第3話 存在の大いなる連鎖 その4

「先生、彼女のことはぼくに任せてください」

 ぼくは日本の労働市場の特殊性を知っていたので、若い教師にそう言った。彼はまた引き攣ったように笑ってから、我々から離れていった。それから、どう見てもアリバイ作りにしか見えない、やる気のない、緩慢な動作で校門に拡がったフライヤーを拾い集めだした。ぼくは俄然、彼のことが好きになった。

 ところで、既に宗教指導者のような冷酷さを備えていた野枝は、彼については一言も言及しなかった。

「啓示があった。偶像崇拝に陥ったこの世界を救え、と」

「『世界』」

「ザ・ワールド」

「それはまた大きな話だな」

 ぼくはフライヤーを胸に抱えた彼女の手首を掴む。そのまま彼女を校舎にまで引き摺って行こうと、思う。ぼくが彼女を先導する光景を、ぼくはイメージする。可能な限り具体的に。可能な限り細部まで。物理的には、簡単そのものだ。簡単そのものはずだ。

 だが、身体が動かない。

 彼女は微笑んで、ぼくを見つめている。それだけだ。彼女がしていたのはそれだけ。しかし、それこそが生きとし生ける物を凍結させる魔法だ。ぼくの全身の筋肉は静止してしまった。熱を生産できなくなった。

 銀河よりも巨大な彼女の瞳の中に、小さな男の子と女の子がいるのを、ぼくは発見する。彼らは、世界が常に別様にもありえることを知っていた時のぼく、そしてもしかすると今も知り続けている彼女だ。

 彼らの、囁くような声で交わされる会話を聞いた。

「あの雲、クジラに見えない?」

「うん」

「もしかするとクジラそのものかも」

「空飛ぶクジラ」

「海にいた方が良いと思う」

「クジラだって飛びたい時がある」

「クジラの友だちでもいるの?」

 ぼくは少年の声と少女の声を区別して指し示すことができるようになりたいと願った。そうすれば、過去に戻ることができるかも知れない。そろそろ2人の後ろに妹が現れるということすら、ぼくは知っていた。

「お兄ちゃん、野枝ちゃん、イオン行こうよ。あそこ、涼しい」

「そうしましょう。こんな暑い日はイオンに限るわ。でもその前に、彼に啓示について説明させてね」

 いつの間にか、ぼくは手を離している。

 いつの間にか、野枝の手首から熱を吸い上げた手と、もう片方の手とを使って、自分の目から溢れて止まらない涙を拭っている。

「このフライヤーはね、啓示の内容の一部を描いたものってわけ」

 一方の彼女は冷静そのものの様子で、しかしなお、フライヤーの内容について話そうとする。ぼくは勝手に涙など流した自分の眼球を抉り出したくなる。

「なるほどね。とりあえず、ぼくに預けておけよ」

「なにその『とりあえず』って。何が『とりあえず』なの」

 言って、野枝は胸に抱えたフライヤーの束を自分の頭上にまで持ち上げた。それから、束の間に指を挿し込み、2つの束に分割した。両手に扇を持った踊り子のように見えないこともない。彼女はフライヤーを再び撒き散らすための予備動作に入ったのだった。

 そこで、ぼくもまた両手を上げて紙束を掴んだ。ぼくたちは向き合ったまま万歳するような格好になった。バスケットボールに興じる男女にも似ていたはずだ。野枝もそのことに気づいたらしい。あはっ、と吹き出すように笑った。ぼくは彼女にフライヤーを投げさせないという当初の目的を忘却しかける。

「こういう遊び、殆どしたことなかったわね」

 ぼくはもう負けを認めている。少なくとも、「こういう遊び」においては。

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