こもりくの地のその奥で

石谷 弘

第一章 物の怪の棲む里

 一体なんだと言うのか。

 俺は何から逃げているのか。

 いや、そもそも、ちゃんと逃げられているのか。

 小助は弓張りの月が照らす暗い川辺を、必死で川下へと走っていた。蛇行する川を時には崖をよじ登って越えながら進んでいるので時間ばかりが過ぎていくように感じた。

 川辺には枯草を燃やすような蛍の淡い光が溢れている。その数はおびただしく、急峻な山々に囲まれた細い谷間の姿を浮き上がらせるほど。小助がこれまでに見た全てを足し合わせても足りないくらいに思われた。

 その光は行く先も、足元すらも照らし出すことはない癖に、ずっと小助に纏わりついてくる。小助にはそれが、決して帰さないという物の怪の祟りのように思えて、どこまで行っても逃れることのできない恐怖に怯えながら走っているのだった。


 ことの始まりは三日前。

 近江からの行商人である小助は、その日は高野山で薬を商っていた。

「どうも体調がすぐれない方が多くてですね」

「ここは都より冷えますからな。こちらの人参などいかがでしょう」

 丸々と太った白い根を指差した。

 高野山には出家した貴族が多くいる。当然、相当に裕福な者達である。小助の薬は飛ぶように売れた。

 小助は今回、初めて高野山にまでやって来たのだが、薬の売れ方は小助の想像を遥かに上回っていた。

 実は、先に高野山に商いに来ていた知り合いから、かなり繁盛したということは聞いていた。だから普段では扱わないような高価な薬を、それも大量に仕入れてきていたのだが、それも八割方売れてしまった。

 そこで小助は考えた。

 貴族相手の商売がここまで儲かるのなら、熊野まで足を延ばすのもよいのではないか。

 熊野も古くからの信仰の地。高野山ほどではなくとも、貴族がよく訪れる土地と聞く。どうせ、持ち帰っても売れないような高価な薬だ。ならば、残りの薬を持って熊野まで行ってみるのも悪くはないだろう。

 幸い、薬を買いに来ていた修験僧から高野山から熊野へ向かう道も聞くことができた。

「それならいい道がありますよ」

 それは修行を行う者たちが使う道で、険しい道だが、三日もかければ熊野まで辿り着けるということだった。

 そうして喜び勇んで高野山を後にした小助であったが、二日目に入ったところで急に霧が濃くなった。

 これはまずいと半日ほど霧が晴れるのを待ったものの、いざ霧が晴れてみると、もうすでにそこに道はなく、小助は完全に遭難してしまっていた。

 このままでは生き倒れる。

 やむなく道を諦めて山を下りることとした。

 しばらくして小さな沢を見つけ、それに沿って山を下った。下って行けば始めは小さな沢でも、少しずつ川幅も広くなり、川岸も川原と崖が交互に現れるようになる。小助も川原に出たり、険しい山裾の森の中に入ったりと苦労しながら山を下った。

 森の中は人が通ることの無い場所なのだろう。道などあるはずもない。頭の上を名も知らぬ鳥達がけたたましく鳴き交わし、むっと漂う濃い草の香りの中、獣道を頼りに川から離れないように進むが、猪が木の根を掘り返した深い溝に気付かずに足を取られ、何度も転んでは泥だらけになった。

 そして、かれこれ二日は下ったものの、人里一つ見かけることなく夕暮れ時にさしかかっていた。

 そろそろ野宿する場所を決めないと、薪を集める時間もなくなるか。

 ちょうど川原にさしかかり、野宿を覚悟した時ふいに目の前が開けた。

 子どもが跨いで渡れるくらいの小さな沢を中心にして、小さな集落なら入ってしまいそうな、だだっぴろい空間が空いていた。

 そんな広大な斜面一面に白い可憐な花が咲き乱れている。菖蒲のような、いやそれよりも細身のすっと伸びた艶やかな葉。大人の手の平程の白い花びらには黄色と紫で繊細な模様が描かれている。

 思わず溜め息が出た。

 これは、とんでもない所に迷い込んでしまったな。

 それまでの喧騒が嘘のような静かな場所。時折吹き抜ける柔らかい風が白い花を揺らす様はどこか神秘的で、小助はこの世ではないどこかに迷い込んだ気分にさえなっていた。

 俺のような俗世の者が踏み荒らしては、ばちが当たる、か。

 足場の悪い急な斜面を、花を踏みつけないように気を付けて沢まで来た。

 沢の水も半ば滝のように流れていたが、水量の少ない小さな沢。小助がそれを越えるのは訳のないことである。しかし、深い森の中に突然開けた神秘的な空間を流れる小川には、どれだけ小さくても進むことを躊躇わせるだけの力があった。

 越えたらあの世、なんてことはないよな。

 案外三途の川なんて、こんなものなのかもしれない。だが、だからといって、このままずっと山の中にいる訳にもいかない。

 意を決して沢を越えると、振り向くことなく空地を通り抜けた。

 まあ、何が起きる訳でもないだろうが。

 全身に嫌な汗をかき、心臓を強く波打たせながら、森の中を進んでいく。

 森の中をしばらく行き、ようやく落ち着いてくると、今度はコンッという乾いた音が聞こえてくる。

 風や鳥が立てているのではない音に、今更ながら身を固くしたものの、小助はその音に人里の生活の音を感じ取った。

 獣の立てる音じゃない。木か竹を何かに打ち付けるような。

 再びコンッと同じような音が聞こえた。

 薪割りか。

 そう思うが早いか、小助は慌ててつづらを背負い直すと川原を駆け出していた。

 大きくうねる川に沿って山の端を回り込むと、これまでとは打って変わって、小さくてもきちんと手入れされた人里があった。

 コンッという音はその里の中から聞こえてくる。

 五、六件程の家々が急峻な山裾に食い込むようにして建てられているのが見えた。音が聞こえてくるのは、上下二段になっている集落の上の段の家からのようだった。

「さて、どこから上ったものかな」

 里の入口まで来た小助が家の列の前をうろうろしていると、里の子らしい少年と出くわした。

 歳の頃は十二、三程。まだ幼さの残る顔に、首の後ろで束ねた背中まである髪、裸足の足先から頭の上まで泥だらけで、これは田植えの手伝いではなく、遊びまわっていたのだろう。

 余所の人が珍しいのだろうか、小助を認めたその顔は、途端にそっぽを向く素っ気ない仕草とは裏腹に好奇心で輝いた目をしていた。

 そっぽを向いた少年は右手を口元に当てると川向こうに向かってフィ、フィ、フィと鋭く指笛を吹く。指笛の音は両側の急峻な山で反射し、里全体に響き渡った。

見事な指笛だな。鷹でも飼っているのか。

「おっさん、旅の人?」

 小助が感心していると、少年が聞いてきた。指笛に気を取られて返事できないでいると、少年は先程木を打つ音が聞こえていた上の段の家を指差した。

「当てがないなら、うちに来なよ」

 少年はそう言うと、小助の返事も待たずにさっさと上の段に上る坂道を登り出した。

「なんだ、来んの?」

 坂道を半分程行ったところで、少年はまだ上って来ない小助を振り返って言う。その言葉には少し挑発的な響きがあった。

 小助が見上げる坂道は石段を組んだもので、傾きは急だがそれは小助がここまで通ってきた山道と比べればそれほど変わるものではない。ただ、道のある場所がまずかった。

 そこは集落の中。右には堂が、左には民家が、それぞれ山に食い込むように建っている。つまり、山を両側から削り取ったわずかな残りに石垣を作って補強したという形になっている。その道幅は大人の肩幅より少し広い程度しかない。

 そんな道を、少年は田んぼのあぜ道でも通るかのように上っていく。

 唖然として見上げていた小助であったが、子供に馬鹿にされている訳にはいかない、と意を決して上り始めた。

 一瞬が一刻にもなろうかという長い時間の後、小助がようやく坂道を上り切ると、少年は少々驚いた顔をして小助を見た。

「おっさん、やるねえ。駄目なら別の道を教えようと思ってたのに」

 指差した先には、堂の裏側を回る別の坂道があった。日が陰ってきているのでよく見えないが、どうやら道幅は同じでも、こちらは石垣の壁沿いに道が通っているようである。

 がっくりと肩を落とす小助を、まあまあ、と少年が宥める。

「そら俺らだって、重いもの持って運んだりするんに、こんな道ばっかり使わんよ」

 笑いながら家の方へ歩いて行った。

 少年の家も他に漏れず山を削った狭い土地に、へばりつくようにして建っていた。横に長い棟には薪を積んでおく場所や、畑仕事で使うのであろう大きなかごや鍬などの農具を置いておく場所があった。

 そうして茅葺きの屋根が一段と高くなっている母屋と思しきところの前では、四十前後とみられる男が薪割りをしていた。

「お父ちゃん。おっさんが泊めて欲しいって」

 父と言われたその男は、薪割りの手を止めて振り返ると、人の好さそうな笑顔で小助を歓迎した。

「やあやあ、旅の方ですか。この辺は他に集落もないですから、どうぞ休んでいってください」

 それに、と声を落とす。

「この辺は夜になると物の怪が出ますんでね」

 思わず「えっ」と声を詰まらせる小助ににっこり笑うと、少年の方を向く。

「客人を厠の前から通すやつがあるか。ちゃんと川下の道から玄関へ案内しろ」

 振り返ると、長い棟の一番端、小助が坂を上って来て最初に目に入る所が小さな部屋に区切られ、木の扉が付いてある。

 あれは厠だったのか。

「はあい」

 少年の気のない返事に少々ムッとつつも、客人の前でそれ以上怒ることもできずに、亭主は苦笑いしながら小助の方に向き直った。

「すいませんねえ。ずぼらなやつなもんで。本当なら川下の道から上ってもらって、玄関まで来てもらうところなんですが」

 まだ他にも道があったのか。

「いえいえ。私も山で迷ってしまって、普通とは違う場所から出てきてしまったものだから、混乱させてしまったのでしょう」

 わざわざ危なっかしい道を通らされたことを恨んでちらりと見ると、少年はべえと舌を出した。

「小太刀丸、ちょっと里の家を回って、客人をもてなすだけの食べ物もらってこい」

 亭主が言うと、少年はさっと身をひるがえし、小助が恐る恐る上ってきた坂道を勢いよく駆け下りていった。

 その様子をぽかんと口を開けて眺めていると亭主が笑った。

「どうにもやんちゃな盛りでして、あの程度はいつものことなんですよ」

母屋の土壁へ打ち付けた木の板に、さっきまで使っていた鉈の刃を噛ませるように掛けると、亭主はさあさあこちらへ、と小助を玄関へと案内して中に入れた。

 膝のすぐ下まである高い敷居を跨いで中に入ると、お茶の良い香りが一面に立ち込めていた。

 広い土間には飯炊き用の竈と、それよりも一回り大きな竈が並べて設えられている。大きな竈には素焼きの浅い椀がはめられており、こちらも亭主の息子だろうか若い男がそこに入れた大量の茶葉を煎っているところであった。煎られている茶葉はもくもくと湯気を上げながら子気味良い音を立てている。

「ほう、いい香りですな」

 思わず褒めると、土間の奥から先程の亭主の女房と思しき女性がそうでしょう、と嬉しそうに声をかけてきた。

「ちょうど、今日摘んだお茶っ葉を煎っているところなもんでして。さあさ、旅の人。お湯が沸いたんで、足をお拭きしましょう」

 わらじを脱ぎ、足を拭いてもらいながら、小助は若い男が茶葉を煎る様子を興味深げに眺めていた。

 摘んだばかりの、まだ青々として瑞々しい茶葉を椀の中に入れて煎る。やがて湯気を出して、しなしなと柔らかくなった茶葉を隣に広げたむしろの上に出すと、今度は一固まりにした茶葉を力強くむしろに押し付けて更に水分を絞り出した。

 むしろもこの作業のために使われ続けているものなのだろう。あちこちささくれ立って、ぼろぼろになっているにもかかわらず、茶葉の押し付けられる場所は濃い茶色に変わっており、光沢すらあった。

「あれは売り物なのかい」

 既に何度か繰り返していたらしく、むしろの上には固まりになった茶葉が山とあり、また、竈の隣にはこれから煎るであろう摘み立ての若い茶葉が、子どもが入り込める程の大きな竹編みの籠にまだ半ば以上も残っている。

「いいええ。お茶っ葉なんて、この辺りじゃみんな自分たちのために作るんですよ。よっぽど摘めた年には売ったりもしますけど、それでもほとんどは自分たちで飲んでしまうんです」

 奥方がころころと嬉しそうに笑って話す横で、寡黙な男はむしろの上の茶葉の固まりをばらして広げ、外へと運んでいった。


 奥方が腕を振るった夕食は、それは豪勢なものだった。

 筍やぜんまいなどの山菜をふんだんに炊き合わせた混ぜご飯にしじみのお吸い物、薄く塩をまぶした鹿肉と鰻。特に、大きな一尾が丸々出てきた鰻は圧巻で、ご飯と共に一口頬張るごとに旅の疲れが取れる気さえした。

「こちらへはご商売で?」

「ええ。実は、薬売りをしておりまして。それで高野山から熊野へ抜けるつもりが」

「道に迷った、と」

「ええ」

 亭主が勧める酒を受け、小助は機嫌よく話した。

「坊主から修行僧がよく使う近道がある、って聞いたのですが、まったく、あれは土地勘のない人間が使っていいものではないですな」

「それは難儀でしたな。今日はゆっくり休まれて、明日は川沿いに下っていって下さい。道が悪いですし、まだしばらく歩くことにはなりますが、明け方に立たれれば日暮れまでには里に出られますよ」

 亭主の言葉に小助は心底安心した。

「それはありがたい。いえ、泊めていただいて、こんなことを言うのも失礼なのですが、森の深いこの辺りに人里があるとは思ってもいませんでしてな」

 そう言って今度は鹿肉を頬張る。

「いやしかし、うまい!

 何せ、この世とは思えないほどの美しい花園を抜けた時に、急に薪割りの音が聞こえてきたもんで。始め見た時には、狐か狸にでも化かされたのかと思ったものです」

「確かにあの花園は見事なものですな」

 ささ、もう一杯。などと言いながら、亭主が小助のお猪口に酒を注ぐ。その目元から笑みが消えていることに小助は気付かなかった。

「あれは誰も手入れしていない中で、勝手に生えてきて増えたんですよ。あそこを通ってきたんで」

「ええ、余りにも美しかったので、花を踏まないよう気を付けて」

 それは何より、と亭主の顔がほっと緩む。

 一方、ここ数日、温かい食事など食べていなかった小助には、身体の温まる酒と湯気が出るほどのあつあつの肉はこれ以上ない程の幸せだった。

 小助の食べっぷりに、亭主と奥方も顔を見合わせて微笑む。

「その鹿はこの人が最近狩ってきたものなんですよ」

「ほう。ご亭主は猟師でしたか。なるほど、それならこのような土地に住まわれているのも納得ですな」

 小助はうんうんと、一人で納得したが、亭主はいやいやと首を振った。

「ここで暮らそうと思ったら、何でもできないと飢えてしまうというだけですよ。普段は田や畑を耕したり、山や川で食べられそうなものを採っているもので、狩りをするのは年に数度くらいなものです」

 ところで、と亭主は少し身を乗り出した。

「薬というのは、どのようなものを扱われているのです」

「普段は牛蒡や生姜、山椒なんかを商っておりますな」

 そう言って、お吸い物をうまそうにすすった。酒が回ってきたのか顔は赤らみ、舌もよく回るようになっていた。

「ただ、今回は高野山の貴族を相手にしに行ったので、人参や牛黄のような高級なものをかき集めておりまして。やはり高野山となると冬には冷えますからでしょうな。体を壊す人が多いとかで、よう売れました」

「ほう、それは素晴らしい」

「幾らか売れ残ったんで、これから熊野に行って、参りに来る貴族を相手にしようかと」

 そういえば、と小助は囲炉裏の火だけが頼りの暗い部屋を見回した。

 開け放たれた引き戸から外を見ると、辺りは夕日で真っ赤に染まっている。

「息子さん達は戻られないんで」

 ああ、と亭主は笑った。

「あいつらは弟の家です。うちじゃ狭いので、客人を迎える時にはいつも、そうしているんですよ」

「あいや、それは申し訳ないことをしましたな。私などただの通りすがりなのに。これほどのご馳走を頂いて、しかも子ども達を追い出してしまったようで」

 酒が入って外の景色に負けないくらい赤くなった顔で、今更ながら恐縮した。

「そんな気にしないで下さいな」と、今度は奥方の方が小助に笑い掛ける。

「ここはお客人などめったに来ない山の奥ですから。余所の人が来ると皆、精一杯のもてなしをするんです」

「しかし、失礼ながら、こんな山奥では生活も苦しいでしょうに」

「まあ楽ではありませんが、一食は一食。一度ご馳走を振る舞ったからといって、食べ物に困ることはありませんよ」

 それに、と奥方はいたずらっぽく笑う。

「山で採れる物であれば、どんな贅沢なものでもただですから」

 

 夕食の後、しばらくは機嫌よく亭主と話していた小助であったが、ここ数日の疲れが出たのか急に眠気が差してきた。

 一つ大きなあくびをして、失礼、と謝る小助にうふふと奥方が笑いかけた。

「お疲れでしょうから、今夜は早めにお休みください。奥の部屋が空いていますので、そちらでどうぞ」

 それはそれは。ありがとうございます。と言いかけて、小助はふと亭主を振り返った。

「厠をお借りしたいのですが。たしか、一番奥でしたか」

 ああ、と亭主は先程の少年とのやりとりを思い出して苦笑いすると、ご案内しましょうと土間に降りる。小助もそれに続くと、玄関から外に出た。

 外は既に日が沈んでおり、谷を見下ろす急峻な山々に挟まれた細長い空には、満天の星空が広がっている。しかし月は見えず、周囲は辛うじて物の輪郭が見分けられる程度。長屋の軒の下は自分の足さえも見えない完全な暗闇で、小助は亭主の声を頼りに歩いていた。

 時折、誰かが口笛を吹くようなピーという音が聞こえてきた。

「鹿ですか。こんな人里近くにまで来るのです?」

「ええ」

 ここの地面が凹んでますので気を付けてください。と亭主が見えない地面をとんとんと蹴って知らせる。

「人里と言うにはいささか小さすぎるんでしょうな。鹿も猪もよく来ては畑を荒らすんですよ。まったく困ったものです」

 そう言われて耳を立てると、目には見えないものの、確かに何かが動く物音が聞こえてくる。しかし、小助にはそれが何の足音なのかはっきりとは分からなかった。

 長屋の一番奥で亭主が立ち止まる。

「ここが厠です。踏み台があるので気を付けて上ってください」

 手さぐりで、なんとか踏み台を見つけ厠の扉を開けると、亭主がそうそうと付け加えた。

「部屋の真ん中の板が一枚分空いているのですが、間違えて落ちてしまうと、朝まで引き上げられないので気を付けてくださいね」

 慌てて足で穴を確かめると、大人でも簡単に落ちてしまうだけの大きさがある。しかも、周りの足場も踏めばぎしぎしと音を立てて弛んだ。

これは、大丈夫なんだろうか。

 不安な気持ちを押し殺してなんとか用を足し、母屋に戻ると、ちょうど奥方が奥の部屋から戻ってきたところだった。

「奥の部屋に寝床を用意しましたんで、こっちで寝て下さいね」

 母屋は大きく四つの部屋に分かれており、先程まで小助が食事をしていた居間の角の柱を中心に、四方に重そうな板戸が立てられている。小助が案内されたのは居間のはす向かいの部屋だった。

「ここの板戸は開けておきますね。厠に行きたくなったら、ここから居間を抜けて行って下さい。それから、板戸のこちら側には私たち夫婦が寝ていますから、何かあれば言って下さいね」

 居間と小助の寝室の間の細長い部屋を指すと、奥方は囲炉裏の火の始末をすると言って戻っていった。

 部屋に一人残された小助は自分のつづらを引き寄せ、手探りで中身を検めると厚手のむしろの上で横になった。

 どこかも分からない山の中での遭難から一転して、屋根の下で体を休められ、更には人里まで出て行ける目処がついたことで、小助の心は安らかなものであった。

 外で人の足音がする。

 一人二人ではない。いくつもの裸足の足音が家の前を行き来していた。

 日も暮れたのにまだまだ忙しいのか。百姓仕事も大変なもんだ。

 外の様子は気になったが、ここ数日、山の中を歩き続け、思いの外疲れていたのだろう。囲炉裏の火が消え、急に回りが暗く静かになるのを感じながら、小助の意識はあっという間に融けていった。


 夜も更けた頃、小助は異様な物音に目を覚ました。

 シャッ……シャッ……シャッ……。

 刃物を研ぐようなその音は炊事場よりももっと近く、先程まで小助が食事を取っていた居間の方から聞えているようだった。

夜中にまで手仕事とは、亭主も働き者だな。

 亭主の働きぶりに興味を持った小助は、そっと頭の向きを変え、開かれた木戸の間から居間の方を覗いた。

 そうして覗いた先では、真っ暗な暗闇の中を何かがうごめいていた。

 それは先程まで小助のいた囲炉裏の向かい、奥方が座っていた辺りである。明かりのない部屋の中、小助がじっと目を凝らすと、それは床まで垂れる長い白髪と小さく曲がった背中の老婆であるように思えた。

 はて、この家に老婆がいるとは聞かなかったはずだが。

 しかし、囲炉裏にいるのはやはり老婆のようで、しかも、物音はそこから聞えているようであった。

 シャッ……シャッ……シャッ……。

 音を立てる度に、老婆の体がわずかに上下に揺れた。

山姥、なのか。

 幼い頃にはよく母にせがんで夜な夜なお伽話を聞かせてもらった。その中には誰も住まない山奥に暮らし、迷い込んだ旅人を捕えて食ってしまう、恐ろしい山姥の話もあった。

 その話と今の小助の状況とが余りにも似ていることに気付き、どきりとするも、いやいやと首を振った。

 お伽話はお伽話。こんな所で一緒にして、勝手に怯えてどうする。

 大体、あれだけのもてなしをしておいて、今更殺しに来ることもないだろうが。

 だが、聞えてくる音は明らかに包丁を研ぐそれであり、その様子はどう見ても話で聞く山姥そのものである。

 むしろや床板が音を立てぬようにゆっくりと静かに立ち上がると、小助は亭主達の眠る隣の部屋へと足を忍ばせた。

 むしろのすぐ横にしゃがみ込み、亭主に声を掛けようと肩の辺りを探る。

 しかし、それらしき物に当たらない。

いない、のか。

 暗くてよく分からないものの、むしろの上に広げられている衣は亭主の物のように思われるものの、その下に亭主の体はなく、その代わりにもっと小さな物があるようだった。

 漬物石が入っている訳でもあるまいに。

 シャッ……シャッ……シャッ……。

 隣の部屋からは、まだ包丁を研ぐ音が聞こえてくる。

 どうしようもなく嫌な予感がしたが、山姥のことを思うと躊躇ためらう訳にはいかなかった。

 恐る恐る、衣をめくる。

 生き物ではない何かがある。

 ゆっくりと手を伸ばし、それに触れてみる。

 そして理解する。

 一瞬、小助は大声を上げて飛びのきたい衝動を必死にこらえて踏みとどまった。

 それは骨だった。あばらの骨がいくつかと、後は砕かれており分からなかったが、とにかく衣の下で眠っているのは生きた人ではなく骨だけだったのだ。

 シャッ……シャッ……シャッ……。

 隣の部屋から聞えてくる包丁を研ぐ音が、背中を刺すような殺意を持って聞えてきた。

 ここは物の怪の里だったのだ。

 音を立てず自分の寝床に戻りながら、小助は必死に思い返していた。

 だから、あれだけのご馳走を出せたのだ。

 だから、こんな山奥に里があったのだ。

 だから、あんな訳の分からない道があったのだ。

 とにかく、ここから逃げ出さなければ。

 つづらから替えの草履を出し、入ってきたのとは反対側の木戸を静かに引き開けると、広い縁側に出た。縁側には茶殻の広げたむしろが敷かれていたが、小助は音を立てないようになんとか避けて歩き抜けた。

 縁側から降りて草履を履き、つづらを背負い直した時、後ろから呼び掛ける声があった。

「どうされたんですか? 日の出にはまだ早いですよ」

 厠の方から歩いて来たのは紛れもなく亭主であった。しかし、顔は俯き気味でその声は妙にくぐもっている。

「ささ、部屋にお戻りください。なんでしたら、朝には里まで案内を出しますから。ね」

 そう言って小助の目の前で上げて見せた顔を見て、小助は今度こそ大声で悲鳴を上げた。

 そこには目も口も鼻も耳すらもなかった。

 ただのぺっとした皮があるだけだった。

 腰を抜かし、恐怖で気を失いそうになった小助だったが、周りから聞えてくる物音に気がつくと、慌てて体を捻り、這うように駆け出した。

 カシャン……カシャン……。

 それは鎧の動く音。

 小助の後ろから、集落の下の段の家々から、あるいは裏山から、いくつもの鎧の動く音が聞こえてくる。

 同時に松明が燃やされ、多くの鎧が暗闇に浮かび上がった。松脂の弾ける音と共に煙が目に鼻につんと沁みる。

 鎧はどれも矢が刺さっていたり、紐が切れて鎧が外れかかっていたりと無残な様子であった。

 そのためか彼らの動きは鈍く、足を引きずるようにして小助の方へにじり寄ってくる。

 落武者の亡霊、なのか。

 恐怖に飲まれながら一瞬、憐れみの情を感じた小助だったが、迫ってくる鎧武者に気がつくと、行き先の分からない小路を走り出した。

 いつの間に出ていた月だが、光は弱く足元は何も見えない。

 何度も木の根に足を取られて派手に転んだ。

 二又になった道のどちらを行けばよいのか分からず、右に行ったところ、すぐに松明の明かりが見えて慌てて引き返して左を駆け抜けた。

 そうこうしている内に、家々の間を抜けて川原に辿り着いた。

 目の前で轟々と音を立てて流れる川は妖しく光り、昼間とは全く違う姿を見せていた。

 それは幾千万もの蛍の群。

 それが川の流れに沿って川上から川下へと光の帯の様に溢れかえっている。

 それらが忙しなく飛び交いながらも一斉に明滅する様は川そのものの鼓動の様にも、蠢く物の怪の様にも思われた。

 これは、渡れない。

 もちろん昼間ずっと見てきた川なので深さも速さも分かってはいるが、まるでこの世のものでなくなってしまった川に飛び込み、無事に渡れる気がしなかった。

 と、川原の石に躓いて再び派手に転んだ。つづらの蓋が飛び、転がる。慌てて立ち上がろうとした時、ふいに体が重くなった。

 それが鎧武者につづらを掴まれたからだと気付くや、小助はつづらを諦め、腕を抜くと、一目散に逃げ出した。

 今回の行商の稼ぎが入った大事なつづらであったが、今は命が全てだった。

 と、すぐ川下に簡単な橋が架かっているのが見えた。

細めの丸太を何本か縄で縛っただけの簡素なものであり、それを川の途中に二か所顔を出している大きな岩に渡して橋にしているらしい。

 迷わず橋を駆け渡る。

途中まで来た時、気が付いて真ん中の橋を投げ落として流してしまった。

 これで、すぐには追って来ないだろ。

 だが振り返ると、鎧武者達は足を引き摺ったまま、ゆっくりと川の中に進んできている。

 後はとにかく逃げるしかない。

 甲冑の擦れる音と蛍の光がどこまでも追ってくる中を、小助はひたすらに川下へと身一つで駆けて行く。途中、川原が川と崖に遮られれば、崖によじ登って森の中を手探りで進んだ。

 頭の上から狼の遠吠えが聞こえた。

 おいおい、狼に食い殺されるなど、ごめんだぞ。

 湿った苔のむした岩場の上を、頭の上に張り出した木の枝を頼りに渡りながら、真っ暗な山の上に目をやった。もはや見えないのが、木々の枝葉に遮られているからなのか、山の影になっているからなのかすら分からなかった。

 ふう、と息を吐いて気を引き締める。

 次の一歩を踏み出した時、不意に足元の苔が大きくはがれた。

 思わず掴んでいた枝にぶら下がる。

 ざわざわと派手な音を立てて、大きく枝がたわんだ。

 周りに居場所を知らせるような音に、思わず身を固くする。

 鼓動が激しく、全身が脈打っている。

 周りを飛んでいた鬼火の様な淡い光が一度ふわりと小助から離れ、ゆっくりとまた元の距離まで戻ってきた。

 そうして、じっとしたまま時間だけが過ぎていった。

 それが、十を数える程だったのか、それとも百をも数える程だったのかは分からない。ようやく、何も起こらないことを認めた小助は全身の緊張を解いた。

 全く。何を相手に怖がっているのだか。

 狼は遥か山の上。鎧の武者達はもはや歩く音さえも聞こえない。小助が恐れているのは見えない闇の中に蠢く「何か」。それは何でもないのかも知れないし、そうではないのかも知れない。それはその時になるまで分からない。

 突然、腕が軽くなった。

 長い間身体を預けていたが、とうとう耐え切れなくなった枝が根元から折れてしまったのだ。

 同時に苔で湿った岩の上で踏ん張る足が滑った。

 大きな音と水しぶきを上げて、小助の身体は川に吸い込まれていった。

 そこはちょうど深い淵で、川底に身体を打ちつけずに済んだ。

 だが、まだ水も冷たく真っ暗な淵の中で小助はどちらが上か下かも分からず、ばしゃばしゃと水しぶきを上げて溺れた。

 もう駄目かと思った時、着物の襟首を引かれる感触を覚えた。

 そのままうつ伏せに頭を引き上げられた。

 慌ててしがみつける場所を探す。

 ちょうど木の根が張り出しており、どうにか身体を支えられそうだった。

 なんとか這い上がって見回すが、しかし周りには誰もいない。風も凪ぎ、不穏に静かな時間が過ぎていく。不審がじわりと恐怖に変わり出した時、少し遠くの木の影で「トフッ」と何かが当たる音がした。

 それは転がってきた石が当たったようで、次に岩場に当たる硬い音がして、「トポン」と淵へと落ちた。その音が思いの他大きく、小助の身体がびくつく。

 それは辺りの枝に留まっていた鳥にとっても同じだったらしい。

 先に小助が落ちた音で目を覚まし警戒していた鳥達が、再びの物音に声を上げて飛び立った。それが余りにも大きかったので、恐怖に駆られていた小助は悲鳴を上げて山中を逃げ惑った。幸い、岩場はほとんど終わりだったので、あっという間に川が見えなくなる程森の奥にまで逃げ込むことができた。

 ここから、どうしようって言うんだ。

 木に手をついて肩で息をしながら小助は途方に暮れた。

 もはや、西も東も分からない。走っている時にはちらりと目に入った月の光も、今は再び山陰に入ってしまった。川辺からも離れたのか、ここには蛍の光もまばらだった。

 物の怪の追ってくる気配もないのなら、ここで明るくなるのを待つべきか。

 そう思った時、思いがけず近くから低い唸り声が聞こえてきた。

 狼だ。

 背筋を冷たい物が流れる。さっき遠吠えを聞いていたのに、夢中で逃げている間に縄張りの中に足を入れてしまったらしい。

 何匹だ。

 耳を澄まして必死で足音を聞き取る。どうやら、一匹だけのようだ。だが、目を開けても姿はおろか、何かが動く様子すら見えない。焦っている間にも唸り声は近づき、小助の背丈の二つ三つ程にまで迫っていた。

 とにかく逃げなければ。

 その思いだけで、ゆっくりと身を返し、静かに歩いて行く。

 まだ大丈夫。まだ食われてはいない。

 必死で自分に言い聞かせて、暗く道もない山の中を、木々を伝いながら歩く。唸り声と生臭い獣の臭いがずっと小助のすぐ後ろからついて来た。

 どれだけ歩いただろうか。ほんのわずかな時間だったのだろうか。

 小助にはもう何日も日の昇らない山の中を彷徨い続けているように感じられた。その間、狼はいつ食ってやろうかと期をうかがいつつ、ついて来た。

 そして、とうとう、再び淡い光の舞う川原へと戻ってきた。しかし、その数は山の中に逃げ込む前よりも随分少なくなっている。

 ちょうど細い空の間から月が顔を覗かせていた。

 川原の砂利の上をゆっくりと歩く。じゃっじゃっと、石の軋む音がする。だが、後ろからは唸り声が聞こえて来ない。獣の臭いも薄れていた。

 思い切って振り返ると、川原と山との境目で小助の腰程もある大きな狼が身を翻して山の中へと戻っていくのが見えた。

 助、かった、のか。

 思わずその場にへたり込む。

 もう、幾たび月が巡ろうとも動けない気がした。

 トフッ、コロコロコロ。

 遠くで石の転がる音が響いた。

 不審には思ったが、どうしても音の出所が気になった。始めの音は木に当たった音でもなく、苔でも、草でもなかった。

 まさか、そんな。

 崖のすぐ下、木の枝の影になったところにそれはあった。

 それは物の怪に取られたはずの小助のつづら。

 なぜこんなところに、とは思うが、しかし、へこみや編み込みの竹のささくれまで間違いようもなく小助の愛用のものである。

 ふと気付いて辺りを見回す。淡い月の光に照らされるのは暗い山肌と川の流れ。だが、よくよく見回して血の気の引くのを感じた。

 川の流れはあの里の物と同じ。そして少し歩けば陰に入る山の形も同じだった。けれども、そこには家どころか人の気配を感じさせる物は何一つなく、代わりに、まばらな若い木々と斜面一面に広がる白い花の園だけがあった。

 俺は、夢でも見ていたのだろうか。里なんて本当はなかったのだろうか。

 愕然とする小助の周りを嘲笑うかのように、わずかに残った淡い鬼火が飛び交っている。

 東の空が薄く白み始めていた。


 辺りが日の光で見えるようになるまで、それ程時間は掛からなかった。

 つづらを拾い上げると、もはや山には入らず、ざぶざぶと浅瀬を渡って川を下って行く。

 間もなく視界が開け、より広い川と交わった。

 と、小助は川向うに人が歩いているのが見える。

「おーい」と呼び掛ける。たっぷりと柴を背負った二人の農夫はちらりと小助の方を見ると、顔を見合わせ、急に速足になって川上の方へと歩いて行ってしまった。

 なんだ。人を見て化け物でも出たみたいな反応しやがって。

 少々腹が立ったが、立ち止まっている訳にもいかない。気を取り直して再び先を急ぐ。

 山の中を歩き続け、ようやく里に着いた頃には日も傾き出した頃だった。

 里に入って最初に見つけた家の戸を叩き、一夜の宿を頼めないかと問う。

「旅の方ですか。どうぞお入りください」

 どちらから来られたんです、と聞く髪に白いものが混ざり始めた亭主に川上を枝川に入った先の集落からと答えると、とたんに亭主の顔色が変わった。

「お前さん、集落の人間かい」

「いえ、道に迷って通りかかっただけですが」

 なんだ脅かすなよと、亭主は溜め息を吐き、小助を家に上げた。


「どうぞ」

 娘が茶碗にこんもりと盛り上げた麦飯を渡した。

 や、どうも、と小助が受け取ると、娘はうつむいて黙ったまま、しかし顔は嬉しそうに笑みを浮かべて、今度はなみなみと酒の入った瓶子へいしを持ってきた。

「こら綾女、もっと愛想ようせんか」

 すいませんね、と亭主は娘から受け取った酒を、こちらもお猪口になみなみと注ぎながら小助に謝る。

「こいつは早くに母親を亡くしたもんでしてね。よく働いて助かってはいるんですが、どうにも愛想の悪いのがいけなくって」

「いやいや、可愛らしい娘さんじゃないですか」

 溢さぬようにお猪口に口を寄せ、少し吸う。

 日が暮れて辺りは暗いが、今夜は囲炉裏の他に、すぐ脇の石の鉢でたっぷりと松脂を蓄えた肥松が、パチパチと音を立てて燃えているので、部屋の中はずいぶんと明るい。亭主も娘の顔も赤く火に照らされてよく見えた。

「お幾つですか」

「十と一つに」

「いい年頃ですな」

「これが生意気盛りで」

 またまた、と笑いながらお猪口をくいっと傾け飲み干すと、小助は心底安心を覚えた。と同時に、昨日も同じ時間に同じことを感じたなと思い出して、思わず苦笑した。

「どうかしたかい」

 亭主が太い手で瓶子へいしを掴んで注ぎに来るのを受け取ると、小助はいやねと昨夜のことを話して聞かせた。

 突然現れた花園と、その奥にあった美しい里。豪華なもてなしの一方で、山姥や鎧武者の亡霊、嚙みつかない狼に追われたこと。そして何日も日の昇らない山中をさまよった挙句、里のあったはずの場所に戻ると、家々は幻と消え、そこにはただ美しい花が咲くだけの山しかなかったということまで。

「そらお前さん、化かされたんだよ」

 話を聞いた亭主はおかしそうに笑うと、そう答えた。酒が入り、亭主の顔にはずいぶんと赤味が差している。

「あの辺りには昔からよくないモノがあると言われていてな、土地の者は決して近づかねえ」

 ただな、と亭主はぴりりと辛いこんこを口に放り込むと人の悪い笑顔を作った。

「たまあにお前さんのような余所者が迷いこんだりすると、酷い目に遭ってこっちまでやって来るのさ」

「酷い目というのは?」

「お前さんが遭ったようなことさ。化け物どもに夜中散々追い回されたとか、寝て起きたら山の中で建物も里も跡形もなく消えていたとか、そんな類のことだな」

 ま、無事に人里にまで出られたんだ。運がよかったな。と亭主はバンバンと小助の背を叩いた。

 そんなもんかねえと、不満そうな小助に亭主は顔を近づけると、声を押し殺して囁いた。

「おめえさん、ここが余所からなんて呼ばれているか知ってるかい」

 いえ、と小助は怪訝そうに眉をひそめて首を振る。

「ここはよ、昔から『隠国こもりく』とか『根の国』とかって言われてんだ。つまり、あの世だ」

 そう言って、亭主はにっと笑った。

「だからよ、そんなあの世の土地の人も近寄らない奥地に、物の怪の一つや二つあったところで、ここらの村のもんは不思議には思わんよ。ただ気味悪がって近づかんだけだ」

「ところで」と亭主は酒を勧める。

「お前さん行商人なんだろ。売りもん見せてくれよ」

 今持っている売り物で農民の買える物なんてないのだがな、と思いつつも「いいですよ」と小助は柿渋色のつづらを引き寄せた。

「今回は金持ち連中を相手にしましたんでね、牛黄や人参なんかの薬が多いんですがね」

 と、つづらの蓋を開けると、貫銭の束しか見えない。高価な商品がなくなって焦った小助がつづらの底に手を突っ込むと、何やら柔らかい物が手に触れた。

「うん?」

 引っぱり出すと、それは草むらを舞い踊る蝶の見事な刺繍が入った絹の白無垢であった。生地からはやや光沢が失われていたが、それでもなお、その美しさは際立っていた。

「ずいぶんと古そうだな」

「……ええ」

 横から覗き込む亭主に、小助は心ここに非ずといった様子で答える。

 こんな着物は扱ったことがない。それなら当然、これはあの里で入れられたものなのだろう。元々入っていたはずの薬がなくなっているので、お代の代わりなのかもしれない。小助の見立てでは、これだけ見事な白無垢であれば十分な利益になるはずである。

 だが、物の怪の里で手に入れた白無垢など、どれだけ出来が良くても買い手がつかないのではないだろうか。

「今度、湯浅様の御家来衆の方が結婚するらしいんだが、そこに持って行ったらどうだ。なんなら俺が紹介してやるよ」

「いいんですか。大して出せないですよ」

 警戒する小助に亭主が笑う。

「そんなせこいことなどせんよ」

 ただ、と少し言いにくそうに声を落とす。

「その着物、こいつにちょっと羽織らせてやってはもらえんかね」

 くしゃりとはにかむ亭主に、小助もつられて笑い返す。

「そんなことなら」

 どうぞ、と白無垢を手渡す。

 浅黄色の小袖に腰にはくすんだ藍色の湯巻姿の娘は、それを受け取るとぱあっと顔を明るくした。しかし、はっと気づくと慌てて白無垢を返す。

「煤だらけだから着替えないと」

 衝立に隠れて慌ただしく着替えると、装いは同じではあるが煤がかかっていない分、確かに色合いが明るくなっている。暗い部屋の中でもそれがはっきりと分かる程度であったので、小助は娘の機転につくづく感謝した。

 白無垢を羽織ると、まだまだ小さな娘には丈が長く裾が余ったが、微笑みを湛えた愛らしい顔は純白の衣と相まって、いっそ妖艶なほどに美しく見えた。

 農民の娘にはとても見えないな。

 思わず見惚れていると、隣から、うぐ、うぐ、と鼻をすする音が聞こえてくる。

「綾女のこんな姿を見られたならよう、俺はもう死んだってええ」

「ちょっと止めてよ、縁起でもない」

 娘が慌てて父親に駆け寄って起こそうとするが、亭主は頭を床に擦り付けたまま動かない。

「だってよう。俺がどれだけ頑張ったところで、絶対にお前の祝言にこんないい衣なんて用意してやれんぞ。綾女のこんな姿、見られただけでも俺は幸せ者だあ」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにした亭主と、それを必死で宥める娘を小助は横から眺めている。この親子にこそ売ってやりたいなあと思いつつ、決して口には出さずに、ただその光景に見惚れているのであった。

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