく同じこと聞いたわ!!…お前も星好きなんだな」

「あぁ。俺は撮るだけだけど。純粋な知識と星好きはあいつに勝てん」

そう話していると、耀が大判の図鑑のようなものを取り出して机に広げた。

「これ。星座は基本的にギリシャ神話にまつわる話が多いんだけど、オリオン座はその名の通り、オリオンって人の話なんだ」


自分の強さにおぼれ、周りを顧みないオリオン。

天に唾するその行いに、女神は怒り、彼を罰した。

それを実行したのは、小さな足元のサソリだったのだという。


「だからさそり座は八月で、絶対にオリオン座と交わらない位置にあるんだ」

「なるほどなぁ…うまく出来てんのな」


写真を眺めながら、壱星は頭の中でオリオンに問うてみる。



なぁ、お前さ。俺が一番つえーって思ってたのか?

俺の言うことを聞けって、俺が一番だって、思ってたのか?


それって、一人だけって、めちゃくちゃ苦しいんじゃねーの?



「望月?どうした」

宗太の声で我に返った壱星は、何でもないと首を振った。

「いや、マジ綺麗だなと思って。iPhoneじゃ撮れねえよな」

「おう、これ一眼レフだからな」

そこにあるぞ、と顎で示しながら宗太は続ける。

「写真ってその一瞬を切り取るから、その時の気持ちとか状況とか、色んなもんがあるじゃんか。だからなるべくなら良いものを使って大事に撮りてーんだよな」


放課後の教室で、カーテンを西日が貫く。

磨きたてのレンズが反射して、一番星より早く輝いた。


「そうか、…お前ほんとに好きなんだな」

「まぁ、そうだな、写真は好きだ。さっきのセリフは受け売りだけどな」

耀がこぽこぽと淹れてくれたコーヒーの香りが立ち上る。コトン、とマグを置くと湯気がゆらゆらと流れていった。

「あ、そうだ。熊谷くん、望月くんも一緒にどうかな…?」

「んぁ?なんだそれ」

「今度俺と耀、夜景撮りに行くんだよ。お前も来る?ってこと」

「マジで?!めっちゃ楽しそうじゃん!!行く!!」

「河原の夜はめちゃくちゃ寒いからな、上着ちゃんと着ろよ」


西日が下りて薄暗くなった教室に、オリオン座が浮かび上がってくるような気がした。


___________



二年生の後期、避けては通れない進路希望調査票が配られた。

第一希望から第三まで。明日までに出せよーと言う担任の声を聞きながら、壱星は用紙を秒速で鞄に突っ込んだ。

「めんっどくせぇーーー……」

隣で心の声を漏らしているのは慎だ。

壱星は同じクラスの陸上部員と二人で、ニヤニヤとからかい口調で絡みに行く。

「慎はあれ、小川先輩と同じだろ?」

二人が相思相愛なのは、部内では誰もが知っていた。

「無理無理行けるわけねーって!慎だぞ?アルファベット怪しいだろお前」

「さすがにそれはねーよ!……って、あれ?おれ小川先輩どこ行くか知らねぇんだけど」

え?と顔を見合わせる。

「え?知らねぇの?」

「進学するっていうのと、獣医科なのは」

「県外の名門大学らしいぞ」

「すげぇよなー、でも賢そうだもんな」

「っ、わりい!おれ帰る!!」

手袋やマフラーをサブバッグに突っ込んだまま、慎は教室を飛び出していく。

「…うっそだろおい」

壱星は口を押さえて立ちすくんでいた。


___________


玄関まで駆け降りると、呆然と力なく慎が立っていた。

「し、ん…」

「壱星、おれ、振られた」

おれ、駄目だったみたいだ。そういって振り返った慎は今にも泣きだしそうな表情で、壱星はたじろぐ。

「な、泣くなよ、な、俺が悪かった、マジでごめん、でも知らなくて、てか、知らないのを知らなくて?あ?何言ってんだ俺、だからあの、な。とりあえず帰ろうぜ、寒いだろ」

とぼとぼと歩く慎の横で、頭を掻きながら壱星は空を見上げた。

「あ、オリオン座」

「あー…」

「耀が教えてくれてな、これしかわからんけど。あ、あとめっちゃきれいに写真撮ってた奴がいたな。Cの熊谷っていんじゃん?あいつ」

「おー…」

「…何だよもう、やりにくいな」

「いや…俺、初デートとこないだ…あぁ、だから最後のデート、か…はは……プラネタリウムだったんだよな…。俺、さそり座だから逃げられたのかもなって、そんだけ」

「……ああぁもう!!辛気くせーな!!!お前今度の日曜空けとけ、どうせもう予定の心配ねぇだろ!!」

プラネタリウムなんかよりいいもん見せてやる。

壱星は通学鞄で慎の背中を叩く。

「ちゃんと来いよ、家で腐ってたら引きずり出すからな」


___________


わりー、勝手に一人増やした。

耀と宗太のグループトークにそう連絡すると、何やらよくわからないキャラクターのスタンプが送られてきた。

その意図を壱星は図りかねていが、当日約束の時間に慎と到着すると、耀は双眼鏡を四つ持ってきていた。

「大矢くんだよね?望月くんがよく話してる…」

「おう、…って、何すんだ?おれなんも聞いてなくて」

はい、と渡された双眼鏡を受け取りながら慎は尋ねる。

「天体観測、ってしたことある?」

「……BUMPか?」

あはは、と耀は笑った。

「おれもその曲は好き、…けど、まぁ、うん。そんな感じかな」


西日が下りて、一番星が輝きだす。

ザァッ…と風が強まった。


視界からどんどん光が失われていく。

代わりに、冷たく纏う空気が感覚を鋭くとがらせる。


―夜が、朝を追いかけて走ってきた。



「よし、来るぞ」

三脚に載せたカメラを覗いていた宗太が、時計を見て合図する。

「瞬き禁止、だぞ。お前らも、このカメラも」



ザァッ…と草木が揺れる。

それはまるで、スタンディングオベーションのような。

…いや、違う。

スタンドだ。スタンドで、走り出す一歩目、その一瞬だけ聞こえる応援席の声だ。


壱星は、呼吸を忘れていた。



―星が、一斉に駆け出している。



「しし座流星群っていうんだ、観測史上一番流星の量とスケールが大きい傾向にあるって言われてるんだけど…期待してよかった…っ」


星は急いているかのように、我先にと地平線のゴールテープを切っていく。

流れる?そんなもんじゃねーだろ。

零れ落ちてきてんじゃねーか。


「や、っべぇな…これ…」

慎は口をぽかんと開けて見惚れている。

「なぁ耀、これ、宇宙から見たらもっと見えんの?」

壱星は遠く地平線に落ちていく星から目を離せないまま尋ねた。

「わからない、でも。おれはいつか絶対見るんだ」


―誰もいない世界で1人だけ、息もできずに溺れていた。

早くここから上がらなければ、視界を覆われてしまうから。

遠く、高く、誰も知らないところに行きたかった。


「おれ、宇宙飛行士になるから」

耀は、そう言い切った。

「じゃあ俺はお前が飛ぶとこ、撮っといてやるよ」

こいつで、とカメラを指で叩きながら宗太が笑う。


―ピントを絞る時の、一瞬のスローモーションが好きだ。

余計なものが多すぎるこの世界を、ふたりきりに閉じ込めてくれるから。

閉じ込めておきたい世界は、どんどん広がっていく。


「おれは、夢とかよくわからんけど。…全国大会に出て、東京で走りてぇな」


―一歩足を踏み出したら、触れる距離で。

いつも冷たいあなたの手が、おれと同じ温度になった。

12の星座を何周もした時。

俺はもう一度、あなたに会いに行く。


「どいつもこいつも…」

そんなに真顔で語るなよ。俺、頑張ってたのに。

熱くなんねーように、へらへらしてたのによ。


「ん?壱星、なんか言ったか?」

「俺さぁ、走んの、すげー好きなんだわ」



小学校の陸上クラブからずっとかけっこは一番だった。

中学に上がって、競技になって、勝ち負けを繰り返していくのも大好きだった。

スタートラインで号令を聞き、雷管の音と同時に視界が一気に狭まっていく感覚。

音が一瞬途切れ、ゴールテープを切ったその瞬間に体中に歓声が降り注ぐ。

ずっと味わっていたかった。


―たかが部活でそこまでするかよ。

―部長だからって調子に乗んな、マジになられても困る。


本気で向き合いたかっただけなのに。

味わいたかった歓声や期待した反応とは裏腹な答えが身体を突き刺した。


―俺、お前についていくの無理だわ。




「知ってるよ。お前、手抜きしたことねぇじゃん」

身体かてぇけどな。慎は壱星の背中を押した。

「うっわ、何すんだびっくりした!!足怪我したらどーすんだよ!!」

「ほら見ろ、陸上嫌いな奴の発言じゃねーもん」


決まったルーティンの毎日。

乱してはいけない呼吸。

楽しいことで上書きの日々。


全部お前らのせいでぶち壊しだ。


「慎」

「何だよ」

「俺、お前にぜってぇ負けんから。東海あたりで落ちとけ」

「あ?!誰がお前に負けるか!!」


いつの間にか流星群は止まっていた。

それでも、星の光は降りやまない。


「おいカメラマン、これは撮らねーの?」

「あぁ、そうだな」

「てか、どーせなら全員で撮ろうぜ」

「集合写真ってこと?…それおれも入っていいやつ、?」

「なんでダメなんだよ、むしろ吾妻がリーダーだろ」


ピント調整してくる、と三脚とカメラをいじり始めた宗太分を開けて、三人は団子状に固まる。

「男ばっかでなぁ」

「あーあ、俺さっきの流れ星に彼女お願いすればよかった!!慎は振られたし耀はすぐできそうだし」

「余計なこと言うな!!」

慎にヘッドロックをかけられている壱星の横で、耀は首をかしげた。


「おれ、彼女いる…」


「「「マジかよ?!?!?!」」」


宗太も飛んで入ってくる。

「お前、嘘だろ言えよ!!俺は、俺は告白さえできずにっっ」


カメラのフラッシュが等間隔で光る。


「あ、やべっ10秒タイマーだから早く並べ!!」


視界が一瞬明るくなる。



―世界が、切り取られる音がした。




___________



そいつは夜空に光の線を描いていく。

つかず離れず回っている、衛星のように。


そいつは俺を、退屈な世界から引きずり出したんだ。



硝子のように透明な、そいつの涙を燃料に。

俺は恒星のように、真っ赤に燃えて輝いていた。




机の広さで収まる範囲の小さな宇宙のその中で、俺たちはまるで星座みたいにたくさんの物語を背負って出会ったんだ。

星と星が繋がるみたいに。

俺たちは、それぞれの宇宙を泳いでいたんだ。


まるで「宇宙飛行士」のように。





『机上のアストロノーツ』 終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

机上のアストロノーツ 宮島奈落 @Geschichte

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ