エピローグ


 椛音が元の世界への帰還を果たしてから、約一か月後。


 その間、彼女の身体に以前のような瞑力が戻ることは無く、デーヴァとの繋がりもまた、依然として感じられないままであった。

 

 なお、椛音が行方不明になっていたという事実は、セラフィナが派遣した特殊班バウドゥラーによって修正され、彼女が世界から抜け落ちていた空白期間は、彼女の友人である神河瀬玲奈かみかわせれなという少女と共に、自然体験と称したサマーキャンプに参加していたことになっており、椛音がスマートフォンからインターネット上を幾ら検索しても、彼女の行方不明について触れた内容は、その痕跡の一つすらも残されてはいない様子だった。


 椛音はそんな中で、自身がエスフィーリアに居た頃の時間を思い返し、其処で自分の身に起きた一連の出来事が、まるで一時の夢幻であったかのように感じられたが、彼女は自身の右手人差し指に光る輝きを見る度、それが紛れもない現実の時間だったことを強く認識し、姿こそは見えないものの、確かに其処に在る大切な人のことを、碧落の彼方に描いていた。


 そうして過ぎ去る日々は、木間の枝葉を揺らす風のように、何処いずこからか訪れては、行先も告げずにただ向こうへと流れていき、椛音がふと気が付いた時には、まだ十分な長さを残していたはずの夏のいとまが、既に明けてしまっていた。


 椛音が、久方ぶりに学校の制服を着ると、それはまだ袖を通していなかったように新鮮で、また何処かぎこちないようにも彼女には感じられた。


 さらに、椛音にとっては元々馴染みが薄かったとはいえ、以前は確かにしっかりと覚えていたはずの通学ルートが、まるで初めて通る道のように思え、彼女は自分と同じ制服を着た生徒の後を追うようにして、何とか学校の校舎まで辿り着いた。


 そして椛音は、掴んでいなければ離れていってしまうような、記憶の糸を手繰りよせるように、自分の学年に割り当てられた階の廊下を歩きながら、予鈴の音を迎えても尚自分の教室を探し続けていたが、そんな彼女の右肩をその背後から急に掴んできた手があった。


「やっほ、かのん! ここのところは会ってなかったけど、元気にしてた? 私、新学期の初日から、危うく遅刻しようになっちゃったよ」


 はっとした椛音が振り返ると、其処には共にサマーキャンプに同行したことになっていた彼女の友人である神河瀬玲奈が、小豆あずき色の瞳を輝かせながら、栗色をした長い髪を揺らしており、どうやら椛音の返事を待っている様子だった。


「あ……うん、せれなちゃん、私は元気にしてたよ!」

「ふふ、そっか。ほら、こんなとこでうろうろしてないで、早く教室に入ろ?」


 そうして教室に足を踏み入れた椛音だったが、彼女がどうしても自分の席を思い出せず、机と机の間とを行ったり来たりしていると、それを見た瀬玲奈が笑いながら、

「もうかのんったら、まだどこか夏休みボケしてるんじゃないの? かのんの席は、私の隣でしょ!」

 と椛音に告げ、窓際の一番後ろにある席を指しながら、手招いて見せた。


「あ、うん……そうだった、よね! ごめん、ごめん」


 それから程なく自分の席に着いた椛音が、本鈴のすぐ後に現れた担任の女教師の話を、心ここに在らずといった面持ちで聞き流していると、右隣に座る瀬玲奈が、いつからか自分に向かって話しかけてきていることに、椛音はようやく気が付いた。


「ねぇかのん、聞いてる? 何だか楽しみだよね!」

「あ、ごめんねせれなちゃん。楽しみって、えっと、何が……?」

「んもう! さっきからぼぉっとしちゃって。ほら、もう来るみたいだよ」


 椛音が、そう言って正面を向いた瀬玲奈の顔につられるようにして、その視線を教壇の方に据えると、間もなく其処に立つ担任に導かれるようにして、教室のドアが開かれ、その奥から二つの人影がその姿を覗かせた。


「…………えっ」


 それは、旭光に洗われた衾雪ふすまゆきの如く冴え渡る、白銀しろがねの輝きを左右に棚引かせながら、その双眸に青海の水底みなそこを写し取ったかのような、蒼玉そうぎょくの煌めきを宿す少女。

 

 それは、星光を戴く夜空よりも壮麗で眩い、濡羽色ぬればいろの彩りを腰の辺りにまで揺らめかせながら、その双眸に気高さと慈しみとを湛えた、紫瑪瑙むらさきめのうの装いを見せる少女。


「はじめ、まして」


 二つの玲瓏れいろうな響きが重なり合い、一つの音となった、次の瞬間。

 椛音の中で止まっていたはずの時が再び、その針を前へと進めた。

 まるで失われていた空白を指先で確かめるかのように、ゆっくりと。


 ただ、光が差しているその先へと、向かって。

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七色のクオリア 綾野 れん @pianeige

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