第44話 夕羽振る風が、さざめく頃に


 夜が、明けた。


 清かな朝陽の訪れに、影の悉くは山稜の彼方にまで退き、鳥達の穏やかな調べが、夢とうつつの狭間に揺蕩たゆたう意識を、そっと優しく撫でていく。


 共に手を繋ぎながら眠っていた椛音とミルルがやがてその目を覚ますと、二人はそれまでと変わらない様子で身支度を済ませ、一緒に朝食をとり、専属のドライバーが運転する車に揃って揺られながら、同じ門をくぐり抜けた。


 終業式は、学院の敷地内にある体育館内で滞りなく行われ、式後、セラフィナの教室へと戻った椛音とそのクラスメイト達は、セラフィナから夏季休暇中における身の振る舞い等の諸注意を受けた後、通知表を貰うこともなく、そのまま解散となった。


 ミルルの説明によると、椛音の言う通知表に相当するものは、終業式の後日、各生徒のもとに郵送される仕組みであるらしく、また実家へと帰省する遠地からの通学者にも配慮し、式後から解散となるまでの時間も短いのだ、とのことであった。


 なおセラフィナからは、椛音が元の世界に戻るタイミングとして、同日の夕刻が最適であると示されていたため、椛音はミルルと共に制服のまま、学院から程近い繁華街へと繰り出し、残された時間を彼女と二人きりで過ごすことにした。


 そして、ミルルと共に街の中を色々と食べ歩きながら散策していた椛音は、彼女に勧められるかたちで、街でも特に有名な観光スポットであるという、動物園と植物園、そして水族館と高層タワー等が一体化した複合施設『ビオ・パラディソス』へと赴いた。


 其処で椛音は、未知の動植物に囲まれ、改めて自分が別の世界に居ることを実感すると共に、間もなくその世界が、本当の意味で遠い世界となることを認識したが、椛音がそれを傍らのミルルに対して口に出すことは無かった。


 それから椛音達は、天を摩するかのように聳え立つタワー『メガス・ピルガス』の中頃に位置する展望デッキに設けられたレストランで、そのタワーを模したという大きなパフェをお互いに楽しんだ後、更にその上階にある、鳥瞰天廊プリ・オドスと称された、全面ガラス張りの回廊へと移動した。


 回廊内は、タワーの最上部をチューブで取り巻いたような形で外部へと大きくせり出した構造になっており、其処を歩く椛音の足元からは、地上の光景が透けて見え、彼女は今まさに自分が、恰も空に立っているかのような感覚に囚われた。


「わっ、あはは……すごい、本当に空から見下ろしてるみたいだね」


「ふふ、何故か空を飛んでいる時よりも、スリル感があるように思わない?」


「空を飛ぶ……かぁ、私、少し前まで、本当に空を飛んでた、んだよね……」

「ええ。いずれ力が完全に戻れば、また。でも……あっちでは、ね」


 ミルルはそこまで言って、椛音がもうすぐ元の世界に帰ってしまうことをどうやらはっきりと意識してしまったのか、その表情に明らかな曇りの色が次第に広がっていくさまが、椛音の目には見て取れた。


「ミルルちゃん……私、その――」

「ううん……大丈夫だよ、カノン。それよりほら、良い……眺めでしょう?」


 ミルルは椛音の言葉を遮るように彼女を前へと導き、その展望スペースから見晴らせる勝景の素晴らしさを評した。


「うん、本当に素敵な眺め。そしてこれがミルルちゃんの居る世界、なんだよね」


「……そう。カノンは確かにこの世界に居て、沢山の楽しい時間と新しい繋がりとをこの私に与えてくれたの。だから私は……今とっても、幸せよ」


「ミルルちゃん……いつか、私の世界に、ミルルちゃんが訪ねてくる日が来たら……その時はこの私に、街の中を案内させてね。正直に言うと私、今住んでる所にはまだ馴染めてはないけど、ミルルちゃんがいつ来ても良いように、一緒に楽しめそうな所、出来るだけいっぱい、調べておくから!」


「ええ……ふふ。その日が来るの、私……楽しみにして、待っているわ」



 ***



 そしてやがて空の青が薄らぎ始めた頃、ミルルの屋敷に戻った椛音は、エスフィーリアに転移した際に着用していた私服に着替えると、セラフィナからの指示を受けて、屋敷からやや離れた位置にある小高い丘に広がる草原地帯へ、ミルルと共に彼女が待機させていた車で赴いた。


 それからややあって、椛音達がセラフィナに指定された地点に迫ると、其処では椛音にとって見覚えのある流線型のフォルムが、まだ山の稜線よりも上に立つ太陽の視線を受けてその身を白銀に煌めかせており、間もなく降車した彼女達がエピストゥラと思しきその船体に近づくと、其処には果たして、セラフィナの姿が認められた。


「……来たわね、カノン。そして、ミルルも」


「はい。セラフィナさん」

「ええ、先生」


「では、此処を発つ前に、私からカノンに、改めてお礼の言葉を贈らせて頂戴」


 セラフィナはそう言うと、右の手を自身の胸元に宛がいながら、口を開いた。


「今の、このエスフィーリアが在るのは、他でもない……カノン、あなたのおかげよ。あなたがその身命を賭して、この世界を救ってくれたから、私達はこうして、平和な時間を過ごせるの。だから、この世界に住む人間を代表して言わせて貰うわ。カノン……本当に、ありがとう。私は、あなたがこの世界に来てくれたことを、いつまでも誇りに思うわ」


 セラフィナは椛音にそう告げると同時に、彼女に向かって深々と頭を下げた。


「いえ……私はそんな、大したことをしたわけ、ではなくって。前にも言ったように、私はただ、自分がしたいと思ったことを、しただけなんです。そして私にそう思わせてくれたのは、この世界の住人である、ミルルちゃん達、だったから」


「本当……デーヴァがあなたを選んだ理由の半分が、今では良く解るわ。大きな力を御せるだけの広い心の器と、其処に満たされる限りなく純粋な想いのかたち、それこそが、デーヴァの言う資質、そのものだったんだと、ね」


「私もですわ……先生。それに私、カノンには本当、貰ってばかりで。少しでも返せたら良いなって思っていましたけど、カノンはもう、本来居るべき場所へと、帰らなければならない、ですよね……」


「ミルル、ちゃん……」


 するとミルルは、椛音の正面へと歩み寄り、自身の右手で椛音の右手を優しく持ち上げると、その掌に、自分のもう片方の手をそっと乗せた。


「でもね、カノン。私、さよならは言わないよ? だってカノンとは、いつかまた必ず会えるって、私……信じている、もの」


「……そうだね、ミルルちゃん。私も、さよならなんて言わない。でも、その代わりに、これだけは言わせて欲しいんだ。ミルルちゃん……ありがとう。次にミルルちゃんに会える日を心待ちにしながら、胸を張ってその日を迎えられるように、そして、私とミルルちゃんの願いが叶えられるように、毎日を精一杯、頑張るから!」


「うん……うん! 私、これまでもこれからも、ずっとあなたのことを想っているわ。それに、この指輪の向こう側には、いつだってカノンが居るんだもの。だから私達は、これからどんな辛いことが起きても、お互いを感じ合いながら、二人で一緒に、乗り越えていこうね!」


 ミルルはそう言うと、椛音の背中に両腕を回し、その身体を自身のもとへ引き寄せ、抱き締めた。そして椛音もまたそれに呼応するかのように、ミルルの華奢な腕から伝わる強い力と確かな熱を持った想いとを、全身で受け止めた。


 そうしてお互いを一頻り抱き締め合った二人が、名残惜しそうな色をそれぞれの顔に残しながら、やがてどちらともなく離れると、その光景を傍で見ていたセラフィナが一度だけ静かに頷いた後、椛音にその手が届く距離まで近づいてきた。


「それでは……カノン。これからあなたを、元居た世界である、セクター・アルテリアの第七十八銀河内にある、フィメル星系の第三惑星、現地名『地球』へと送り届けるわ……けれど、その前に……もう、出てきても良いわよ」


 セラフィナがエピストゥラがある方へと向かってそう呼びかけたのも束の間、その船体の裏から二つの人影が現れ、その黒いシルエットは、移り変わり始めた空の装いに照らされて、間もなく明らかなものとなった。


「え……あなたたち、は……エリスちゃんに、シルファ……さん?」


「今日、あな……いえ、カノンが、元の世界に帰るって聞いて……その前にもう一度、カノンの顔を見ておきたかったのと、あなたにちゃんと言っておきたいことが、あったから。だから、来たわ」


「私達はこれから、裁判が控えている身ですので、本来こうして会うことは叶わなかったのですが、セラフィナが、全身の瞑力を封じ、さらにその身体能力を制限する器具の装着と、監視員の同行を条件として、特別にこの状況を作ってくれたのです」


 それを聞いた椛音が驚いた面持ちのまま、傍らに立っていたセラフィナの方に向き直ると、彼女は飄々とした様子で、

「今の私は何も聞こえていないし、何も見えていないの。だからここで誰のどんなやり取りがあったとしても、それを報告する義務なんて、何処にも無いのよ」

 と椛音に返しながら、彼女の傍らから少しだけ離れた位置に移動した。


「よく、来てくれたね……エリスちゃんに、シルファさん。私も本当は、ここを出る前に一度だけでも、あなた達に会っておきたかったんだ」


「そう、だったんだ。私は何より、あなたが、命を賭けてまで、直接関わりのない、私の妹のティナを救ってくれたことに対して、お礼が言いたかった。カノン、私の妹を助けてくれて、本当に、ありがとう。私、あなたにして貰ったこのことだけは、これからどれだけの時間が経ったとしても、最期まで絶対に忘れない、から」


「私からも一つ、言わせてください。カノン、私はあなたを見ていて、人が何を見て、どう感じ、さらにそれを他者に伝えるためにどう行動するのかが、私なりに解った気がします。そして思いました……人間にはやはり、最後まで自分と、それを取り巻く世界を変えるだけの力を持った、可能性という名の、希望があるのだと」


「私は……私は二人から、誰かを護るために振るう力の重さと、どんな困難の中にあっても立ち向かっていく、意志の強さを学んだ気がするよ。また二人共、自分が自分であるために、自分と闘ってるようにも見えて、私にはそれが、とても残酷で……だけど人として生きるために必要なことなんだなって、そんな風にも感じられたの」


 椛音はそう告げると、自らの正面に並んで佇立するエリスとシルファまでの距離を詰め、そしてその両者の顔を交互に見ながら、エリスの左手とシルファの右手を自らの両手でそれぞれ取り、その全ての手を一所ひとところに重ね合わせた。


「これから、二人にはまた辛い時間が訪れるかもしれないけど、自分とお互いを信じて、力を合わせれば、きっと大丈夫。しばらくは、会えなくなると思うけど、次に私達が会う時は、敵同士じゃなくって、友達同士として……また一から始めよう?」


「とも、だち……?」


「そうだよエリスちゃん、友達。友達はね、楽しい時間も悲しい想いも、全部半分こにして、その気持ちを分かち合える、大切な人のことなんだ。私達は、今回のことで皆、お互いの本当を知ることができた。そして今度は、またそこから、新しい思い出を作るの。もちろん、そこに居るミルルちゃんとも、一緒にね」


 椛音が近くに居たミルルに顔を向けると、彼女は微笑みながら頷いて返した。そしてまた、エリス達もそんなミルルの表情を見たのか、お互いにその顔を見合いながら、その頬を俄かに緩ませているようだった。


 そうして椛音達のやり取りが終わって程無く、それまで椛音達に背中だけを向けていたセラフィナが、おもむろに椛音の方へとその身をひるがえし、静かな足取りで彼女の方へと歩み寄ってきた。


「ではカノン、そろそろ……」


「はい……それじゃあ皆、私、そろそろ行かなきゃ……」


 椛音は、後ろ髪を引かれる想いを抑えながら、エピストゥラの舷梯タラップへと向かい、またそんな椛音を眺めていたエリス達の後方には、シルファが言っていた監視員と思しき人間がいつの間にか屹立していた。


 それからやがて椛音がセラフィナの後に続く形で、エピストゥラの乗降口に差し掛かった時、彼女は其処で振り返り、凛とした面持ちで、その右腕をミルル達に向けて大きく振った。


「必ず皆で……また、会おうね!」


 ミルルは黙したまま、噛んだ下唇を震わせ、また大粒の涙を両の頬に次々と伝わせながら、その右腕だけを何度も大きく振って、椛音へと返して見せた。


 エリスは、穏やかな表情のまま、その右手を控えめに上げて、椛音に返していたが、椛音にはその双眸に、焼け始めた空の色が、煌めいているように見えた。


 そしてシルファは、そのエリスの傍らで、胸元に右の掌を宛がった格好のまま、何らかの言葉を口に浮かべた様子で、その上半身を、椛音の方へと深く倒した。


 それは、夕羽振ゆうはふる風が、さざめく頃のこと。

 一筋の光が、焼ける空の彼方へと消えていった。

 地上から仰ぐ影をいつまでも、其処に残したままで。

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