第3話 存在の大いなる連鎖 その5

 敗北を認めることにも快楽はある。間違いない。ぼくが今感じているのが、それだからだ。ぼくは確かに敗北することの、敗北することを認めることの快楽を味わっている。ぼくはただ周囲の人間の視野において、ぼくへ焦点の合うことのないように祈る動作として、両手を上げ下げをする。

 野枝はそんなぼくの意図など見抜いているに違いない。彼女が見抜いていることをぼくが見抜いていることをすら、彼女は見抜いている。

「啓示って、他にどんなもんがあるんだよ」

「今はまだ二言だけ。『偶像崇拝の街を燃やせ』と『偶像崇拝に陥ったこの世界を救え』」

 ちょうどぼくが両手を下ろした時だった。彼女もまた両手を下ろした。大きく、振り上げるための予備動作だった。

「燃やすのは『街』なのに、救うのは『世界』なのか。一貫性がなくはないか? この一貫性はどのような論理によって可能になる?」

 彼女は何も言わなかった。ただ、遠くを見ていた。

 初めは、自分が空に向かって投げた紙束の行方を見果てようとしているのだと思った。

 実際、よく飛んだのだ。まるで、ぼくの質問への解答であるかのように、「たまたま」突風が吹き、「偶像崇拝の街を燃やせ!」という文言が殆ど空一杯にまで拡がった。

 2度目の敗北の快楽を堪能するためにぼくは彼女の顔を見た。端正な顔立ちの幼馴染の顔を。ところで、その顔には何かもの悲しげな表情があり、細められた目はよく飛んでいく紙の軌跡を追ったりなどしていなかった。

「偶像崇拝の街を燃やせ」というテキストの向こう、遠くの空、いやもっと先を見ていた。

 そこにいる者が彼女を惑わしているのかも知れないとぼくは一瞬思った。一瞬、だ。そうでなかったら、彼女の世界観をかなりの程度、共有していることになってしまう。加えて、大きな声が聞こえていた。

「何やってるだ! あほ! 何やってるだ!」

 ジャージ姿の教師が叫びながら、校庭を縦断し、こっちに向かってきている。

「何やってるだ! もう! 何? 何! 吉崎、君、三枝をどっかわかるとこ連れてけ」

 ぼくは教育者という存在の、儚さ、危うさを十分に理解している生徒であるはずだ。彼が叫びながら、何を守ろうとしているのか、ぼくにはわかった。教え育てられながら教え育てる者の矛盾。しかし「わかるとこ」とは何処なのかはわからなかった。

「わかるとこって何処ですか」

「どっか! わかるとこ!」

 一所懸命に「偶像崇拝の街を燃やせ!」と描いてある紙を拾い集めながら、彼は言った。先行して紙を拾っていた教師達は、近隣の住宅の敷地内に入り込まないように、校門の周囲から離れて何処かへ消えていた。

「職員室にしましょう」

 野枝が言った。

「ああそうしろ! 警察屋さんが校長先生と行くから、そこで待ってろ。先生も庇いきれんぞ、これ。どんだけ成績良くても駄目なものは駄目だ」

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