24 くり返されること(終章)

「もう、やめるんだ。その仏像には二度と触れさせない」

「わたしの後を継ぐ気になってくれましたか?」

「そいつは、破壊してしまうんだ」

「ばかな。破壊どころか開封しようとしただけで、これは不完全な起動を始める。世界は、時間をかけてゆっくり消滅することになる。同じ死ぬのに、ズルズル苦しまねばならない。想像してごらんなさい。すべてを呑み込みながら、ゆっくり自分に向かって来る無の闇の恐怖を。まだ、そこまで思い出せないか? 正しく動かせば一瞬で済むのです。苦しむ間もない。どうして破壊するなどと……」

「……」

「さて、もう一つ。さっさとやってしまおう。夕食の時間だ」

「いや、もうさせない」

「わたしを斬るか?」

 青木は、正人の手に握られた刀を見つめた。

「そのために用意されている刀だろう。壁に血の痕があるじゃないか。前の住職は、おまえが殺したんだろう」

「今のあなたのように、そのとき、わたしもいきり立っていた。が、住職は死を望んでおられた」

「おまえも望んでいるのだろう。自分の手で世界を終わらせるのが怖ろしい。それなら、他人に殺してもらったほうがいい。悟りは得たし執着もない。あと涅槃に入るための条件は〈自殺以外の死〉というわけだ。卑怯者め!」

「よくわかってきたじゃありませんか。もう充分住職をやっていける。はは」

「黙れ! 望みどおり殺してやるぞ。ここが苦界であったとしても、それでも人は生きてゆくんだ。卑怯なおまえらのように、逃げ出したりはしない」

「ニーチェの〈超人〉ですか。結構。書院の本すべてに目を通してごらんなさい。考えも変わります。さて――」阿弥陀像に向き直り、〈仕事〉にかかろうとした。

「やめろ!」刀を振りかぶった。

 青木は、かまわず像の光背に手をかける。

「やめろォ!」

 瞬間、青木が、ただの有機物の塊に見えた。気味悪くうごめく細胞の群。それがためらいを消した。斜め下に斬りおろした。

 ガツッ、と骨を断ち切る鈍い抵抗。血しぶきが飛んだ。それは正人の顔にかかり、壁の血痕に重なった。

 肩から血を噴き出した躰が、翻ってこちらを向いた。正人は悲鳴をあげ、握った刀を突き出した。刀身が腹を貫く。自分のしたことに驚愕した正人は、熱い物から手を逃がすように、刀のつかを離した。

 腹部を貫通した刀身を抱いて、青木の躰が崩れ落ちた。溢れる血が、見る間にゴザを染めてゆく。

 瀕死の青木は、残った力で、阿弥陀像に向いて掌を合わせた。口は経を唱えたようだ。しかし喉を塞いだ血のせいで、声はゴボゴボという音にしかならない。合わせた両の掌は離れ、やがて床の上に落ちた。

 死に顔は安らかだった。嫉妬を感じるほどに。たった今、青木は重過ぎる責任から解放されたのだ。

 これで彼は輪廻転生の罠から逃れ、本当に涅槃に入れたのだろうか?

 正人は、さまざまな思いを込め、目前の阿弥陀仏に問うた。

 阿弥陀仏は、薄い唇に酷薄なほどの笑みを浮かべ、無言で正人を見返している。


               *


 風の音が身を切るようだ。葉の落ちつくした枝の間を吹き抜けてゆく。厚い雲が低く垂れこめ、境内には一条の陽光ひかりも届かない。

 浄願寺の本堂から、読経の声が響いてくる。深く、重い、僧の声。よほど注意して聞かなければ、これがあの正人の声だとはわからない。永い修行を積んだ人のように、深淵を思わせる声……

 読経に誘われたように、何処からか猫がやって来た。丸々と太った老猫。

 猫はふっと顔を上げた。低い空から舞い落ちる、白いものを見つけたのだ。

 猫は舌舐めずりをし、こちらを見てニッと笑った。ひどく淫蕩な笑いだ。それから向きを変え、のっそり階段を上って本堂の暗がりに消えた。

「お兄ちゃん、初雪だよ」斎子の声がした。

 堂の静謐に降りつもるように、読経はいつまでも続いている――


 我等愚痴身 曠劫来流転 今逢釈迦仏 末法之遺跡 弥陀本誓願……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インフェルノ 安西一夜 @nohninbashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ