机上のアストロノーツ

宮島奈落

宙を舞う。

誰もいない世界で1人だけ、息もできずに溺れていた。

早くここから上がらなければ、視界を覆われてしまうから。

おれは神様になってみたかった。





毎晩の日課がある。

耀は、家族が寝静まった真夜中、カーテンを開いた。

天気予報は曇りだと言っていたけれど、どうやら晴天らしい。最近少しばかり落ちてきた視力ではぼやけるものもあるが、それでも充分だった。目を細めて、微かにため息を吐く。


「今日はさそり座が綺麗だ」


やりかけの課題が無造作に置かれた机の上には、かなり日焼けした「ギリシャ神話」の本が開かれている。小学校低学年の時に、母が後学のためにと買い与えてくれたものだ。

人間くさい神様があーだこーだとやり合うだけのくだらない物語、と父は一蹴したが、耀はそのくだらない物語に惹かれた。

___浮気、殺人(殺神?)、寝取り寝取られ、どこの世界のいつの時代でも同じようなものなんだろうな。

父の台詞は皮肉のつもりだったのだろう。



神様の欠片はそこらじゅうに転がっている。案外簡単なものなのだ、と耀は思う。

憧れること。望むこと。恐れること。

そして、強く、強く願うこと。

そのどれもが、神様に届く為の切符になる。


「さそり座…ってことはオリオンか」


月と星と、読書灯の下でオリオンのページを捲った。何度も繰り返し読み続けた本だ。何となくページは覚えている。


オリオンは自分の強さに溺れていた。天に唾を吐く傲慢さに怒りを覚えた女神のヘラは、地上で最強と信じて疑わないオリオンを罰するため、小さなさそりを送り込んだ。

地上で最強だったはずの男は、足元の小さなさそりに気付かなかった。

毒針が彼に刺さる時、彼は思い知るのだ。

自分がいかに尊大な自己満足の世界に浸っていたのかを。


「馬鹿だよなぁ」

__何もしなければ、最強でいられたのに。






耀の目覚めはいつも悪い。

日課の天体観測の夜更かしのせい、という訳でもない。もちろんそれも理由だろうが。

「行ってきます」

夏だというのに長袖のカッターシャツ。手首を隠して、ひきつれた笑顔で玄関を開ける。


母の手料理で毎朝を迎えるたび、絶品の朝ごはんでさえ吐き戻したくなってしまう。

___体調が悪いんだ、ごめんね。

そう言えば、優しい母は学校に電話を入れてくれるのだ。

____息子が風邪を引いたみたいで、ええ、すぐに良くなるとは思うのですが、すみません、はい、今日はお休みで。お願いします。

そして、温かい布団にもう一度入らせてくれる。いつもより数段甘く、もしかしたらお粥なんて作ってくれるかもしれない。


そんな妄想は、夏の日差しの照り返しですぐに弾け飛んでしまう。アスファルトが否応なく攻撃してくる。


お前、いい加減目を覚ませよ。今日こそ言い返すんだろ。

わかってるよ。ちゃんと言うさ。

頭の中で繰り返す。

昨日の夜にシュミレーション済みだ。


何気なくみた時計に文字通り目を覚まさせられ、耀は青信号に向かって走り出した。





がらり、と教室のドアを開ける。

始業の5分前。肩で息をしながら耀は席を探した。

今日は所定の位置。最初の関門はクリアだ。

耀が着席すると、隣と少し隙間が空いた。



授業は退屈だ。特に興味のない教科なんて。教師が熱心に話している姿をぼんやりと見つめている。視界の端でこそこそとスマホを弄っている生徒がチラついた。

発言の時間はなるべく身を屈めている。当てないで、絶対におれを指名しないで。



「吾妻、おい、吾妻!」

2限目。お腹がすきはじめる。

ぼんやりと窓の外を眺めていると、教師の声が耳を劈いた。

「え、あ、はいっ、えと」

目立ってしまった。最悪だ。


クスクス、クスクス。


指をさす。視線が刺さる。

まるで足に打たれた毒針のように。

動けない。振り絞る。教科書で視界を塞ぐ。


「~であり、また更にこら、これらの」


舌がうまく回らない。あと何行だ。もう少し。この漢字はなんだっけ。あ、間違えた。笑われる。慣れてる。大丈夫。あと何行だ。


「…です」

夏用のスラックスは着席すると椅子の温度が直に伝わる。それに少しだけ安心した。




お弁当は耀の大好物だった。唐揚げと磯辺揚げ。ひじきの煮物。ごま塩ご飯。

教室の端の席で、イヤホンを挿したまま掻き込む。流し込んでいるのはOZROSAURUS。

__カート・コバーンみたくHARD DRUG。

死して伝説と化した彼も、きっと神様になったんだろう。

強い言葉を聴きながら、頭の中で繰り返す。

俺は最強だ。誰にも負けない。星を願う。星に願う。

__HEARTにGUN 引くかTRIGGER


撃ち抜きたい。

何を?

分からない。

会話は自分自身で精一杯。



放課後、下駄箱でたむろするクラスメイト。

目が合った。生唾を飲む。

「…あ、またぁした」

逸らす訳にも行かなかくて、声を絞り出す。


「は?何お前さっさと帰れよ」

「つうか話し掛けてくんなよ、気持ち悪」


軽蔑した目を向けて、玄関の床に入り込んでいる砂を蹴りつける。わ、と声を上げると彼らは笑う。かかった砂は黒いスラックスによく目立つ。ギリ、と音がした。


今だ。耀は半歩踏み出した。

ちゃんと言うんだ、昨日考えてきた台詞。あるだろ。言えるだろ。俺は最強なんだ。

カラカラに渇いた口を開く。


「そんな事言わなくていいだろ」


耀の言葉に一瞬目を丸くして驚いた彼らだったが、次の瞬間、玄関は爆笑に包まれた。

「お前、何それ、めっちゃウケる」

「膝震えてっけど大丈夫でちゅかぁ~~~」


ギリ、と奥歯を噛み締める。

なんで、何でだよ、止まれよ、言えたじゃんか。なんでこんなに。

こんなにおれは弱いんだ。


帰りの会で配られた「将来の夢」のプリントが、手のひらでぐしゃり、と音を立てた。





スラックスに砂を付けたまま帰った息子に驚いた母だったが、耀はとびきりの笑顔を見せた。

「ほら、いつもの奴らだよ。リョータとカズヤ、あいつらとサッカーしてたんだ」

「あら、じゃあお腹すいてるんだ。ご飯もうすぐ出来るからね」

洗濯機に入れときなさいよー、と下から呼ぶ声を聞き流し、部屋に入るや否や制服を脱ぎ捨てる。しばらくして父が帰る。ご飯出来たよーと声がする。はーいと答えてリビングへ降りた。


「今日耀サッカーしてきたんだって」

「ほー、お前サッカーなんて出来るほど運動神経あったのか」

食卓で飛び交う何気ない会話。

うるせー、と返しながら野菜炒めを頬張る。

「まぁ今ちょうどW杯だしな」

ニュースの付いていたテレビのチャンネルを回して、父が言う。

「おぉ、メッシだ」

リオネル・メッシ。サッカーの神様。

こんな所にもおれの届かない人がいる。

「耀もこれくらいやってみろよ」

父の軽口が少し痛かった。





家族が寝静まった真夜中、カーテンを開く。

今日は予報通りの快晴。満天の星空だった。


「あ、さそり座」


昨日よりも綺麗に映っている。

オリオンが叫んでいる。耀は答えた。

___さそりに負けたんだってな。ざまぁみろ。



神様はすぐ傍にいて、欠片を落としていく。あの星々みたいに、キラキラしている。

案外簡単なものなはずなのに、おれには少しも届かない。


今日配られたプリントは、ぐしゃぐしゃのまま机に置きっぱなしだ。

将来の夢。

おれは何になれる?





「行ってきます」

いつも通りの朝。行ってらっしゃいと背中に聞こえる母の声に罪悪感がまとわりつく。

ごめんな、母さん。おれ、学校嫌いなんだ。


いつからこんな風になったんだっけ。



___それはある冬の日。

帰り道、煙草を吸うクラスメイトを見かけた。いわゆるヤンキーたちだ。夕暮れ時の公園で堂々とたむろしている彼らに、耀は話しかけた。

「ねぇ、辞めなよ煙草。美味しくないし身体に悪いよ」


それからのことはよく覚えていない。

取り敢えず解放されたのは日がとっぷり暮れた頃で、全身が傷だらけの割には少しも痛くなくて、今日の夕飯はなんだろうなぁとかいつも通りに考えていて、それが何だか気持ち悪くて、勝手に涙が流れていて、その理由もわからなくて。

もう一度我に返った時には既に自室のベッドだった。

星が綺麗に見える日だった。



その次の日。挨拶が返ってこなくなる。

その次の日。会話がすぐに途切れる。

その次の日。授業中、発言がしにくくなる。

その次の日。近づくとその分離れていく。

その次の日。誰とも会話しなくなる。

その次の日。おれは1人になった。


あの時の星空が忘れられなかった。

耀はその日から毎晩眺めている。

昔読み耽ったあの神々のくだらない物語を重ねている。



何事もないように、ないように、おれは一人で逃げ続けている。



息を殺して1日を終える。昼休みのお弁当はアスパラガスが入っていた。耀の唯一苦手なものだったが、無理やり飲み込んだ。


小走りで下駄箱まで走る。

今日こそ遭わないように帰りたい。

お願いします、と誰にともなく祈りながら教室を飛び出した。


そんな願いも虚しく、にやにやと待ち構えていたのは昨日のクラスメイトたちだった。


下を向いて横を通り過ぎようとする耀の右腕を掴んで、いやらしく笑みを浮かべる。

「おい、今日は言ってこねぇのかよ」

「昨日の勢いはどうしたんだよ吾妻くーん」

「おーい聞いてんのかー耳ついてますかー」

無視を決め込む耀の耳を掴みながら喚く彼らを横目に、何人も通り過ぎていく。哀れみと同情と、少しの好奇。視線が刺さっていく。


「何か言えよ」

しびれを切らした1人が耀の服を掴み、腹に膝蹴りを入れる。ぐふ、と目を見開いて耀は崩れ落ちる。

「あ?何だその顔、文句あんのか」

投げかけられる言葉の陳腐さに頭の微かで笑いながらも、口から漏れ出るのはくぐもった悲鳴だけだった。

「おい」

「は、はなして、くださぃ」


シュミレーションも吹き飛んで、言葉に出来たのはいつも通りの自分の台詞だった。


昼休みに聴き続けたOZROSAURUSは助けてくれなかった。

おれはおれのまま。


最強の俺はまだ来ない。

吐き気をこらえながら、家路を急ぐ。






夕飯とお風呂を済ませると、両親の姿はリビングになくなっていた。

おやすみ、と寝室でうとうとしている両親に声をかける。

「んー…おやすみぃ……」

辛うじて母の声。父は大いびきだった。

耀は苦笑う。もう一度おやすみ、と呟いた。



真夜中、カーテンを開いた。窓の外は快晴。さそり座が輝いている。

読書灯の光の中、将来の夢のプリントの上をボールペンが転がっている。


ぐしゃぐしゃになっている紙は元に戻ることは無い。無理やり引き伸ばして、指名欄に「吾妻耀」と書く。


おれは何になれる?

何になりたい?

何がしたい?



___何でもしたい。

何でも出来るようになりたかった。



おれは、神様になりたかった。

あちこちに転がっている欠片を拾って、神様になりたかった。

砂をかけられても、殴られても、無視されても、笑われても、負けないような。

最強の神様になりたかった。


あの星に近づきたい。こんなところなんか飛び出して、もっとあの光に近づきたい。


ごめんね母さん。弁当いつも美味しかった。

ごめんね父さん。おれ耀って名前好きだよ。


職業の欄にペン先を押し当てる。

なれるわけねーけど。




二階建ての窓から、いつもこの星を眺めていた。あんな風に輝いてみたかった。

さそり座に向かって呟く。


___おれ、お前みたいになれるかな


なれるさ。

普段よりも何故だか力強い声が、頭でこだました。


瞬間、足が冷たく冷える。重力が消える。星に近づく。ふわりと浮いた。



___ざまぁみろ。俺に刺されろ、オリオンめ。



神様になれなかったおれはその夜、一人でさそりになった。







明け方、耀の部屋に雨の前触れのような風が吹き込んだ。

机の上を湿った空気が撫で下ろす。


「宇宙飛行士」がひらりと宙を舞い落ちた。







誰もいない世界で1人だけ、息もできずに溺れていた。

早くここから上がらなければ、視界を覆われてしまうから。

おれは神様になってみたかった。

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