1.3.6
ぼくたちは職員室へ向かって歩いた。学校中が大騒ぎになっているものと思ったが、そんなことはなかった。ビラを――野枝の言い方に従えばフライヤーを校門で撒く程度のことでは日常性を打ち破れはしない。実際、ぼくたちは体育館の中からバレーボールに興じる声が外にまで響いているのを聞き、各教室からの授業に伴う声、少なくとも数学、世界史、古文、物理の次の試験範囲についてまで聞き取ることができた。授業をしている教師以外はフライヤー回収のために出払っており、むしろいつもの学校より静かにすら、感じた。
「最近……」
野枝が呟くように言った。ぼくは聞き逃さなかった。彼女の声は衰弱した動物のような声でもあり、世界の果てにある誰も知らない惑星の海に降る雨のようでもあった。弱さと、こちらを引きずり込もうとする獰猛さの、奇跡的同居。ぼくは幼馴染という関係性を梃子にして、弱さをのみ拾い上げ、利用し、彼女を操作しようと思った。こんな馬鹿なことはやめさせなくてはならない。彼女に必要なのは精神医学、心理学、あるいは医療、福祉であって、偶像崇拝をこの世から消し去るというアブラハム以来のテーゼではなかった。
「眠らなくても平気になったの。意識を失っている時間がもったいなくてね。それに、ちょっと怖いというのも、なくはないかな」
ぼくの乏しいメンタルヘルスの知識から判断するに、野枝は限りなく双極性障害に近い鬱状態にあるように見えた。
「どうして怖いってことがある? ぼくなんか眠れなくて苦しんでいるんだぜ。睡眠薬も処方されてるよ」
「あれって、死の予行演習でしょう。それに、眠る前と起きた後のわたしが同じ存在なのか気になるの。あなた、どう思う? もしかすると、違うんじゃないかなって。だから眠らないようにしてみたのよ」
「哲学者に聞いてみるのはどうだ?」
「あなた、哲学者のお友達、いる? 話してみたいのだけど」
ぼくには哲学者の友人はおらず、それどころか友人そのものがいなかった。野枝は立ち止まって、人工物を思わせるほどに澄んだ目でぼくを見たが、ぼくは沈黙するしかなかった。ところで、彼女は立ち止まって方向を僅かに変えたのだが、それで、ぼくたちの進路もまた僅かに変わった。
そして結局、この変化はエドワード・ローレンツが言うところのバタフライ現象のごとく、世界そのものを大きく変えることになるのだが、この時のぼくは――野枝すらも――知るはずもない。
中庭から職員室へ入ることができるのだが、ぼくたちは中庭から職員室を囲んでいる廊下へと入った。そして誰に見つかることもなく通り抜け、ついに職員室とは別に用意されている学校事務職員のための小さな部屋の前にまで来てしまった。書類の処理に忙殺される事務員たちには声をかけられることは勿論、目が合うことすらなかった。彼らの小部屋の横に、彼らの小部屋のドアとは別のドアがあり、開けると、その先には校舎の裏側の、まだ丈の長い雑草が残っている空間があった。そこは一見すると用途不明だが、しかし実はプレハブ小屋が置いてあり、教職員の喫煙所になっていた。野枝が目指していたのは、そこだった。ぼくはどんな強制性もないのにも関わらず、彼女に続いて、その中に入った。
金属製のバケツとパイプ椅子、ニコチンとタールで黄色く塗装された壁だけがある。何もかもが安普請で、救いようがない部屋だった。現代日本で教育者であることの困難性の臭いがたっぷりと染み付いており、ぼくはなるべく鼻呼吸をしないように努めた。
「煙草も吸うようになったわ」
野枝はブレザーの内ポケットからシルバーのシガレットケースを取り出し、煙草を二本取り出した。
二本……。
ぼくは既に彼女に操作されており、呼吸の操作を忘れて、彼女の長い人差し指と中指の間から一本を抜き取った。
「薬物がやりたかった。でもお酒はだめ。だから煙草にした。私のお父さんはお酒で死んだの。お母さんは本当に苦労したみたいね。私がお母さんの苦労話を毎日毎日聞かされることにうんざりして、一度、怒鳴ってからというもの、話さなくなったけど……、だって、お父さんが死んだのも、お母さんがシングルマザーで大変なのも、わたしのせいじゃないはずじゃない? 何でもお酒を飲むたびに『不幸そうな顔をするな』と言いながら、お母さんの顔を殴って、泣くのを我慢しているお母さんの顔をまた『不幸そうな顔をするな』と言いながら殴ったりしてたらしいわ」
宗教ゲーム 他律神経 @taritsushinkei
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