第5話
いえ、いえ、それはなりませぬ。
いえ、いえ、それもなりませぬ。
いえ、いえ、それはかはいそう。
◇ ◆ ◇
三軒茶屋駅で電車を降り、改札を出た。
彼に案内されたのは、キャロットタワーの裏にある「旅の夜風」というバルだった。
内装は和風。あめ釉のような光沢のある木製のテーブルと椅子、和紙の照明が落ち着いた雰囲気を演出している。小さなステージでは、ジャズの演奏が行われていた。
週末ということもあり、店内は混雑している。
テーブルは満席で、ふたりはカウンター席に案内された。
メニューは和風が中心だが、アルコールは幅広く扱っている。
ふたりは、モスコー・ミュールと鶏の竜田揚げを注文した。
「飲んでも大丈夫なの?」
注文してから、大木は彼に訊かれた。
「大丈夫です。家は駅から歩ける距離なので」
車は駐車場に置いてきたが、アパートまで歩いて10分くらいだ。それでも自動車に頼ってしまうのは、地方暮らしの悪い癖だ。
「おうち、どこなの?」
「埼玉です」
「えっ、そこからわざわざ
「はい。実家は町田なので。あの子達は二子玉川で遊びたいらしいです」
“女子会”では飲まなかったが、本当は飲みたい気分だった。“女子会”のことも忘れたいし、声をかけてくれた彼にも報いたいから。
モスコー・ミュールが運ばれてくると、ふたりはマグカップを軽く掲げて乾杯をした。
彼の「乾杯」とささやく声は妙に雰囲気に合っていた。学生だが、やはり28歳の大人だ。
大木はざわつく心を抑えながら、最初の一杯を口に運んだ。
ライムの爽やかな香りとジンジャー・ビアーがきりっとして喉ごしに良い。
これが最初の一口で良かった、と大木は思った。
ジン・トニックとモスコー・ミュールで迷ったが、“女子会”の悪夢を思い出したくないので、ジン・トニックは避けた。
モスコー・ミュールは生まれて初めて口にしたが、好きになりそうな味だ。
「綺麗だね」
前触れもなく彼が呟いた。大木は、どきっとしてしまう。
「髪飾り、綺麗だね」
「これですか?」
一瞬はずんだ気持ちが沈んでしまったが、そう見せないようにする。
大木は、髪に通していたヘアスティックを外した。髪がびしょ濡れになった時点で外そうとは思っていたのだ。
雑貨屋で一目惚れして購入したヘアスティック。白くなめらかな楕円と銀色のスティックに惹かれ、衝動買いしてしまったのだ。
「ネックレスも可愛いじゃん。大木さん、お洒落なんだね」
ネックレスも衝動買いだった。小指の爪におさまってしまうくらい小さい三日月型に、大木の誕生石がはめ込まれている。
見てもいい? と訊かれ、大木はネックレスを外そうとした。しかし、彼は「そのまま」と言い、ネックレスに手を伸ばし視線を落とす。
「可愛いなあ。この石、ムーンストーン?」
大木は黙って頷いた。
大木が褒められているわけではない。しかし、自分が綺麗とか可愛いとか言われていると錯覚してしまう。
大木は、乙女チックになっている自分が気持ち悪かった。
彼が顔を上げる。上目遣いで見つめられ、大木はびくっと震えてしまった。
しかし、だ。
「隠れ巨乳?」
「隠してません!」
大木は反射的に突っ込みを入れてしまった。職場で昼休みに後輩とふざけ合う調子で。
確かにバストサイズは大きい方になると思う。しかし、隠しているつもりは毛頭ない。
ネックレスだけじゃなくて
多分、他の男性から言われたら、嫌な気持ちになると思う。
しかし、彼の言い方はあまりにも淡白で、嫌らしさは感じられなかった。大木には、それが安堵できた。
「後藤さんは、介護職員だったんですか?」
「うん」
彼はネックレスから手を離す。
「挫折しちゃったんだけどね」
情けないよ、と彼は苦笑する。
「それなのに、介護が
大木は、情けないとは思わなかった。
挫折してもまた介護の仕事が諦められないのは、本当にその仕事を愛しているからだろう。大木もこの部類の人間だ。
大学に入ってまで介護福祉士の資格を取ろうとするのは、きっと彼が悩んで決めたことだ。大木がとやかく言うことではない。
初対面の大木が言っても薄っぺらく聞こえてしまうだろうか。
きっとこの先会うこともないだろうから、思い切って彼に言ってみた。
すると、彼は大きな双眸をしばたき、一度
「ありがとう。こういう風に言ってもらえることがなかったから」
「ごめんなさい。偉そうに言ってしまって」
「ううん。大木さんは優しいんだね」
「優しくなんか……ないです」
「優しいよ」
「違います!」
「優しいから無理をしてしまうんだよね」
「……違います」
優しくなんかない。母親にも女子達にも言い負かせないから黙っているだけ。
言いたいことがあっても、自分が我慢していれば済む話だから。
自分が嫌われ役になれば、それに越したことはない。
そうやって役に立っていることが大木の本望だから。
歌を忘れたカナリアなどという美しいものではない。
打たれ、
それだけで良いのに。
それなのに、心が締めつけられるように「痛い」「苦しい」と言っている。
泣きたくなどないのに、目頭が熱くなってきた。
首から下げたままだったタオルを顔に当てる。そうすれば、少しは涙腺が引き締まるだろう。そう思っていたのに。
彼に背中をさすられた途端、涙があふれてきた。
大木は声を殺して泣いた。
涙を流すのは、何年ぶりだろうか。
もしも自分が、歌を忘れたカナリアだったら、忘れた歌を思い出したいのかもしれない。
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