第43話 明ける前の空へと向かって
椛音が学院で起こした行動によって、それまでミルルと彼女のクラスメイト達との心の距離を長らく隔てていたであろう壁が、終にその影を失い、ミルルもまたそのクラスメイト達へと自ら歩み寄ったことで、其処に想いの繋がりが生まれ、そしてそれは瞬く間に始まりも終わりも無い一つの輪となって、さながら波紋が周囲に伝播していくかのように、方々へと緩やかに拡がっていった。
その一方で、椛音に残された三日という時間は、彼女にとってはあまりにも短すぎるものであったが、椛音は、今は亡きかの友人が、限られた命の時間を噛み締めるようにその毎日を大切にしていた様子を、其処に来て再び思い返しながら、また自分が考え付くことを全て出し尽くして、悔いが残らないように振る舞おうと考えた。
それから椛音の一日は鮮やかな七色に彩られ、朝の光と静けさ、ミルルやクラスメイト達と交わす何気ない会話、まだ頭では咀嚼しきれないセラフィナの授業、そして夏季休暇を前にした短縮授業を終えて、ミルル達と一緒に昼下がりの街で過ごす賑やかな一時と、枚挙に暇が無く、椛音の心身は陽が傾き始めるよりも先に、極めて心地よい疲労感と充実感とに満たされていた。
気が付けば椛音は、帰りの車中で、暮れ
椛音は、そうして太陽と月とが、互いに隠れん坊をしているさまを目の当たりにして、それまで離れていたものが近付く反面、今、傍にあるものが徐々に遠のき、やがては見えなくなってしまうような感覚を覚えはしたが、彼女はそれをただ悲観的なものとして捉えることはしなかった。
それは椛音が、これまでの様々な人と織り成した関わりを通じて、『出会い』は『別れ』の一部分であり、さらにまたその『別れ』も、『新たな出会い』の一部分になるのだ、と心の底からそう感じたからである。
そんな中で椛音が心に思い描いていた情景には、自分が去って独り悲嘆に暮れるミルルの姿では無く、燦々と照りつける太陽の下、新たな友人達に囲まれながら、輝くような時間を過ごしている彼女の、屈託のない笑顔が映し出されていた。
そして、セラフィナから、滞在期限として告げられていた、三日目の
常よりも一際早く目を覚ました椛音は、ミルルと共に眠っていたベッドから身を起こすと、薄紅色をしたパジャマ姿のまま、その寝室から通じる広々としたベランダへと進み、彼女は其処で独り手摺りにもたれ掛かった格好で、涼やかな微風に頬を擽られながら、ほんの少しの光点だけを疎らに残して、仄かに明るみ始めた最後の夜空を、ただ静かに眺めていた。
「…………」
そうしながら、椛音は想った。明日、空の向こう側から陽が昇っても、それが昨日までと同じように稜線の彼方へと消えていく様を見る自分は、もうこのエスフィーリアには居ないのだ、と。
しかしそんな時、椛音の傍らに、
「あら……こんなところで、どうしたの、カノン? 目が、覚めちゃったのかな」
「あ……ミルルちゃん。何だか私、勝手に目が覚めちゃったみたいで。それより私、またミルルちゃんを起こしちゃったね」
「いいえ。カノンと同じで、私も自然と目が開いただけよ。ところで……風が、気持ちいいわね」
「うん……とっても、優しい風、だよね」
ミルルは椛音の右隣に歩み寄ると、椛音の格好を真似たのか、両腕を手摺りの上に並べて置いた状態で、その首を右斜めに少し傾けて見せた。
「カノンはここから、何が見えるの?」
「ん……何も、見えない、かな。見えない、けど、でも、それが何だか好き、かな」
「あはは……何よ、それ」
「ふふ、私もよく分かんない。でもその感じが、何だか、良いなって」
ミルルはくすくすと笑いながら傍らの椛音と並んで、まだ明ける前の
「今日……だね」
「……うん」
「ねぇ、カノン。この指輪の力、覚えている?」
ミルルはそう言いながら、自身の左手人差し指に嵌めた、
「もちろん……忘れるわけが、ないよ。この指輪があったから、私はミルルちゃんに、その命を助けられたんだから」
対する椛音も、自らの右手人差し指に淡く揺らめく、
「覚えていて、カノン。私達が例え、どれだけ遠く離れていたとしても、この指輪がある限り、私たちの心は一つに繋がっていることを。そしてもし、いつかあなたに命の危険が差し迫るような時が来たなら、この私が必ず、あなたを助けにいくから」
「ふふ……ありがとうミルルちゃん。すっごく、頼もしいよ。この指輪を見ていれば、いつでもどこでも、ミルルちゃんを傍に、感じることが出来るんだ。でもミルルちゃんがもし危なくなったら、私だって、助けにいくんだからね?」
「ええ、カノン。でも、願わくばそんな時じゃなくって、こうして……何でもない一日の時間を、また一緒に過ごすことが出来ればいいわね」
ミルルと対になった自身の指輪を見詰めながら、椛音は、其処に煌めく紫水晶に左手人差し指の腹を合わせ、優しく撫でた。
「私があっちに戻っても、またすぐに、会えれば、いいな……」
「……そうね。異なる世界の行き来には、航界法っていう法律があって、色々と複雑みたいだけれど、セラフィナ先生が、きっと良い知恵と権力を貸してくれるわ」
「ははは、権力って。でも確かに、あのセラフィナさんの力を借りれば、どんなに難しい問題でも、案外どうにかなっちゃいそうなところ、あるかな」
「先生のことだから、きっと私達が思いもつかないような手段を使ってくるかも……だから期待半分、怖さ半分ってところかしらね。あ……そういえば、昨日はセラフィナ先生から聴き取りがあったみたいだけど、エリスとは、あれから話せたの?」
ミルルの言う『聴き取り』とは、昨日の午後、椛音がセラフィナに呼び出され、一連の事件に関する事情聴取を受けた際のことを指してのもので、椛音も実際にその場でエリスとの面会を希望していたが、現在は接見禁止処分中であるとのことで、椛音は、残念ながらそれが叶わなかったという旨をミルルに語った。
「そう……やはり裁判を控えた身だから、かしら……エリスも、あなたのこと、その目で見送りたかったでしょうけど、事情がそれを許さなかったのね……」
「うん……だけど、いつかきっと、また会えるはずだから。その時にはお互いに、また最初から始められればいいなって、そう思ってるよ」
「ええ。いつかその時が来たら皆で、またあの別荘に遊びに行きましょ。夏が過ぎても秋が、秋が過ぎても冬が、そして、冬が過ぎてもまた春が、来るから。焦ることなんて何もないわ。私たちはまだまだ、これから、なんだもの」
「ふふ、そうだね。夜が終わればまた、朝が来る……それと同じだもんね」
明ける前の空へと向かってそう呟いた椛音は、
「その通りよ。じゃあ、カノン。私達もその朝までもう一眠りして、終業式に遅れないようにしましょ。カノンが学院に来てくれた時間は、ほんの少しの間だったかも知れないけど、そんなあなたが来てくれたおかげで、私は、新たな始まりをそこから迎えられるような気がするわ……本当に、ありがとう」
「ううん。私だけの力じゃないよ。きっと全ての始まりは、本当に些細で、小さな一歩からだと思うの。そしてミルルちゃんはその一歩を、自分から進んで踏み出した。ただ、それだけのことだと思うんだ。私がしたことは、その足元を、ほんの少しだけ、光で照らしたぐらいのものなんだから」
「カノンはまぁたそんなことを……恥ずかしげも無くさらっと言っちゃってくれちゃって……このこの!」
ミルルはいつかと同じように、おどけた調子でそう言いながら、椛音の首根に左腕を回し、右手の拳で椛音の頭をぐりぐりと捩じって見せた。
「ちょ……痛い、痛いってばミルルちゃん、もう……ふふふ」
椛音は、そんなミルルに身を任せながら微笑みを浮かべ、間もなく彼女と共に寝室の中央にある大きな天蓋付きのベッドへと戻った。三日目の朝を、二人で一緒に迎えるために。
そしてやがて、明け始めた空の暁光に揃って照らされた椛音とミルルの寝顔は、一片の憂いも感じられないように、何処までも晴れやかで、穏やかな色を湛えていた。
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