死した司祭は諸手を挙げて


「……………………」


 森を脱すると決めてから、もう随分と歩いている。

 にも関わらず、ある時を境にして班の歩みは遅くなっていた。

 きっかけはおっさんのあるひと言だった。


「おぅあ⁈ 盗っ人お前、どこ歩いてんだ⁈」

「はあ……?」


 先頭から定期的に後ろを振り返っていたおっさんが、最後尾を守っていたオレに投げた言葉だ。

 どこもなにも、当然オレはみんなの後ろを歩いているだけ。列をきっちり守るなんてしてはいないけど、それを諌めるような感じとも違い、おっさんの声には純粋な驚愕と困惑があった。


 その時点で違和感はあったけど、それが確信に変わったのはおっさんが木を避けずにまともに衝突したときだ。背負っていたノックを落としこそしなかったが、かなり危うい場面だった。

 もうノックは意識を朦朧とさせており、受け身のとれる状態じゃない。だからこそ、倒れる寸前でおっさんは踏ん張れたんだろうと思う。でなければ怪我をさせていた。


「おっさん何してんだよ……疲れたなら代わろうか?」


 呆れた声は当然オレのもの。みんな見た目以上に疲弊して、集中も途切れてきたんだと考えてのことだった。ついつい疲労という要素を忘れてしまいがちだけど、それはオレ以外のみんなも弱音ひとつ吐かずに行動していたからこそだ。だけどそれも限界になったんだと、この時は思った。

 が、呆れ顔はオレだけ。他の全員が「今何に当たったんだ?」とか、手を前方に伸ばしておっさんが衝突した木に触れて「何かある⁉︎」とかと騒ぎ出す。一見ふざけた、酔っ払いの奇行じみた光景。そんな笑えるはずの様子を前に、オレは到底笑う気分になんてなれなかった。


「————」


 まず頭に浮かんだのが『幻覚』の単語。蓄積する疲労と死と隣り合わせの極限状態から来る錯覚の一つかと思って、直後、それは違うと結論付けた。集団幻覚とかは知識としては知っているけど、これは『視える』とは真逆の現象だ。そこにあるものが、見落としようの無い存在が『視えない』という異常事態。


 嫌な予感がした。

 浮かぶもう一つの単語は『魔法』。うっすら〈結界魔法〉を疑う。だがそうだと断定できるほどオレは魔法に知見がない。

 そもそもだ。もし幻覚を見せるような結界に囚われているならなぜオレだけは影響されていないのかが分からない。ルミィナさんの物騒な結界に囚われた経験がある以上、オレに〈結界魔法〉が効かないわけではないはずなのに…………。


 けれど、これは考えてもキリがないことだった。オレは戸惑うみんなに何が起きているのかの推測を説明し、以降はオレが先頭に立ち、班を先導した。

 みんなにはオレが巨木にめり込んだり、唐突に何も無いように見える空間を避けたりして見える。そんな中で今まで見たいな歩調を維持できるはずもない。


 そうして進みたくとも中々進めないもどかしい時間が過ぎて行き、さらに最悪な瞬間が訪れる。


「…………先回りされた」


 全員が立ち止まる。その顔は一様に険しい。疲労は限界を迎えて、レティシカを運ぶにも1人数分で交代しながらどうにか歩みを止めずにいる状況だった。戦うなんて論外で、逃走だって考慮すらバカバカしい。仮に今すぐ家に帰れたとしても、回復し切るまでに1日2日では効かない状態のはずなんだ。


 そんなみんなの状態を知っているオレが選べる選択肢は、少ない。だから、決断自体は逆に早かった。悩む贅沢なんてなかったから。


 敵の気配のする方向を凝視する。気配はまだ先だったけど、数が多い。夥しい血の気配。正確な数なんてまだこの距離では分からない。最も少なくて100人弱。それらの気配が、どうしてか真っ直ぐこっちへ向かっている。

 迷うことなく、一斉に……。


「完全に場所を把握されてるな、これ。大勢でこっちに移動してる。逃げるのは無理だ。向こうの方が速い。……じゃ、オレは行ってくるから、みんなは休んでてくれよ」

「盗っ人————イケるのか? 勝算あって行こうとしてんだろうな、お前ぇ」


 疲労困憊だろうに、おっさんの迫力はまるで衰えていない。たぶんここで勝算がないとか言ったら、「なら自分たちが肉の盾になってでも」とか言い出すんだろう。それは他のみんなも同じだ。オレには理解が難しいけど、この男たちにとっては護衛のオレも守る対象なんだろう。おそらくは年齢的な理由から。

 だから、こう言った方がきっと安心するんだ。


「大丈夫。無理そうなら悪いけど逃げるからな、オレ」


 一瞬ポカンとしてから、みんな低く笑う。悪っぽくて男くさい、いい笑みだった。どこかスッキリしたようにすら見える顔を見て、我ながらいい言葉を選べたらしいと安堵した。

 危機感のない冗談は、時と場合によっては緊張を適度に和らげるんだ。


 実際、オレには大した危機感もなかった。どれだけの数を揃えられても、オレに対する有効な攻撃手段を持たない連中が相手なら、数なんて問題にならない。傷を負わず、疲れもしない吸血鬼だ。この戦いでどうこうされるつもりはない。問題になるのは討ち漏らしが出ないかどうかで、そのためにもこちらから出向き、迅速に数を減らす必要がある。


 別れの言葉なんてオレたちの間にはない。「行ってくる」と「行ってこい」。見送られる際のやり取りはこれだけだった。


 音も気配も隠さずに、ただ速さだけを求めて森を駆けた。邪魔な樹々はぶち破って進んだ。静かな深い森の静寂を切り裂いて、音で威嚇するみたいに。

 槍であれほどの耐久を見せた樹々は、どういうわけか今は見た目相応の樹木程度の硬さしか示さない。殴りに弱いのか、はたまた斬ったり刺したりにことさら強いのか。

 ともかく、結果として会敵したときには、オレは予想より班から離れることが出来ていた。

 

「————何だこいつら…………気持ちの悪い」


 見覚えのある木の仮面。男も女も子供もいる。だが、どうにも生気がないというか……人間味がない。違和感の正体はすぐに分かった。コイツら、何十人もいるくせして、その全員が完璧に歩調を合わせている。動きに一切の乱れがない。

 そして声もなしに、敵は一斉に散開した。


 統率された動きをこの人数でやられると、何だか巨大なひとつの生命を相手にしている気分になる。敵は互いを傷つけない位置を取りながら、短剣の投擲を開始する。

 無意味な行為だ。オレにとって石を投げられるのも剣を投げられるのも変わらない。適当に視界の邪魔になるものだけをはたき落とす。

 その落とすために振ったオレの刀が、何か他と違うものを


「うわ⁈」


 瓶を砕いたような破裂音と共に闇が広がる。水中に黒い塗料をぶちまけたように不気味に、しかし遥かに迅速に拡散した黒が完全な闇を築くまでは一瞬だった。注ぐ太陽の光すら、今は何らの輪郭も露わにしない。オレの眼ですら、一切光を見出せないほどだ。

 今さら気づく。敵の目的はこれだったんだ。無意味に思えた短剣の投擲は、オレの意識を散らすための誘導だったらしい。


 だが————


「シッ!」


 大雑把に得物を横に薙ぐ。技術だの業だのはない。雑に振るった刀は確かな手応えを返し、芳醇な香りを鼻腔へ届けた。2人が死に、1人が重症……といったところだろう。


 そう、この闇がどんな理屈で完成されたにせよ、潰されたのは視覚だけだ。オレは目を開かずとも、血の通ったものの大まかな位置は感じ取れる————


「……ん?」


 違和感。

 仮に今、敵の集団内に殺してはならない人間が混ざっていたとしても、今のオレには敵との区別はできない。

 …………それがおかしい。


 おっさんの所でなら、まだ距離があったからこれだけの人数の気配は『大きな塊』程度にしか認識できなかった。けど今は違う。こうして殺し合う距離に接近している。この距離なら、かなり仔細に血の個性みたいなのが感じられるはずなんだ。

 しかし、相変わらず敵の気配は輪郭を持たず、どこかボンヤリとしたものにしか感じられない。


「なんかしてるな……さっき割れたのが悪さしてるのか? それとも他の魔道具…………」


 考え事をしていても、もちろん手は止めていない。気配事態は感じられるし、聴覚や肌が感じ取るの息遣い。動くものがあるならすぐに分かるし、それが人間ならなおさらだ。

 だったらやることは変わらない。このボンヤリした気配がすべて消え去るまで、大体の当たりをつけて得物を振るう。それだけでいい。


 もちろん時間はかかる。敵との間に樹があっても、今のオレには気付けない。けど障害はそれだけ。敵の方向が分かれば、何度か額をぶつけるだけで始末できる。


「ほら、はやく来いよ————オレを殺したいんだろ?」


 漂う血の香りがそうさせるのか、どうにも口角が吊り上がるのを感じながら、オレは殺気を向けて近づく気配に手をかけた。



 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「だあぁぁ……! つっかれたあぁぁ……」

「身体中が痛ェ……カカトの骨がキシキシいってら……」

「ノック、しっかりすんだぞ。すぐに帰してやっかんな」

「ノックくんの汗を拭けるのは……包帯くらいか……」

「無いよりゃ良いな」


 アトラが走り去ってからしばらく。少年がすぐに戻って来ないと確信して、ようやく大人たちは休息を得た。みな男としての、そして年長者としての意地で装っていた余裕を崩し、愚痴がスルスルと唇を抜ける。顔色は優れない。それでも、前を歩く自分より小さな背中を見ては、断じて弱音は吐けなかった。

 だがここには格好をつけるべき相手はいない。互いを労い、やれここが痛いだのどこを捻っただのと言い合って、それもある程度落ち着いたときの話題は自然、あの少年のことだった。


「しっかし……旦那ぁ、盗っ人先生は何者なんだろうなぁ……尋常じゃないぜ、ありゃあ」

「なんでもやんごとなき方に仕えてるとか。噂ですがね」

「あー、ご令嬢の話か。旦那は見たんだろ? どうだったんでえ実際」

「さあな。何にせよあんにゃろうは仲間だ。あんなナリだがガキじゃあねえ。キッチリこっちをよく見てやがる。ったく、気ぃ遣いやがって……今回の一件が終わっても余計な詮索すんじゃねーぞ」

「へーい」


 わざとらしく不満気に返答するが、本心ではなんの不満もない。これは戯れだ。むしろ彼らにとって本題はこの後のことである。


「……若者に随分と助けられてしまってますね。どうしたものか。ノックくんより若い彼がどうすれば喜ぶのか、全く分かりません」

「それだなぁ。助け合ってる……なんて虚勢でも言えねえや」


 自分たちが足を引っ張っている事実は、彼ら全員が沈鬱に受け止めているところだ。アトラのいないときはカラキリに、カラキリのいない今はアトラに。自身より年若い者に助けられて、代わりに担った仕事は荷物持ちである。到底つり合いなど取れていない。

 しかし、与えられるのみ、支えられるばかりなど、彼らの自尊心が許さない。故にこの一件が落ち着いた暁には、彼らが今感じている負い目引け目を吹き飛ばすような返礼が必須であり、しかしその様な返礼がまるで浮かばないことも事実であった。


「返済の免除程度じゃあ足りねえしなあ……チッ、本人に訊くしかねえか」

「何もないとか言いそうだ」

「彼は年齢のわりに、あまり欲を見せない人柄ですしね」

「何かしてやれることはないもんかな」


 敢えて空気を弛緩させ、回復と休養に努めている彼らの声は、場違いなほどのんびりと響く。しかし共通の課題を話し合うことで、しのび足で近づいてくる猛烈な睡魔の気配に抗ってもいた。

 身体の中がスカスカになったような脱力感は、疲労を通り越して眠気をもたらすものであるらしい。


 彼らはいたって普通の成人男性だ。多少は場数を踏んできたが、英雄でも精鋭でもない。そんな彼らの抵抗を嘲笑うかのように、痺れるような眠気は男たちの口数を奪い、代わりにまばたきとあくびの回数ばかりを増やしていた。


 ————そして、それはまさにパタリと会話が止んだその瞬間の出来事だった。


「————おや、素晴らしい心意気ですねェ」


 突然の声に、弛緩した空気が一瞬で凍りつく。弾かれたようにノックとレティシカを庇う形で、モンドたちは敵を見据え————脊髄を氷結させる、あまりにも濃いに捉われた。


「……なんだ、てめえは…………」


 声が掠れていることに、モンド自身気付かない。気付く余裕など微塵もない。額を濡らす玉のような汗を拭うことすらできず、ただ硬直していた。

 今までの敵とは、あまりにも格が違う————分かったのはそれだけ。暴力的なまでの死の予感が、思考を嵐のようにかき乱し、冷静な判断力をどこかへ吹き飛ばしていた。


「彼に対して貴方がたができる返礼があります。それも今! すぐにィ! ここでェエ‼︎」


 本能も理性も、全力で逃げろと警鐘を掻き鳴らす。


 モンドたちは殺気などという得体の知れないものを鋭敏に感じ取れはしない。何となく“悪い予感”程度を感じることはあったが、それを殺気を感じたとは言わないだろう。

 

 ならば、今感じているが殺気を感じるということなのか。

 悪寒は絶えず、頭の中を様々なが満たしている。繰り返される“次の瞬間には訪れるかもしれない結末”の映像。振り払いたくとも思考は完全に暴走し、数多の“死の瞬間”を高速で再生し続け、頭は知恵熱のような鉛のように重い熱を帯びつつあった。

 この思考の暴走を止めるためだけに、いっそ頭を吹き飛ばしたいという衝動すら生じる。


 それでも身体はビタリと静止して動かない。が無限にも思えるほど引き延ばされ、『逃げろ』と『動け』が意識を飽和させる。足の筋肉は指向性を持たない力みを繰り返し、ガクガクと無意味な運動を連続させる。


 そんな恐怖に縛られている憐れな者たちを、司祭の光を宿さぬ瞳が見つめていた。


「あゝ……素晴らしき贄です。貴方がたの献身は、必ずや我らを御使いの下へと近づけることでしょう。そして彼を我らが下へと迎える儀を、滞りなく完遂させることでしょォ!」


 岩のように動かなかった司祭の顔が狂笑を浮かべ、瞳が歓喜に濁る。今までで最も明瞭な死の予兆に、モンドは逃げろと叫びをあげかけて、自身へ迫る“死”を見た。


 一瞬で間に合わないことを悟る。


 ————肉……?


 漠然とそんな単語を頭に浮かべて、それが最期と弁えた瞬間————


「あぶねえ!」


 大きな力がモンドの身体を後ろへ引き倒した。

 代わりにその身を“ソレ”の前へと差し出した男は、この世の者とは思えぬ絶叫と奇声を吐きながら、“ソレ”の一部へと成り果てる。

 『吸収』というにはあまりに生々しい肉の惨劇は、『捕食』という言葉こそが相応しい。


 ソレは————巨大な肉塊。

 どこから出現したのかも不明なソレは、不定期に呻き、痙攣し、血の泡を表層へ浮かべている。その呻き声には、たった今飲み込まれた友人によく似ているものがあった。それが何を意味するのかは、思考が定まらず分からない。テラテラとした“ソレ”の輪郭はあやふやで、常に一部が霧のように霞み、揺らいでいた。


 まるで無数の死体が集まり、漂っているかのような光景。その様相はまさに、地獄の顕現に他ならなかった。



 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「ッ⁈⁈」


 闇に染められたそこは、血に烟るほどの凄惨な現場と化していた。現在進行形で死屍累々の赤い血溜まりを築きながら、アトラは突如として出現した気配に戦慄した。


「ハ————」


 あまりにも理解不能な現象に、思考は完全に白色化する。だが、当然時間が停止しているのはアトラだけ。白痴のように振る舞ったとて、致命的事態が起きたことを、他ならぬ彼自身の超感覚は訴え続ける。


「へッ——へハ!」


 耳障りな奇声が近づく。

 一瞬の硬直を逃さんと、幾つもの凶刃が振るわれる。仮面から漏れる呼気は、人らしからぬ獣臭さを撒き散らし、獣らしからぬ正確さで急所を狙った。

 だが、その全てが意味を成さない。獣が如きしなやかな動きも、流した血と汗の分だけ鋭く光を放つその技術も、すべてを嘲笑うように意にも介さず、蒼刃は一閃で血と肉片を撒き散らす。

 打つ手がないにも関わらず、それはもう数えきれないほど機械的に繰り返されてきた光景だった。


「なんで、どこから⁈⁈」


 音を立てて落下する敵の半身になど目もくれず、しかしアトラは明らかに狼狽していた。この場における絶対強者としての振る舞いを欲しいままにしていた吸血鬼が、明らかに追い詰められていた。

 突如として出現した気配はたったの1つ。しかしその1つは禍々し過ぎたのだ。


「なんで生きてんだよ⁉︎」


 八つ当たりに振るわれた拳が脳漿を爆散させる。しかし敵は未だもって未知数で、すぐさま玉砕覚悟の特攻が再開された。それらを迅速に処理しながら、彼は思案する。


 今の彼が単身である以上、この場を抜け出ることは容易だ。周囲の気配など無視して、今すぐモンドらのすぐ前へ出現した気配の排除に向かえばいい。事は一刻を争っている中にあって、この選択肢は現状彼が最も取りたいものでもあった。


 だがその場合、未だ健在なこの場の敵は当然ながら逃げる獲物を追うだろう。モンドらの元へと帰還し、気配の主を一撃で葬れればそれでも良い。コトを迅速に済ませ、再び踵を返し、追走してくる敵を作業のように殺すだけだ。


 だがそう上手く行くものかと、冷静な自身が否定する。彼は既にこの気配の主を屠っている。にも関わらず、司祭は再来したのだ。一撃で屠ったつもりになり、追走して来た雑兵を迎え撃つ中、またも司祭が謎の復活を遂げた場合、アトラでは皆を守ることができない。この場にいる仮面の敵らが加わった分、状況は遥かに悪化してしまう。


「……………………」


 飛びかかる、恐らくは少年であろう気配を虫のように叩き潰し、アトラはある決断をした。


「来い!」


 それまで接近する敵を切り伏せ、叩き伏せて来たアトラは、一転して気配の薄い方向へと飛び出す。何度も巨木と激突しながら進むうちに、徐々に目が光を感知し、視界から闇が薄れ始め、遂には漆黒から脱することに成功した。

 

 急激な視界の変化は人間の思考を一瞬硬直させるものだが、吸血鬼には関係ない。


 離れ過ぎぬように速度を調整し、遮蔽物たる樹々を叩き折り、敵集団を一度に視界へ捉えられる条件を作り上げる。

 疲労と無縁なアトラをして、それは容易なことではなかったが、遂にその時は訪れた。


 数多の人の気配が、アトラのすぐ背後まで迫る。

 追走している敵集団の最後尾が最良の位置に到達したことを確信した瞬間、アトラは方向を反転し————に敵の姿を視認した。


 この手段を使う以上は、仮に味方に見られた場合、守りたかったその味方すらも視界に収める覚悟が求められる。それはいつ何時も持ち続けられるほど軽いものではない。


「全員————」


 浮かび上がる赤い線。

 脈動するソレらを、紅い視線が射抜く。


「————死ねェッ‼︎」


 まるで号令のような雄叫びと同時に、すべての人間が血を吐き、のたうち、初めて苦悶の声をあげる。

 否、それはもはや声とも言えぬ異音だった。


 ゴボゴボとした気泡混じりの絶叫。仮面で表情は分からずとも、皮膚の変色と仮面の淵からとめどなく溢れ続ける夥しい量の液体が、彼らの死を如実に決定していた。


 そう、アトラが選べた方針はただ1つ。

 ここにいる敵を直ちに死滅させ、すぐさまモンドらの下へと駆けつけること。

 そしてそれを一瞬で可能とする手段もただ一つ。今も爛々と死を招く、アトラが人ならざる者である紅い由縁ひとみだけだった。


 視界内のすべての人間が、アトラの号令に対して直ちに、遅滞なく従って行く。


「っ、く……ッ」


 一瞬霞んだ視界に、アトラは額に手を当て瞑目する。

 貧血にも似た感覚は、現に血の欠乏を意味していた。

 疲労とも違う形容し難い喪失感と、それに相反する多幸感。その間に挟まれた理性がザリザリと削られ、視界を明滅させ、足をへと向かわせて————


「ガアァアァアアアッ‼︎‼︎」


 その脳が焼けて崩れ去るような強烈な衝動を、アトラは咆哮することで辛うじて踏み止まった。微かに残った理性を振り絞り、全ての精神力で足の向かう先を変える。向かう先は、血に塗れた死屍累々。撒き散らされた死んだ血の池。こうしている今も、みるみる鮮度を落としている質に劣るゲテモノだ。

 だが、量だけはそれこそふんだんにある。


 数秒。焼かれるような苦痛に塗れた拮抗の後、遂に体は渇きに屈した。四つん這いで、興奮した犬さながらに、飢えた吸血鬼は血と泥の混濁に口をつける。浅ましく、目には涙すら浮かべている。


 啜る音の1つもない。唇が赤く染まり、舌が触れ、遂に歯が浸されたとき————不可思議な現象が発生した。血の池が、みるみるうちに吸血鬼の口内へと行く。まるで水で満たされた桶に穴を開けたように、赤い生命たちは1つのあな目掛け、滑るように行く。


 10を数える間もなく、そこに赤は消えていた。

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穢れし少年の吸血記 〜聖騎士の息子は真祖の少女に救われた〜 DarT @DarT

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