第三章 揚羽蝶

 集まった客人達が焦れ始めた頃、ようやく暗い廊下の向こうを白無垢の花嫁と付き人がしずしずと歩いてくるのが見えた。

 一歩踏み出しては、足を揃え、それを繰り返してゆっくりと婿の待ち受ける広間へと向かってくる。

「ほう」

 思わず義長は口の中で呟いた。

 先に人々の噂で聞いていたのは、幼い時からなかなかのは跳ねっ返りで、あの娘が人の妻になるところなど想像できないというものだった。だが今、廊下の先を歩いてくるのはそのような噂とは無縁の美しい娘だ。

 そう思ったのは当事者の血縁である他の客人達も同じだったようで、皆首を伸ばし、体を左右にずらして花嫁の歩く方を眺めている。義長と向かい合って座る列の人々など、体を捩じって何とか一目見ようと必死である。

 余りにも見苦しかったのか、惣領家の長が咳払いをする。必死で花嫁を見ようとしていた者達は皆ばつの悪い顔をして居住まいを正した。幸い廊下の良く見える席に招かれていた義長は姿勢を崩さないまま、そっと花嫁を見やる。やはり花嫁からもこちらの様子は見えていたようで、口元が大きく上がり、笑いを堪えている様子が見て取れた。しずしずと歩く姿も美しいが、笑った顔の方が愛嬌があった。こちらの方が娘の本来の顔なのだろう。

 呼ばれた時には面倒臭い話が来たものだ、としか思わなかったが、なかなかどうして悪くはないと思い直す。

 本来、義長はここにいるべき者ではない。

 義長の氏は吉見という。鎌倉で幕府を開いた頼朝の弟の血筋に当たる。

 だが、頼朝の弟である範頼が失脚したため、その影響を受けた義長の幕府内での地位は非常に低い。四男ということもあって、四十を超えたにも関わらず、地方を転々とする使い走りのような暮らしをしていた。

 そんな義長だが、地方の豪族にとっては招いて箔を付けるにはちょうど良い相手であったようで、折角だから来てくれないかと、花嫁の親戚であり地方一帯を治める湯浅党の長に招かれたのである。

 花嫁がようやく広間へと辿り着き、花婿と向かい合う。

 婚礼の儀式が進められていくのを眺めている内に、義長はふと白無垢の刺繍に気が付いた。

 草原の上を大きな蝶が舞っている華やかな模様。義長が気になったのはその蝶である。

 揚羽蝶、だな。

 花嫁は広間に入ってきた時から常に姿勢を低くするか、座していたので、膝の辺りの刺繍にまではなかなか気が付かなかったが、一度気が付けば、他にも腰に袖口に、翅の端だけが見えているものも全てが揚羽蝶に見えてくる。

 おっと。いかん、いかん。

 客人として前の方に座っていたので花嫁の衣装もよく見える。だが、だからといって女人の体をじろじろと見るのは頂けない。周りに気付かれないように、そっと居住まいを正した。

 だが、気になるのはその意図。

 揚羽蝶は多くの平家の武将が好んで使っていた紋章。白無垢に紋章は描かれていないが、明らかに揚羽蝶と分かる大振りの刺繍がなされている。

 これは平家一門との関係を示すものなのか。

 確かに湯浅家は源平の合戦の折、平家の武将を匿って交戦するなど関係性はある。だが、降伏した後には所領も安堵され、今では付近一帯を勢力下に収め湯浅党と呼ばれる一大武士団だ。何十年も経ち、当主も代わった後で、今更平家へ義理立てて謀反を起こそうと考えるだろうか。

 義長の苦悩をよそに祝言は厳かに進められてゆく。

 花嫁が両手で持った朱塗りの盃に口を付ける。

 謀反を起こすというなら、儂は殺すつもりでここへ呼ばれたことになる。だが、わざわざ祝言のようなめでたい席でその様なことをする必要は無い。

 それに、この席が罠だとしても、周りの人々にはぴりぴりとした緊張感は全く感じられない。皆、祝いの席として、厳かな中にもどこか浮かれた雰囲気が漂っている。

 ご馳走が運ばれ宴会が始まっても浮かれた雰囲気は変わらなかった。

 酒が振舞われると、すぐにそこここで酔って真っ赤になった者達の講釈が始まった。

 義長は酒には口をつけず、二つ隣で一席ぶっている男の講釈に、耳を傾ける振りをしていると、不意に後ろから声をかけられた。

「いや済みませんな」

 振り返ると湯浅家の当主が満面の笑みで酒を勧めてきた。随分と飲んだのか、すっかりできあがっている。

 断ることもできずに受け取ると、自分でも盃に注ぎ飲み干した。

 少なくとも毒は盛られていないらしい。

 諦めて、受け取った酒を飲み干す。

「嫡流でもない者の祝言などと、ご不満はあるやもしれませんが、どうか平にご容赦いただき、今宵は楽しんでいって下さい。食べ物については藤並の家を賭けたご馳走ですんで、お口に合わないことはないかと」

 曖昧に笑って返すと、義長の肩をばんばんと叩いて豪快に笑う。

「いや婿の家だけを褒めては不平等ですな。嫁御の家も大したものなんですよ」

 そう言って、再び互いの盃に酒を注いだ。

「家の格が落ちるのは仕方ないですがね。しかし、なかなかどうして美しい着物じゃないですか」

 急に問題の白無垢に話の矛先が向かったので、思わず背筋が伸びる。

「ええ、なかなか見事な刺繍ですな。どなたが縫われたんで」

 平静を装ったつもりだったが、少し声が裏返る。内心冷や汗ものだったが、当主はそれを気にする素振りも見せずに糸目の顔を近づける。

「いや、それがですな」

 それまでも満面の笑顔だった当主の顔が更ににやける。背中を丸め、ここぞとばかりに声を落とした。

「物の怪から買ったんだそうですよ」

「は?」

 思わぬ答えに、つい間の抜けた言葉が漏れる。

 いや失礼と謝るが、義長の反応に満足したのか当主は機嫌よく先を続ける。

「実は先日、嫁御の家――糸野というんですがね。そこに行商人が売りに来たそうで。なんでも、来る途中で迷い込んだ物の怪の里で手に入れたんだとか」

「ほう。物の怪の里、ですか」

 興が乗ったのか、当主の声が少しずつ大きくなってくる。うまそうに盃を煽ると、義長に勧めるのも忘れて話し続ける。

「ええ。この辺に住んでいると時々噂を聞くんですよ。山奥にあるはずのない人里があったとか、でももう一度行こうとしても見つからなかったとか。そういう物の怪の里から持ち帰ったとかいう話だったんですよ」

 そう聞いてひとまず謀反の恐れは無さそうだと、ほっと息を吐いた義長だったが、今度は別の疑惑が頭をもたげる。

「両親は祝いの席にそんな不吉な物はよろしくないと、止めたんですがね。娘がどうしてもと気に入ってしまったんだそうで」

 儂は悪くないと思いますがね、と嬉しそうに笑うのを見て義長は当主を信じようと決めた。

「ところで」と義長は苦笑して見せる。

「ちょっと厠をお借りしたいんだが、案内して頂けるだろうか」

「それでは屋敷の者を呼びましょう」

 立ち上がろうとする当主をそっと止める。

「いえ、宗弘殿に案内して頂きたい」

 そう言うと、当主は事情を理解したようだった。だが、何を言われるのか見当が付かないらしく、困惑の表情が浮かんでいた。


「どうされたんです?」

 厠へ向かう途中、無人の部屋を見つけて入ると困惑した顔のまま当主が尋ねる。

「何かご不満でも」

「宗弘殿は先程話された物の怪の里とやらの場所はご存じで」

 何を聞かれるのかと戸惑っていた当主の顔が一気に緩んだ。

「そんなことですか。怖い顔をして何を聞かれるのかと思いましたよ」

「どうなんです」

 怖い顔と言われて、少し冷静さを欠いていたかと反省した義長だったが、かといってこれを聞かないことには話にならない。

「いえ。もちろん知らんです。どうせ話を大きくしたがる行商人どもの作り話でしょう。実際、今回語られた話も亡者に追い回されただの、夜が明けない森の中をさまよい続けただの、荒唐無稽な話ばかりだったそうですよ」

 なるほど、当主ですらこれなら、買った本人達も出自には全く気にせずに単に出来の良し悪しだけで決めたのだろう。確かに衣自体は良い物のように見えた。

 心の中で改めて湯浅党の謀反の疑いを打ち消す。

「ならば、その行商人とやらに会うことはできるだろうか」

「さて、それについては買った本人達に聞かないことには何とも。しかし、何をそんなに気にしておられるのです」

 怪訝そうな宗弘に着物の刺繍が気になるのだと告げる。

「あれは明らかに揚羽蝶。あれ程立派な着物に揚羽蝶の刺繍が入るのであれば、元の持ち主は平家の者かもしれぬ。それが山奥に隠れ住んでいるのであれば、なおのこと。それを確認するためにも、場所を知る者と話がしたい」

 義長の話に平家という言葉が出てから、宗弘の顔がみるみる内に歪んでいった。ここに至ってようやく謀反の疑いについて話していると思い至ったらしい。

「さ、さ、先に申し上げますが、私共は決して鎌倉に、た、盾突くことなど考えてはございません。それだけは、どうか」

 あからさまな狼狽に思わず苦笑する。確かに、各御家人に謀反の動きが無いか調べるのが本来の役目なのだから、これくらい恐れられてもいいはずなのだ。これまで「血筋だけが高貴な使い走り」の様にしか思われてこなかったので、自分でも考えすらしなかった。

 いずれにせよ、今回の疑いの矛先は目の前の彼らではない。宗弘にもはや疑ってはいないことを告げると、ようやく落ち着きを取り戻した。

「そ、それでは急いで聞いて参ります」

 慌てて飛び出していった宗弘を見送ると、義長は暗い部屋に一人残された。

 少し時間ができたか。

 部屋の中に座り、座禅を組む。祖父の失脚による幕府内での冷遇を意識するようになった十五の時以来、時間があれば座禅を組んでいる。元は生まれた時から勝手に背負わされた罪で不満に荒れる心の内を沈めるためだったが、その不満が諦めに変わった後も、時間があれば座禅を組むのが習慣になっていた。

 何人かが廊下を人が走る音がする。義長は足を解き、座り直して当主を迎える。

「これが嫁御の父親でございます」

 そう紹介された男は両手をついて顔を伏せる。

「娘の装束を売りに来た行商人は数日前にここを出立し、現在は熊野の方へ行っていると思われます。ただ、その行商人を紹介しにきた男は土地の農民でして、その者なら何か聞いているやもしれません」

 赤ら顔で明らかにたんまりと酒を飲んだ後であったが、家の大事と聞かされて酔いが冷めたのか、言葉ははっきりとしていた。

「なるほど。よく分かった。感謝する」

 は、と答えると、花嫁の父親はすごすごと引き下がり、宴会の席へと戻っていった。

「いかがでしょう。熊野へ使いの者を走らせますか」

「頼みます。それと、この辺の山中に詳しい者をお借りしたい。明日から、その土地の者に話を聞いて、しばらく自分でも探そうと思う」

「承知致しました。それでは明朝、使いの者を呼びましょう」

 義長の背を叩いて笑っていた面影もない程にへりくだった態度を取る当主に対し、内心溜め息を吐く。それでも折角の祝言を壊してはいけないと、義長も宴会に戻るのだった。


 翌朝、宗弘の家臣と共に屋敷にやって来たのは、茅彦と名乗る年若い快活な青年だった。

「主は宗弘殿の家臣、ではなさそうだな」

 小袖の下、泥でくすんだ裏葉色の袴に鹿の皮の腰巻をしたその姿は、髭を整え樺色の直垂を身に纏った家臣の男とは対照的だ。

「この者は猟師を生業にしている者でございます。山道を外れる山の中のことであれば、我々武家の者よりも彼らの方がよく存じております故連れて参りました」

 そう言って家臣の男は苦笑する。

 近頃は農民達が集団で逃げ出して、税の取り立てや戦の兵役を逃れることが増えてきていた。逃げ出した農民達は地頭の入り込めない山奥に立て籠もり、地頭の取り立てをやり過ごすのである。彼の苦笑の裏には随分と苦々しいものがあるのだろう。

 茅彦の紹介だけすると、それでは、と家臣の男は馬に乗って立ち去った。

「あれは手伝ってはくれんのか」

「吉備様はこれから熊野へ向かうそうで。俺には作次郎の家に行けと言うておりました」

 湯浅氏の家臣で信頼できる者が案内につくと考えていた義長は不満だったが、幕府内で厄介者扱いされていることを思うと余り文句も言えない。昨日は謀反の疑いと言われて狼狽えているようだった宗弘だが、案外心の内は動じていなかったのかもしれない。

 さすがはこの辺り一帯を治める御家人というところか。やはり一筋縄ではいかんものだな。

 だが不満ばかり言っても仕方ない。ここは宗弘が最も良い人選をしたのだと思うことにする。

 義長が馬に乗ると茅彦はさっさと前を歩き始めた。

「ここのところ湯浅様と寺の預所あづかりどころとの争いが激しいので、余り他に手が回らないんでしょう」

 農民は幕府と公家が運営する寺の二重の支配を受けている。

 農民が集団で離散するなど抵抗が強くなり、思うように税が取れなくなってくると、荘園支配の主導権を巡って、京と幕府から荘園の支配を認められている湯浅氏と、京から支配権を与えていた円満院との争いが激しくなっていった。

「詳しいのだな」

「どちらに付いた方が得なのか、皆必死で考えますから」

 そうか、と口の端で笑う。

 義長は湯浅氏から足元を見られるが、その湯浅氏は公家と争う間に支配する農民から足元を見られるのだろう。そう思うと少しは気も静まった。

 川を遡り山の麓の里へと向かう。道中、義長は気になっていたことを口にした。

「そなたらは山の奥地のことまで詳しいのだろう。ならば、作次郎やらに聞かずとも、物の怪の里のことなど知っているのではないか」

 手綱を引いて歩く茅彦は振り向くことなく、いえと首を振った。

「俺達は自分の狩場で狩りをします。だから、その中であれば分かります。ただ、その外へは余り近付かないようにしているんです。物の怪の類が出るという噂もありますし、山賊の巣があるという話もあります。俺達なんかが見つかれば、命はないですから」

 あ、でも、と急に立ち止まって振り返る。それが余りにも唐突だったので、義長は茅彦を蹴り飛ばそうとする馬を慌てて諫めなければならなかった。

「物の怪ではないですが、先月凄いものを見たんですよ」

 目を輝かせて嬉しそうに言う。つい先程までは武士を相手にしているという恐れと硬さがあったが、誰かに言いたいという欲の方が勝ったのだろう。

「何だ」

 猟師の言う「凄いもの」なら、立派な角や毛皮を持つ鹿か、あるいは山菜の群生地でも見つけたのだろう。もしかしたら宝玉の類かもしれない。自分の荘園でもない所の金目の物など興味は無い。

「龍です」

「は?」

 予期せぬ答えに思わず口が開く。

「身の丈、十丈の巨大な龍が夕闇の川を遡り、矢筒が空になるまで射掛けた私の矢を物ともせずに飛び立つと、そのまま飛んで行ってしまったんです」

「なんだ、それは」

「今では暇さえあれば、皆龍の出た所で今か今かと待ち構えているんですよ」

 得意げな茅彦に、どう答えたものか思いつかない。

「で、主はそんなものを射掛けたのか」

「ええまあ」少し照れくさそうに笑う。

「気付かれれば食い殺されるとは思ったんですが、やっぱり俺は猟師ですから。龍がいるなら、この手で仕留めたいです」

 きっといい金になったでしょうから、と惜しそうに空を仰いだ。

「まったく。神も仏もあったもんじゃないな」

「どうしてです。毎日仏さんには手を合わせてますし、ちゃんと神さんにもお参りに行ってます。龍は山の神さんがくれたご褒美ですよ」

 殺生を生業とする猟師が仏の教えもないだろう、とは思うが、それは武士とて同じこと。この世で生きる限りは極楽浄土など無理な話だ。

 ただ、信心の程はともかく、見たと言うものを頭から否定することはできない。結局、もやもやとしたものを抱えたまま、馬を進めることになった。

 

 麓の里ではちょうど田植えの準備をしているところだった。ぐるりと里を囲むように広がる田んぼでは、水を張り牛に鋤を引かせて代掻しろかきをしている。

 義長達が通ると、皆一様にこちらを向くのが分かったが、どうやらその視線の先は義長ではなく、茅彦のようだった。

 義長達の前の畦で遊んでいる子ども達がいると、通り様に「またお話聞かせて」と声が掛かる。茅彦は慌てて咎めるが、子ども達は臆することもなくついてくる。すぐに隣の畑を耕していた夫婦が駆けつけ、子ども達の額を血が出そうな程、地面に押し付けて謝るので

「うむ」と厳めしく頷いてそのまま通り過ぎた。

「誠に申し訳ございません」

 平謝りする茅彦を、まあいいと諫める。

 武士の行く先を遮ったのだから、切られても文句は言えない。だが、農民に話を聞きに来たのにそんなことをすれば、協力など得られるはずがない。舐められても困るが、そこは匙加減の問題である。

 それよりも、と向き直って歩く茅彦の後ろ姿を眺める。

 どうやらこの男の話は既に村中に広まっているらしい。

 通りかかった家の中からも「茅彦がお武家様を連れておる」「龍神様のご利益かねえ」と言う会話が漏れてきた。ことの真相は分からないが、「龍を見た」ことで皆からの受けも良いなら、村人から話を引き出すのも容易になるかもしれない。

 案外、宗弘殿もちゃんとした人を選んだのかもしれんな。

 朝から大きく膨らんでいた不満が少ししぼむのを感じながら、目的の家へと馬を進めていった。


 作次郎の家は里の中でも少し外れの辺りにあった。他の家が纏まって建つ中で、田んぼ一枚隔てて建つ家は妙に浮いて見える。

 家の前で馬をとめ戸を叩くと、遠く離れた背中の方から呼ぶ声が聞こえた。

「おーい。今行くんで、ちょーっと待ってくだせー」

 見ると二枚先の田んぼの端で男が手を振っている。その隣には娘と牛がいる。この田んぼでも代掻しろかきの最中だったようだ。

 男は娘に牛の綱を預けると畦に上がり、小走りで義長の前までやってきた。日に焼けた身体は痩せてはだけた衣の下ではあばらが浮いているが、毎日鋤を振るって田畑を耕しているのだろう、腕も肩もがっしりとした農民のものだ。

「主が作次郎か」

「ええ。田数調査でんすうちょうさですか」

 いや、と答えると男の顔が見る間に萎れて行った。随分と顔に出やすい性格のようだ。

「そなたが物の怪の里から来た行商人を泊めたというのは真か」

「ええ。何か悪いことが」

 期待した話ではないと分かると、今度は何を意図しているのか分からないという思いが頭の中に込み上げたのだろう。気に障ることでも言って切り捨てられては堪らないと、明らかに義長を警戒しながら言葉を選んで返事をする。

 その様子を見て義長はふう、と深い溜め息を吐いた。ここで警戒して隠されても仕方がない。

「別にお前を捕えに来た訳ではない。ただ、その里がどの辺りにあるのか、宿を貸したお前なら何か聞いていないかと思って問うておる」

「いえ、場所については特には」

 ひとまず、命の心配はないと分かって安心したようだが、まだまだ協力しようという気にはならないらしい。ならばと義長はもうひと押しする。

「私は湯浅殿の家の者ではないから、ここが誰の荘園か分かっておらぬが、教えてくれれば協力的だったと、田数調査でんすうちょうさで色を付けるよう進言しても構わぬ。もちろん、良い品を持った行商人を案内したことも合わせて伝えておこう」

 それを聞くや明らかに作次郎の顔色が変わった。しかし、口から出た言葉はあまり良いものではなかった。

「お言葉はありがたいのですが、本当に場所については聞いとらんのです」

 がっくりと肩の力が抜ける。

 全く手がかりのないところから隠れ里を探し出すのなど無謀極まりない。紀伊から大和そして伊勢にかけての山地に対して大規模な山狩りでもすれば別だが、源平の合戦から何十年も経った今、それをするだけの口実が無い。かといって、手当り次第に山に入っていては山賊の餌食にならないとも限らない。

「確かなのは」と、作次郎が慎重に言葉を選びながら口を開く。

「この川の上にその里があるってことぐらいですわ」

「それは、真なのだな」

 気圧されながらも、ええと頷く作次郎を見てようやく希望が持てた。

 時間は掛かるだろうが、川一本にまで狭まれば調べられないことはない。

「一度、宿に戻って次の手を考える。茅彦、馬を」

「はい。ととっ」

 茅彦が馬を取りに駈け出そうと振り返ると、目の前に牛の顔があった。危うく舐められそうになるのをかわすと、隣に立っていた泥だらけの少女とぶつかった。

「すまん。大丈夫か」

 小さな悲鳴を上げて転んだ少女に手を差し出したが、少女は手を取らずに頭を振って立ち上がった。

「主の娘か」

 茅彦が馬の綱を解いている間に義長が問う。

「ええ。こら綾女、お役人様にあいさつせんか」

 綾女でございます、とおずおずと頭を下げる少女は、棒切れのような細い手足をしていたが目には静かに生気を宿していた。

「綾女というのか。お前は先日泊めた行商人について何か分かることはあるか」

「いえ」武士である義長が怖いのか、少女は消え入りそうな声で答える。

「ずっとおとうの横で話を聞いていただけですんで、高いお薬を売っているくらいしか分かりません。着物を着せてもらった後は、あまり話もしなくなりましたし」

「着た? お前があの白無垢を着たのか」

「は、はい。洗ってすぐの服に着替えてから着たので、汚しては」

 いないはずです、とほとんど聞こえない程小さな声で答える。

 まさか目の前の泥だらけの少女が、昨日見た純白の着物を着たとは予想だにしておらず言葉を失ったが、話を飲み込むと愉快に笑い出した。

「主があれを着たのか。惜しかったな。もう三年あれば、嘘でもいい思い出になったろうがな」

 ちょうど手綱を引いて戻ってきた茅彦から馬を受け取り、作次郎の家を後にする。

 人の声が多いと思い振り返ると、既に村人達が親子を取り囲んでいた。何を話しているかは聞こえなかったが、余り笑い声が聞こえないところを見ると、村人の間では白無垢は良く思われていないのかもしれない。

 その白無垢を巡って訪ねて来たらしい義長が楽しそうに笑っていたのが気になったのか、あるいは噂の人になっているらしい茅彦が武士と一緒に何をしているのか、いずれにしても村人達はいい気はしなかったのだろう。

 だからといって、儂が気にすることでもない。

 調査の見返りを引き受けたことまで言わなければよいがと、わざわざ引き受けた面倒に閉口しつつも、初日の成果に満足した義長であった。

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