第二章 物の怪の掟
少し時を遡って、小助が亡者達に追い回されている夜のこと。
里より川下に半里ほど行ったところに二つの人影があった。
既に小助が落とした丸太橋は引き上げられ、二人の隣に置かれている。
二人とも一言も喋らずに川面だけを見つめていた。時々、二人の内の小さい方、小太刀丸は兄の鷹之進をちらちらと見るが、反応がないことを知ると再び川面へと視線を戻す。
彼らは小助の
星々の輝く空はまだ暗く夜明けの気配はない。川を埋める蛍は今を盛りに飛び交っていた。
と、その時、二人のいるところより少し川上で小鳥の群れが一斉に飛び立った。
「来たぞ」
押し殺した小さな声を発した鷹之進が、頭を下げて隠れるのを見て、小太刀丸も慌てて頭を下げる。
藤蔓の根本から覗いていると、川の向こうに男の姿が見えた。しかし、どうにも動きが遅い。どうやら、川に入るのをためらって崖沿いに張り付いているらしい。
なんだってそんな無茶を。
こんな夜更けでも、音を聞けば淵か瀬かの区別は付くし、そもそも瀬のしぶき位は見える。ここの川は余程の淵か、雨でも降らない限り大人の溺れるような場所はないのだから、川が曲がりくねる度に渡ってしまう方が早い。だが、そうは思っても、声を掛ける訳にはいかない。
「あ」
落ちた。
思わず声を出してしまい、横から脇腹を突かれる。幸い、小助は自分のことに必死だったし、周りの鳥達が警戒して飛び立つこともなかった。
隠れている小太刀丸の方は良かったが、小助の方はなかなか上がって来ない。そろそろまずいんじゃないか、と思った時、ふいに崖の上から人影が現れた。
それは小袖を着た女で、頭の上で結んだ布のからは白っぽい髪の毛がはみ出している。
既に上の木に巻き付けていたのか、縄を腰に巻き付けており、先に背負ってきたつづらを少し奥の木の根元に置くと、握った縄を少しずつ出しながら川辺に近づく。そうして、ぐいと小助の襟首を引き上げると、あっという間に再び崖の上へと姿を消した。
さすが、手際がいい。
感心していると、今度は置いて来たつづらに向けて石を投げた。石は見事につづらに当たり、そのまま川へ。
これで、小助は忘れ物も取り戻してめでたし、めでたし。
かと思ったら、突然、小助が悲鳴を上げて走り出した。岩場を抜けてすぐ脇の斜面から山の奥へと登っていく。女もつづらを取り直し、縄を解くと急いで小助の後を追う。
それからは、小太刀丸のちょうど向かいの山肌を上に下に忙しなく動いているようだった。女の方は後をつけるのを諦め、適当な木に登って眺めているようだったが、しばらくして小太刀丸が再び見た時にはいなくなっていたので、移りながら小助を追いかけていたのかもしれない。その間、小太刀丸達は元々の仕事に戻って、ずっと川を眺めていた。
小助が再び川辺に現れたのは東の空がほんの少し白み出した頃のこと。出て来たのは、先程小助が溺れた淵のすぐ隣の川原。すぐ隣とは言っても、大きく張り出した山裾に遮られて、小助の方からは先程の淵は見えない。
そして、戻って来て放心気味の小助のすぐ後ろには狼がついて来ていた。
どれだけ奥にまで行ったんだよ。
この山の狼の縄張りはかなり峰に近いところから、峰の向こう側の川辺の辺りだったはず。普段、人の行き来のある峰のこちら側まで出てくることは滅多にない。ただし、踏み込んでしまった時には、怒った狼に縄張りの外まで追い回されるのである。
まあ、群れでなくて良かった。
もしそうであったのなら、と想像してぶるりと身体を震わせる。
呆けている小助のすぐ川下で再び女がつづらを降ろしているのが見えた。つづらを川原の木の根元に置くと、また奥へと隠れて石を投げる。
もう一度驚いて逃げたら、どうするんだろ。
小太刀丸は他人事の様に眺めていたが、幸いにも今度は小助も冷静につづらを見つけ、ようやく川を下って行く。女は崖の上にある細い道を歩き、小助を見下ろしてついて行った。
女が戻ってきたのは、すっかり明るくなって険しい峰の頂きから、そろそろ日が顔をだすのではないかと思われる頃だった。
その人影は、小太刀丸達が隠れている茂みのすぐ向いで止まると、するすると山を下って川原に出た。日の光りの下に現れたその姿は、年頃の娘とは思われない、少し異様ななりをしていた。
一見、淡い桃色の小袖を着た娘だが、腰には鉈を差し、肩には長い縄の束をかけている。
娘は姿のよく見える川原の真ん中に来ると、鋭い指笛を二回吹いた。これが終了の合図だ。
小太刀丸は兄と共に丸太橋を持って山を下る。泳いで川を下ると、娘が岸から引き上げるのを手伝った。
「行ったか」
「ええ、もう大丈夫」
ちらと目を合わせた兄夫婦は、しかし、すぐに視線を外すと丸太橋を道へと引き上げにかかった。
丸太橋を崖のすぐ下にまで持ってくると、兄嫁は小太刀丸に鉈を渡し、自身は鷹之進と共に手早く縄を丸太橋の繋ぎ目へと結わえ始めた。その間に小太刀丸は鉈を振るって、通り道の蔦や下枝を打ち落としていった。
縄を結わえ終えると、縄の両端を小太刀丸と兄嫁が引き、鷹之進が下から押して、丸太橋を道まで上げた。
この間、誰も一言も発しなかった。
小太刀丸はこの兄嫁が少し苦手だった。小太刀丸六つ年上の兄嫁は小太刀丸と変わらない背丈で、厳しく叱りつけるようなこともしない。普段は他の女衆と一緒に竈の前に立ったり、皆で唄いながら田植えや茶摘みをしている。しかし、一度百姓仕事を離れると寡黙になり、弓の腕も剣の腕も男に負けないこの女の周りには、常にぴんと張った緊張感が漂う。時々、見回りと言っては鷹之進すら伴わずに、一人で十日以上もふらりと消える兄嫁に小太刀丸は得体の知れない恐怖すら感じていた。
何度か休みながら里まで戻る。橋を置き直して家に入ると、広い土間に集まっていた男衆が一斉に椿の方を向いた。
皆、昨日身につけた鎧を、矢を刺し泥を塗って汚したまま脇に置いている。
「ただいま戻りました」
「どうだった」
「小助様は無事つづらを回収して、先を急いでおります。川又も越え、もう戻ることはないかと」
小太刀丸の父、勘蔵への報告に、男衆の口から安堵の溜め息が漏れた。
「よし」と勘蔵が立ち上がる。
「聞いたとおりだ。これにて追い出しは終わりとする」
男衆の間から、えい、えい、おーと言う勝どきが上がった。勝どきの声が少し小さくなってきたところで再び口を開く。
「男衆はこれから上の祠へ行く。椿さん。あんたも来るか」
兄嫁は下を向き、「はい」と答える。
「私も山姥に化けておりましたので」
近くで見ると、椿の髪は灰で白っぽくなっている。暗いところで見れば、これでまだらな白髪に見えるのだろう。
勘蔵は黙って頷くと、木の札を繋げて巻いた経本と鈴を懐に入れた。
玄関の敷居を跨ごうとした時、不意に家の奥からしゃがれた声が聞こえてきた。
「儂も行くぞ。杖を出してくれ」
「親父は身体壊してるんだから、無理しないでおくれ」
咳き込む寅吉に勘蔵が慌てて駆けより、背中をさすりながら諭すが、寅吉は聞こうとはしない。
「儂のために薬を入れ替えさせておいて、お参りの一つもしないようじゃ、ばちが当たるわ」
よろめきながらも、杖をついて寅吉が敷居を跨いでいく。勘蔵が寅吉を支える様にすぐ後ろに続くと、他の男衆と小太刀丸達もそれに続いた。
最後に椿が出る時に、鷹之進がさっと手を出す。その手を取ると、椿は裾を掴んで敷居を跨ぎ越した。山中を縦横に駆け回る椿のこと、これ位の段差を越えられないことはない。だが、大人の男の膝下まである敷居は、小袖の女にとって、なかなか越えるのに難儀する高さであることも確かなのである。
それは椿と同じく小柄な小太刀丸にとっても同様で、いつもここを越える時には横向きにならないと跨げない。ここで前を向いたまま越えることは、大人の男になったことの証でもある。
一行は細い道を崖に沿って川上へと歩いて行く。ちょうど、昨日小助が歩いたのとは逆向きである。とは言え、崖の上に小助が気付かなかった細い道があり、一行はさしたる苦労もなく山の中を進むことができた。
もっとも、道とは言っても人ひとりが歩ける道というだけで、籠を背負っていればまずすれ違えない。おまけにこの時期、草木の成長が早く、柄の長い鎌や鉈で下草や蔦、木の枝などを払ってやらなければ、すぐに道が閉じてしまう。
「おっと」
先頭を行っていた勘蔵がふいに立ち止まる。足元には大きな溝が掘られていた。
「猪だな」独りごちる。
「鷹之進。後でここ埋めておいてくれ」
「あいよ」
獣道と交わるのも、よくあることである。
蛇行する川に沿って山を大きく回ったところで、一行は一度足を止めた。そこから先は道が途切れており、代わりに斜面一帯、シャガの白い花が咲き乱れている。
皆それぞれが、静かに手を合わせる。
「小助殿は花を踏まぬように、歩き抜けてくれたそうだ」
手を下ろした勘蔵が皆に告げた。
ここは元々集落の一部であり、小太刀丸の住んでいるところからは少し離れるが、人の住んでいる場所であった。
しかし、六年前の夏の大雨の折、大きな崖崩れが起こり、三軒あった家が跡形もなく流されてしまった。そこに住んでいた二十二人の家族諸共に。
すぐに勘蔵達も助けに出たが、降り続ける雨に、集落の脇を流れる普段は跨ぎ越せる程の小さな沢が滝のように暴れ、手が付けられなかった。また家のすぐ裏手の畑が、雨を吸って土地が緩んでいたこともあり、助けに行った者達が後から何度も起きた土砂崩れに巻き込まれ命を失った。
結局、雨が上がり、勘蔵達が探しに行けるようになる頃には、誰も生き残ってなどいなかった。それでも皆、総出で掘り起こし、何とか八人の亡骸を見つけて弔った。だが、残りの人々はまだ埋まったままでいるのか、それとも川下まで流されてしまったのかは分からない。
できるなら、最後の一人まで見つけ出してやりたい。里の土を全てひっくり返してしまおうが、十里も離れた海まで行って潜ろうが、そうしたい。しかし、孤立した小さな里では、何よりも荒れた自分達の田畑を直し、明日の糧を生み出さなければならない。
自分達が生きるためとは言え、家族同然の里の仲間を冷たい土の中に置き去りにするのは、誰しもが後ろめたく感じていた。
そのことを、シャガの花が感じ取った訳ではないだろうが、森の中でぽっかりと空いた土地は、シャガにとっては非常に心地のよい場所だったらしい。翌年の春には土砂崩れの跡にぱらぱらと花をつけ、六年目の今年には斜面一帯に見事なまでの花園を築きあげており、里の者達はせめてもの供養にと考えていた。
「感謝しなくてはな」
寅吉の独り言に、皆静かに頷くと花を踏まぬよう、そっと通り抜けた。
更に川上へと登っていくと、水の打ち付ける音が聞こえてくる。
それは川の向こう側から流れ込む滝の音。細い支流のそれは水量も少なく、ドドドという迫力のある音を立てたりはしない。だが、水と風と鳥の立てる音しか聞こえてこない山の中では、小さな滝であってもその音はひどく目立つ。
小太刀丸のすぐ前を歩いていた数人が道を外れ、崖を下っていった。小太刀丸と鷹之進もそれに続く。
崖の下にはごみごみとした竹藪が広がっている。あちらでは枯れた竹が折れ、行く手を阻んでいるかと思えば、こちらではこの春芽吹いたばかりの若竹がその節に筍の皮を生やしたまま、大きく伸びている。
そんな狭苦しい藪の中を進み、川の近くまで来たところで、先を歩いていた男達が足を止めた。
そこには枯葉の山が築かれていた。ただし、枯葉は竹の物ではなく、銀杏や柿、栗など種類はばらばらである。
彼らは枯葉の山の両端に立つと、ごそごそと足で地面をさぐり始めた。しばらくして、しゃがみ込むと二人掛かりで丸太橋を持ち上げる。丸太橋は先程小太刀丸達が運んだ物と同じ三本の丸太をまとめた物で、少し朽ちてきていることもあり三組置かれていても遠目には全く気付かない程によく隠れていた。
それを持って行き、少し川上の岩場に手際よく橋を架けると、皆順序よく渡る。一見、そこにあった適当な岩場に架けただけのようにも見えるが、岩場の上は橋を乗せるためにきちんと削られており、大人が二人乗って歩いても、それほど揺れることなく渡ることができた。
岩場の手前まで崖の上の道を通ってきた寅吉達も合流して渡り終ると、再び橋を外して、今度は対岸の茅場の中に隠してしまった。
対岸には細いながらもちゃんとした道がある。右へ左へと蛇行しながら険しい斜面を登る道だ。途中、鹿の親子がクヌギの若葉を食んでいたが、一行に気がつくと斜面を軽やかに駆けていった。
日が頭の上まで来る頃、一行はようやく峰に辿り着いた。不意に視界が開けると、そこには谷底の里では決して見ることのできない広く大きな空と、何十里も先の遠くの山々が見えた。
ここは特別な時にしか来ないため、これまでに二、三度しか来たことのない小太刀丸だが、ただ一つ里の外の広い景色が見られるこの場所は大好きだった。
そこは峰と言うには広く平になっており、大人が二十人は一緒に浸かって泳げる程の大きな水たまりが広がっている。そしてその脇には小さな祠が建っている、はずなのだが、今そこには小石と粘土で作った土台しか残っていない。
峰を薙ぐ風に飛ばされたか、獣達に突き飛ばされたか、小さな祠は土台から転がり落ち、扉は壊れ、無残に破れた姿を晒していた。
「この冬の嵐かの」
「いや、猿だろ」
「鹿かもしれん」
「いやあ、鹿はこんなことはしないな」
銘々が好き勝手なことを言いながら、ばらばらになった扉や屋根の部品を拾い集める。
扉をはめ直して元通りの姿にすると、最後に寅吉は持ってきた注連縄を祭った。
「しかしこれは、そろそろ、ちゃんと立て直さんといかんなあ。今年は誰か家立て直すやつはおらんのか」
注連縄から垂れる紙垂の様子をながら、寅吉がぼやく。
「そんなもん」皆がにやにやと苦笑を浮かべた。
「大雨でも降れば、どっかが崩れるわ」
瓶子を供え懐から木簡を出すと、勘蔵は祝詞を唱え出す。これまでは祝詞を読み上げるのは寅吉の役目だったのだが、冬の終わりに体調を崩して以来、寝たり起きたりを繰り返しているので、今回から勘蔵が引き継ぐこととなった。
「ここにおわします山の御神よ、その腕に抱かれて眠りし我らが
祝詞を読み上げ柏手を打つと、中に入った酒を祠の前に垂らし、早々に瓶子を懐に戻す。注連縄は鹿に食われようが風に飛ばされようが、毎回綯ってくるのだが、焼き物の瓶子はそうはいかない貴重な物である。風で倒れれば代わりはない。
勘蔵が祝詞を唱えている間、兄や祖父と共に後ろの端で控えていた小太刀丸は、ぼんやりと考えごとに耽っていた。おかげで祝詞が唱え終わり鷹之進に呼ばれていることにも気付かず、脇腹を強かにつつかれた。
「おい。聞いてんのか」
「え?」
「え、じゃねえよ。ぼうっとしてんな。帰るぞ」
鷹之進にあははと笑って返すと、兄に疑問をぶつける。
「なあ鷹兄」
「あ?」
「なんであの祠、もっとしっかりとしたもんに、しないんかね」
んなもん、と鷹之進が言いかけた時、前から「下がれ下がれ」と怒鳴り声が聞えた。
二人共訳の分からないまま、後ろ様によたよたと戻る。
「なんだなんだ。どうした」
「まむしらしいよ」
ついさっきまで鷹之進のすぐ後ろにいたはずの椿が、前の集団の間からするすると抜け出してきた。
「誰か噛まれたんか」
「いや」と薄笑いを浮かべて首を振る。
「ちょうど熊雄のおいやんが先頭だったから、捕まえて皮と肝取るんだって張り切ってる」
熊雄のおいやんは椿の母方の叔父に当たる人で、まむしを捕らえることに関しては右に出る者のいない名手である。茅葺きの家の軒には滋養の薬として市で売るとかで、皮を張った竹串が何本も刺さっている。おいやん自身はいい人だが、余りにも多いものだから、皆気味悪がって家には近付きたがらない。
とにかく、この人が相手をしているなら、怪我人の心配もない。
「で、なんだって。祠の話か」
狭い下り道の途中、ひとまず戻るだけ戻ると、鷹之進が口を開いた。
「だってあんなもん、見られたらまずいだろ。すぐに持って行けるようでないと」
「そんなん、あっこからなら里だって見えるし、あんだけ何度も飛ばされてたら、その内川まで転がり落ちるで」
「一応あの場所からは里は見えんよ。特に今は端の家も流されてしまったから、一番近い家でも山裾の向こっ側だな」
遠い目で眺める鷹之進の視線の先には、山の陰に隠れてシャガの原がわずかに見えている。そこにあった三軒の内の一軒、端の家と呼ばれる家には鷹之進と同い年の少年が住んでいた。
いつも二人で猪や鹿を追い回していた仲だったが、彼も家と共に六年前の土砂崩れで押し潰されてしまった。
「終わったよ」
列の先を見ていた小太刀丸が兄の袖を引っ張る。おう、と鷹之進も我に返ると列に戻って山を下っていった。
「いただきます」
里に戻り、皆それぞれの家に戻ると遅い朝餉が始まる。日は既に南の空を過ぎている。食べ終わる頃には向かいの高い峰の向こう側に隠れてしまうだろう。
「すみません。お手伝いもできなくて」
「何言ってんの」
男達が麦飯をかき込んでいる横で椿は床に手をつき、朝餉の支度を頼り切ってしまったことを義母に詫びたが、お藤はカラカラと笑い飛ばした。
「あなた昨日は里で一番働いてたんだから、朝餉の支度なんて気にしなくていいのよ。そんなことより、寝てないんでしょ。食べたら少し横になっていなさいな」
「いえ、そんな訳には」
寝ていないのは皆同じですから、と慌てる椿の横から鷹之進が口を挟む。
「そんな大変だったんか。昨日のお客人は」
「あんた何も聞いてないの」
自分の女房がどれだけ苦労してたと思っているの、といきり立つお藤を椿が、まあまあと宥める。
「いや、まあ、橋が流れてくるのも、川下に来るのも随分遅いとは思ったけどさ」
「気を張ったまま、ずうっと包丁研ぎ続けて、追い出してからは一晩中小助さんを見張ってたんよ。本当大変だったんだから」
「何にせよ、起きてくれたお陰で男衆は楽できたからな」
はやばやと食べ終わった勘蔵は、ご馳走様と立ち上がると裸足のまま土間に下りた。
「畑のことは俺らがやるから、椿さんはちょっと体を休めなさい。あと、小太刀丸」
「んぐ……」
油断していたところで急に呼ばれ、食べかけていたギギの塩焼きを喉に詰まらせる。父親に手のひらをかざして、何とか飲み下すと、うっすら涙目になりながら、はいと向き直る。
「川行くなら鰻捕ってきてくれよ。皆から貰った分も返さんなんから、結構頑張らんなんで」
はいと小声で頷き、勘蔵が出て行くのを見送ると、慌てて麦飯をかき込む。ギギはナマズに近い魚で、小骨が多い。慌てて飲み込むと痛い目を見る。
「椿さん、どこに行くの」
何とか小骨を喉から落すと、母親の声が飛び込んできた。
「今日摘んで置かないと、そろそろ固くなりそうなんで」
土間に下りた椿が竈の横に放ったままにしていた籠を背負い上げていた。慌てて止めようとするお藤に無表情のまま丁寧にお辞儀すると、茶葉を入れる大きな籠を背負って裏山の畑へと出て行った。
足取りはしっかりしているが、裸足の足の裏はどこかで切ったのか少し赤いものが付いていた。目の下には大きなくまができており、背中も疲れで心なし丸まってきているように見える。
心配そうに見送ったお藤だったが、椿が出て行くと残った男二人にキッと向き直った。
「椿さんがあんなに頑張ってるんだから、一晩ゆっくりしてたあんた達はもっと頑張らんと。さっさと食べて行ってきなさい」
母親に尻を叩かれて追い出された小太刀丸は、里の子ども達を連れて川へとやってきた。既に川辺は日陰になっていたが、まだまだ明るく、時々吹き抜ける風も初夏にふさわしい熱を伝えてくれる。
これなら水遊びも悪くはない。
小太刀丸の手には長さ二尺半の竹編みの筒が五つ。筒の口に結わえた紐を持ってぶらぶらさせている。腰には小さなびくもつけており、中には竹の棒に糸と針をつけた仕掛け針がぎっしりと入っている。
皆で調子外れな鼻歌を歌いながら川辺を歩いていく。淵とは向かいの、水が浅く流れの緩いところに着くと、小太刀丸は子ども達に命じる。
「じゃあ頑張ってチチコ掬うておくれ」
子ども達は銘々、
といっている傍から、五つになったばかりのゆきが転んで泣き始めた。慌てて手を取って立たせ、頭を撫でて慰めてやると、ぐずりながらも気を取り直して川へと歩いて行く。
子ども達は揺らめく水面に目を凝らし、小石や砂の上にへばりついて身を隠しているチチコを見つけては、そっと網を沈め、反対側から足で脅して網へと追い込む。
やることは簡単だ。小太刀丸なら飯を食うだけの時間があれば、一人でも仕掛けに必要なだけの数を捕まえられる。
だが、今ばしゃばしゃと水しぶきを上げながらチチコを掬っているのは、四つから八つの子ども達。八つのあかねと猪助はともかく、後の子ども達は一匹でも掬えればいいところだろう。
と、背中からぐずる声が聞こえてきて、慌てて体を揺すり赤子をあやす。
小太刀丸が子ども達と一緒にいるのは漁をするためではない。もちろん収穫があれば、それに越したことはないが、一番の目的は大人達が田畑で仕事をしている間子ども達を預かることである。
この小さな里では男も女も日のある内は、家を空けて田畑に出る。里に残るのは留守を預かる二、三人と伏せって働けない者、そして小さな子ども達。そんな子ども達も九つを越えれば大人達に混ざって田畑を耕し、木の実を拾いに出る。
であるから、前後に負ぶった二人の赤子を入れて、全部で十人もの子ども達を小太刀丸が一人で見ている。
小太刀丸は少し川下の岸辺に腰を下ろすと、夢中でチチコを掬っている子どもに、あまり深みに近付かないよう時折声をかけながら、仕掛け針の準備を始める。
筒と仕掛け針はどちらも鰻を捕るための物。チチコのような小魚を餌に岩陰に沈めておけば翌日には丸々と太った鰻が掛かっている、はずだ。
びくにはすでにあかねが三匹掬ったのを持ってきているので、近場の分だけでも早めに仕掛けておければ、日暮れまでには全て沈められるはずだ。
びくからチチコを掴みあげた時、あやされてしばらくは大人しくしていた背中の赤子が、またぐずり出した。
諦めて再び立ち上がると、よしよしとあやしながら近くを歩き回る。しかし、今度はなかなか収まらず、いよいよ大声で泣き始めた。
これはおしっこかな。
前に負ぶった赤子を起こさぬよう、ゆっくりと背中の子を下ろす。
背中の子は鮎子、前の子はお竹という。二人共同じ一つ半の女の子だが、お竹は大人しく鮎子はいつもよくぐずる。もっとも、お竹もあまりぐずらないだけで、黙って出すものは出すから、日のある間ずっと面倒を見ている小太刀丸には、どちらの方が手が掛からないというものでもない。
ちらりと川上を見ると男の子は皆、衣を脱いで派手に水しぶきを立てて遊んでいる。既にチチコを掬うことなど、頭の中に残ってなさそうである。
これは、どこかであかねに代わってもらって、自分で掬ってこないとな。
元々が子守りの延長。これ位はいつものことと、特に気にすることもなく、視線を手元に戻す。
鮎子のおしめを外そうとした時、不意にぶつぶつぶつという振動が手に伝わってきた。
慌てて外すと、茶色くて柔らかい物がしっかりと出されている。小太刀丸は溜め息をつくと、両手で鮎子を抱き上げ水際まで連れて行き、持ってきた布で拭いてやる。出すものを出してすっきりしたのか、鮎子は大人しく拭かれている。
おしめを替えて背負いあげると、もう一度水際まで行き、今度は汚れたおしめを洗う。
大豆でも食べたのか、丸くてころころの欠片の多い物を洗い流していると、不意に強い風が吹き、大きな影がふわりと頭の上を越えていった。
鳶かと小太刀丸が振り返るのと同時に、子ども達から悲鳴が上がった。
「太刀兄。衣流れた」
猪助が叫ぶ。ちょうどすぐ後ろの瀬の中に小さな衣が飲み込まれるところだった。小太刀丸の所からは身体四つ分位あり、手は届かない。間は少し深くなっており、赤子を二人負ぶったまま行ける場所ではない。
猪助。と大声を張る。
「大人に衣が流れたって言ってこい。あかねはこの子らを頼む」
言うが早いか、赤子らを下ろし、衣を脱ぎ捨てると返事も聞かずに川に飛び込んだ。
五月雨が降る前の川の水はまだ冷たく、勢いよく飛び込んだ小太刀丸は束の間、体が痺れて息ができなくなる。吸い込んだ空気を吐かないようにだけ気を付けて全身の力を抜くと、流れに揉まれながらも、ぷっかりと体が水面に浮き上がるのが感じられた。
流されている内に体が慣れてくると、水を蹴り、顔を上げてようやく息を継いだ。前を向けば、遥か先にだらしなくと広がった衣が流れていくのが見えた。今度はしっかりと手で水をかいて追いかける。
数えで十二歳になる小太刀丸にとって、この川は庭のようなものだ。淵では足の着かない所もあるが、瀬に入ると背の低い小立丸でも必ず立てると分かっているから、思い切って泳いでいける。
もっとも、一緒に川に来た子ども達の中で、瀬まで泳いで下れるのは小太刀丸くらいのもの。
十にもなれば、大抵の里の子は田畑に出て親に混ざって畑仕事を始める。十二にもなって未だに子守りをしているのは小太刀丸くらいだ。
実際、小太刀丸自身も近い歳の子が畑仕事に混ざっていくのを横目で見つつ、いつまでも子ども達と一緒に遊んでいることに焦りや後ろめたさを感じることもある。子ども達に乞われて裏山の畑の近くで筍を掘っていた時には、畑仕事に精を出す近い歳の子の視線が痛くて堪らなかった。
だが、この歳にもなって畑仕事もせずに子守りをしているのには、ちゃんとした訳がある。
それは、何も知らない子ども達から里の秘密が漏れぬように守ること。
この里は隠れ里。里の存在を知らせる物は何一つ流してはならない。それは、丸太の橋であれ、衣であれ変わらない。何も知らない子ども達が不用意に流してしまう衣や縄帯を、川下に流れて人の目につく前に回収すること、それこそが小太刀丸の本来の役目である。
急に水嵩が浅くなり、足がつく。立ち上がると、小太刀丸の膝上辺りをひんやりとした水が勢いよく流れていく。
足を滑らせそうになるのを堪えて前を見ると、少し先で衣が瀬に吸い込まれるのが見えた。途中何度か通った淵をゆっくり流れている間に、かなり追いついたらしい。
再び体を水に預ける。茶色くぬるぬるとした小石だらけの川底を蹴って進むと、すぐにざーざーと水を打つ音が大きくなった。
止まる間もなく流れのままに瀬を下る。
ったた。
これまでの瀬よりも落差が大きい。いっそ小さな滝だと言った方がしっくりくる程の高さから流れ落ち、川底で思いっきり肩を擦った。
勝手知ったる川のこと。どこが浅くて、どこが深いかなど、よく分かっている。
が、前を行く衣を追いかけるのに夢中になって、次の瀬が、淵がどんな所だったか思い出す間もなく泳いでいるので、そこいら中で身体をぶつけた。もはや、自分がどこを泳いでいるのかすら、余り分からなくなっていた。
それでも、幾つか大きな淵を越え、瀬を越える内に、泳いでいても衣が見えるようになってきた。
あと、もう一息。
しかし、その時急に目の前がぱっと開けた。
川又に出たのだ。
ここから先は里の外の世界。小太刀丸が出て行っていい場所ではない。何より、向こう側の川は川上にも川下にも人里がある。これ以上追いかけなくても、見かけた人は「川上の誰かが間違って流したのだろう」としか思わない。
「けど」少し迷う。
小さな子どもの衣は、里の中で大きくなった子から小さい子へ延々と回っている物。元々数がない。ここで一着なくなれば、代えを縫ってもらうまで着る物が足りないとも限らない。
それに折角小太刀丸が付いているのに、流されてしまったとは言いたくなかった。
「見つからなきゃいいだろ」
思い切って川底を蹴ると、水嵩の増す本流の中に泳いでいった。
本流の中を更に泳ぎ、大きな淵にまで下ったところでようやく追いついた。
水をかく手に力を入れて、流れの緩い内側から先回りする。
淵の終わりにある大きな岩に手をかける。振り返ると淵の外側を流れる衣が、ちょうど小太刀丸のすぐ後ろ辺りを流れてくる、はずだった。
が、ない。
「どこ行ったよ」
慌てて後ろを見るが、瀬にはまだ来ていない。しかし、淵にもそれらしき物は見当たらない。
と、焦る耳に――どどどどど――と大きな水音が届いた。この淵にはちょうど外側に膨らんだところに流れ込む大きな滝があった。
あっ。と気付くと、小太刀丸は淵の底へと潜り込む。緑青色に濁る淵の下から滝壺を見上げると、白い泡が日の光を反射してきらきらと輝く中に黒い影。
みいつけた。
滝壺で押さえつけられるように、小さな衣が暴れていた。
しかし、近づいて手を伸ばしても、なかなか掴めない。滝の水が身体を押し流す上に前後左右に、上下にとひらひら衣を弄ぶ。小太刀丸を小馬鹿にするようなその動きに、徐々に苛立ちが募っていく。
「ああ。くそっ」
しばらく格闘して焦れてきた小太刀丸は、一度浮き上がって大きく息を吸い込むと、えいっと滝と衣の間に割って入った。
滝からの水がなくなった衣はすっと浮き上がり小太刀丸に絡みつく。自分の腹に巻き付いたそれを、しっかりと握りしめる。
しかし、思いの外強かった滝からの水が、小太刀丸をそのまま滝壺の底へと押し込んでしまった。それはあっという間の出来事。衣を捕まえることに気を取られていた小太刀丸は、抗う間もなく冷たい淵の底へと落ちていった。
辛うじて心の臓だけは止まらずに済んだ小太刀丸だったが、滝壺の底に淀む冷たい水で手足が痺れて動けず、ただゆっくりと流れる淵の水に身を委ねていた。
「暗い淵の底には、決して底まで行ってはいけないよ。そこには人を引きずり込む物の怪がいるからね」
昔、まだ元気だった祖母から聞かされたおとぎ話に、そういうものがあったなと今更ながら思い出す。
その頃は、そんなもの見たことないよ、などと生意気を言っていた。実際暑くなれば、淵の底くらい何度も潜っては鰻や蟹を探したりもした。
ただ、中には深い淵で、ここは溺れやすいから潜るな、と言われるところもある。わざわざ潜ったことはなかったが、晴れて底までよく見える日には、岸辺に立って物の怪はいないかと探したりもした。もちろん物の怪なんて見えたことはなかった。
だが、何のことはない。今のこの状況が、冷たく淀む淵の水そのものが人を殺す物の怪である。
でも、と流れに合わせてごろんと身を反して思う。
きれいだ。
淵の底に差し込む日の光は、淀んだ水を照らしてひらひらと緑青色に輝いて踊った。その中を時折、鮎やうぐいの群が光を散らして泳いでいく。
流れに揺られてもう一度転がる。そろそろ川底も上り坂になり転がるのも骨だが、もう一回転もできれば、滝の水からも逃げられそうだ。
と、川底の暗がりの中で、何かが動いていた。
岩が歩いてる、のか。
見た目はどう見ても岩だ。だが、小太刀丸と変わらないほどの大きな何かが、川底で動いている。それは這うようにゆっくりと、小太刀丸の方へと向かってきた。
近づくにつれて、流れに揺らぐ視界にも岩のようなそれの姿がはっきりと見えてきた。薄くて丸い漬物石のような頭に、寸胴な体がついている。頭には口と思われる切れ込みがあったが、それは漬物石の見える側全体に広がっていた。小太刀丸の頭を丸飲みにするくらい訳のない大きさだ。
まずい、と思った時、不意に体が浮き上がるのを感じた。ついに滝壺から抜け出したのだ。
力を抜いて浮き上がり、流れに身を任せる。
十ほど数える内に、春の日の光に温められ、次第に手足の自由が戻ってきた。
「ぷっふはああああ」
淵の終わりの大きな岩に大の字になってへばりつき、ハゼかイモリのように上下に体を揺らしながらぜえぜえと息をする。少し水を吸ったのか、鼻先がつんと痛んだ。
絶対食われたと思った……。
息が整ったところで、ちゃんと衣を持っていることを確かめる。
体が動かない中で腹に巻き付いていたままだったのは幸運だったが、とにかく無事に回収できた。
けど、ここはまずい。
川は既に本流との合流点を過ぎており、川岸には里のものとは比べ物にならないほどに広い道が通っている。
小太刀丸自身が行ったことはなかったが、本流の川上にも人里があることは里で聞いていた。村人が川下にあるお城に税を納めたり、地頭達が税の催促に来るために荷物を担いだ人同士がすれ違えるほどに広い道が作られたのだという。
と、川下から大きなかごを担いだ若い女が二人、並んで歩いてくるのが見えた。
慌てて岩陰に隠れ、やり過ごす。
「あんたの所は夕食どうするん」
「折角ようさん採れたから、蕗ご飯炊くわ」
「じゃあさ、ちょっと炊き方教えてよ。どうもうちのと味付けが違うんよなあ」
女達は話に夢中で、川の中で隠れている小太刀丸のことになど気付きもせずに歩いて行く。
山陰に見えなくなるまで待って、ふうと緊張を解く。見つかるかもしれないという不安よりも、人から隠れているという興奮で身体がぞくぞくする。
彼女らを悪人とは思えなかったが、里の大人達から口酸っぱく言われている言葉が反射的に小太刀丸を隠れさせた。
「里の外の人に見られてはいけないよ。見つかれば皆、殺されてしまうからね」
小太刀丸には、まだこの言葉の本当の意味はよく分からない。いや、里で教えられる「物の怪は人と共には生きられない」という言葉が、そのまま言葉通りの意味ではないということは分かっているのだが、その裏に何があるかはまだ知らない。だが、里の子達は皆、物心ついた時からこの言葉を聞きながら育てられる。
それが、小太刀丸を川で衣一つ流れても必死になって回収しに行くだけの少年にまで育て上げ、迷い込んだ旅人を里ぐるみで物の怪となって追い立てる大人達を生み出した、ということは理解していた。
川原に上がり、対岸の道を行く人がいないか確かめつつ、時に岩陰に隠れ、時に芦原に紛れつつ、里に向けて歩いていく。
里までは一里程、だが、とにかく支流に入るまでの四半里を、いかに見つからずに帰るかが問題だった。
「へっくしん。あー」
大きなくしゃみをして、思わず辺りを見回す。人影が見当たらず、ほっと息を吐いた。さっきまでとは違う「ぞくぞく」が身体を襲っていた。
川の中にいた時は、必死で泳いでいたので体も温まっていたが、川から出て風に晒されると、一気に体温を奪われる。しかも、ふんどし一丁で風をさえぎる物もない。ぐっしょり濡れた衣を羽織る気にはならなかった。
こんなんで風邪引くのはごめんだわ。
全身に鳥肌を立てて歩いていくと、遠くに川又が見えてきた。細い方の奥は物の怪の出る土地。そこにさえ入ってしまえば、里の外の人が入ってくる心配はない。
川又に張り出した崖の下まで来た時、茜色に染まった夕焼け空の中、本流の上から歩いてくる人影が見えた。急いで茂みの中へと潜り込む。
茂みの奥から覗くと、歩いてくるのは弓を担いだ若い男だった。身に着けている衣から、役人ではなく猟師のようである。
あれを一発で仕留めたのか。
肩には男よりも大きな鹿を担いでいる。首には真横から一本の矢が深々と刺さっており、それ以外の傷は見えない。かなりの手練れのようだ。
小太刀丸も弓の訓練は行っており、山で兎や小鹿を狩ったことがない訳ではない。だが、あの大きさの鹿は小太刀丸の力では、矢が刺さっても致命傷にはならず逃げられてしまうだろう。それだけに、対岸の猟師に対して、強い尊敬の念を感じた。
突然、タタタタッと足音がしたかと思うと、小太刀丸の隠れる茂みに大きな雌の雉が走り込んできた。どうやら、この茂みに巣があったらしく、茂みの中に座り込んで動かなくなった。
思わず雉の大きさに見とれてしまい、ここに弓があればと思った小太刀丸であったが、すぐに大事なことに気が付いた。
振り返れば、対岸の猟師は既に鹿を下ろし、矢を番えている。
雉と共に射られるのはごめんだが、かと言って茂みから逃げ出して見つかる訳にもいかない。何よりも、今動けば雉よりも小太刀丸自身が狙われてしまう。
下唇を軽く舐めると、矢に意識を集中する。
鋭い風切音と共に放たれた矢は雉の少し上をかすめ、真っ直ぐに小太刀丸に向かって飛んできた。構えていた小太刀丸は、体をよじってそれを避ける。がさり、と茂みが音を立てて揺れた。
危険に気付いた雉は、大きな音を立てながら、慌てて山へと走り去った。だが、猟師はなおも次の矢をつがえようとしている。今度は明らかに自分が狙われている。悟った小太刀丸は次の矢が逸れるのを見送ると、急いで隠れる場所を探す。
支流の川上はすぐ先で大きく曲がり、尾根の向こう側へと消えている。対岸に渡りさえすれば、猟師が射かけてくることはない。
問題はどうやってそこまで行くか。
川幅は広くない。里の中を流れている時と同じくらいで、その気になって走れば深みで少しもたついても十かそこら数える内には向こう岸に着けるだろう。
しかし、それをすれば人の姿を晒すことになる。人の子が川又の奥に消えたと伝われば、きっと物の怪の里だって実は人間の里だと知られてしまうだろう。それだけは、してはならないことだった。
必死に考えながら、頭に飛んできた矢を伏せてかわす。川原の岩の中に飛び込み、隠れて見回すと、茂みの端に大きな葉が見えた。
それは茂みの横から川原を大きく覆っている草だった。青々として大きな藪を見ている内に、ひらめくものがあった。
頼むから、切れんじゃねえよ。
念じつつ、その蔓を引くと、絡まりあった蔓がずるずると手繰り寄せられる。
茜色に染めた夕日も力を失い、一つ一つの物が暗く見分けにくくなる黄昏時。対岸からは動くはずのない藪が、突然意思を持って動いているように見えるだろうか。
茨のような鋭い棘が指先を刺すが、ここで引く手を緩める訳にはいかない。人が草刈りをしているように見えてはいけないと、あくまでもゆっくりずるずると。止まらないように、引き過ぎないように、気を付けて棘だらけの蔓を手繰っていく。
一人きりで誰かの目を欺き、物の怪に化けるのは初めてだった。けれど、それを不安がっている場合ではない。
やり切れなければ、死ぬだけだ。
既に矢は飛んでこなくなっていた。全てを茂みの中に引き込むと、今度はそれを頭から被って全身を隠す。額から首筋、背中まで蔓の棘が刺さり込んだ。痛みを堪えつつ、ちらりと対岸を振り返ると、猟師は態度を決め兼ねているようで、矢をつがえたまま、未だにそこに立っている。
それを確かめると、小太刀丸は四つん這いになり、いよいよ茂みから這い出して川へと入っていく。体を振って、いかにも蛇に見えるように進んでいると、後ろで長い蔓がしなるのを感じた。
刻一刻と暗くなる中、するすると身をくねらせながら進む大きな影は、大蛇か龍に見えるはず。そう念じて急流の中を進んでいく。
中程まで来た時、不意に後ろの方でサクッという音が聞こえた。
慌てて振り返ると、更にもう一本、矢が飛んできたところだった。いずれも蔓の後ろの方、龍の尾の辺りに命中したようだった。
「大なるものよ、山の主よ」
夕焼けの赤さが薄れ、黒く塗りつぶされた山陰から、呼びかける声だけが聞こえてくる。歴戦の猛者かと思っていた小太刀丸には意外な程若い声だった。
「我が名は茅彦。お前を狩る者なり」
そう言ってもう一本、暗闇の中で風を切る鋭い音が響いた。
小太刀丸も必死で猟師のいた辺りを目を凝らして構えていたが、ようやく矢が見えた時には、我が身の一尺程手前にまで迫っていた。
何とか身をよじるが、矢が過ぎる瞬間、左の頬に熱く、鋭い痛みを感じた。 だが、ここで狩られる訳にはいかない。
痛みを堪えつつ、体を振りながら、川股にせり出した山の裏側を目指し進んでいく。
その間も矢は次々に放たれ、小太刀丸の周りに雨あられと降りかかった。もはや、振り返って避ける余裕もない。ただ岸辺を目指して流れの速い瀬の中、身をくねらせつつ歩む。
あと数歩という時、不意に
見る必要もなく深々と矢が刺さっているのが分かる。その場に立ち止まり、痛みに喘いだ。少しでも足を動かせば、身体の内側から裂けていくようだった。
それでも、あと少し逃げないと。
痛みを押して一歩踏み出したところで、今度は左肩が痛みと共にぐいと押された。痛みに閉じた目を恐る恐る開くと、肩から赤い何かが生えていた。
止まるな。死ぬぞ。
痛みに何も考えられなくなった頭の中で、小太刀丸の中の獣の部分が必死で声を上げた。
気が遠のくような痛みの中、岸辺までの残り数歩を必死で進む。もう、身をくねらせる余裕などない。とにかく、身を隠す場所まで行く。その一心だった。
いつ対岸に辿り着いたのかも分からない。ただ、水から出たということしか覚えてはいないが、どうにか岸辺に辿り着くと、後ろの蔓がまだ川の中にあることも気付かぬまま、小太刀丸の意識の糸はぷつりと切れてしまった。
耳元でたき火の爆ぜる音が聞こえる。辺りは真っ暗で、少し太りだした半分の月が静かに川面を照らしている。川の音に混ざって、ぜーぜーと荒い息が耳に入った。
意識がはっきりしてくると、すぐに頬と足の傷が疼いて、思わず顔を顰めた。
強張った顔面から力を抜き、傷に触らないよう気を付けて辺りを見回す。たき火に照らされて二つの人影が見えた。
「鷹兄……。椿姉……」
「お、気付いたか」
思いの外弱々しい声に我ながら驚いていると、鷹之進が顔を覗き込んできた。顔の周りで何やらぺりぺりと音がすると、傷口に微かな風を感じた。
「血も止まったし、顔はもう大丈夫だな」
この時初めて、傷に布が巻かれていることに気が付いた。いつの間にか衣も着せられている。
足の方は、と診る。こちらも幸い太い血管は逸れていたらしく血は止まっている。しかし、小太刀丸が余りにも痛がったため、とても触れられたものではなかった。
別の手が額にそっと置かれる。冷たくて気持ちがよかった。
「あとは熱ね。見事に風邪まで引いて」
そう言われて、ようやく荒い息が自分のものだったことに気付く。自分のことが全く把握できていないことに、自身の不調をひしひしと感じ取った。
「火、焚いてていいん」
「風邪引きにこじらされても困るからな」
それに、と鷹之進は川下の方に目をやった。
「もうだいぶ川上まで来たからな。少しくらいは大丈夫だろ」
改めてゆっくりと首を廻らせる。確かに小太刀丸が倒れた所とは全く違う場所だ。対岸にはゆうべ小助を待って隠れていた茂みが見える。もう、かなり里の近くまで来ていたようだ。隣に被っていた蔓の塊があったので、全く気付いていなかった。
「ところで」と鷹之進がにやりと笑って蔓を見る。
「なんで継子の尻拭いなんか被ってたんだ」
「継子?」
「名前も知らずに被ってたんか」
鷹之進が呆れたように笑いながら蔓を引き寄せる。
「これはな。蔓中にきっつい棘が付いてるだろ。後妻が憎い継子の尻をこの蔓で拭ってやりたい、と思いそうだから『継子の尻拭い』なんだと。
で、お前は自分からこんなもん被って何してたんだよ」
かすれる声でゆっくりと猟師との駆け引きの顛末を話す。話していると途中から段々二人の様子がおかしくなり、話し終わっても肩を揺らして震えているばかりで何も言わない。椿など、小太刀丸に背を向け、口を押えて明らかに笑いを堪えている。
「たぶん龍に見えてないんだわ」
息も切れ切れに言うと、鷹之進はふうと一つ息を吐き、笑いを収めた。
「相手はお前を山の主って言ったんだろ。でも、その癖にお前を狩ろうと射掛けてきた」
小太刀丸はゆっくり頷く。
「だったら、その山の主ってのは龍じゃなくて山椒じゃないか」
「山椒……?」
お前は見たことないのかと聞かれ、首を振る。
「大きな『いもり』みたいな虫。大きいのなら、私や小太刀と変わらない程のもあるとか」
まだ笑いを堪えながら説明する椿に、鷹之進も続ける。
「で、四足で這って歩く。見た目は完璧だろ。そもそも、龍なら水神とか言いながら射かけたりせんだろ」
うっと言葉に詰まる。確かに、数年毎に川が暴れ水害の起こるこの土地で、わざわざ水神である龍を怒らせようとする馬鹿などいない。
「……じゃあ、なんで」
それでも『山椒』だったらどうして狙われるのかが分からない。
「山椒はね、食べ物にすることがあるの。肉から山椒の実のような香りがするから『山椒』」
今度こそ二の句が継げなかった。まさか自分の化けたものが、食べ物に見えていたなんて。
大体、そんなものの話など今まで見たことも聞いたこともなかった。そう思いかけて、ふと思い出す。夕暮れ前に滝壺で見たあれは、どんな形をしていただろうか。あれは、大きないもりのような形をしてはいなかったろうか。
でも、と小太刀丸は思う。例えあれが山椒だと言われても、とても食べたいとは思えない。
あまりにも大き過ぎる。
あれはきっとこの川の主だ。人の食べていいものではない。
……くっしゅん。
「ほら、拗らせん内に、さっさと寝てしまえ。もう少しして明るくなってきたら、負ぶって帰ってやるからよ」
兄の言葉を夢現に聞きながら、小太刀丸の意識は再び彼方へと飛んでいった。
再び目が覚めたのは翌日の夕方だったが、すっかり拗らせてしまった風邪のせいで、そこから丸三日寝込むことになった。
里の大人達は衣を拾って来られたことに感心したが、勘蔵からは川又より遥か川下にまで追いかけて行ったことと、ずぶ濡れのまま裸でうろついて風邪を引いたこと、猟師に狙われた時に雉と一緒にさっさと山へ逃げ込まなかったことと、立て続けにきつく怒られた。
どこの里からも遠く離れた所で、素っ裸の子どもが走り回っていること自体があり得ないことなのだから、それを猟師が見ても小鬼くらいに見えたはずだという。
頬の傷は寝込んで動かなかったのが良かったのかうまく閉じ、頬には一本の薄い色の筋が入っただけで済んだ。
一方で大変だったのが足の矢傷。風邪で寝込んでいる間、寝返りの一つすらも打てない程の痛みが延々と続き、丸々ひと月もの間を床の中で過ごすこととなった。厠に行くにも、その度に鷹之進や椿に負ぶわれて恥ずかしい思いをしたが、それ以上に辛いのは寝込んだことで体力がなくなってしまったことだった。
何とか動けるようになってきた頃、なかなか満足に動けないことを椿に愚痴ると優しい顔で
「もう少し内側を射抜かれていたら、足がなくなってた」と言われぞっとしたが、それでも動けないことへの苛立ちは募った。
そんな様子に椿はうふふと微笑む。
「焦らなくていい」
「え?」
「あれだけの子達の守りをしているんだから、誰も小太刀がずるをしているとは思ってないよ」
不意に心の底を見透かされた気がして呆然と立ちすくむ。
「どうして、それを?」
それは心では思っても決して口には出さなかったこと。頭では誰かがやらなければならないことだと分かっていて、不満など誰にも言わなかったことだった。
「どうしてもこうしても」と椿が土間を戻ってきた小太刀丸の身体を板の間へと押し上げる。
「誰だって同じこと考えるからね。鷹之進様だって子守りしていた頃はそのことで随分悩んでいたし」
鷹兄もそうだったのか。
小太刀丸が覚えている子守りしていた頃の鷹之進は、いつも優しく、仕掛け針のうまい自慢の兄だった。大きな鰻を掛けては、小太刀丸や他の子ども達のおやつにと焼いてくれ、皆の尊敬を集める憧れの存在だった。そんな兄が同じように悩んでいたとは露ほども思わなかった。
それを知って少しは落ち着いたが、だからといって、こんな大けがをしてしまっては仕方がない。
「なら強くなりなさいな」
日も傾き始め、椿は夕餉の支度に竈に火を起こしている。お藤は川に菜の物でも洗いに行っているのだろう。椿しかいない厨で手際よく薪をくべる。
「狙われない術を覚えなさい。抗う術を身につけなさい。でもね」
じっと小太刀丸を見つめる。椿にこれほど優しい目で見られたことはない。このひと月の間に小太刀丸の中の椿の苦手意識が少し変わってきていた。
「春先一番から上手に鳴ける鴬はいないでしょう。強くなるには何度も失敗して、痛い目を見ないといけない。だから、失敗してもちゃんと生きているのなら、良しとしないと」
顔を煤で汚して笑う義姉に思わず笑い、うんと頷いた。
外では春先からの練習を積んだ鴬が、澄んだ声で春を高らかに囀っていた。
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