第四章 里の始まりの物語
ぎりぎりと弓を引き絞る。震えて定まらない矢先を更に力で抑え込む。肩と足の傷が疼くが、もう開く心配は無い。力の限りに引き絞る。
うんざりする様な蝉しぐれも、鳴りやむことのない竹の葉の擦れる音も小太刀丸の耳には届かない。
だが、どれだけ意識を集中させようとしても、鈍く疼く傷が飛んでくる矢の恐怖を思い出させる。射掛けるのはこちらだというのに。
震えの収まってきた一瞬を捉えて矢を放つ。しかし矢は岩ではなく、その右奥に立つ楠に突き刺さった。
ぐっと下唇を噛んで悔しさを堪える。
一つ季節を遡ったのあの日、茅彦と名乗る男は夕暮れ時の視界の悪い中、二十丈は離れた場所から小太刀丸の肩と足を射抜いた。これくらいの距離で外していては物の役には立たない。
ふう、と息を吐いて落ち着きを取り戻すと、背中から次の矢を抜き出す。
矢を番えたところで、後ろから誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。辺りには竹が生い茂っているので、地面には枯れ落ちた葉が柔らかく積もっている。人が歩けば大きな音を立てた。
「どうな。いくつ当てた」
肌蹴た上半身から、滝のような汗を滴らせてやってきたのは鷹之進。こちらは里の空き地に皆で集まって剣術の稽古をしたところで、いくつか打ち込まれたのか赤くなっている。もう開かないとはいえ、傷の痛む小太刀丸は激しく動く剣術の稽古には参加せず、ずっと弓ばかり引いていた。
爽やかに笑う兄に首を振って答える。
「ええ? 一つもか」
「目一杯引き絞ったら、どうしても狙いが付かんくて」
十丈離れた的に相手を射抜けるだけの力でもって放つ。矢が刺さったままの鹿に逃げられたり、甲冑に弾かれたりするようでは話にならない。
だが、狙いが付かないのは一杯々々に込めた力のせいではなく、自分が的になったという恐怖のため。それは小太刀丸自身よく分かっているし、傍から見ている誰もが知っている。
「頑張ってるなら、いいさ」鷹之進は的の隣の楠に突き刺さった矢に気付くと、軽く笑う。
「そろそろ切り上げて飯にしよら」
戻りかけて、そうそう、と振り返る。
「爺様が飯の後で話があるってよ」
「話? 何の?」
鷹之進に聞きつつ矢筒に残った最後の一本を矢につがえる。
「まあ、なんと言うか、昔話みたいなもんだ」
「ふうん」
生返事を返した直後に放った矢は、しかし岩の上をわずかに掠めて越えていった。
弓を持つ手を緩め、首をすくめて、ふうと溜め息を吐いた時、遠くでばたばたと獣の暴れる音が聞こえてきた。
「おい」
「うん」
二人は顔を見合わせて頷き合うと、矢の飛んだ方へと向かう。
弓場が造られているとはいっても、ここは急峻な山の中。岩までは細いながらも掘り込んだ道があるものの、一歩逸れれば崖のような急斜面。もちろん、矢の飛んでいった岩の後ろにも険しい山肌が続いている。
道の無い斜面を降り積もった竹の葉に足を取られないよう気を付けて、不穏な音のする方へと向かう。
「おっ」
先にそれを見つけたのは鷹之進だった。
「兎だな」
小太刀丸も追いつくと、横倒しになって空を蹴る兎の後ろ足を掴み上げた。
「さ、さっさと残りの矢も拾って飯にしよら」
今日の夕飯は豪華だと笑いながら鷹之進は矢を探し始める。
兎の足を掴み上げたまま突っ立っていた小太刀丸も、慌てて鷹之進に矢の飛んだ方を言いながら、手分けして拾っていくが、兎のことを思うと少し気が沈んだ。
「どうした。捌くんが嫌か」
どうやら顔に出ていたらしい。思わず、あははと笑って濁す。
小太刀丸とて兎の肉は好きだし、自分で捌いたこととて一度や二度ではない。だが、獣を捌くということは血を見ることである。皮を剥いだ後、兎の形をした赤い肉の固まりを見るのはどうにも苦手だった。もっとも、そんな気持ちも部分々々に切り落として、煮込んでしまえば、綺麗さっぱりと忘れてしまうのだが。
「獣も魚も一緒だろ」
「そうだけどさ」
昔は魚を捌く時も少し嫌だった。ただ、こちらはもう、すっかり慣れてしまった。
「でも、やっぱり獣を捌いてる時は『殺した』って感じがするよね。そんなこと言ってたら生きてけないのは分かってるけど」
「その内慣れるさ。どうせ俺達にできることは、あの世に行ってから食べられた恨み言を聞いてやるくらいなもんだしな」
「それは、順番待ちが長くなりそうだ」
延々と連なる獣の列を想像し、小太刀丸は思わず呆れてしまった。
「そんなものだろ。まさか、しっかり食ってやれば食われた獣も喜んでくれる、なんてこともない訳で」
小さな頃によく言われたと二人して苦笑する。
「狩った獣は殺さなんと仕方ないし、殺さなくていいなら敵でも殺さずに帰す。後の恨み言は死んでから聞くとでも割り切ってしまわんと、辛いだけだろ」
「獣はともかく、敵は帰しちゃって大丈夫なん」
「椿には『甘過ぎる』って怒られるな」
おおらかに笑う鷹之進に内心首を傾げる。
これでどうしてこの夫婦が上手くやっていけてるんだろうか。
椿は幼い頃から見回り組の家の子として、山中や人里での物見の術を仕込まれたのだという。だから、いつだって鷹之進のようにおおらかに構えるようなことはしないし、そういう人のことを嫌いそうに思える。
だが、実際には椿は鷹之進のことを様付けにしてべったりであり、はたから見ていてうんざりするくらいに鷹之進に対して甘いのである。
別に鷹之進とて能天気な訳ではなく、剣の腕だって里の中でも一、二を争う程のものであり、決しておおらかなだけの人間ではないのだが、それでも二人を並べると真逆の性格の組み合わせのように見える。
これでどうして椿が苛立たないのか。小太刀丸にはそれが理解できず、いつも人の心とは不思議なものだと思うのだった。
家に戻り、茶粥に
集落の谷底を流れる清流はこの時期、鮎や山女などの多くの魚で賑わっている。お蔭で暖かい季節は日々の食べ物に事欠くことはない。
一方で食べ物を腐らせてしまって腹を下し、それが元で命を落としたという話は毎年のように聞いた。
今年も梅雨明けすぐの頃に、下の家で五十になる川端の婆さんが貰い物の猪肉を腐らせてしまい、それを食べて亡くなっている。その猪肉を持っていったのが鷹之進だったので、一家で申し訳ないと詫びに行ったりもしたのである。残された爺さんは、お前らが悪い訳じゃないとは言っていたものの、先に燻しておけば良かったと皆で悔やんだのだった。
朝餉を終え、鷹之進達が畑に出て行った後、小太刀丸は仏間で寅吉と向き合っていた。
春先に寝込んでいた寅吉は、小助から手に入れた薬のお蔭ですっかり元気を取り戻していた。今では足腰も達者になって、毎日川へ釣りに出かけている。今朝の焼き鮎も寅吉の釣果だ。
「本当はお前が十二になる時に合わせて話すことなのだがな」寅吉はゆっくりと口を開いた。
「まあ、その頃は儂も体を壊してしまっていたから仕方がない」
折角作ってもらった棺桶が無駄になってしまったわ、と笑う。笑いごとではない小太刀丸は曖昧な笑みを浮かべた。
「それは良いとして。話とは他でもない。そろそろお前にも、この里の成り立ちについて話しておこうと思うてな」
その言葉に小太刀丸の背がすっと伸びる。
この里では十二を迎えた頃に、親や祖父母から里の成り立ちについて聞かされる、というのが慣習になっている。だが、寅吉が床に伏せっていたため、小太刀丸は未だにそれを聞かされておらず、なんとなくもやもや気分で半年を過ごしていたのだ。
それが今、ようやく聞けるという。
まず、と寅吉が口を開く。
「お前はご先祖がここに来る前に何者だったか、を聞いたことはあったか」
無いよ、と首を振る。小太刀丸とて色々考えることではある。思うところもないではないが、それを聞いても大人達は皆「時が来れば」と言って教えてはくれなかった。
「そうか。ならば初めから話さんとな。何、皆普段は口には出さないようにしておるからの。知らなかったからといって、そう落ち込むな」
寅吉がしょうが無い奴めと笑う。
「いいか。これから話すことは、決して人に漏らすんじゃないぞ」
急に表情を厳しくした寅吉に気圧されて頷く。
「我らがご先祖はな、平家に与した武士の一門であった。だが、壇ノ浦の合戦で敗れた後、他の平家方に付いた武士達と同じく、追手を逃れて山の奥へと逃げ込んだ」
それを聞いて、小太刀丸はうんと頷く。薄々気付いてはいたが、ようやくそれを他の人の口から確かめることができた。
里の外は京と鎌倉が支配を二分する世の中だ。鎌倉武士の支配がある限り、自分達は隠れていなければならない。
「じゃあ、山の上の祠は平家の御大将を祭ってたんだ」
一人合点する小太刀丸を、寅吉は笑って制する。
「まあ待て。話はまだ終わってない。
追手を逃れてここまで辿り着いたのは二十人と少し。我ら一門の長とその奥方、それに子どもが三人の合わせて五人。それから、長の弟とその奥方で二人。後は長の親戚とその家族、要するに家来達だな。
命からがら逃げ延び、体力も限界であった彼らはこれ以上奥にまで行くのは諦めて、ここで隠れ住むこととした。
しかし、隠れ住んでいても追手はいつ来るか分からない。こちらは二十人以上いるとはいえ、女子どもも多く戦えるのは五、六人程しかいなかった。もちろん、矢など尽きて久しい。だから、見つかってしまえば命はない。できるのは、せめて捕えられぬよう、先に果ててしまうしかない。
そこで長はこの集団を二手に分けることとした。
一つは長と弟の家族の集団。もう一つは残りの家来達。
二つの集団は少し離れた峰の上に隠れ家を建てた。長の集団はあの向かいの山の上、ちょうどあの祠のあるところだな」
開け放たれた引き戸の向こうを指差した。
小太刀丸が振り返ると、ここからは見えない谷底の川から、軒で隠れた上まで一面に壁のような急峻な山肌がせり上がっている。
今は祠のあるところまで細いながらも道があるが、当時はもちろん、そんな物は無かったはず。それだけでも当時の暮らしがいかに大変だったか想像できた。
「もう一方はこちら側の峰の、少し下流に行ったところ。橋の所を登った辺りだな。峰からは山の両側が見えるから、それぞれに見張りが立てば、三本分の谷筋が監視できた」
そしてな、と寅吉は声を落とす。
「この時、一つ決めごとを作った。
それぞれの隠れ家は、互いに見えるところに旗を立てること。
そして、もし敵が来たらその旗を倒すこと。
そうすれば離れた側の隠れ家では、追手に捕まる前に果ててしまえる訳だ」
なんだろう。すごく嫌な予感がする。
今の里の人々の顔を思い浮かべる。皆、偉ぶったところは無く、明らかな主従関係を見たことは無かった。
人里から離れて暮らしている内に、そんなことは言っていられなくなったのかもしれないけれど。
そんな小太刀丸をよそに寅吉の話は続く。
「そうしてしばらくは何事もなく過ぎて行った。
大きな杉の木に結わえ付けた白い旗も、何事もなくはためいているだけだった。
おっと忘れてたな。旗とは言うが、使ったのは逃げる際に持ってきていた衣を開いただけのものだ。
元々平家方ののぼりは赤い旗だが、これは目立つし逃げるには邪魔でな。持っておる物で作った『旗のような物』だ。
何にせよ、しばらくは安泰だった。
が、それも長くは続かなかった」
そう言って、寅吉はふうと息を吐く。
「ある時、家来達の隠れ家に立てていた旗が倒れた」
うん、と小太刀丸が頷く。
「だが、それは敵に見つかったから、ではなかった。たまたま強い風が続いていて、旗を結えている紐が解けただけだった。
気付いた家来の一人が慌てて誤りを知らせに走ったが、時すでに遅く、長と弟の家族は皆果てた後であったという」
「えっ」
思わず声が出てしまった。
余りにも酷い。幼い頃に寝物語で話してもらったお伽話よりも遥かにあっけなく、残酷で、馬鹿々々しくさえあった。
「残された家臣達はできる限り丁寧に長らを葬った後、自分達も果てるべきかという話になった。そりゃあ、元はといえば自分達の手抜かりが原因だからな。ここは亡き長の墓前で詫びて腹を切るべきという話だ。
だが、結局、誰一人として腹を切るという者はおらんかった。自分達以外にこの過ちを知る者はおらん。それにまだ、山狩りが近くまで来たという話も無く、生き延びられる希望が出てきたということもあった。
それで彼らを神として祭り、謝りながら、幾代にも渡って慰めてきたんじゃ」
小太刀丸は目の前が真っ暗になった。言う言葉も見当たらないまま、ただぱくぱくと喘いだ。
これでは自分は生まれながらの大罪人ではないか。主君を死に追いやり、あまつさえ、のうのうと生き延びているなんて。
里の外の人から見れば、平家方に与した鎌倉の敵。身を隠すためにと人を欺き、驚かせて追い立てる物の怪。そうして、やっと安寧を得られるのかと思えば、意図したものではないとはいえ、内輪でも主君を死なせた逆賊である。
けれど、と暴れる頭の中を一度落ち着かせる。
自分達が他の人達から隠れて暮らしている理由はこれで分かった。
「だから隠れてるんだ。素性が知られれば捕まるから」
「そういうことだ。ただ」
と、寅吉は禿げ頭を撫で回して笑う。
「平家一門の者でもなく、それに与した武士の長の家系でもない。これから再起を図って兵を挙げる力などあるはずのない我らに、今更攻め入るようなことはしないだろうよ。だから、ここで静かに暮らしている限り、例え素性が知れても鎌倉の人間を怖がることもないかもしれんな」
「ん?」と小太刀丸が首を捻る。
だったら、これまで旅人を物の怪に扮して追い立て、菜の物の一つ、縄帯の一つすら流さぬよう気を付けてきた意味とは何だったのか。
それを口にすると、寅吉は念のためだと笑った。
「正直、鎌倉の将軍や川下の里の地頭が兵を率いて来ることは無いだろうと思っておる。ただし、平家に与した我らの首には、始め鎌倉から褒美が賭けられておった。それが今まだあるのかどうかは分からんが、分からんままに我らを見つけた外の人間が攻めてきても困る。
物の怪に化けるというのは、そういった里の農民達や山賊共を遠ざけるにはちょうど良かったという訳だ」
「一体、誰がそんな回りくどいことを」
呆れた小太刀丸が独り言ちると、寅吉がにやにやと笑い出した。
「儂の親父、お前の曾爺様の代からだったか。
儂が十を過ぎた頃、ちょうど今のお前くらいの頃よ。山で迷ったとかいう男が来ての。仕方がないから一旦上げて飯は食わせてやったが、どうしようかと里中大騒ぎになった。
聞けば、どうやら山を越えた向こう側の里の者らしい。道を教えてやるのは何でもないが、そうすればこの里の場所が知られてしまう。
だがな、そうこうしている内に大酒を煽った男はいびきをかいて寝てしまった。それはもう見事な眠りっぷりで、突いてもはたいても起きやしない。
それならばと、親父と他数人で代わる代わる男を負ぶって山を登り、男の里の入口近くの山道に置いてきた。これで道を知られることはないだろうと安心しておったらな、今度は外の里で妙な噂が立った。
『山で迷ったら見たこともない里に出た。たらふく飲み食いさせてもらったが、寝て起きると里は跡形もなく、自分は山の中にいた』
これが広まれば、誰かが探しに来るかもしれぬ、と再び里は騒ぎになったが、結局誰も来なんだ。狐か狸に化かされたのだ。あそこには良くない者がいるのだ、とかえって皆が避けるようになった。
ならばと、物の怪に化けるようになり、それが今まで何十年も続いてきた、という訳だ」
そう言うと寅吉はまた愉快そうに笑った。
「じゃあ、お客さんを追い出す度に山の祠に参ってたのは」
「祠から見えるところで悪さしおるからな。武士の風上にも置けぬ奴だと怒られる前に謝りに行かんとな」
そこまで言われてしまうと、小太刀丸も情けない顔をして笑うしかなかった。
「そらあれだ、あんまり気にしないことだ」
小太刀丸から話を聞いて、鷹之進はからからと笑い飛ばす。
お盆の準備に二人は川端の家で初盆の棚を拵えていた。
「鷹。どうな、これくらいなら入るか」
川端の亭主が棚の中に入れる笹の筒を束ねた板を持ってきた。板は竹を組んで作った棚の中にぴったりと納まった。
「いいんでないですか。後はひのきの葉だな」
縁側に組まれた棚は縦横二尺、高さは五尺。小太刀丸が立ったまま三人は入れる大きな竹の棚にひのきの葉を結えて壁を作る。正面に一ヶ所だけ葉のない口を開けておいて、そこに先程の板を置き、水を供えておく。参りに来た人は一緒に供えてあるひのきの葉を水で濡らし、棚の口に撒いて死者の渇きを癒すのである。
「俺も初めて聞いた時には情けなかったけどよ」
鷹之進は棚の上の段に横向きの竹の棒を結びつけている。ぐっぐと力を入れるたびに棚が揺れた。
「お蔭で俺達は生きてる訳だし、今更顔も知らない長に義理立てて死ぬ必要もないだろ」
「それは、そうだけどさあ」
棚を組む鷹之進の隣で、ひのきの葉を結わえ付けるのに足りない分の縄を急いで綯いながら、しかし小太刀丸の頭の中は寅吉の話で一杯だった。
「だったら、ただひっそり暮らしてればいいのに。わざわざ物の怪のふりなんかしなくてもさあ」
「じゃあ、偶然迷い込んだ人はどうする。そのまま返してたら、その内気付く者も出てくるかもしれん」
「おーい。こんだけあったら足りるか」
川端の爺さんが縁側の前に籠を降ろす。小太刀丸がすっぽり入れるだけの大きな籠一杯にひのきの葉が入っていた。
「爺さんも、また張り切って採ってきたなあ。半分もあれば十分だろ」
「そんなで足りたか。婆さんの初盆と思ったら、どんだけ採っても足らん気がしてなあ」
婆さんが逝ってから随分と気を落としてしまい、このまま弱って後を追ってしまうのではと皆に心配されていたが、籠から葉を渡す爺さんの顔には少しだが生気が戻っている。
最近、足腰も弱ってきたと言われていたが、これだけ担いでこられれば、まだ当分は問題なさそうだ。
「所詮この世は勝者のもの」
川下の家に分けてやると、川端の爺さんが余った分を籠に入れて行ってしまうと、鷹之進が話を戻した。
「俺達負けた側の人間には生きる場所もない。でもよ。物の怪の力を借りて、誰も近寄らない土地が手に入るなら、そりゃあやっぱり欲しいだろ。
もしかしたら、産まれてすら来なかったかもしれない俺達が物の怪のお蔭で今ここで生きていられるんだから、俺達にとっては神や仏と同じくらい尊いもんだわ」
いっそ、本物の物の怪になったって構わないと言う鷹之進に、綯いかけの縄に継ぎ足す藁を引き寄せて、それはまあと小太刀丸は曖昧に笑って返した。
「それに、いざとなれば狸が化けたふりでもすればいいと思えば、里の外に出ても少しは楽にいられるだろ」
基本的に要る物は全て自分で作ることで成り立っている里の暮らしだが、農機具や金物、塩など里では手に入らない物は川下の里で行われる市で交換してくる。
源平の合戦から何十年も経った今、市で顔を見られて「お前は平家方の人間だな」などと言われることはまずあり得ないが、それでも万が一ばれれば命の保証はない。里の外へ行くということは、それだけの危険を抱えることである。
一方で、外へ行くことは里の者の楽しみでもある。
外にあるのは物だけではない。知らない人々の他愛もない会話、噂話。そこに紛れている幕府や朝廷の動向。更には京から伝わってくる新しい教えや風習など、田舎の農村でも外界に繋がってさえいれば、そこには隠れ里にはない様々なものが満ち溢れている。
「小太刀ももう十二だし、そろそろ行くか」
「えっ」
自分が余所の里に出ていくなど、全く考えていなかった小太刀丸は言葉を失った。だが、考えてみれば十二、三にもなれば皆里の外に行っている。小太刀丸だけが行かない理由はない。
「お盆の時期だから、祭りとかしてるかもな。人の出入りする頃だから、おもしろいものが見られるかもしれん」
俺も行こうかな、と楽しそうに言う鷹之進に小太刀丸の心が揺れる。
元々小太刀丸にも里の外への憧れはあった。だがそれは「いつか行ってみたい」という漠然とした憧れで、なら明日行こうと言われて、よし行こうと頷けるものではない。
憧れと同時に恐怖の対象でもある里の外の世界は、小太刀丸にとって言い伝えられた源平の合戦と同じ現実感のないものだった。そして今は漠然とした恐怖が大きく膨れ上がっている。
だが、だからと言って、いつまでも怖がって里の中に閉じこもって生きていける訳ではない。何よりそれでは面倒を見ているちびっ子達に示しがつかない。
里の外への恐怖を手の内に押し込めて、ずりりずりりと縄を綯うのであった。
翌朝、まだ薄暗い日の出前。玄関の重い木戸を開け、旅装束の三人の男達が高い敷居を跨ぎ越えていった。
これまで、ほとんど里の外に出たことのない小太刀丸にとっては、草鞋を履くのも、それを履いた自分の足が土間と擦れてしゃっしゃっと音を立てるのも、全てが新鮮で、同時に違和感の強いものだった。
前を行く勘蔵と鷹之進は慣れているようで、何も気にせず、暢気に空模様について話しながら歩いて行く。足の裏が地面に触れない違和感と少しの歩き辛さを堪えて、小太刀丸も遅れないように細い道をついて行った。
なんで、昨日の今日でこんなことになったんだ。
夕餉の小豆入りの茶粥を啜りながら鷹之進の話を聞いた勘蔵は、「なら俺も行こう」と賛同し、あっという間に小太刀丸の初めての小旅行が決まったのだった。
三人の背負うつづらには生糸やお茶、毛皮などが入っている。これを塩や魚の干物などに替えてくる。特に塩はお藤から「もう一つまみも残ってない」と、優先して買ってくるよう頼まれている。
この日の小太刀丸の腰には更に別の物も差さっていた。これは自分の身は自分で守る大人の証。まだ小柄で勘蔵や鷹之進に比べて力も弱い小太刀丸が扱いやすいようにと、勘蔵が選んだ一尺八寸の短めの刀である。
去年の冬に受け取ったものだったか、山へ川へと行く時には邪魔になるだけなので、手入れの時以外には触る機会がなかった。
初めて腰に差して歩いていたが、妙な緊張感があった。刃が上を向いているので、鞘に入っていても自分の首に刃を当てているような気分になる。額に浮かぶ汗はきっと夏の暑さのせいだけではないのだろう。
「で、いつまでそうしてるんだ」
呆れた鷹之進が後ろから鞘を突く。
慌てて脇腹を押さえるが、刀の鞘に手が触れることはない。刀は衣の内側に見えないように差している。
そんな差し方をしたら、いざという時に抜けないだろうがと鷹之進には散々言われたのだが、小太刀丸にはまだ刀を抜く覚悟を持つことができなかった。
そこで衣の内に隠すように差しているのだが、鞘の先が衣の裾に引っ掛かり、ひょこんと持ち上げているのだった。
「これじゃあ尻尾でも付いてるみたいだな」
それだけ笑われて悔しくても、刀を見えるところに出したくはなかった。刃を見る度に頬の矢傷が疼く気がした。
まだ辺りは薄暗いにもかかわらず、じっとりと汗ばむほど暑く、みいんみんみんと蝉しぐれが山中を包んでいる。
それでも、家を出て川辺に来ると、清流に冷やされた涼しい風が一行を元気づけた。
丸太橋を渡って山に入ると、むっとした草いきれと共に濃い緑の香りが森の中を満たしている。先頭を行く勘蔵が持ち手の長い鎌で下草を刈る度に、羽虫が舞い香りが強くなった。
そんな中を小太刀丸は鎌を杖替わりに歩いていく。途中、草陰でがさがさするものがあれば、鎌先ですくい上げ、出てきた蛇を崖の下の川の方へと投げていった。
川又が近づくにつれ、小太刀丸の気持ちは少しずつ沈んでいった。別に今更何がある訳でもないのだが、雨あられと矢を浴びせられ散々な目に遭った場所を、何も感じずに通り過ぎるなど、できるはずもなかった。
余り川の方を見ずにさっさと過ぎてしまおうと、二人の脇を走り抜けようとした時、ぐいと肩を掴まれた。
「待て」
声を押し殺して勘蔵が立ち止まる。その眼は川又の向こう岸の一点を睨みつけていた。
「ここからは伏せて行く。絶対に声を出すな」
恐らく人がいたのだろう。無言で頷くと、籠を返さないように気を配りつつ四足になった。
そのまま川又を過ぎ、遠くなった所でようやく勘蔵が立ち上がった。
「龍の噂が広まるのはいいんだが」
膝に付いた泥の固まりを払い落とす。
「それが人寄せになるのは、ちょっとな」
「あ」
ちゃんと龍だと伝わっていたのも意外だったが、人避けのための物の怪が人を呼び寄せてしまったのなら大失敗だ。
もう二度と物の怪なんか演じない。
あの一件の後、何度目かの誓いを立てる。
長い線が残るだけになった頬の傷を指でなぞる。自分には見えない所な分、寝込んでいる時から触って確かめていたが、すっかり癖になってしまった。
山中に溢れる蚊や虻の大群にうんざりしつつ歩いていく。だが、どんどんと道が狭くなり、とうとう完全な行き止まりとなった。
そこは前も左右も上ですらも、完全に甘葛で覆われており、外の様子すらほとんど見ることはできない。
「どうするん」
鷹之進は「こうする」と小太刀丸の両肩を持ってくるりと後ろを向かせる。
「さあて、すこーしだけ戻ろうか」
訳の分からないまま歩くと藪の切れ間が見えた。熱を持って降り注ぐ日の光にうんざりしつつも、ほっと安堵する。
一番後ろを歩いていた勘蔵が先頭に立ち、その切れ目から対岸を伺う。ちょうど誰もいないことを確かめると、鎌を置いて切れ目から素早く崖を下っていった。
「俺達も行くぞ」
小太刀丸も慌てて鎌をその場に放り出すと、鷹之進を追って斜面を下って行った。
斜面を下り、先程行き止まりになっていた藪を外側から回り込むと、脇から流れ込む細い川との川又になっていた。その川沿いに小太刀丸達のいる川又にまで道が続いており、川を挟んで向かいにも道が続いている。
「ここを渡れば後は怪しまれずに行ける」
鷹之進が得意気に言うが、小太刀丸は首を捻る。
「太い方は越えないんだ。里って川の向こうじゃないん」
実際に里に行ったことはなかったが、里に行った年上の子ども達が皆、里の話をするので、頭の中には漠然とした地図ができあがっていた。
「川の両側を挟んで広がってるんでな。必要がある時には、里の中に入ってから堂々と渡る。そっちの方がいい」
説明しながら勘蔵はざぶざぶと川を渡りだした。ここは隠れ里の川よりも浅く、一番深いところでも、小太刀丸の膝を少し超える程度だった。
刀が水に浸からぬように、なめらの付いた茶色い石に足を滑らせぬように、と気を付けて渡る。川の水は冷たく、じっとりと暑い山道でうんざりしていた小太刀丸には土と熱を洗い流してくれる水の感触が嬉しかった。
そうして渡り切ると、ようやく一行は人の手できちんと整えられた道に辿り着いたのだった。
太陽が南の空を少し通り過ぎた頃、遂に人里へと辿り着いた。
「は、はあ――」
初めて余所の里を見た小太刀丸は、思わず言葉を失った。
目の前の田んぼには、一面の稲穂がその花を風に揺らしている。そんな田んぼが山に囲まれた盆地の端から端まで、数十町にもわたって広がっていた。
これだけあれば一年中米が食えそうだと呟くと、小太刀丸の頭をわしゃわしゃと撫でて勘蔵が笑う。
「田んぼは広いが人も多い。それに税も取られるから、結局はうちより少し多いくらいにしかならんそうだ」
火の光に輝く瑞々しい稲を横目に見ながら、里の中心へと向かう。途中何枚もの田畑の間を通り過ぎたが、その全てが綺麗に手入れされている。隠れ里より少し多いくらい、と言うならきっと飢饉も起きているのだろうが、小太刀丸にはこれで飢える者が出るところが想像できなかった。
隠れ里の田んぼは、川沿いの細い土地に数枚が並んでいるだけ。元々収穫量も少ない上に、何年か置きに大雨で川が暴れては、折角育てた稲が流された。そんな年には裏山の畑で育てた芋や野菜、山奥に生えている柿や栗などを頼って命を繋いだが、必ず飢える者は出てきた。そうして毒草に手を出しては命を落としたのである。
目の前に広がる田畑からは、きっと隠れ里の何十倍もの収穫があるだろう。なら、その税とはどれ程のものだろうか。人目に触れない隠れ里には無い税という制度にぼんやりとした恐怖を感じ取るのだった。
里の中心には、川下へ向かう太い道に沿って市が立っていた。
既に多くの人々が品物を広げており、多くの人でごった返している。その中を勘蔵が先頭に立ち、自分達が品物を広げられる場所を探して進んでいった。
小太刀丸も勘蔵の姿を見失わないよう、必死で追いかける。しかし、初めて見る人と物の数に圧倒され、ここにいる皆が自分達を見ているのではないか、いきなり敵だと言って襲い掛かってくるのではないか、と訳の無い不安に駆られていた。
見つかってはいけない、はずが今は完全にその中にいる。
鷹之進はいざとなれば物の怪のせいにしてしまえばいい、と言っていたが、龍の一件以降、小太刀丸は物の怪に化けることそれ自体が怖くなっていた。
物の怪になるのは嫌だ。けれど、それが駄目ならいざという時の手立てが無い。
それが外の人々への恐怖心を更に煽っていた。
「どうしたよ」
知らない内に足どりが鈍っていたのか、鷹之進に肩を叩いて追い抜かれる。小太刀丸も慌てて歩を速めて横に並んだ。
「こんなに人がいるんとか、初めて見た」
「だから怖くなったか」
「分かる?」
「まあな」
すれ違いざまに人と当たり、鷹之進はつづらを背負い直す。
「里に入ってから、あからさまに顔色が変わったからな」
これはしっかりしないと、と両手で頬を叩く小太刀丸に何をやってるんだと笑う。
「別に何も頑張らんでもいいから」
「でもさ」
「ほれ、置いてくぞ」
あ、待って、と駆け出したその時、隣から出てきた若い男とつづらが当たった。
「すみません」
慌てて謝るが、男は「おう。悪かったな」とあいさつでもするかのように軽く言うと、さっさと行ってしまった。
「な。こんなもんだ」
呆然と男を見送っていた小太刀丸を小突いて歩かせる。
「お前が心配しているようなことは、まず起こらん。要らんことに気を回さんと楽しんでいけ」
「そんなもん、なんか」
「そんなもんだ」
それを聞いて、ようやく小太刀丸にも市を見渡すだけの余裕が生まれた。
改めて見回すと、品物と人の数に心が躍る。
米に麦、粟や稗といった穀物から、鯵や鯖、蛸に浅蜊などの魚介類。そうかと思えば、向かいでは刀を、その隣では包丁や小刀、針などが売られている。更にその奥では塩、生糸、麻布と多くの人々が店を構えている。
そして道には先が見えない程の大勢の人。ある者は手持ちの品物を見せて交換の交渉を行い、ある者は目当ての品を探して歩き回っている。中には小太刀丸達と同じく、品物を広げるための場所を探している者もいるようで、幾重にも重ねた竹編みの笠と筵を持ってうろうろしていた。
そんな人の間をかき分け、なんとか筵を広げている勘蔵に追いつくと、早速、行商人風の男が声をかけてきた。
「何を扱ってるんだい」
「糸と茶と皮だ。見るかい」
にこやかに受ける勘蔵に行商人も興味を持ったようで、他愛無い世間話をしつつも丹念に品を検め始めた。
「いい鹿の皮だろ。うちのは腕がいいから、矢傷も見当たらねえ」
「これなら湯浅様のところにも持っていけるかもな。塩三升でどうだ」
三升。その響きに小太刀丸は耳を疑った。三升といえば、小太刀丸の家の半年分の量だ。毛皮一枚でそれだけになるのか、と感動していた小太刀丸だったが、隣で聞いていた勘蔵にとってはそうでもなかったらしい。
「少ないな」
「少ないか」
行商人の男も少々面食らって聞き返す。
「こんな上等な物はそう取れる物じゃない。塩なら五升は欲しいな」
五升、五升なあ。と呟きながら、行商人はしばらく毛皮を撫でていたが、やがておもむろに口を開いた。
「塩は三升だけしかない。後は米麦粟稗でなんとかならんか」
「ふむ、なら稗を三斗ほど足してもらおうか」
ぐっと言葉を詰まらせた行商人だったが、今度は言い返す。
「三斗は多過ぎる。一斗半がいいところだろ」
「二斗半!」
「二斗!」
「いいや、これは譲れんな、二斗半!」
三つ数えるくらいの間睨み合った末、行商人がふっと表情を緩めた。
「ええやろ。塩三升、稗二斗半。用意してくるから、待ってておくれ」
「日暮れまではここにおるから、早めに頼むわ」
おう、と答え、意気揚々と歩いていく行商人を見送りながら、小太刀丸は初めて見た商いの様子に気圧されていた。
「やってみるか」
「ま、まあまた今度でいいや」
初めての外の世界に圧倒されている息子を横目で笑いつつ、勘蔵は残りの品物を広げていく。
「ちょっとこれだけ持って行か。もう全部塩でいいか」
生糸の束を自分の籠に選り分け鷹之進が立ち上がった。
「いや、魚がええな。よう日持ちしそうな干物を頼むわ」
じゃあ行って来る、と出ていった鷹之進と入れ替わりに、先程の行商人が戻ってきた。今度は荷物持ちに二人の仲間が付いてきていた。
「塩三升と稗二斗半。検めておくれ」
ほれと渡され、小太刀丸が確認する。
「ところで」と、待っている間に勘蔵は行商人と世間話を始める。
「最近ここらで面白い話とかないのかい」
そうだなあ、と無精ひげを撫でていた行商人は、思い当たることがあったのか、ぽんとこぶしを打った。
「あるぞう。今、下の城下の方で持ち切りの話だ」
「ほう、どんな」
「最近、湯浅氏の家臣で婚礼の儀を挙げられた方がいるんだがな、その嫁御の着ていた白無垢が実は中々のいわく付きだって話よ」
「いわく付きとな」
「実はな。その白無垢は人の物ではなく物の怪から貰った物なんだそうな」
ちょうど確認が終わり、ほっとしていた小太刀丸は、勘蔵の後ろで思わず身を固くしたが、行商人はそれには気付かずに続ける。
「俺も周参見の方で行商人仲間から聞いた話なんだがな。
なんでも、そいつが言うには山奥で迷った時に山姥に捕まって、食われそうになったところを這う這うの体で逃げてきたんだと。しかも、逃げても逃げても山姥の術でずっと明けない夜の山の中を何日もさまよい続けたそうだ。
で、なんとか里まで降りてきて、つづらの中身を確かめたら」
と行商人は一息溜めて勘蔵に顔を寄せた。
「なんと中には見たこともないような素晴らしい白無垢が入っていた、と言う話だ」
「なんともよく分からん話だな」
小太刀丸から確認できたと目配せを受け、毛皮を渡す。
「まあ、当人もよく分かっていないようだったからな。とにかく、その白無垢が余りにも上物で嫁御の方も気に入っちまったもんだから、親が止めるのも聞かずにそれに決めたんだそうな。おう、ありがとよ」
受け取った飴色の毛皮を肩にかける。
「婚礼の儀に出た人は皆、口を揃えて褒めちぎったってんで、向こうじゃ大騒ぎって話さ」
じゃあなと行商人は去って行った。そうする間もずっと毛皮を撫で続け、余程気に入ったようであった。
「山姥の術って何」
行商人の背中が人ごみに消えるのを待って、小太刀丸が問う。そんなことは特にしなかったはずだ。
「さあな。ま、逃げる時に苦労したんだろうさ」
困惑気味の小太刀丸に比べて、勘蔵は涼しげなものである。
「里での出来事に限らず、人ってのは話を盛るものだからな。お前の龍のことも、今の山姥のことも、一度噂になればどんどん独り歩きする。俺らの手の届かない所にまで行ってしまって、初めてあの里は物の怪の里になるんだよ」
今まで人を驚かせて、それで物の怪になったと思っていた小太刀丸には意外な話だったが、自分では御することのできない噂の独り歩きが物の怪を生み出すという話は説得力があった。
日暮れ時になって鷹之進が戻った後、荷を畳んで里の外れの寂れた小さなお堂へと移る。市に出た時にはいつもここの縁側を借りて朝を待つのだと勘蔵が話した。
「どんなもんよ」
自慢気に鷹之進が開いたつづらの中は鯵や秋刀魚、蛸など様々な干物であふれていた。干物だけでは贖いきれなかったのか、干物に混ざって塩の入った大きな麻袋も入っている。
「まあ、おまけだ。塩はいくらあってもいいだろ」
小太刀丸にはよく分からなかったが、勘蔵は大いに喜んだ。塩は保存が効く上、何かと使い道が多いことから、いくらあっても多過ぎることはないのだという。
日がとっぷりと暮れ、薄っすらと残った日の光も消え去った頃、うつらうつらしていた小太刀丸の耳に微かな太鼓の音が聞こえてきた。
「おう。起きたか」
めはりずしを頬張っていた鷹之進が、食えと竹の葉に包んだ一個を寄越した。
夕餉を食べていないことを思い出して、急に腹が寂しくなった小太刀丸は夢中で解き、高菜で包んだ大きな握り飯を頬張った。
大人の握りこぶし二つ分の麦飯の中には焼いた鰯のほぐし身がたんまりと入っていた。高菜の塩気と合間って殊においしく、丸々一個平らげるまで息をつくのも惜しいとがっついた。
高菜の塩味の余韻に浸っていると、遠くの方からまた太鼓の音が聞こえてきた、今度は鐘も一緒に叩いているようだ。
「こんな夜中になんだ」
「ああ、お前は初めてか」
鷹之進は音のする方を真っ直ぐ向いて言った。
「里の外では盆のこの時期に、『祭り』っていって皆が夜通し踊り明かすんだよ。太鼓に鐘に笛に、色んな楽器が入り乱れて、それは賑やかなもんだ」
横を見ても暗くて鷹之進の表情は分からない。それでも兄のその祭りへの強い憧れが言葉の端々から滲んでいた。剣術の稽古でも声を出さないくらい、不必要に物音を立てることを嫌がる里の暮らしとは真逆の行事に、小太刀丸もうずうずと見てみたい気持ちが強まっていた。
「なら行くか」
よっ、と重くなったつづらを担ぎ直して勘蔵が立ち上がった。
しかし、いざ行くかと言われると小太刀丸も鷹之進も躊躇った。
「でも、これはどうするのさ」
小太刀丸達の荷物は塩四升と少し、稗二斗半、後は干物と茶の売れ残り。特に二斗半もある稗がずっしりと重い。これだけの荷物を持っていれば、祭りの場所まで行っても踊りに混ざることは考えられなかった。
「まったく。ここまで来てしょうもないこと考えてるんじゃない」
一つ溜め息を吐くと、ほれほれと息子達を急かす。
「向こうに着いたら、荷物は見といてやるから混ざってくればいいだろうが。ほれ、行くぞ」
重い稗の入ったつづらを背負ったまま、勘蔵はさっさと暗闇の中に消えていった。残された二人は暗くて表情の見えない互いの顔をしばらく見合わせていたが、やがて諦めて父親の後を追いかけて行った。
里の広場は異様な雰囲気で満たされていた。
大きな篝火が焚かれ、それを中心に多くの人が幾重もの円になって並んでいる。そして同じ向きに回りながら、思い思いに踊っていた。
「決まった踊りがある訳ではないのか」
「そりゃあ里の者だけじゃなくて、いろんな所から来た人みんな混ざるからな。最初は何かあったかもしれんけど、すぐにぐちゃぐちゃだな」
鷹之進がつづらを降ろして勘蔵に預ける。
確かに、太鼓も鉦も列に混ざって叩いてはいるが、それぞれの音はばらばらで何かの曲を奏でているようではない。ただ、その賑やかにしている、ということだけが、その場に妙な熱気を醸し出している。その熱気に中てられたように、集まった人々も輪の中で笑ったり叫んだりしながら、ひょこひょこと跳ねるように踊っているのである。
のーまくさーまんだーばーざらだー
その輪の一番内側、先頭では広場全体に響き渡る大音声で僧と尼僧ら五、六人が念仏を唱えている。手に持った鉦を打ち鳴らし、激しく踊り狂うその様を見て、彼らを取り巻いている村人達も更に激しく踊り、それが大きな渦となって輪の外の人々をも引き込んでいくようだった。
そわたやーうんたらたー
篝火に照らされた影は、人が跳ねる度に二倍にも三倍にも伸びたり縮んだりしながら彼らに合わせて回っていく。
それは夜の灯りに翅を焼きながら飛び込む蛾の様でもあり、もっと得体の知れない、それこそ物の怪に憑かれた人ではない何かの集まりの様でもあった。
「俺はここにいるから、適当に混ざって遊んで来いよ」
振り向くと、既に勘蔵は筵を広げて腰を下ろしていた。
「ほら行こら」
鷹之進に急かされて小太刀丸も荷を下ろすと、その狂乱の輪の中へと入って行った。
小太刀丸達を見送った後、勘蔵はそっと独り言ちる。
「あんたも入ってくればいいのによ。今ここで夜盗なんか出やせんよ」
「そう言うならもっと明るい場所にいて下さい」
ちょうど勘蔵のすぐ後ろを通り過ぎた女が、こちらも小声で窘める。女は暗い色の衣を着ているのか、ちらと横目で見た勘蔵には顔が辛うじて見えるだけであった。
「だいぶ広まっているようですね」
「分かっていたことだ。それにお蔭で親父の命は助かった」
「責めている訳では」と女は口を濁す。
「ところで、明日は城の方まで足を伸ばすつもりですが、何かいいものはありますか」
「塩と干物ならあるが、持ってくか」
「では塩一升と秋刀魚を」
そう言うと女は勘蔵の返事も待たずに去って行った。
塩があれば宿は取れるだろう。もしかしたら、何か情報も買えるかもしれない。できれば砂金を持たせてやりたいところだが、この辺りに砂金を商う者はいない。武家でない勘蔵達には塩が最も扱いやすい品なのである。
暫くして、勘蔵が塩と干物を小分けにし終わった頃、女は音もなく戻ってくると、勘蔵の後ろから手を伸ばし、小分けにした袋を受け取った。
「蛸は言いませんでしたが」
「あんたの好物だろ。もう少し我儘言ったらどうだい」
それから、と勘蔵はめはりずしの包みを手渡す。
「どうせろくに食うてないんだろ。持って行きな」
ありがとうございます、と竹の葉の包みを受け取ると、袋の中にしまい込んだ。
「それでは、そろそろ発ちます。鷹之進様によろしくお伝え下さい」
「そう言うなら、連れて行ってやればいいだろうに」
勘蔵の言葉に女はようやく、くすりと笑った。
「鷹之進様には、こういう仕事は向きませんから」
椿はそう言うが、決して鷹之進が駄目な訳ではない。剣の腕も立つし、山中での潜伏や偵察でへまをしたことも無い。
ただ、椿と組んでいる間だけは、椿が二人分の仕事をして鷹之進が手を抜いている様に見えることが多かった。そのこと自体はお互い嫌がってはいなかったが、椿としては日々の見回りなど、身の危険の少ない仕事は一人で済ましたいようだった。
「それから、その様付けするのも、そろそろ止めたらどうだ。あんたら、もう夫婦だろうが」
いつまでも神か仏のように崇まれても鷹之進も困るだろ、と溜め息交じりに言うが、椿は何も言わない。ただ、勘蔵には背後で微笑みを浮かべて、ゆっくり首を振る様子が容易に想像できた。
「それでは失礼します。お義父上様」
やれやれと勘蔵が振り返るが、既に椿の姿はそこにはない。
「まったく、どうしたもんかね」
椿は昔、大水の崖崩れで家と両親、そしてまだ幼かった妹を失っている。その時に、まだ土砂降りの雨が続く中で、皆の制止を振り切って崩れた家から椿を助け出したのが鷹之進だった。
その前の年には、別の場所の崖崩れで今はシャガの花園になっている一帯が押し潰され、鷹之進も友達を亡くしていた。それに続いての災害である。
後先を考えずに崩れた茅ぶき屋根に掴みかかった鷹之進に、他の者には来るなときつく言い含めて勘蔵とお藤だけが付いて行き、腰から下を土砂に埋まりながらもただ一人生き残っていた椿を助け出したのだった。
それ以降、身寄りの無くなった椿を引き取り育ててきた。元々見回り組の子として山中での偵察などを仕込まれていた椿は、早くから鷹之進と離れて大人達と動くことが多かったが、家に戻れば「鷹之進様」と呼んでよく遊んでいた。
歳も近く、元から仲が良かった二人であり、周りの大人達もおどけて言っているだけだろうと、特に気にもしていなかった。
しかし、それがとんでもない思い違いだったことは、それから六年経ち、一緒に見回りに出かけるようになった今でも変わらない呼び名に聞いた通り。本人はいたって優秀であり、里を守るには欠かすことのできない一人になったが、妙なところで心配を掛ける子になった、と大人達は笑う。
勘蔵も喧嘩一つしない椿を心配し、それとなく聞いたことがあった。
昔のあんたは、そんなしおらしい子どもじゃなかっただろうと言うと、
「鷹之進様に不満に思うことはありませんから」
と前置きした上で、大水で家が崩れる前、親が大喧嘩していたのだと話してくれた。
雨音をかき消す程の激しい怒鳴り合いで周りが見えなくなっていたのだろう。気がついた時には、もうどうにもならない所にまで水が押し寄せており、そのまま家ごと押し潰されたのだという。
だが、だからといって、いつまでも我慢することばかりでは身が持つはずがない。
「そろそろ考えんとな」
踊りの輪の中に息子たちの姿を探しつつ、思案に暮れるのだった。
輪の中は小太刀丸がこれまで経験のしたことのない異様な熱気に包まれていた。
お盆の祭りであるのなら、先祖の霊を慰めるためのものなのだろうが、これは小太刀丸の里で行っている初盆の行事とは全く違う。皆、我を忘れ、他人の顔すら定かではない夜の闇の中、ただ己の楽しみのためだけに踊っているようであった。
人の波に揉まれ、あっという間に鷹之進とはぐれてしまった小太刀丸は、この異様な集団の中、目隠しをしたままで崖の上を走るような不安を感じていた。
あぼきゃべいろしゃのーまかぼだらまにー
だが、同時に怪しげな呪文のような念仏と人々の笑い声の中に混ざって踊ることに、言い知れない気持ちの高まりも感じていた。
踊る人の顔は分からない。しかし、篝火が爆ぜる度、一瞬人々の表情を浮かび上がらせる。踊っている人も鉦や太鼓を叩いている人も皆、ぎらぎらと目を光らせ、挑むような笑みを浮かべていた。
俺よりもここの人達の方が、よっぽど物の怪じみてるよな。
川又で射掛けられて以来、物の怪として振る舞うことを恐れ避けていた小太刀丸だったが、何も人でなく振る舞うのは自分達だけではないのかもしれないと思うと少し気が楽になった。
暫くは輪の中で踊り続けていたが、やがて人波に疲れて外に出た。
見回しても暗くて自分がどこにいるのか分からない。輪の周りをぐるりと歩くと、遠くに勘蔵の座っているのが見えた。どうやら初めの場所から半周回ったところで外に出たらしいが、半周でやめたのか、一周半したのか、あるいはもっとなのか、全く見当も付かなかった。
兄貴はまだみたいだけど、先に戻るか。
小太刀丸が再び歩き出した時、輪の中から弾き出されるように一人の娘が飛び出してきた。気が狂ったような笑い声をあげながら、纏めていない背中まである長い髪を振り乱して跳ねるように進むと、小太刀丸のすぐ脇で膝を着いた。
一瞬、全身に鳥肌が立つのを感じた。
小太刀丸と篝火の間にいる娘の顔は暗くて見えない。表情が見えず、泣くように肩を震わせながら、しかし、狂ったような高笑いを発している。
一方で、篝火の灯りに照らされて輝く髪を振りながら、踊り向かってくる様は狂気の中にも、得も言われぬ美しさがあった。
恐怖と好奇心から動けずにいると、膝を着いたままの娘が顔を上げた。
「あんたも、踊り疲れた?」
肩で息をしている娘に手を差し出すと、ありがとうと小太刀丸の手を取って立ち上がる。
「まだまだこれからなんだから、ちょっと一息ついてもいいよね」
「朝まで踊んの?」
一瞬、きょとんとした娘は、すぐにああ、と声を上げた。
「盆祭りは朝までやるけど、丑の刻までに半分はお堂に行って寝ちゃうからね。踊るなら今の内に踊っておかないと」
里の外の人はいつもそう聞くんよ、と娘はにっかと笑う。むき出しになった白い歯が篝火に照らし出された。
「おい」
後ろから声を掛けてきたのは、どう考えても小太刀丸の知らない男だった。
「悪いことは言わんから、そいつから離れえ。そいつは……」
娘にぐいぐいと手を引かれて、そこから後は聞こえなかったが、見回すと何人もの大人が二人を遠目に取り巻いていた。恐らくは、皆同じことを考えていたのだろう。
踊りの列に紛れ、再び列の外に出て来た時には二人の様子を窺う者はいなくなっていた。
「ごめん」
娘は手を放すと、小太刀丸に背を向けたまま謝った。
「大人達はさ、あたしのことが気に食わないらしいんだよね。物の怪に憑りつかれてるとか言っちゃってさ」
「どうしてさ」
物の怪という言葉にふと興味を引かれた。
「物の怪の衣を着たから」
「物の怪の衣? 何それ」
口ではおかしがっているように聞いてみたが、小太刀丸の背には暑さのせいでも踊ったせいでもない嫌な汗が流れた。
「旅の人を泊めた時にね。そのおじさんが山の物の怪の里で手に入れたっていう白無垢を着せてもらったんだ。そしたらその後から、あいつは物の怪に憑かれただの、あいつと関わると不幸がくるだの、酷いもんよ」
「お城の姫様は喜んだって聞いたけど」
「だからさ。要は僻んでんの。絶対に自分達の手の届かない物だったからね」
ま、わたしだって逆立ちしても買い取れる物じゃないし、運が良かっただけなんだけど、と篝火を見上げる。
小太刀丸はその白無垢を見たことはなかったが、それ程までに人々が羨む物を持っていたということが未だに信じられない反面、少し嬉しくもあった。
その時また、遠巻きにしている人々の視線が、小太刀丸達に集まってきているのを感じた。その中の一人がこちらに向かって来るのが見えたので、今度は小太刀丸が娘の手を引いて踊りの輪の中に入って行った。
輪の中では外とは打って変わり、二人が入っても気が付かない程の熱狂ぶりであった。輪の中に入ると手を離し、二人並んで踊りだす。内側の輪の人がずれる度、炎が二人の顔の左側をぼんやりと赤く照らし出した。
半周程進み外で遠巻きに見ている人々の視界から消えた時、小太刀丸はそっと娘のすぐ後ろに回る。
「またね」
そうして、「えっ」と振り返る娘の視界から外れるように、列の後ろへと紛れた。
夕立の後の雲の多い夜。人の子の寝静まった丑の刻の頃。隠れ里の川辺ではひっそりと初盆の棚が燃やされていた。
本当なら煙の出るようなことはしたくない。しかし、かといって仏さんを呼んだ棚を燃やさない訳にはいかない。もちろん竈の薪にするなど論外だ。
竹とひのきの葉の棚はよく脂が乗って、火を点けるとばちばちと音を立てて爆ぜながら、あっという間に燃え上がった。
火の粉を巻き上げながら燃える棚を眺めながら、小太刀丸は三日前の祭りの火を思い出していた。
あの時、燃え上がる炎に長い髪を煌めかせていた娘は、強気に振る舞っていたが隠れ里の衣を着たせいで里の人々から避けられているようだった。それはそのまま小太刀丸達、隠れ里の人間がどう思われているか、ということも表しているような気がした。
物の怪として生きること。それは生き延びるために自分達が望んで扮したことだ。小太刀丸にしても、少なくとも射掛けられるまでは、そうして生きることを楽しんですらいた。
しかしあの時、娘の話を聞いて人として生きていけないことに、どうすることもできない哀しさを覚えた。そして同時に娘に対して申し訳ないとも感じたのである。
勘蔵と鷹之進にその話をすると、心配なら市に来る時に様子を見に行ってやればいいと言う。そして世間話でもしてくればいいと。どうやら、小太刀丸が外の様子を教えてもらう相手としてちょうどいいと思っているようだ。
外の人との関わりの全てに、隠れ里の人間としての役割を求められることに少し息苦しさも感じたものの、あの娘ともう一度会えるかもしれないと思うと、そんな息苦しさも些細なことのように思えた。
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