第八章 誰が命か

 宗弘の屋敷を泥まみれにし、綾女の家を押し流した大雨は、その上流にある小太刀丸達の里にも大きな傷跡を刻み付けていた。

 川のそばの低い位置に建っていた家は全て流され、五西月さしきの村に遅れてようやく頭を垂れ始めていた稲も濁流に飲み込まれ失った。

 家を失った人々は無事だった人の家に助けてもらい、ひとまず雨風は凌いだが問題は食べ物の方だ。

 元々足りない米は全滅であり、麦や稗などもとても冬を越せるほどは残っていなかったが、裏山の畑はなんとか無事であり、嵐のすぐ後に採れた里いもで空腹を凌いだ。また、それぞれの家の庭に植えている渋柿も干し柿にすれば貴重な食糧となった。

 しかし、それらとて果てしなく湧き出る訳ではない。初雪の降る頃には里いもは種いもを残して茎まで食べ尽し、干し柿も全て無くなった。皆ひもじく、子ども達は色付いていない渋柿を取っては齧り、渋さに投げ捨てては小太刀丸や大人達に怒られた。


 冬も盛りとなり、里の向かいの山が真っ白に姿を変えた中で、今、里の大人達は小太刀丸の家に集まり、土間に座り込んで一様に難しい顔をして話し合いをしている。しかし、話し合いとはいっても皆の口をついて出るのは溜め息ばかり。

 元々選択肢の無い話し合いである。

 そろそろ誰かが結論を出さなければ、と勘蔵が立ち上がった。

「もはや里に食べ物はない」家の中でも勘蔵の息がはっきりと白くなった。

「下の里も先の大雨で飢饉になって、市でも食い物はほとんど手に入らん。これはもう、覚悟を決めて掘り返すしかないだろ」

 異論のある者はいるか、という声に皆顔を曇らせるが誰一人として声を上げることはなかった。

「なら決まりだ。取り分は後で決める。皆根っこを掘り出したら、ここに持って帰ってくるように」

 一人さっさと出ていく勘蔵に釣られて、皆のろのろと立ち上がる。

「覚悟なんてできる訳がないだろ」

 誰かが呟くと、別の誰かが「まったくだ」と力なく応えた。

「だが、食わんといずれ飢えて死ぬ。毒食って死ぬか、何も食わずに死ぬかってだけよ」

 そう言って溜め息を吐く。

「とにかく、今は彼岸花掘るしかねえわ」

「まったく。誰がこんな名前つけたんだかな。彼岸に咲く花なのか、彼岸に行くための花なのか」

 誰も答えようとはしなかった。


 小太刀丸はいつものように里の子ども達を連れていた。子ども達は息をすれば鼻の奥がツンと痛む寒さにも負けず、真新しい雪が残っているのを見つけては足跡をつけ、霜柱を見つけてはザクザクと音を立てて踏みつけて遊びながら小太刀丸の後をついてくる。

 皆、肩には鋤を担いでいる。大人達に混ざって彼岸花を掘り返しに行くところだ。これから食べ物を掘るのだと嬉しそうに笑っているが、空腹のためか皆どうにも元気がない。

 そして、ないのは元気だけではない。

 子ども達の顔もいくつか消えた。

 幸い、命を落とした子はいないが、あかねが先の大雨で家を流された。伯母の家に身を寄せているが、それ以来、めっきりと身体が弱くなってしまった。今日も具合が悪いと寝込んでいる。

 お竹と鮎子は元気だが、周囲の雰囲気を敏感に感じ取っているのだろう。皆が食べ物に窮するようになるにつれ、母親から離れるのを極端に嫌がるようになった。

 小太刀丸は残りの子ども達を連れて、根を掘る場所を探していた。田んぼの畦や、裏山の畑の周りでは既に大人達が掘り返し始めている。

「小太刀兄。食い物採れる場所ないの」

 猪助が不安そうに見上げてくる。振り返ると他の子達も小太刀丸を見つめていた。その様子が余りにも切なげで、思わず溜め息を吐いた。

「あるで。行こか」

 本当はどこか田んぼの端にでも入り込んで、大人達に混ざって彼岸花を掘り返そうかと考えていたが、今は少しでも多くの食料が必要な時。無邪気に喜ぶ子ども達を連れて、裏山を登っていく。

 日の射さない暗い竹藪の中を進む。

 夏には元気のあった竹も枯れた葉を落としているので少しはましだが、日が差し込まない山の中はぼんやりと暗い。急峻な山々に囲まれている里の周りでは、日の低い冬場にはお昼前後のわずかな時間しか日が顔を覗かせない。それが冬場の食料不足に拍車をかけていた。

 雪で真っ白な中、人一人通るのがやっとの黒い筋をそのまま登れば、畑に辿り着く。けれど、そっちには先に大人達が登っていくのが見えていた。大人達に混じって掘り返してもいいが、それよりも、もっとたくさんの彼岸花が咲く場所を小太刀丸は知っていた。

 立ち止まって少し考える。

 そこはちょうど枝道の前で、ついて来ていた子ども達にも何を考えているのか分かった。

「ここ入るの」

「ねえ、止めよう。上まで行こう」

「お父ちゃんに、怒られるよ」

 口々に不安を漏らすが、小太刀丸は答えない。その頭の中ではむしろ、大人達にこの場所を押し付けられたというむっとした怒りが湧いていた。

 早い者勝ちだって? あんたら自分の子どもにこんな所掘らせんのかよ。

 とはいえ、差し迫ったこの状況では、いくら嫌でも、罰当たりなことでも残っている物は全て掘り返さなければならない。

 両手で頬を叩き、その怒りを鎮めると、にんまり笑って振り返る。

「さあ、墓荒らしの時間だ」

 悲鳴を上げる子ども達を置いて、一人さっさと枝道に入って行った。

 枝道の先にあるのは小さな墓場。ここで生まれ死んだ者達が眠る場所。

 ひとまずの追手が来ないと分かった時、落人達は隠れ家を抜け出し、川辺に里を構えた。

 その時、墓場も里のすぐ裏手になるこの場所に移してきたのだという。

 ちなみにそれ以前の墓場について、小太刀丸は何も聞かされてはいない。ただ、いつ追手が来るかもしれず、ろくに道具も無かったであろう時代のこと、埋めるくらいのことはしても、墓だと分かる物は何も残せなかったろうし、きっと残す気も無かっただろうと思っていた。

 今、ひとまずの危機は去り、余程のことがない限り里の人々は命の心配をする必要もなく生きている。お蔭で畑の一段、二段程度の広さの土地にきちんとした墓を造って葬ることもできる。

 墓があればその周りには彼岸花が植えられる。草全体に毒のある彼岸花は墓を荒らすもぐらが入り込むのを止めるために、墓場のいたる所に植えられ、秋には墓場全体が燃えるように赤くなった。

 子ども達もそれくらいは知っている。何人かは植えるのを手伝ったことすらあった。だが、それを掘り返すとなると話は別だ。しかもそれを食べるなど想像したはずもない。

「本当に、掘るの?」

 猪助が泣きそうな顔で訊いてきたが、小太刀丸には頷いてやることしかできない。

 もちろん小太刀丸だって嫌だ。自分で先祖の墓を荒らすなど、もっての外だ。

 そもそも、先祖の墓でなくても、墓場を掘り返すなど、間違って誰かの骨が出てきたらと思うだけでぞっとする。

 だが、指先程の小さな球根で里の皆が何日食べていけるかを考えれば、一つでも多く取らなければならない。その一つで生き残れる人の数が変わることだってある。

 墓場全体が見渡せる所まで進み出ると、小太刀丸は静かに手を合わせた。子ども達もそれに倣って神妙に手を合わせる。本当は水を汲んで来て目印代わりに置いている石の一基毎に掃除をし、手を合わせたいところだが、そんなことをする時間も余裕もない。

 手を下ろすと、薄く積もった雪をかき、墓場の周りから掘り出し始めた。


「まだ掘るの?」

 猪助がそろそろだれてきたらしい。

 掘り始めてもうずいぶんと経った。ようやく山の端から遅い太陽が顔を覗かせ、背中が少し温まってきたところだ。それに、まだ墓場を囲む一辺を掘り返したばかり。まだまだ手を休める訳にはいかない。

 だが、見回すと他の子ども達も明らかに手の動きが悪くなってきている。それが空腹や寒さのせいだけでないことは、その視線の先を見れば明らかだった。

「ご先祖様怒らん?」

 猪助がぼそりと呟くと、他の子ども達の不安も一気に噴き出してきた。

「呪われるのやだよ」

「祟り殺されるの?」

 小さい子が泣き出す子と皆あっと言う間にもらい泣きし始めた。

「さっきから変な寒気がするう」

 もはや、採集を続けられる状況ではない。

 とりあえず、初めに泣き出した子を抱いてあやしてやる。

「大丈夫。大丈夫だから、落ち着け」

 ゆっくり体を揺らしながら頭を撫でてやると、号泣は啜り泣きに変わり、それもやがて落ち着いていった。

 他の子ども達も落ち着いてくると、小太刀丸は皆を集めて座らせた。

「俺らが掘ってんのはお墓の周りだけだろ? お墓自体を暴く訳ではないし、大丈夫だ」

「でも」と言い募る猪助をまあまあと宥め、それにと続ける。

「ちゃあんと丁寧に扱ったら、ご先祖様も俺達が生きるためにやることに文句は言わんって」

 だから、飢饉が終わったらまた球根を植えに来ようなと言うと、ほとんどの子ども達は怖々とだが頷いた。

 だが、他の子ども達より年上の猪助は、それだけでは納得できないらしい。

「でも、ご先祖様はお盆の時にだけ帰ってくるんでしょう? ずっと里を見ている訳ではないんでしょう?」

 来年帰ってきた時にお墓の周りが荒れてたらやっぱり怒るんじゃないの?

 そう言う猪助の目は真剣だ。そして既に一辺掘り返したことへの怯えがありありと伝わってきた。

 これを、ご先祖様はそこに埋まっているだろ。いつだって俺達を見てくれているよ。と答えるのは簡単だ。

 だが、きっとそれでは納得しない。

 人はいつだって見える物よりも、見えない物をこそ恐れる。目の前に見える蝮や熊よりも、どこにいるのかも何をするのかも分からない物の怪の方が怖いものだ。

 里の人間はそれを使って里を守ってきたが、それは物の怪や幽霊や魂を信じているからこそ。もちろん猪助も小太刀丸も、自分達が演じているのではない本物の物の怪や幽霊がいると信じている。

 だから、自分が納得できない説明をすることはできない。

「ちょっと古い言い伝えについて話そうか」

 それは小太刀丸が幼い頃に祖母から聞いた物語。

「昔々、この国が生まれた時、一組の夫婦の神様がいたんだそうだ。その神様が島を創り、山を創り、海を創った」

 何の話かと戸惑いながらも、猪助は小太刀丸の話にうんと頷いた。他の子ども達もなんだろうかと、身を乗り出して聞いている。

「その女の神様が死んだ時、どうしても会いたくて仕方なくなった男の神様は根の国まで会いに行った」

「根の国?」

「あの世のことだな」

 この話を聞いたことのある子、初めて聞く子、顔を見ればどちらもいることが分かったが、皆赤い目のまま、おとなしく小太刀丸の話を聞いてくれた。

「根の国まで会いに行ったのは良かったが、そこで会ったのは腐り果てて見る影もなくなった妻の姿だった。怖くなった男の神様はぎゃあと叫ぶと、慌てて根の国から逃げ帰ってしまいましたってお話」

「うん。聞いたことあるよ」

 猪助が少し照れくさそうに笑う。

「夜眠れない時におっかあが聞かせてくれた。女神様が怖くて余計に眠れなくなったけど」

 小太刀丸も笑って頷く。

「夜中に聞くにはちょっとな」

 でさ、と先を続ける。

「その根の国だけど、どこか知ってる?」

 急に振られて、皆首を横に振る。

「それはな。ここ」と足元を指差した。

「紀伊の国のこと」

 話が飲み込めず、きょとんとしている子ども達に更に続ける。

「もう少し南の熊野の方らしいけどな。とにかく、あの世って、結構近いんだよ」

 手の届かない遥か彼方なんかではない。山を二つ三つ越えた所にある。

 それを聞くと、とても安心できた。

「だから、飢饉のことも、生きるために周りを掘り返してることも、お墓を荒らさないように気をつけてることも、きっと分かってくれるだろ」

 どうだ、と猪助の顔を見る。

 祖母は「ここは『木の国』だから、その下には根の国があるんだよ」と笑って話していたので、何かの冗談のつもりだったのかもしれない。けれど、それからの小太刀丸はそれが本当のことなのだと信じていた。だから、八つの時に祖母が他界しても、なんとか涙を堪えることができた。

 猪助はしばらくもごもごと、声にならない独り言をいいながら小太刀丸の話を咀嚼していたが、やがて顔を上げると少し頼りない表情ながら「うん」と頷いた。

「よし。そしたら日暮れまでに残りの分も掘ってまおら」

 小太刀丸が勢いよく立ち上がると、他の子ども達も鋤を持ってそれぞれの場所に散って行った。


 そろそろ辺りが暗くなろうかという頃、小太刀丸の家ではかご一杯に彼岸花の球根を掘ってきた大人達が、土間に広げた筵に山と積み上げていた。それでも眺める大人達の顔は一様に暗い。

「これだけ掘って、何日持つかの」

「さあな。ゆがいてしまえば、ほとんど残らんからな」

「海の方だけでも、良くなってくれたら、春まで持つんだろうけどねえ」

 大人達が溜め息交じりにそんな会話をしている中、小太刀丸達が玄関の敷居を跨ぎ越してきた。

「ただいまあ」

「おう」と返した勘蔵は籠の中を見て、顔をほころばせた。

「ようさん採って来たな。お前らが一番多いかもしれん」

 周りの大人達も覗き込んでは「大したもんだ」と子ども達の頭を乱暴に撫で回した。

「そりゃあ、ね」

 頭の上の大きな手を押しのける。

「おいやんらが一番多い所を押し付けるから」

「おうおう、それは悪かったな」

 熊雄のおいやんが小太刀丸の背中を叩いて笑う。小太刀丸は皮肉のつもりだったのに、駄々をこねている子どものように扱われてむっとしたが、これ以上言うのもどうかと思い口をつぐんだ。

「よし」と勘蔵が皆に呼びかける。

「そしたら今日はここまで。明日は総出でやるから、皆遅れんようにな」


 翌日、里の前の川にはまだ薄暗い内から里の皆が集まっていた。

 まず子ども達がそれぞれ持ち寄った「ざる」に根っこを取り分け、川の水で泥を洗い落としていく。洗った根っこを受け取った女衆は薄皮を向いて四つ、八つと切って男衆に回す。男衆はそれを栗の木で拵えた臼と杵で粒が無くなるまでひたすら搗き続ける。

 完全にどろどろの白いお粥状になったら、壺に入れて水を満たし、よくかき混ぜてお粥を洗う。洗ったらお粥が沈むのを待って水を捨て、新しい水で満たしてもう一度洗う。七度程洗えばようやく毒の抜けたお粥状の食べ物となる。

 洗いには数日掛かることから、臼で搗き終ったお粥を持って帰るためにそれぞれの家からいくつもの壺が持ち寄せられ、川沿いの枯れた葦原に所狭しと並べられていた。


「小太刀兄、遅い」

 小太刀丸が池の様子を見に行くと、猪助が嬉しそうに声を上げた。それに釣られて他の子ども達も一斉に振り返った。

 まだ洗い始めたところなのか、子ども達の後ろには大きな籠に根っこが山と入っている。この時期、川の水も冷たく、川岸の砂利の間には所々薄氷が張っている。先は長いというのに、子ども達の顔色は良くない。皆一様に肩を震わせていた。

 少し後ろでは暖を取るためにいくつか火が焚かれているが、川の水に足が浸かる所まで行って洗っている子ども達には、なかなかその恵みは届かないようだった。

「はーい、ちょっとどいてよー」

 小太刀丸の後ろから、大きな桶を持ってお藤が現れる。桶には白い柱のような湯気が上がっていた。

 ざざーと子ども達の裸足の足元に湯を空けると、みるみる内に氷が解け、薄っすらと湯気が立ち上った。

「さあ、これでしっかり頑張ってよ。あんたらが進まんことには他がやること無いんだから」

 夜明けの池の水はやはり身に応えていたのだろう。気休めではあっても温んだ水に子どもらしい歓声が上がった。

 そのまま、お藤も一緒に洗いに入る。他の女衆は朝飯の準備をしているのだろう。家々から立ち上る煙が暗い暁の空に吸い込まれていった。

「みんな兄ちゃんの場所空けたげて」

 猪助は小太刀丸も一緒に根っこを洗うのだと、他の子ども達を寄せて場所を空けさせたが小太刀丸はいやいやと笑うと、くるりと背中を向けた。

 その背には背負子があり、大きな甕が結わい付けられている。

「しっかり頑張れよ」猪助の頭をぐしゃぐしゃと撫で、小太刀丸は一人川上へ向かって歩いて行った。


 日々の暮らしには綺麗な水が不可欠だ。それぞれの家では瓶や桶に水を蓄えており、日頃の煮炊きに使っている。

 それを近くの沢にまで汲みに行くのは子ども達の毎日の仕事。

 目の前に川が流れているから、そこから掬ってもいいのだが、普段もう少し川上で魚を取ったり泳いだりして遊び、時にはそこで小便などをしていることを思うと、やはり粥に使う水は沢まで取りに行こうということになった。

 今日はいた彼岸花のお粥を何度も洗うのに大量の水を使うことが分かっている。きっと何往復もすることになるだろう。急がないと、一度目の洗いに間に合わない。

 足の裏で霜柱をざくざくと踏みしめながら、足早に沢へと向かう。

 川沿いの道を折れ、小さな沢の口で甕を降ろす。普段はもう少し沢に沿って山を登り、湧き水が出ているところまで行って汲むのだが、真冬の今は沢の周囲は広く凍り付き、甕を背負っての上り下りはとてもできそうにない。

 流れの中に甕を浸け、何度か洗って引き上げると身を切るような冷たい水滴が飛び散った。思わず身震いして見上げると、ちょうど目の前に梅の木があった。

「さっさと暖かくなってくれよ」

 三日前に降った雪の残る枝先にはつぼみがついていたが、まだ固く閉じられている。

 甕を背負子に戻し、あかぎれだらけの手で背負うと、背負子を伝う水に背中を震わせながら沢を後にする。

 川に戻ると、様子が変わっていた。

 川辺にはお藤に代わってあかねが入っている。一回目の分が洗い終わったところでお藤は抜けたのだろう。焚き火の後ろでは、臼を取り囲んでせっせっせと杵を持つ男達が球根を潰している。

「もう大丈夫なんか」

「うん。今日はすごく調子いいの」

 籠を手に見上げるあかねの顔にはどす黒いくまができており、とても調子がいいようには見えない。随分やつれており、ここ何日ろくに食べていないのかもしれない。

 だが、里にいよいよ食べ物が無くなり、彼岸花まで掘り返したと聞いて一人寝ている気にもなれなかったのだろう。

 本当は休んでいろと言いたいところだが、どうしても遅れがちな子ども達の中で、猪助とあかねが二人とも居るのと、猪助一人しか居ないのとでは仕事の進み方が全く違う。

 四つ五つの子ども達に教えながら泥と薄皮を剥いでいくあかねを見ていると、それははっきりしていた。きっと猪助一人では、そのまま根っこを口に入れてしまいそうになる子どもを止めるのに掛かりっきりで、中々捗らなかったはずだ。

 あかねの様子を横目に見ながら、用意していた大きな水瓶に持ってきた水を移す。ついでに沸いた湯を桶に取って子ども達の足元に撒いてやると、またきゃっきゃと歓声が上がった。

 普段は菜っ葉や大根を洗う時に湯を撒くことなどしないが、今日は根っこの数が多く、半日は川の水に浸りっぱなしになる。こんな飢饉の時に身体を冷やして風邪でも引けば、間違いなく命に関わるので小まめに温めてやらないといけない。

 焚き火で冷えた体を温めていると、猪助の母親が「食いな」と汁の入った椀を渡してきた。

「これは?」

 うっすらと白く濁った中に小さな粒がいくつか浮いた汁を飲むと、腹の底がじんわりと温まるのを感じた。

「どんぐりさ。昨日、みなで山の奥の地面を掘り返してきてね。少ーしだけ見つかったから、煮立てて粥にしたんだよ」

 それは、とても「粥」などとはいえない物だったが、その温かさはとても身に沁みた。

「ご馳走様」

 椀を川の水で洗って返すと、次の水を汲みに再び背負子を背負って沢へと向かっていった。


 小太刀丸が七度目か八度目の水を汲んで来た時、辺りの様子ががらりと変わっていた。それまで根っこを洗っていた子ども達の姿はなくなり、代わりに大人達がそれぞれ大きな甕を持って集まっている。小太刀丸からは見えなかったが、中にはそれぞれの家に割り振った彼岸花の根っこのお粥が入っているのだろう。

 時折、二人掛かりで甕を傾けては、上澄みを川に流し出す。甕を戻すと、今度は三人掛かりで水瓶を持ち上げて甕に入れ、再びお粥を洗う。そんな甕が川辺に五組もあった。

 汲んで来た水を水瓶に移すが、もうほとんど残っていない。さすがに一人では無理だと思った時、後ろから男達が列になって登ってきた。皆、小太刀丸と同じように背負子に甕を背負っている。

「おう。ご苦労さん」

 先頭を歩いてきた熊雄のおいやんはしゃがみ込むと、ようやったと小太刀丸を労う。その間に他の大人達が三人掛かりで、おいやんの背負子から甕を降ろす。

「後の水汲みは儂らがやっとくから、お前はちょっと火に当たって休んで来い」

 しばらく休んだら、まだやることもあるからな、と後からやって来た勘蔵も続ける。

 小太刀丸自身は少し疲れた位のつもりだったが、甕から伝う水の冷たさと朝から続けた重労働のせいで身体はがくがく震え、顔色も青くなっていた。

「丁度見回りに出てたやつらも帰って来て男手は増えたし、犬助が兎狩ってきてたから一口もらって来いよ」

 大人達の一行を見送って、焚き火の前に行くと子ども達が囲む炎の周りからここしばらく嗅いでいなかった焼ける肉の香ばしい匂いが漂ってくる。皆、手には薄く切った兎の串を握っていた。

「おう、お前の分も取ってるから来いよ」

 手招きする犬助に応えて隣に座る。

 あかねの兄である犬助は見回り組の一人でもある。里では不用意な侵入者を警戒して、毎日誰かしら下流の合流域付近を見回っている。里が見つからないよう、早目に見つけて、里に近づく前に追い返すのが彼らの役目である。

 枯れ木に腰掛けて身体を温める。差し出された串を取ろうとしたが全く掴めず、そこで初めて小太刀丸は自分がいかに冷えていたかを思い知った。

「肉は逃げやせんから、ゆっくり温まれ」

 犬助が笑うと子ども達も一斉に笑う。

 前のめりに手と身体を火にかざしていると、衣からもうもうと湯気が上がる。硬い肉を根気よく噛みながら、おもしろそうにその様子を眺めていた猪助が、ようやく飲み下してふうと満足そうに息を吐いた。

「獣ってまだ結構いるの」

「いるにはいるが、この前の大雨でだいぶ減ったな」

 まだ遊び程度の狩りしかしたことのない猪助に犬助が答える。

「畑に何もなくなってからは、山奥に入って行ったみたいで、最近じゃたまに兎か狸を見かけることがあるくらいだからな。狩って冬を越そうってのは無理な話だ」

「そっか」

「それができるなら、やってるさ」

 貴重な肉だからよく噛んで食えよ、と猪助の頭をつかんで振る。

「鷹兄達はいないの」

 久しぶりの肉が良かったのか、あかねの顔色も少し良くなった。

「鷹兄も椿姉も大水の後はずっと外に行ったまんま。たまあに帰って来るけど、すぐ出て行くし、しばらくは里にいないつもりなんじゃない」

 ようやく、いうことを聞くようになった手で串をつかむ。

「まああいつらは、遠くまで行くから、しゃあないわ」

 犬助が代わりに答えたが、実際のところ小太刀丸は兄夫婦が里の外で何をしているのかはよく知らない。

 知っているのは、大水の後、外の人達が流している里の噂や戦の噂を調べているらしい、ということ。

 他の大人達は田畑を直すのに忙しく人手がないので、その辺りのことを二人が一手に引き受けているらしいが、具体的にそれにどういう意味があるのか、小太刀丸にはよく分からない。

 ようやく衣も乾き、身体も温まってきた時、川下から走って来る人影があった。

「お義父上はいる?」

 久しぶりに現れた椿は、やはりずいぶんと痩せてはいたが、目には生気が満ち、声は明るい。その場にいた誰もが自分達の悲痛な状況とは相容れない存在のように思えた。

「沢の方に行ってる」

 小太刀丸の言い終わらない内に、ありがと、と走り去っていった。

「なんだ、珍しいな」

 犬助の呟きに小さい子ども達まで頷いた。いつも冷静で、時には何を考えているのかすら分からない椿がここまで興奮している様子を、小太刀丸は見たことがなかった。


「海まで行くから、ついて来て」

 息を切らして戻ってきた椿は、小太刀丸から兎の肉を受け取るとそう言い放った。

 自分の分から半分義姉に切り渡していた小太刀丸は、貴重な半切れを思わず落としそうになった。

「今から?」

 ここから市のある川下の里まででも半日は掛かる。小太刀丸は海まで行ったことはなかったが、里から更に遠いことは容易に想像が付いた。

「今から。明日の朝までには海岸に着かんなんの」

「どうして」

 そんなまた、と言いかける小太刀丸を犬助が遮った。

「漁が再開したのか」

 うん、と椿が嬉しそうに頷く。

「今、お義父上様に話したら、うちの他にも何人か出すみたい。私はうちの分だけ買いに行くつもりだけど、あんたとこはどうする」

 犬助は少し考えたが、いやと首を振った。

「どうせ量も多くなるだろ。なるべく別れた方が買いやすいだろうし、こっちはこっちで行く」

 うんと頷いて半切れの肉を飲み下すと、さあ、と立ち上がった。

「そういやよう」

 漁が再開されてと聞いて浮かれ気味だった犬助が、少し不安げに椿を見上げる。

「やっぱり高いのか」

「当然。塩じゃ一俵くらいなきゃ売ってくれないよ」それでも手に入れる自信があるのだろう。その声は嬉しくて堪らないというふうに弾んでいた。

「あんたも余程の物を持って行かないと、鯵一匹も手に入らんよ」

 椿が何と交換に買う気なのか、聞く気になれなかった。


 旅支度を終え、出る前に再び川辺へと戻る。二人とも小振りの籠を背負い、中にはいつもの鉈の他に塩と包丁を入れている。椿の籠にはそれの他に、こぶし大の包みが入れられていたが、恐らくそれで買う気なのだろう。

 川辺ではお藤達はまだ彼岸花のお粥を洗っていた。

 と、お藤が柄杓で甕の水を掬い口に含ませた。そしてぺっと吐き出すと、水瓶のきれいな水で口をすすぐ。

 そして甕の水を捨てると再び新しい水を注いでいく。

 いつの間に来ていたのか、甕のそばには鶺鴒せきれいがいた。水を飲みに来たのか、お粥の匂いを嗅ぎつけたのかは分からない。だが、甕のすぐ足元の水に口を付けたのだろう。既に息絶えていた。

 普段の穏やかな母親からは想像できない行動に言葉を失い立ち尽くした小太刀丸だが、その真剣な顔と足元に横たわる小鳥の亡骸に、今を生き抜くことがどれだけ大変なのか、改めて思い知った。

「ちょっと行ってくら」

「こっちはやっとくから、しっかり買っておいで」

 見送る母親はいつも通りの穏やかな声だった。


 大水の日以降、大人達が家や田畑を直す間、小太刀丸は子ども達を預かりながら、三日に一度は山を下りて綾女のところへ食べ物を持って行ったり、雨風を凌ぐために蓑や筵を作って行ったりしていた。

 だがあの日から後、山は所々大きく崩れて道は失われ、とても人の歩ける状態ではない。

 仕方なく川原に下りれば、淵が埋まって浅瀬になり、膝よりも深く流れの速かった早瀬は岸辺が大きく削り取られ、くるぶしまでの平瀬に変わっていた。目印にしていた岩もなくなり、代わりに見覚えのない形の岩が居座っていた。

 慣れない内は、普段の三倍もの時間を掛けて山を下った。

 日の出と共に家を出ても、祠にたどり着く頃には辺りは真っ暗。

 起こすのもかわいそうだからと、湿った苔の匂いのする森の中、息をしていることだけ確かめて、空っぽの祠の中に握り飯とこんこを包んだ筍の皮の包みを置き、夜道を帰った。

 何度かそういうことを繰り返している内に、「あの娘には稲荷が憑りついておる」という噂を耳にするようになり、ますます声を掛けづらくなったが、それでもせっせと人の目を忍んで食べ物を届け、様子を見に行った。

 山々が赤や黄、茶色に色づき、秋も深まる頃には大人達の手も少しずつ里の川下へと伸びて行ったが、里の中の食べ物がなくなるにつれて手も止まり、辛うじて通れるだけの道を掘るにとどまった。

 それでもお蔭で山を下るのは楽になったが、今度は持っていける食べ物が底をついた。握り飯は稗や粟が多くなっていき、それがなくなると栗や干し柿になり、やがてそれもなくなった。

 最後には、団栗を潰してあく抜きしたものや、藁を煮詰めて食べられる所を溶かし出し、煮詰めて膜にしたものまで持って行った。

 里の大人達は、これだけ通い詰めるくらいなら、いっそ連れて来いと迫ったが、勘蔵が首を縦に振ることはなかった。

「春まで神隠しに遭っておった、と言うことで問題なかろう。あれだけ行き来すれば腹減って仕方ないだろうが」

「それはできんのだ。やれば二度と戻れはせん」

 今のあの村なら、一度神隠しに遭ってしまえば、綾女の居場所など残らない。

 それが小太刀丸一家の出した結論。綾女を人として生かすには、この命の瀬戸際でも食べ物を持って行き続けなければならなかった。


 里を出る時に傾き始めていた太陽は川下の村に着く頃にはとっぷりと暮れ、空にはすでに月が輝いてる。しかし、椿は足を緩めない。このまま宵闇の中を海辺まで歩くつもりのようだった。

 ふと集落の方に視線をやる。一面の雪のお蔭で思いの外遠くまで見渡せた。

 大水の前にあった家々はことごとく流し去られ、粗末な掘っ立て小屋が目立つ。田畑は薄っすら雪を被っていたが、刈り入れの際に残るはずの刈り株がない。刈り取りの最中だったこの里でも、取れ高はかなり落ちたと聞いていた。

 少し遠くに綾女の家の田んぼが見える。

 綾女に食べ物を届けた後、夜中の人目がない間に田んぼに置き去りになった岩を少しずつ運び出した。お蔭で田んぼの中は大分綺麗になったが、切れた畦はまだ直せていないまま。村の人が気を効かせてくれることはないだろう。

 綾女のことが気になるが、今から祠に向かっても何もしてあげられない。帰りに魚の一尾でも焼いてやれることを信じて村を通り過ぎる。

 畦道を抜けると、やがて大きな道に行き着いた。

「さ、後二里くらいだから」

 椿に先を促され、よく踏み均された広い道を歩いていく。紀伊路と呼ばれるその道はどんなに人気のない所でも、走っている馬がすれ違えるだけの道幅があった。

 そして道には雪が残っておらず、日の暮れた真っ暗闇の中、道の脇に薄く積もった雪が月の光に照らし出され、真っ黒な道を浮かび上がらせている。

 歩いていると、見えるもの全てがこれまで見た物よりも大きかった。川は広くゆったりと流れ、土地は五西月さしきの村と比べても更に広く、空は大きい。雪もあり寒いことは確かだが、里に比べれば随分と暖かく、そして、風は湿り気を帯びてこれまで嗅いだことのない匂いがした。

 初めて嗅ぐ匂いに気を取られていると、急に椿が立ち止まり、地面に耳を付けた。すぐに何事か理解した小太刀丸にも緊張が走る。

 三つほど数える間、辺りには全くの静寂が訪れた。

 必死で耳を澄ましたが、何も聞こえない。

 もう少し遠くに意識を集中させようとした時には担ぎ上げられて、わずかに葉の残る街道脇の枯れ藪の中に押し込まれていた。

 それからは生きている心地のしない時間が続いた。

 明らかに街道から外れた場所を何頭かの馬が駆けて行った。

 それらがあっと言う間に駆け去り、ほっとすると同時に今度は徒歩の集団の足音が聞こえてきた。

 五人くらいか。

 彼らも道の反対側に隠れている二人には気付くことなく過ぎ去っていく。

 と、遅れてきた一人が小太刀丸達の隠れている藪の前で立ち止まった。

 気付かれたか。

 小太刀丸は衣の内の刀に手を伸ばすが、その手は椿に押えられた。

 少し力を入れれば、椿も力を入れる。

 椿は小太刀丸の脇におり、首を動かせない今、その表情は見えないが、決してこちらからは出ていかないつもりなのは分かった。

「おい、次郎。ぼさっとすんな行くぞ」

 先に行っていた徒歩の集団から呼ぶ声がする。

「誰かいる」

 ああ? とぞろぞろと足音が戻って来る。

「いねえじゃねえか」

「これ」

 そう言って男の示しているものが、足跡なのかそれとも枯れ藪に隠れた二人のことなのか、小太刀丸からは分からない。

 まともに息をすることも、視線を動かすことすらもできないまま時間が過ぎていく。

 少しでも枯れ藪を回り込まれれば、見つかってしまう。

 相手は五人。いくら前の夜盗の頭との戦いの後、小太刀丸が剣術の稽古をつけ、椿が強いといっても、余りにも分が悪い。

 しかも、椿は見つかるまで決してこちらから仕掛けるつもりはないらしい。

 二人の命は夜盗の手に握られていた。

 後ろから回した椿の指が小太刀丸の口を押える。

 少し開いた歯の間に当てられた指は、小刻みに震えているようだった。義姉上も怖いのか。そう思うと少し落ち着きを取り戻した。

「こんな足跡、いつ付いたかも分からねえだろうがよ。道草食ってたら、また馬の連中にどやされんぞ」

 ほら遅れんなと、次郎と呼ばれた男は怒鳴りつけられて、何やらぶつくさと言いながら先に行く夜盗どもを追いかけて行った。

 夜盗どもの足音が遠ざかり、しばらくが経った。

 風が枯れ枝に残った僅かな葉を揺らす音以外は何も聞こえない。

 だが、どこまで行っても暗闇の中から戻ってくる気がして全く動けない。

 そもそも、本当に全員が去ったのか。一人残っているのかも分からない。

 秋に綾女と一緒に夜盗から隠れながら逃げた時とは全く違う怖さがあった。あの時はただ通り過ぎる夜盗に感づかれなければ良いだけだった。だが、今のは獲物を狙う獣のような凄みがあった。

 それでも、通り過ぎた集団はいつまで経っても戻って来ることはなかった。衣擦れの音一つしないことで、誰も残っていないことも分かった。

 完全に彼らの足音が聞こえなくなって、ようやく小太刀丸は椿の指を離して息を吐き出した。そしてこの時になって初めて、震えていたのは小太刀丸自身であったとこに気が付いた。

 椿は小太刀丸が震えて歯を打ち合わせる音が立たないよう、指を当てていたのだった。暗闇の中、椿の指は見えなかったが、はっきりと歯形が付く程に、もしかすると血が滲む程に強く噛んでいたのだと今更ながらに理解した。

 そっと立ち上がると、まず椿が道に戻る。地面に耳を当て、戻って来る気配のないことを確認すると、

「おいで」

 と小太刀丸を呼び戻した。

「戻って来ない内に行くよ」

 小太刀丸も震える首でうんうんと頷くと、紀伊路を越え、うっすらと白い田んぼの広がる間を足早に海へと向かう。

「戦うとか考えないでよ」

「え?」

 曲がり角の多い道を一歩前に出て歩く椿が、ゆっくりと諭すように言った。

「私らが死んだら、里の家族が飢え死にするんよ。例え生きてても、手足を失くしたら魚を持って帰るどころじゃないでしょ。だから、絶対に戦っちゃだめ」

「でも、さっき見つからなかったのって運でしょう。見つかったら、やっぱり戦ってたんじゃないの」

 しかし、椿は首を振る。

「戦わない」

「じゃあどうするの」

「これで見逃してもらう」

 そう言って籠を揺する。中では布に包まれた何かが転がり、ごとんと音を立てた。

「奪った後で殺されるんじゃ」

「かもね。でも、高価な物だからやり方次第では逃げ切れるかもしれない」

「それじゃあ、助かっても何も買えないんじゃ」

「それは、その時に考える」

『その時』が来なくて良かったと心底思う。椿なら殺して奪うくらい訳なくできるだろうから。

「とにかく、今は里に食べ物を持って帰ることを一番に考えないといけない」

「そんなこと言っても、椿姉なら勝てそうな気がするけど」

 小太刀丸は実際に椿が戦っているところを見たことはなかった。しかし、椿が里で一番腕が立つのは皆の認めるところであったし、山賊を撃退したり、畑を荒らす鹿や猪を射止めたりと、いくつもの功を立てている。

 夜盗の四、五人くらい、命乞いなどしなくても簡単に伸してしまえるように思えた。

「勝てないよ」

 小太刀丸の期待は、しかし、一言で切り捨てられた。

「勝てない。もちろん小太刀が一緒にいてもね」

「でも山賊なら何度も退治したでしょ」

「それはまた別の話」

 道はいつの間にか、畦道から山の中の急な細道に変わっていた。湿り気のある風の香りはますます強くなっている。

「私はね、絶対に正面切っては戦わない。必ず、罠を張って背後を取って見つかる前に仕留めるの。それが里の中では一番上手にできたから、皆が強いと言ってくれるけれど、山賊を何人も一度に相手できる程腕っぷしが強い訳じゃない」

 獣道のような細い道が交わる十字路を更に細い方へと曲がる。雪の照り返しがあっても山道は暗く、転ばないように付いて行くのがやっとだ。

「だから、さっき、もし戦っていても絶対に勝てないし、そこに飢えてよろよろの小太刀がいても結果は変わらない」

「なら」

 思わず声を抑えずに荒げてしまう。

「あんな夜盗に何もできずに、やりたい様にやられるしかないって?」

 椿は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。なおも叫びだしそうに唸る小太刀丸の両肩にそっと手を置いた。

「強く、なりなさい」

 ゆっくりと、一言ずつ言葉を選ぶ。

「弱い人間は自由には生きられない。自分の命を他人にいいようにされたくないなら、まずは強くなりなさい」

 でもね、と椿は肩に置いた手に力を入れる。

「私達は、どうしようもなく、弱い。それは、私達が、そして里が、『ある』ことを許されていないから。

 もし、私達がこの世で自由に生きていけるようになろうと思ったら、この世の全てに勝てるだけの強さがいるの。でも、そんなことはできないでしょう。

 どれだけ里が強くなっても、小太刀が稽古を積んでも、鎌倉や湯浅のお城どころか、例えばいつも市に行く五西月さしきの村だって落とせやしない。だから、里の人間として生まれた限りは、どうしても他人に命を握られることがあるの」

 それは、どうすることもできない。

 その言葉は勘蔵なら、鷹之進なら、椿ならきっとできるだろう、と小太刀丸が漠然と考えていたことをはっきりと否定した。

 吹き抜ける風が急に身体に堪えるようだった。

「私達にできるのは、できる限り、そうならないように必死で考えることだけ。物の怪に化けて他人を里から遠ざけたお蔭で、今の里はかなり安全だけど、一歩外に出たら、誰もが私達の命を狙う敵になり得るの。もし、そんな相手に捕まれば、里だって無事では済まない。

 今だって、もし戦って負けて捕まれば、何かの拍子に落人の子孫だと感づかれなかったとも限らない。

 私達はそういう世を生きているの。それだけは忘れないで」

「でも」椿に諭されて頭は冷えたが、どうしても小太刀丸には納得できなかった。

「綾女が夜盗に襲われた時にはみんな助けてくれた。椿姉の言う通りなら、関わらない方が正しいんでしょ」

 しばらく黙って小太刀丸を見つめていたが、やがてふっと息を吐いた。

「あの時は皆、それぞれの思うところがあったからね」

 ぽんと一つ小太刀丸の頭に手をやると、背を向けてさっさと前を歩いていった。


「着いたよ」

 遅れまいと駈け出した途端に森を抜け、視界が開けた。

 まだ暗い浜辺は波も穏やかで、月の光をこそかしこで返して白く輝いている。浜辺といってもせり出した山の下にわずかに砂浜があるだけのごく小さな浜辺だ。

 それでも初めて見た海に、小太刀丸は寒さも空腹も、さっきの怒りも忘れてただただ感じ入っていた。

「これが、海」

 静かに絶え間なく響く潮騒、塩っぽく湿った風、その匂い。どれもが今までに見て聞いて感じてきたものと全く違った。

 隣でばらばらと乾いた音がして振り向くと、椿が集めた枯れ枝を組み始めていた。小太刀丸も慌てて浜辺を回り拾い集める。戻った時には枯れ枝には、すでにに火がついていた。

 初めの内は湿り気が多く、なかなか火は大きくならなかったが、それでも待っていれば徐々に暖を取れるだけの大きさになった。

「寝てていい」

 隣を見ると、椿の鼻先と頬だけが柿色に照らし出されている。

「無理」

 火は大きくなり、顔や胸はちりちりと痛い程だが、熱の届かない背中や腕の裏は風が吹けば震え上がる程に寒いまま。いくら「いい」と言われても、こんな中で寝て風邪でも引いては堪らない。

「椿姉」

 独りで眠気と戦うのも辛い。夜盗を思い出せば不用心に声を出すのも嫌だが、どうせ焚き火までおこしているのだ。小声で話したところで何も変わらないだろう。

「うん?」

「椿姉は最近何してたん」

 色々、と答えてにっこり笑った椿だったが、少し考えると、いつもよりもゆっくりと言葉を選んで口を開いた。

「夏頃からは、しばらくこの辺にいる」

 目を閉じ、少し口をつぐむと、振り返らずに足音がないことを確かめる。

「里を探している人がいてね、今は様子を見てる」

『里を探』すという言葉に、小太刀丸は背中がすっと冷えるのを感じた。

 見つかってしまえば命はない、というのは里では口酸っぱく言われ続けてきたこと。しかし、物の怪の噂は聞いても、落人の噂など聞かなくなって久しいこの時代、小太刀丸は今日を含めて今まで何度か里を出てきた、その全てで絶対に誰にもつけられていなかったか、といわれると、自信がなかった。

「もう見つかった?」

「たぶん、まだ」

 視線を下げ、脇にあった枯れ枝をくべる。小太刀丸は椿が自信なさそうにしているところを初めて見た。

「ただ、どうも物の怪の噂について片っ端から調べているみたいで、だから、根気よく続けていけば、いつかは見つかってしまうはず、だったんだけど」

 珍しくすっきりしない言い方に小太刀丸が首をかしげる。

「けど、水害の後、どっかに行っちゃった」

「もう見つかるってところで?」

「そう」

「戻っては来ない?」

「分からない」

 橙色の炎が枯れ枝に移り、ぱちんと弾けた。

「だから、ここに残って戻ってくるのか、こないのか、来るならいつ来るのか、手勢は何人なのか。そういうことを調べてるところ」

 椿の話を聞いても小太刀丸は何も言えなかった。里の成り立ちの話を聞いても、自分達は堂々と人前に出られないというだけで、本当に攻め込まれる日が来るとは露とも思わなかった。

 それは里には期を見て鎌倉に報復を、という機運が全くなかったからかもしれない。

 だが、外の世界ではそうではない。危ない者は見つけ次第排除する。それは源平の合戦から何十年経った今でもなお変わってはいなかった。体が異様に寒い。焚き火に当たる前よりも寒い気がした。


 黒一色だった空が、山の方から濃紺へ、そして淡い緑色へと移ろい始めた頃、漁師の舟が戻って来るのが見えた。ぽつりぽつりと現れるのを数えていると、その数はあっと言う間に十を超えた。

 しかし、空の色が鮮やかな浅い縹色に染まると、小太刀丸は舟の様子がおかしいことに気が付いた。

「みんなもっと右の方に行ってるけど」

 漁から戻る舟はことごとく、二人のいる浜辺の前を通り過ぎ、もっと北の岸辺へと漕いでいく。

「少し北に彼らが舟を上げている浜があるから。この辺の舟は全てそっちに行く」

「じゃあ、俺達もあっちに行かなきゃ」

「いいから」

 慌てて砂浜を蹴り、火を消そうとする小太刀丸を止める。

「あっちに行っても私らには買えないよ」

 小太刀丸の目には、その浜辺は見えないが、まだ舟が着かない内から、せり出した山越しに人々の争う怒号が聞こえてきた。

「まだここでも食べ物は魚が全て。毎日釣ってきた魚は腕ずくで取り合うし、売り上げも賊に狙われて、私らが入っていけるような所じゃない」

 と、一そうの舟が二人のいる浜に上がってきた。年老いた男が一人、舟を押して浜辺にくる。

 椿はそう言うが、ゆうべの話を聞いた後では、本当に穏便に済ますために招き寄せたのか疑いたくなる。

 いや、とにかく今は普通に取り引きできるはず。

 血生臭い想像を追いやり、慌てて舟に駆け寄る。手伝って引き上げると、男はありがとよと皺くちゃの顔で笑った。

「どうにも歳を取ると、これが辛くてな」

 で、とそれまでの笑顔を下品に歪める。

「魚は捕ってきた。鯖十五匹だ。あんたは持ってきてるんだろうな」

 椿は黙って頷くと包みを取り出す。包みを解いて出てきたのは丸く白い石だった。

「これ、は?」

 金や真珠の類は持っていなかったはずだ、と思っていた小太刀丸には、その石が何か分からず、思わず椿の手を掴んでじっと見つめた。

 それは白と灰色がぼんやりととした色味で入り混じっており、水に垂らして広がっていく墨のある刹那を白い石の中に閉じ込めたような、不思議な模様だった。見つめていると何やら吸い込まれそうな気分にすらなった。

「はっはっは。坊主はそれを見るのは初めてか」

 男は椿の手からその石を受け取ると、ちょうど差してきた日の光にかざすように見つめ、満足げに笑った。

「俺もまさか生きている内にこんな物が見られるとは、思ってなかったがよ。確かに噂通りの不思議な色の石だな」

「それでは十五匹」

「おう。持ってけ」


 男の舟が去った後、二人は浜辺で買ったばかりの鯖を捌いていた。

 鯖は足が早い。その場で捌いて塩漬けにしてしまわないと、到底持って帰ることなどできるものではない。まだ、わずかにえらの動くそれの、ぴんと張った腹に包丁の刃を入れる。

「さっきのあの石、何なん」

 もう何匹目かのはらわたを除きながら小太刀丸が聞く。なんとなく宝石なのだろうとは予想がついたが、一体何なのか分からないままに取り引きが終わってしまったのだった。

「あれ? 瑪瑙だけど、見たことなかったっけ」と椿は一握りの塩を掴んで、外に中にと塗り込んでいく。

 いつも通りの淡々とした声で答えるが、聞いたことのある名前に小太刀丸は驚きを隠せない。

「ないよ。そんなのいつから持ってたの」

「いつって、私の家にあった物だから最初から持ってた」

 椿の家は椿が幼い頃に、大雨の土砂崩れで潰れてしまったと聞いていた。後から掘り出されて、椿だけは奇跡的に助かったが、母親は椿を抱きしめたまま土砂に押し潰されて事切れていたという。

「床下に埋まってたから、流されなかったのね」

「だったら形見なんじゃ」

 しかし椿は手を振り、まさかと笑う。

「実家に残っていた物が全部形見になる訳じゃないよ。あんな物、家が無くなるまで、あることも知らなかったんだから」

 今あれを見ても何も思い出すことはない、と笑う。

「あの白無垢と同じ、大昔の遺物。こういう物はお伽話の種に使うよりも、生きるために使う方がずっといい」

 さあ、帰るよ、と塩漬けにした鯖を籠に入れ直して立ち上がる。

 嘘だ。

 白無垢を手放した後、人のいないところで何度も母と椿に謝る父を見た小太刀丸には、椿の言葉が本心とは思えなかったが、生きるためにと言う椿の言葉は強く胸の内に響いた。

 とにかく今はこれを持って帰らないと。

 生きないと。

 静かに打ち寄せる波で生臭い手を洗うと、明け方の浜辺を後にした。


 日が昇るにつれて二人の足は速まっていた。それは主に小太刀丸のためであったが、小太刀丸自身はそんなことには全く気が付かない程気持ちが急いていた。

 山の麓の村に着く頃には、小太刀丸は明らかにそわそわと、落ち着きを失くしていた。帰りは後ろを歩いていた椿はその様子に笑みを浮かべていた。

 しかし、村に入る少し前。小太刀丸が村を囲む山の中へと入って行くと、さっと前に出て立ちふさがった。

「椿姉?」

 すぐ先には村人から見られずに綾女のいる祠まで行ける獣道が走っている。

「これは家のみんなの最後の糧。お前はそれを赤の他人にやるのか」

 声も言葉も普段の椿のものではない。低く抑揚を抑えた声は怒気こそ含んでいなかったが、逆らえない迫力があった。

「赤の他人って」

 椿の急な変化についていけず、冗談でも言われた気分の小太刀丸に更に被せる。

「お前は家族の命よりも、あの娘の方が大事なのか」

「どっちも捨てられない」

 椿が本気だと知り、困惑した笑みは消え去った。あるのはただ、決意。

「椿姉、どいて」

「その一匹で家族の生き死にが決まるかもしれないのに?」

「持って行かなきゃ綾女が死ぬ」

「駄目ね」

 籠を降ろすと懐から短刀を抜き出す。

「嘘、でしょ」

「嘘なら刃を向けたりしない」

 抜き身の短刀は真っ直ぐに小太刀丸の喉元に向けられている。刃先にはぴたりと止まったまま、揺れも震えもしない。

 たっぷり十を数えるだけの間、目をつむり、息を整える。再び開いたその目には悲しみと決意が滲んでいた。

 籠を降ろし、何も言わずに刀を抜く。昨夜の夜盗相手に抜くことのなかった刀だが、今はそのずしりとした重みが手の中にある。

 衣の内側に隠して差している間、ずっと自分の身に刃を当てられた気分になっていたが、刀を抜いた今は懐にぽっかり穴が空いたような気分だった。

 真っ直ぐに構える。

 剣の腕以前に斬れる気がしなかったが、構えなければ綾女の命はない。

 そして、たぶん小太刀丸自身の命も。

 けらが一鳴きするのを合図に小太刀丸が鋭く飛び込む。

 刃を打ち合わす激しい音が森の中に響き渡った。

 椿の命の心配など一切ない本気の打ち込みだったが、短刀の先でいなされ、そのまま切っ先が首元に突き出される。

 辛うじて身を捻り、飛び退いて距離を取る。

 椿の刃先には何も見えないが、首筋に一滴、流れる物を感じた。

 それを確かめる間もなく椿が打ち込んでくる。

 膝下まである小袖では足元が不自由なはずだが、一切感じさせない動きで次々に喉元へと短刀が付き出される。

 右へ左へとかわし、斬り込める機会を窺うが、そんな隙は全く見つからない。

 ならばと身を引くのに合わせて椿の足を踏みつけた。

 これで躓けば隙ができるはずだったが、「ふんっ」という掛け声と共に思い切り蹴り上げられ、逆に小太刀丸の体勢が崩された。

 刹那に総毛立つのを堪えて目一杯背中を逸らす。

 口の先で短刀が空を切った。

 それは逸らさなければ首が飛ぶ程に深い位置だった。

 そのまま後ろに倒れ、肩から地面に着くと、地面を蹴って勢いのままに回って逃げる。

 耳の後ろに小石の角が刺さった。

 一瞬、視界から椿の姿が消え、詰められると思ったが、起き上がるとまだ同じ所に立っていた。

 安心する間もなく再び間を詰められると、短刀が的確に首へと突き出される。

 今度は小太刀丸が短刀を弾く番だった。

 大きく降り切って体勢を崩すと、鳩尾へと柄を押し込む。

「ふっ」

 声にならない呻きを上げ、椿が膝をついた。

 勝てるとは微塵にも思ってもいなかった小太刀丸は呆然と立ち尽くしていたが、我に返ると急いで刀を仕舞い、籠の紐に腕を通した。

「持って行くのは一匹だけ。あんたの分は置いて行きなさい。向こうで焼いて置いといてあげるから」

 自分の籠に寄りかかり、脇を抜けようとする袖を掴んだ。

 てっきり自分の分はないものと思っていた小太刀丸はこれ以上小刀を振り回してこないことを悟ると、素直に残りを椿の籠に入れ駆け抜けていった。


「さて、と」

 小太刀丸が行ったのを確かめてゆくりと立ち上がる。周りに何も落し物がないことを確かめるとお腹を撫ぜながら来た道を戻り始めた。

 大分良くはなったけど、まだまだ打ち筋が甘い。もっと踏み込まないと。さっきのだったら、私なら三回は殺せてるのよね。

 歩きながら先程の立ち回りを振り返る。わざと大振りして負けたのは良かったが、小太刀丸が咎める前にもかなりの数の隙があった。逆に小太刀丸の方にも多くの隙があり、この飢饉を越えたらどう稽古をつけようかと思いを馳せる。

「でも」

 木々の間を抜けるという所で籠を置き、腰を下ろした。

「もう少し休んでから帰ろうかな」

 軽く咳き込み、思いの外したたかに打ち込まれた腹をさするのだった。


 明るい時に改めて見る祠の周りは酷い有様だった。

 鎮守の森の木々は枝を捩じり折られて、痛々しい傷跡をそこかしこに付けている。山毛欅ぶなならの葉はもちろん残っていないが、それでも足りぬと葉を落とさないはずの檜や松の葉まで半ば近く裸にされていた。

 そして、祠の周り一面に生えていた片栗は片っ端から掘り返され、荒れ果てている。もはや、鎮守の森を持つ神社の威厳は微塵も残っていなかった。

 しかし、小太刀丸にとって、そんなことはどうでも良い。今その眼に映るのは、触れれば折れてしまいそうな程、やつれて骨と皮だけのようになった娘。汚れた麻の衣一枚で、寒さに眠れていないのか、目の下にはどす黒いくまを作っている。そんな娘が、薄汚れた布地を縫っている異様な光景だった。

「何を、してんの」

 駆け寄ったものの、驚きで声がかすれ、ろくな言葉が出てこない。ただ目の前に立ち、ちくちくと針を動かすのを見下ろしていると、綾女は手を止めて小太刀丸を見上げ、弱々しい笑顔を見せた。

「こんな明るい時間に出てきて下さるのは、初めてですね」

 あの日以来、久しぶりに口を聞いたが、こんな話し方をする娘ではなかったと愕然とする。

 この娘は完全に自分のことを神だか物の怪の類だと信じ切っている。村人の目を欺くために自分でしたこととはいえ、それが余りにも切なく小太刀丸の胸をえぐった。

「そろそろ」小太刀丸から視線を逸らし、綾女は自分の細い指を見下ろした。その手は力が入らないのか、細かく震えている。

「お迎えに来られる頃だと思っておりました」

 それだけ言うと、不意に力が抜けたのか、ばたりと倒れた。

「おい、おい! しっかりしろ!」

 慌てて針を取り、抱き上げて頬を軽く叩く。しかし、綾女はぐったりとしたまま目も開かない。

 死んだかと思ったが、顔を近づけると微かに息がある。どうやら、空腹で気を失ったらしい。

 ひとまず、まだ生きていると知りほっとした時、ふと足の裏が暖かいことに気が付いた。

 そこは、ちょうど焚き火の跡で、小太刀丸が来た時には完全に消えているように見えていたが、どうやらまだ火が消えてそれほども経っていなかったらしい。

 軽く灰を蹴り分け探してみると、底の方にまだ少しだけ赤い固まりが残っている。辺りを見回し、少し離れた森の奥から雪のかかっていない枯葉をかき集めると、まずはせっせと火熾しから取り掛かった。


 綾女が目を覚ましたのは日が暮れ、暗くなってくる頃だった。脂が灰に落ち、いい香りが立ち上るのを嗅ぎながら焼き具合を確かめていると、背後でむくりと起き上がるのを感じた。

「どう? 食える?」

 たき火だけが照らす中、空ろな眼で綾女が頷くのを見て竹串を地面から抜くと、芭蕉の葉を下敷きに鯖を置く。適当な大きさに切って芭蕉の葉に包んで渡すと、ゆっくりと大事そうに口に入れた。

 ゆっくりと噛み、なんとか飲み下したようだったが、一口目を飲み込んで生気が満ちてきたのか、二口目、三口目と徐々に速くなり、気が付けば四分の一ほども平らげていた。

「そんだけ食えれば大丈夫そうだな。後は明日から少しずつ食えば、春まで持つだろ」

 安心して微笑み、残りを芭蕉の葉に包んで渡す。

 綾女が弱々しくも生気のある眼で嬉しそうに受け取った時、驚くほどの大きさで小太刀丸の腹が鳴った。

「あ、あの」

 申し訳なさそうに包みを解こうとする綾女の手を押さえて、包みを戻す。

「俺の分は、里に戻ればあるから」

「でも」

「いいから。自分が冬を越すことだけを考えて」

 それでは、と綾女は礼をすると、数歩奥にある杉の木へと歩いて行った。その根元には蓑と筵が重ねて括り付けられている。

 その中に包みを入れると、ありがたそうに手を合わせた。

「あれは?」

 戻ってきた綾女に聞く。小太刀丸としては寝床として持って来た物だったが、違う使い方をされているように見えた。

 ぱちんっ、と薪が爆ぜ、火の粉が二、三舞い上がった。

「寝床です。風が吹いても飛ばされないので、お椀や針を仕舞っておくのにも、ありがたく使わせてもらっています」

 うん? と薪をくべる手を止めて、小太刀丸が首を捻る。お椀はともかく、針?

 持って来たのは椿姉だろうけど、何のために。

 確かに、来た時も何かぼろを縫っていたけれど。

 改めて綾女の後ろに畳んだ布を眺める。気を失った綾女を横にする時に、刺さないようにと針だけは近くの木の皮に刺しておいたが、布自体はよく見ずに畳んでしまっていた。

「まだ、もう少し掛かりますね」

 小太刀丸の視線に気づいたのか、その布を引き寄せてぱっと広げる。思わず息を飲んだそれには、背中と袖に大きな縫い跡があった。全体が泥だらけで模様など分かる物ではなかったが、縫い跡の部分の破れ方でそれが何かようやく理解できた。

「そんなもん、また一体誰が持って来たん」

 それを聞いて、今度は綾女が首を捻る。

「貴方様が持ってきて下さったのではないのですか」

「違うけど。どうして」

「いつも、何かを持ってきて下さる時には、必ずあの祠の中に入れて行ってくれるでしょう」

 そう言って小太刀丸の後ろの空っぽの稲荷の祠を指差した。

 それはそう。小太刀丸もうんと頷く。

「この衣もそうでした。お武家様が衣が捨てられているとお話下さっていたちょうどその時に入れて下さっておりました。その次の日には針と糸も」

 焚き火の暖気が融かしたのか、隣の檜からどさっと雪の塊が落ちた。

「だからこれは、縫い上げて返しなさいという思召しと思ったのですが」

 違うのですかと、炎に照らし出された顔が不思議そうに覗き込んでくる。

 頬の傷を指でなぞりながら、頭の中を整理する。思いもしないことが色々と起きているが、何度考えても意味することは変わらなかった。

「そういうことか」

 それを確信した時、小太刀丸は色々と叫び出したい気持ちを必死で抑えなければならなかった。

 確かに「思うところ」があって綾女を助けたとは言っていたけど。

 あの時、「うちに来る?」とは聞いたのは俺だけど。

 でもそれは、ここで生きていけるかを問うただけ。

 そして、綾女は人として生きることを選んだ。

 物の怪になることの意味を知らないから。

 だからこそ、こうして食べ物を持って通っているのに。

 辛うじて声を殺し、音にならない叫びを吐き出す。

 だったら、先程の死闘ですら、意味が変わってくる。

 俺は命懸けのつもりだったのに、椿姉にとっては俺の覚悟を見るためだけのものだったのか。

 思い返せば、随分「家族」と「綾女」を並べることにこだわっていた気もする。

 試された怒りと、他の様々な気持ちが心の中で激しく渦巻いた。

 だが、どのみち今はそれどころじゃない。

 余計なことは、この冬を乗り越えるまでは考えても仕方がない。

 小太刀丸の荒れる心の内など知らない綾女には、毒を盛られて突然苦しみ出したように見えたらしい。慌てて飛び付くと、背中をさすり何が悪かったか、水が欲しいのかと慌てふためきながら問う。

「大丈夫、大丈夫だから」

 落ち着きを取り戻した小太刀丸が、なんとかなだめて止める。それでもしばらくの間、綾女はおろおろと動揺を隠せずにいた。

「お稲荷様に何かあったなら、あたしは」

 そうか。相手が神だと思うとは、そういうことか。

 頬の傷と衣の内に隠した刀の鞘で勘違いされているだけとはいえ、それを正さずに誤魔化していたのは小太刀丸の方。

 落ち着いたところで久しぶりに綾女と口をきき、今更ながら稲荷に化けることの意味を知る。

 確かに崇め奉るべき神様を苦しめてしまったのであれば、報復があるかもしれないと言う以前に恐怖に縮こまってしまうかもしれない。

 がたがた震えるその肩を優しく押え、改めてなだめる。

「取って食ったりしないから、大丈夫だよ」

 それでもなかなか震えは収まらなかったが、根気強く待っていると少しずつ落ち着きを取り戻していった。

「あ、あの、何か気に障ることを言ったのでしょうか」

 ようやく冷静さを取り戻した綾女が、おずおずと切り出した。

「いいや」と首を振る。

「ただ、それを縫わせたのは俺じゃない」

「では、これは一体」

「身内の誰か。それが大体分かったし、何をさせたかったか分かったら、ちょっとね」

 その先を言う気になれず、お茶を濁す。

 こっちは何とか綾女が村に戻れるようにしようとしているのに。

 小太刀丸は父も兄も兄嫁も同じ考えだと思っていたが、現実は少し違うということにようやく気がついたのだった。

「それに俺達は物の怪であって神じゃない。だから、そんなに畏まらなくても、崇めなくてもいいよ」

 本当は物の怪ですらなく、同じただ人だと言いたいがそれだけは言えなかった。

 まだわずかに残っていた脂があぶられ、立ち昇った煙が目にしみた。

「そう、なんですか」

 記憶をたどるように呟く。

「そう、でしたね」

 うん、と小太刀丸も頷いて見せた。余計な考えはいくらでも浮かんだが、今はとにかく綾女に生きていてもらうことと、少しでもその心を軽くすることだけを考えようとした。

「それでは」

 少し考えて綾女が口を開く。

「この衣についてお礼を伝えて頂けないですか」

「お礼?」

 予想していなかった反応に思わず聞き返すと、綾女は力強く頷いた。

「はい。お蔭でまたこの衣に触れることができました、と」

「思惑があって持って来ただけかもよ」

「どんな思惑です?」

「それは、知らんけど」

 少し不安そうな表情になった綾女だったが、それなら、と嬉しそうに言う。

「ないのと同じです。頂いたのは間違いないのですから、やっぱりお礼を言わせてください」

 それはいくら何でも言い過ぎだ。色々言いたいことが頭の中を渦巻いたが、どうしても上手く言葉にできなかった。

「伝えとく」

 ようやく口から絞り出したが、返事がない。振り返ると、木にもたれかかって、ぐったりしている。慌てて近寄ると、かすかな寝息が聞こえてきた。

「大丈夫、だよな」

 小太刀丸は頬を緩めて溜め息を吐くと、寝床から蓑を一つ外しそっとかけてやった。


 一晩中薪をくべつつ、短く浅い眠りを繰り返した小太刀丸は、空が白み始めるのに合わせて綾女の元を発った。

 まだ綾女が起きない内に出ていったのは、正体を明かさない以上、少しでも物の怪らしく見せるため。子どもっぽいかとも思ったが、ちょっとしたいたずら心からだった。

 焚き火はまだしばらくの間、温めてくれるだろう。そばについている必要がないなら、他の村人が目覚める前に山に入ってしまった方がいい。

 結局、椿のいいように操られている気もしたが、小太刀丸に対して悪意のあるものではないので、諦めて乗ることとした。

「まったく」

 速足で村の端の畦道を進みつつ苦笑の溜め息が出る。

「椿姉はさ、強過ぎんだよ」

 見上げると明るんできた空に照らされて、目の前に一本の木が浮かび上がった。その枝先には、一つ二つ、小さな白い花が開いている。

「梅だ。春が、来た」

 梅が咲けば、野山に草木が芽生えてくる。ふきのとうが、たらの芽が、野いちごが。それは冬を越した生き物への褒美。

 これでもう、里の者も綾女も飢えて死ぬことはないだろう。つい今までのもやもやした気持ちも吹き飛び、叫び出したい気持ちを噛み殺して、小太刀丸は里へと歩を進めていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る