望んだ再会、望まぬ決断


 人ひとりを運ぶのは、同じ重量の荷物を運ぶのとは訳が違うらしい。重症を負っているとなると、なおさらだ。

 身体のあちこちを痛め、大小の骨折をしているレティシカの移動には、いちいち細心の注意を求められた。間違っても全力疾走とはいかない。


 来たときは一瞬に感じられた道のり。あのときはマトモじゃない精神状態だったのもあって、時間感覚がおかしかったり、仔細に思い出せなかったりも一瞬に感じた要因なんだろう。が、それにしても長い。常に注意を払う必要はあるのに時間の流れは妙に緩慢で、なんだか心がヒマをしているというおかしな状態だ。


 レティシカはやや荒い呼吸で、背中に高すぎる体温を伝えて震えている。無力だ。こういうときに、もっと勉強するんだったと後悔する。あれだけ読んだ本の数々が、今はまるで役に立っていない。

 帰ったらルミィナさんの蔵書から、何か薬草関係のものを読み込もう。この森は本来なら薬草の宝庫のはずで、植物が視界に入らない瞬間はないくらいだ。

 だけど、オレにはそれらがどんな効果を持つのか分からない。試しに自分に試そうとも思ったけど、オレで試したって人間に同じ作用をするなんて保証はどこにもない。ネズミに試す以上に、オレと人間は乖離しているはずなんだから……。


「いや、そもそもオレには効かないものだらけなんだっけ? ……むずかしいな。ルカがいれば……」


 どうにかなったんだろうか?

 ルカの笑顔が、どうしてか懐かしい。邪気のカケラもない笑い声を思い出した途端に、会いたい気持ちが膨れ上がるのが分かった。心が疲弊しているのかもしれない。

 オレはルカと草原で寝そべって、日向の香りに包まれながら、腹にルカの重みを感じる日常を送っていたはずだ。なのになんだって殺したり憎んだりしてるんだろう……。

 今なにしてるんだ、ルカ? 笑顔なのは間違いないな。ルカは基本、いつだって上機嫌なんだ。ルミィナさんの視線に怯える身としては、そんなルカの気質にどんなに救われてるか……。


「いやいや、しっかりしろよ……まだ敵地なんだぞ」


 郷愁にも似た感傷を追い出す。頭を振って散り散りに。ルカとの時間はこれから腐るほどある。オレの寿命は人に比べればずっと長い。

 …………そういえば、ルカに寿命がないとかオレには寿命があるけどやたら長いとかはどうやって調べたんだ?

 真祖に寿命がないなんてことは、何千年と観察しても断言できない気がするが……代謝がないから老いない、だから不老。よって寿命なんてない……とかか?

 けどそれだとオレにも代謝は無さそうだし、不老で永遠に生きられると判断されそうなもんだけど、眷属の時は有限と言われてるらしい。はて、やはりどうやって調べたんだろうか?

 眷属が寿命で死んだのが確認されたことがあったとかか?


「はあ……」


 また取り留めのない考えが浮かんでいる。そんな状態でも、足だけはしっかりと速く、しかし衝撃は殺しながら動いている。慣れてきたせいで脳が退屈を訴えているんだろうな、これは。


 オレは司祭の元まで一直線に進んだんじゃない。人の気配を探し回って、いろいろと蛇行しながら進んでいたと思う。つまり、正確な道なんて分からない。ならば死体を辿ればいいかとも思ったけど、死体は生きた人間と違って見つけにくいらしい。そう知ったのはついさっきのことだ。

 いや……そもそもこの森は死体だらけだ。見つけても意味はないんだ。むしろ同じ場所をぐるぐると周回することになるだろう。


 おっ、今視界を過ぎ去った植物は見覚えがある。魔法薬の調合で、調合結果を安定させるのに有益だったはずだ。こんなことは知ってても、肝心な魔法薬の精製なんてしたことはない。

 我ながら本当に知識が偏っている。これも、特に目的なく手当たり次第に本を読み漁ったせいだ。


 …………またこんなことを考えているのか、オレは……。


 なんにしても、今できるのはとにかく安全に森を抜けて、あわよくば道中でみんなと合流することだけだ。


「よし、集中だオレ。これをやり切れば恩を売れるかもしれないし、有利なことも多いはず……!」


 そう自分を鼓舞して、オレは朧げな記憶と直感を頼りに森を駆けた。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「クソが! いくらでも湧いて出やがる!」

「旦那マズイぜ、これぁ保たねえ!」

「あヅっ⁈」

「ノック⁉︎ さがれさがれ!」

「ノォック! ここで伏せてろ‼︎ お前らもだ! また投擲来るぞォ‼︎」


 モンドの胴間声に、一同は即席のに隠れるように身を伏せる。直後、複数の方向から断続的に投擲用の短剣や杭が空を裂いてへと突き立つ。


 硬質な音に混ざる、肉を裂き、骨に食い込む鈍音。その音は、一同の耳を通って心胆を寒からしめ、身体の芯まで伝ってくるその振動は、否が応にも恐怖を刺激した。


「ごめんなさい……ごめんなさい……すみません……うぅ、お赦しください……」


 傷を負ったノックの啜り泣く声は、敵に向けられたものではない。それは神への告解であり、我が身かわいさにとしたたちへの懺悔であった。


 モンドらの歩みは極めて遅々としたものだった。カラキリの不在による戦力の著しいまでの低下。危険は増し、アトラを置いて行くことへの罪悪感も彼らを引き留め、その罪悪感が『道中の兵士の死体を極力回収する』という、教義的・道徳的には極めて正しく、この状況において極めて愚かな行動を後押ししたのである。

 普段のモンドであれば、このような罪悪感の払拭と命を同じ天秤にかけ、あまつさえ前者を選択するなどあり得ない。しかし、疲労や気力の低下もあり、彼らは天秤にかけることすらせずに愚行を成した。


 これにより、彼らの足取りは精神的要因に加えて物理的にも重くなり、隠れることも振り切ることも叶わずに、こうして包囲されたのである。ことここに至って、モンドは従来の判断力を取り戻し、即席の肉の壁を築いて持ち堪えている。


 その判断力の回復も遅きに失していたことは言うまでもない。あらゆる方向から刃が飛び込み、敵の人数すら把握できずに翻弄されている。

 道中に回収できた弓や槍によって辛うじて敵の接近を防げてはいるものの、モンドにはこの状況は敵が望んでいればこそのものであるのが理解できていた。


 今の自分たちは詰んでいる。

 移動も出来ず、矢の補給も不可能。

 街からの援軍も当分期待できない。

 一方で、敵方は好きに行動し、あらゆる方向からあらゆるタイミングで攻撃を仕掛けられる。

 つまりはこのままあと10分程度待てば、確実に安全にこちらを仕留められる状況が整っている。

 だからこそ距離を保ち、樹々に隠れるのだ。安全策がとれるのだ。

 その気になれば、いつでも終わらせることができるにも関わらず。


 モンドと同じ理解に至っておらずとも、自分たちがどれほど追い詰められているのかは各々自覚している。徐々にモンドらの思考は、“如何に全員で生きて帰るか”ではなく、“如何に誰かを生かして帰すか”へと変わりつつあった。

 

「チィッ、矢が切れやがった!」


 腹いせのように、乱暴に弓が投げやられ、巨木へと衝突して抗議の声をあげる。その声すらも虚しく耳にしたとき、敵の潜む周囲の陰からの圧力が……明らかに増した。

 空気に浸透する敵意が膨れ上がる。

 それはまさに余命宣告。残された時間が何分もないという事実が突きつけられる。


 それで、覚悟が決まってしまった。


「ヤツらキメる気だな。……おっし、ノック。おめえ、まだ走れるな」

「やめてください、モンドさん……みんなでかえりましょうよ……うくっ、みんなでがんばれば、かえれますってえ……!」

「モンドの旦那が正しいぜ。誰かが生きて報せなきゃならないならよ、そりゃ若いヤツって決まってんのさ」


 泣きじゃくるノックの肩を、硬い手がいくつも叩く。遺してしまう者たちへの万感の想いが込められた手が、“託した”と告げていた。


 決死の覚悟を決めた男たちは、それぞれの得物を握りしめる。


「最後に握るのは家族の手だと思ってたぜ」

「ノック。お前はそうしろよ。家に帰ったら、うじうじしてねーでさっさとアタックしろ。女を待たすんじゃねえ」

「家族にはありったけ勇敢な最期だったと伝えてくれ! 膝が笑ってるのは見なかったってことで頼むぞ!」


 口々に遺される言葉を、ノックは涙とヨダレに顔を濡らしながら、しかし一言一句を脳に刻んだ。そしてモンドが口を開きかけた瞬間、樹の陰から人影が躍り出る。


「ッ! 走れええぇええ、ノオォオオオック‼︎‼︎」


 瞬間、モンドの声に弾き出されるように、ノックは肩を押さえながらも肉の壁から駆け出した。皆も彼を護らんとノックを囲うように並走する。殿しんがりに残ったモンドを振り返る者はいない。


 だが、いくら目を逸らそうと、声だけは聞こえてしまう。あまりにもモンドらしくない、素っ頓狂な声。それが彼の断末魔なのだと理解して、前だけを見るべき男たちは、一瞬背後を振り返る。


「みんな大丈夫か⁉︎ すぐ助ける! カラキリはみんなを護って————イナイ⁈ アイツドコイッタ⁈⁈」


 飛び出してきた人影は、驚愕に硬直しているモンドの前へと、音もなく着地を決める。

 矢継ぎ早に何かをわめきながら、面白いように混乱しているその人影は、彼らが心から安否を憂いていたアトラ少年その人だった。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 

「うおぉおッ、盗っ人ォオ⁈ テメエ今まで————」

「ッぶね!」


 オレを見るなりあからさまに油断したおっさんを、杭状の殺意が狙う。それを空中で掴まえて、息を殺している気配に投げ返すと、くぐもった声のひとつもなく、死んだ人間の血が香った。

 気配は残り3つ。カラキリがいれば一瞬なのに、なぜかアイツは今いない。


 カラキリがいないとなれば、気配を辿って一網打尽とは行かなくなる。おそらくヤツらに無防備になったおっさんたちを狙う余裕を与えずに仕留めることは、2人までなら容易だ。ヤツらは自分たちの居場所が露呈していないと思っている。1人は一直線に接近して、何もできずに死ぬだろう。もう1人が事態を察して動くまでに、オレの足なら間に合う。

 が、もう1人は何かしらの行動をする時間が与えられる。逃げるならオレの勝ちだ。追いついて殺しておしまいにできる。だが、もしも反撃……それもオレにでなくおっさんたちへと最後の攻撃に出られたら、誰かが死ぬ可能性が出てくる。


 と、ここで視界の端におあつらえ向きの短槍を見つけた。ついてる。これならここを離れずに攻撃できる。巨木の裏に隠れた1人を、木をぶち抜いて即死させて、残る2人をサクッと始末。

 うん、これだな。


「おっさん、ちょっと看ててくれ」

「あん? ッ、これぁ……レティシカさんじゃねえか⁈ ただ事じゃねえぞ……⁉︎」


 いかにも衰弱した重症人であるレティシカの様子に、おっさんは珍しく狼狽する。まあ無理もないよな。

 説明を求める声を無視して、槍を拾って重さや重心を確かめる。うん、なんとも投げやすい槍だ。如何にもここを握れという持ち手がある。硬い木材で握りやすい形に整形されたそこを握ると、ちょうど投げやすいように重心が安定した。こういう投げ槍としての用途も想定されているんだろう。


 気配を辿る。ヤツらのうち、最も離れた位置のが標的だ。と、気配がゆっくりと音もなく動き出した。

 というのも、今の位置関係は、オレがヤツに背を向けている形だ。また何か投擲される前にやってしまおう。


「ふぅ……………………、ッシィ‼︎‼︎」


 身体の捻りも使った振り向きざまの投擲。心臓を狙ったつもりだが、仮に多少ズレても致命傷になるのは確実だ。

 『ヒュカッ』という鋭い音も一瞬、すぐに破裂音じみた爆音が木霊する。間違いなく、それは巨木を貫通した音なんだと直感した。


「……ハア————?」


 直感は大きく外れた。うんざりするほど間抜けな声は、オレの出したものらしい。

 必殺の気合いを込めた槍は、巨木の表面に小指の先ほど刺さり、そのまま動きを止めていた。視覚情報と射出時の手応えが一致しない。

 手加減が過ぎたなんてことはあり得ない。だって、急停止させられた槍は、木製の部分が割れてどこかへ吹き飛び、金属部も裂けたようなヒビが入っている。どれだけの速度から急停止させられたのか、我ながらほれぼれする一投だった。


「あっ」


 そこで気づいた。オレは大事なことを忘れてた。違うんだ。これは巨木の見た目をしてはいるが、ただデカいだけの植物ではない。大精霊の体毛なんだ、これは。

 その強度も不変性も、見た目のそれとは桁が違う。通常の巨木を貫通して余りある程度の投擲で、当たり前に孔があくようなかわいいものじゃないんだ……!


「チィッ!」


 今の投げ槍によって、敵の戦意は挫かれたらしい。気配は一瞬でバラバラの方向に散って行く。もっと考えて行動すべきだった⁉︎


「待て! おっさん、すぐに戻る! それまで頼んだ!」

「おいこら盗っ人! てめえ何があったか説明しやがれ‼︎ おい! 戻ってこねえか‼︎」


 周囲にあの3人以外の敵がいないのは感覚的に理解していた。だからオレのやるべきは、あの3人が増援を連れてくるのを防ぐこと。それも何があってもすぐに戻れるように、みんなから離れすぎることもできない。


「こうなると本当に邪魔くさいな……!」


 樹々の間を縫うように走るのは、高速であればあるほど難しくなる。焦りから速く走り過ぎて巨木に激突して、結局敵を逃すのはバカのする事だ。それに音も良くない。オレが敵に対して優っているのは、何も速力だけではない。この獲物を探し当てる感覚も、オレにはとても有利に働く。敵にはオレの居場所がわからず、オレにだけは分かるんだから。

 だが速さを優先して樹々にぶち当たりながら駆け回れば、今狙っている相手は良い、すぐに仕留められる。だが残る2人は、オレから離れる最適なルートを算出してしまうだろう。それはマズい。


 かと言って、今の速さでは3人目で間に合わない予感もあって、それがオレを尚のこと苛立たせ、余裕を奪ってもいた。


「グっ、……くそ」


 今もまた、本来躱わせた衝突をして「バヅッ」という木の表面が削られる音が響いた。

 聞かれたか……?

 そう大きな音じゃないはず。ただこの森は響いた音が不思議と遠くまでよく通る感じがする。もっと注意しないと…………。


 薄暗い森の中、オレは足音を殺して逃走する敵をまずは1人仕留め、すぐさま次へ取り掛かる。そうして2人はどうにかなったものの、そのころになると3人目にはかなり距離を稼がれていた。


「おっさん、何もなかったか?」

「盗っ人……てめえまた勝手に消えやがって……!」


 結局オレは、敵を追うよりおっさんたちの安全を優先する。ここをとっとと離れて、森を出ることに集中することにしたのだ。

 そんなある種仲間想いなオレの気持ちなど知らないとばかりに、厳つい赤い顔によって厳つい硬い拳がオレの脳天へ叩き込まれる。別に痛くも痒くもないが、なんだか納得いかない。


 その後、周りのみんなに宥められたことで落ち着きを取り戻したおっさんに、オレはレティシカの身に起きた出来事を、差し支えない程度に省略しながら簡潔に伝えた。


 意外なことに、みんなの反応は恐怖よりも怒りの色が濃く、主戦力となる部隊やその他兵士たちに多くの犠牲が出ていることで士気が下がるということはなかった。いや、寧ろ上がってすらいた。


「とりあえず、そろそろ移動しておきたいんだけどさ、カラキリはどうしたんだよカラキリは。アイツがいれば安心って思って離れたんだオレ」

「…………盗っ人、それだがな……」


 どこか空気が重くなったのが分かる。アイツに限って、そんな空気にならなきゃいけないような事態はあり得ないと思っていたオレは、当然この質問をするのになんの覚悟もしていない。


 オレの顔が青褪めるのが分かったのか、おっさんは沈黙をやめた。


「勘違いすんなよ盗っ人。何も死んだってんじゃねえんだ。ただ、厄介なヤツから俺らを逃してくれてよ。それで今は離れ離れだ」

「あんなに警戒した先生は初めてだった……」

「カラキリさんなら大丈夫と信じてはいますが……先生の剣の腕は、ぼくたちも何度も見て、救われてますから」


 顔色の悪いノックの『大丈夫』を皮切りに、みな口々に『大丈夫』を繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。


「簡潔に教えて欲しいんだけど、何があったんだよ」


 『大丈夫』を言いながら互いに頷き合う班員に苛立って、キッパリ説明してくれそうなおっさんに問いかける。


「ああ、実はな————」


 おっさんの口から明かされる経緯に、オレは思わず舌を打っていた。

 特に、カラキリが相対したという敵の風体。それがあまりにも覚えがありすぎるものだったのだ。


 思えばあの司祭服がいた以上、あの男がいても不思議じゃない。オレはあの男のどこか司祭服の護衛役っぽい動きから、レティシカを救出したあの場にいないならいないのだと思い込んでいた。だが、いたのか、この森に。

 そしてカラキリと間違いなく戦闘になっている。


「……………………」


 ヤツらと遭遇したときの記憶と、その時の感覚を思い起こす。すぐに浮かんだのが、あの黒い剣。如何にもヤバそうな感じがしていたが、実のところそれは割とどうでもいい。剣の勝負になってしまえば、カラキリが敗れるとはどうにも思えない。この場合敵が弱いとかではなく、単にカラキリが常軌を逸しているだけのことだ。


 しかしオレの直感は、敵の脅威はあの黒剣だけではないと告げている。それが何なのかは分からない。もしや何か厄介な魔法を使うのかもしれないし、おかしな魔道具なりを他にも持っているのかもしれない。もし万が一カラキリが不覚を取るとすれば、そういった目で見えない隠れた脅威のはずだ。


 …………万が一カラキリが敗れていたら…………いや、それならそもそもおっさんたちは今ごろ殺されている気がする。この森の地形はここに陣取った敵の方がよく知っているだろうし、支配もできている。逃げたおおまかな方向と目的地の推測が出来ていれば、追いつくのはそう難しいことじゃないような……?


 なら勝ったのか?

 敵を退けたならそれこそ後を追って合流しようとするはずだ。ましてやアイツの足ならそれこそ今ごろここにいるはず。


「————————違う……アイツまさか迷ってないだろうな⁈」


 出会ったときを思い出せ! あの時、カラキリは森で迷って彷徨って、危うく野垂れ死にしそうになったのをオレとルカが助けたんだ!

 アイツに方向感覚なんてモンはない‼︎


「マズイな……これ。アイツの速さで適当に走ってたら……ああ、マズイ。マズイって、おっさん! ヤバいヤバいアイツ方向音痴な所があるんだたぶん迷った!」

「迷っ……? おい、ちったあ落ち着け! 分かるように説明しねえか!」

「カラキリが殺されてたら、今ごろとっくに全滅してたはずなんだ! けどしてないなら、今もカラキリは戦っているのか、勝ったのにまだ合流できてないかの2択じゃんか。

カラキリと別れてそこそこ経つみたいだし、もうとっくに決着してていいはずなんだよ……なのに来ないのは、たぶん道に迷ってる」


 オレの推測に、なぜかみんなの顔から陰が薄れる。


「ははは、さっすが先生。こんな状況でも迷子か!」

「そうですよね、先生が負けるはずありませんよね!」


 口々に、ただカラキリが無事である可能性を喜ぶ姿は感動すべき絆なのかもしれない。が、これはあくまで推測だ。実際には未だ交戦中かもしれないし、最悪の場合敗北しており、カラキリを倒した敵は自身でこっちを追うのではなく、手下を使って追手を放っているのかもしれない。


 そんな諸々を口に出さずにいると、ようやくみんなの声量が落ちて来る。よしよし、問題に気づいたみたいだ。


「モンドの旦那……この場合はぁ……どうするんで⁇」


 そう。カラキリの勝利を信じるにしても、アイツが迷っている可能性がある中で、オレたちはどうするのか。まさか敵の彷徨うこの森で、「じゃあ俺らは先生を探したいからこっちで」「じゃあ俺らは帰りたいからこっちで」という訳にはいかない。

 いつもの感じだと、おっさんが言うまでもなく全員がカラキリを置いていけないと留まるなり捜索するなりを考えるだろう。今それができないのは、1つにカラキリの実力が分かっているだけに、緊急性がその分下がって見えることと、もうひとつが————


「……ノック」


 呻くような低い声で、おっさんは気遣わしげな視線を投げる。

 そう、ここには怪我人がいる。十分に動くことが難しいだろうことは、徐々に白さを増している顔色からも明らかだ。おまけにレティシカという、完全に行動不能な人間もいるんだ。結論なんて、本当はとっくに出ていた。


「すみません……」

「バカやろう、お前は悪くねぇんだよ。よおし、俺たちはこのまま森を出る! まずはレティシカさんやノックの安全を確保しねえとな。話はそっからだろ」

「オレもそれでいいと思う。全員の体力を考えても、そろそろ限界が近いはずだし」


 それに、オレだから分かることだが、ノックの傷口から……血以外の臭いもする。傷口を洗浄しても落ちないこの臭いは、なにか刃物に塗られていたのかもしれない。

 即効性はないらしいが、ノックの顔色を見るに……遅効性の可能性がある。

 しかし敵はなんだって即効性でないのを選んだのやら?


 歩みを再開した中、前を歩くデカい背中へ向かって、他の班員に聞こえないように小声で話しかけた。


「……………………おっさん」

「————ノックか?」

「分かってたのか? どうやって?」

「ああいう姑息な連中が、如何にも使いそうな手だぜ。刃に塗りものするなんてのはよ。おめえもそう思ってんだろ?」

「……まあ、そうだな」

「だがよ、ノックなら助かるかもしれねえ。あいつの実家は薬屋でなあ、昔っからいろんな薬やら毒やらに身体を慣らしてたって話だ。恐らくは、あの肩の傷。負ったのがノックでなけりゃあ今ごろぶっ倒れてんぞ」


 そんな話は初耳だった。が、なるほどとも思う。敵が毒なり薬なりを刃に塗り込むなら、わざわざ遅効性のものを使う理由は少ない。普通は殺すにせよ動けなくするにせよ、効果は早く出るだけいいはずだ。

 ノックは職業柄後天的に耐性を身につけている都合で、それらの効果を弱め、遅らせている状況なんだろう。


 なら、やっぱり急ぐべきだ。ノックが助かる可能性は、時間と共に目減りしている。

 さらに言えば、これはレティシカにも言えることだ。オレがあの司祭服を殺すまでに、同じような毒を受けていないとも限らない。今の昏睡状態は、それらの影響もあってのことかもしれないんだから。


「なら、あんまり自分で歩かせない方がいいかもな」

「それもそうだわな。おいノック! ちっと止まれ!」

「っ、はい? て——うわわわ⁈ モンドさん⁈」


 ノックの戸惑いを斟酌せずに、おっさんは有無を言わせず怪我人を背負った。ちなみにレティシカも班員が交代制で背負っていた。誰が運ぶかでちょっとした争いがあった結果だ。しょうもない……。

 初めこそオレが運ぶつもりだったが、男たちが『護衛の手は空けておくべきだ』と固辞したのだ。

 確かに理解できる話ではあるけど、その動機が不純なのが何となく香る態度だった。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



 暗い暗いまどろみ。

 全身の感覚が消失し、“自身”から“身体”を取り払ったモノと成り果て、永劫の時を漂っている。


 この瞬間が始まってから、未だ1秒にも満たない刹那の狭間に迷ったか、はたまた1年というさしを数百、数千と並べた川底へ融けていたか。

 それすら区別できない深淵が、この瞬間ばしょだった。


 帰るべき場所はなく、還るべき意味かたちも失ったは、遂に“自身”すら失おうとしている。

 それも自然なこと。はそういう瞬間ばしょであり、はそのための場所しゅんかんである。

 故に、彼は真に“意味”を持たないこの瞬間で、無意味へと融けてゆくはずだった。


『————』


 彼が最後に保っていた自身いみが弾け、無限に、不可逆に、決定的に希釈されてゆく。その直前。


 その経過に、あり得べからざる横槍が入った。


「いけませんねェ、ゼリューさん。如何にわたしでも、それ以上は戻せません。さァ、貴方はこちらです」

『——————』


 浮上する。

 “ゼリュー《かれ》”がそう感じた瞬間、ゼリューは背中を押されている感覚を認め、自身が仰向けに倒れているのだと理解した。


「おはようございます。如何でしたかァ、ゼリューさん? “終”に触れたご感想は。あれが避け得ぬ我らが“結末”であり、無辜なる者が『死』と同一視しているものです」

「————、……、っ」

「ああ、無理はいけません。“アナタ”が声を思い出すには、まだ僅かばかりの時を要するはず。それまでは返答など無茶というものです。当分は戦おうなどと考えてはいけません」


 死したはずの剣士を見守り、滅びたはずの司祭は静かに微笑む。その顔が何を考えているのか、付き合いの長いゼリューにも分からない。ただ、機嫌が良さそうなその様子に、何か行動を起こすのだと直感していた。

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