見下ろす路傍の傘畑

東 京介

雨降り屋上の徒

 空を見上げていた。

 曇天からは小粒の雨が降り注ぎ、鼻先を水滴が優しく撫でる。

 ある春の日のマンション屋上、雨空の下でのんびりと雨に打たれていた。

 傘はあるが使わない。風変わりな趣味かもしれないが、雨の休日は屋上で濡れながら過ごすと決めていた。都会の喧騒から離れてゆっくりと自分の世界に浸れる場所というのは限られているもので、自宅や街のカフェで落ち着けない人も当然のごとく存在する。

 自分はそういう類の人間なので、こうして一人、癒しの屋上で雨に打たれているというわけである。


 時折首を上から下に動かして、流れていく街道を見下ろしたりもする。そうしてみると、道行く人々の差す傘がちょうどまんまるに開けて見える。デザインや色、果てには形まで千差万別な傘たちは、並んで進んで行くとさながら大きな花々のようでとても綺麗に見えた。

 自分はなんといってもこの光景が大好きだった。カラフルな花畑のようだ、と親しみを込めて「傘畑」なんて呼んだりもしているのだ。

 こうして夢想していると春の雨はすぐに上がってしまう。「雨が止んだらすぐ帰ること」も自分のルーチンの一つだった。


 また別の日。天気予報は見事に的中し、爽やかな雨の中屋上に佇んでいた。

 いつものように顔に水を受け、傘畑を見つめ、様々なことに思考を傾ける。一連の動きの中で、自分は何か普段と違うようなぼんやりとした違和感を覚えた。

 その理由はすぐに分かった。視界の片隅に人影のようなものが見えているのだ。

 おや、と思い顔を横に向けてみると、自分から傘3本分ほど離れた場所に一人の女性が立っていた。長髪の若い女性で、傘を差さずにぼうっとしている。

 誰だろう。という疑問よりも、何だろう。の方が先に浮かんできた。雨の日の屋上に一人で、しかも傘を差さずに景色を楽しむ者など自分くらいのものだろうと高を括っていたが、やはり彼女もそうなのだろうか。この屋上を癒しの場所として利用している、と?

 それはよろしくない。自分に怯まず佇んでいることから彼女はそうではないのだろうが、自分はこの屋上で一人になることをある程度重視していた。これからも彼女に遭遇することがあればこの屋上の趣向が変わってしまう。

 しかし、ここでむざむざ屋上を明け渡すほど気弱ではない。自分はある結論を出した。


「……い、いやあ。雨ですねえ」


 少しどもった声の後、雨の音だけがその場に反響した。空気が神妙になったように感じる。

 彼女に目を向けることも出来ず硬直し、「仲を繕うことで屋上を快適にする」という作戦を大きく後悔していると、不意に新しい音が響いた。


「ええ、雨ですね」


 後悔はひとまず保留にしておこう。彼女の返答を聞き、自分はそのままの勢いで会話を進めようとした。


「ここ、お好きなんですか?」

「はい。最近は行けなかったんですけど、雨の日はここって決めてるんです。貴方も?」

「そうです。ははは、奇遇ですね」


 最初の吃りがウソのように話が続いた。どうやら彼女も自分と同じ嗜好を持っているらしく、そのせいか上手く会話が噛み合ってくれたようだ。

 そうこうしているうちに雨は弱まって行き、舞台の幕引きのごとくあっという間に止んでしまった。自分が空を見上げるよりも先に彼女は踵を返し、では私はこれで。と一言残して屋上を歩き去って行った。

 この日の雨は意地悪だ。そう思った。


 その日から雨の屋上ではいつも彼女と出会うようになった。

 彼女が開放的な性格であったのも幸いし、やや内気な自分も会話には困らなかった。

 また別の日、自分は彼女と共にまた屋上で濡れていた。傘3本分の距離感はそのままだが、特に滞りはない。

 ちらりと横へ目を向けてみると、彼女が手すりからマンションの下を覗いているのが見えた。道には相変わらず色取り取りの傘が行進しており、見ていて良い気分になる。


「良いですよね、その景色。花畑みたいじゃありません?」


 ふと、浮かんだ言葉を口に出してみる。彼女はこちらに顔を向けると、少しきょとんとした表情をして言った。


「花畑……傘が花みたい、って事ですか?考えたこともなかったです。ステキな感性ですね」

「あはは、ありがとうございます」

「じゃあ、あの赤い傘は?」


 彼女は無邪気な子供のように前のめりになりながら、道行く傘を指差す。自分も同じように下を覗き込み、差された傘に目を向けた。


「うーん、スイートピーとかですかね」

「じゃあ、あの黄色いのは?」

「あれはヒマワリ。大きな傘ですね」


 パンジー、チューリップ、コスモス、と次々と花の名前を並び立てて行く。別に花に詳しいわけではなく、浮かんだ花を口にしていただけだったが、何だか無性に楽しい気分になれた。


「あ……」


 間を開けずに指をさしていた彼女は、突然短く嘆声をあげると視線を一点に集中させた。何だろう、とそれを追ってみると、黒い傘が進んで行くのが目に入った。


「じゃあ、あれは何ですか?」


 からかうように口角を上げながら、彼女が問いかけてくる。自分は少しだけ考えて、不敵な笑みを返した。


「あれはアクセントですよ」

「アクセント?」


 小突くような表情から途端に気が抜ける。その反応を見て自信気に鼻息を吹き、話を続けた。


「そう。都会の中に神社があったり、一面の海の向こうに灯台が見えたり、何気ないけれど惹かれるものってあるでしょう? あの黒い傘も同じですよ。外れているけど、嫌いにはなれません」


 まるで教授の講義のように、人差し指を立てて語ってみせる。それを見ていた彼女は少しぼうっとした後、くすくすと笑い声を漏らし始めた。


「な、なんですか。どこか変でした?」

「ふふふ、いえ。真面目そうな顔なのに案外ロマンチストなんですね」


 笑いながら言われ、かあっと頰が熱くなるのがハッキリと分かった。降り注ぐ小雨がやけにひんやりし、いつもより雨を身近に感じる。語りすぎだった、と恥ずかしい思いに囚われてしまう。

 しかし、恥ずかしいままでは終われない。


「ば、バカにしないでください。それを言うんだったら、わざわざ雨の日に屋上に来る貴女だってロマンチストですよ。何かそういう気分に浸りたい人なんですから」

「あはは、ごめんなさい。そういうつもりじゃなくて。ロマンチストは褒め言葉ですよ、綺麗じゃないですか」


 恥ずかしいままに褒め言葉をぶつけられ、更に顔が熱くなる。雨粒も蒸発させてしまいそうなほどに感じたが、この気持ちを納めてくれるような天気にどことなくノスタルジーな気分に浸ってしまった。

 その日の雨は長く続き、彼女との「ロマンチック談義」も延々と続いていった。


 次に会ったのは、いつもより激しい雨の日だった。空は曇天というより黒天という方が正しく、時折地響きのような雷音が轟いた。

 こんな日に外を出歩く人はほとんどおらず、路傍の傘畑も今日はお預けである。玩具を取られた赤ん坊のような気分になりながらも、意識を彼女に移行した。


「こんな大雨の日にも来るなんて、貴女も物好きですね」

「お互い様ですよ。ロマンの話もしたかったですし」

「あはは、それはどうも。でも生憎の天気です、傘畑は見られませんよ」

「傘畑?」


 何度目かのキョトンとした顔がこちらを覗き込む。しまった、と心で呟いた。

 こちらが困っているのを察知したのだろう。彼女はまた少し意地の悪い顔をすると傘畑について問いかけ始めた。


「ふふ、またロマンチックな言葉ですか? 良いですね、ぜひ教えて頂ければ」

「いや、もうロマンの話は良いですよ。恥ずかしいんですから、勘弁してください」


 自分の情けない声をかき消すように、ゴロゴロと雷が鳴り響く。雨は一層強くなり、自分も彼女も風呂上がりのようにびしょ濡れだった。

 流石に帰った方がいいか、と思案していると、空を見上げながら彼女が声を発した。


「ところで、質問いいですか?」

「はい?」


 声につられて彼女に目を向ける。彼女は目を瞑ったまま顔を上に向けており、首筋からは雨水が滴っていた。様子を変える気配もなく、言葉が続いて行く。


「一緒に過ごす女性とか、いらっしゃらないんです?」

「うっ……い、いませんけど……」


 突然の質問にドキリと心臓が震える。今日の出来事であれば、雷の音よりよほどショッキングだった。外見も経歴も凡庸な自分にそんなものがいるはずがない。考えていて気鬱な気分に押しつぶされそうになる。

 返答の後には沈黙が続き、独特の空気感が辺りに漂い始める。半ばパニックになった自分は、咄嗟に「貴女は?」と質問を返していた。


「いませんね」


 先ほどまでの陽気さはどこへやら、極めて素っ気のないトーンで返答される。

 この状況で意味深にそんなことを聞くということは、やはりそういうことなのだろうか。無い頭を捻って必死に対抗策を講じるが、いかんせん経験が薄すぎた。


「あの、もし——」

「あ、あの、すみません! 私は、これで!」


 いたたまれずに声を発したが、タイミングは最悪だった。彼女が何かを言おうとしていたのは分かったが、既に足は動き出している。後ろ髪を引かれる思いで自分は屋上を後にした。

 部屋に戻る途中で、心臓に縄をかけられたような息苦しさを感じた。もう一度雨に打たれたい。溜息を吐き、心の底からそう思った。


 次に雨が降ったのは三週間後だった。

 足取りが重いことなど気にも留めず、屋上へと早足で向かって行く。一度深く深呼吸をして、屋上の扉を開いた。

 その日の雨粒は、雨の季節の終わりを告げるように優しく小粒だった。相変わらずの曇天に変わり映えのしない屋上の風景。その中で、彼女の姿は一際自分の目を惹いた。

 緊張ですくむ足に鞭を打ち、道を見下ろせる手すりの近く……彼女の傘3本分の距離で足を止めた。

 会話はなかった。横目で確認してみると、彼女はこちらから目を逸らすように道を見下ろしていた。きっと彼女も自分と同じである。気まずいのだ。

 これは良くない。ここは元々自分の心地良い楽園だった筈だ。こんな空気はすぐに吹き飛ばしてしまわねばなるまい。

 そうして自分を奮い立たせ、深く息を吸う。雨の跳音が重なり合った瞬間、目を見開いて階下の赤い傘を指差した。


「スイートピー!」


 一瞬、雨が止んだかと錯覚した。自分が発した一単語は屋上から開け放たれ、方々へと霧散して行く。彼女は、きょとん、と言うより心底驚いた、といった様子でこちらを見つめていた。

 再び雨の音が耳に入った時、緊張の糸は一瞬にしてはち切れた。身体中がヒーターになったかのように熱くなって行く。


「……ぷっ、あははははは!」


 彼女の明るい笑い声が耳を震わせる。微笑みは幾らか見てきたが、声を出した笑いは初めて見たかもしれない。

 そう思っていると、自然と自分にも笑みが浮かんできた。先ほどまでの陰気さはどこへやら、屋上はまるで常夏のように眩しかった。


「驚かさないでくださいよ! なんでスイートピー……ふふ、あははは!」

「咄嗟に出てきたんですよ、口から。 貴女の大好きなロマンです!」


 しばらく笑い合って、二人の熱を雨が冷やし流して行く。笑い声は微笑みに変わり、またいつもと同じ穏やかな屋上が現れた。


「そうだ、言いたいことがあったんです」

「私にですか?」


 自分の唐突な言葉を受け、彼女は自分の顔を指差してみせる。ゆっくりと頷くと、絞り出すように言葉を連ねた。


「その……よ、よかったらですよ? 今度一緒に食事でもどうですか、晴れの日とかでも……」


 そう言ってから、彼女の反応を確認する。自分と目が合った彼女は咄嗟に顔をそらし、前と同じように顔を空に向けた。

 どことなく、頰が赤い気がした。


「ええ、ぜひ。楽しい話、聞かせてくださいね」


 彼女の笑顔と共に、最高の返事が帰ってきた。何気なく視界に入った道の上には、明るい暖色の花々が咲き乱れていた。もちろん、アクセントも。


「傘、差しますか?」

「そうですね。……いえ、もう必要ないみたいですよ」


 彼女に促され、空を見上げる。

 雨はいつの間にか止み去り、覗いた晴れ間には淡く、弱々しい虹が架かっていた。

 傘1本分の距離を開け、気が済むまでの間、自分たちは空を見上げていた。

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見下ろす路傍の傘畑 東 京介 @Azuma_Keisuke

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