第4話

 梅雨明け寸前の外気は、熱いのか涼しいのか、よくわからない。

 酒を浴びた上体は火照ほてっている気がするが、風が吹くと涼しい気もした。

 “女子会”の参加者に尾行されていないか確認しようと、大木は立ち止まって振り返った。幸い、誰もついてきていないようだ。

 ふと、ショーウィンドウに映る自分を見てしまった。

 彫が深く、翳りの強い顔。「憂い顔だね」と言われたこともあるが、話の流れから判断すると褒められていない。

 今、冷静になってみると、服のコーディネートも似合っていない。

 半袖のブラウスは、限りなく薄いレモン色。膝丈のフレアースカートは、白地に水色の花柄。

 雑貨屋で衝動買いしてしまった小さなネックレスを、「せっかくだから」とつけてきたことも間違いだった。自分にはアクセサリーが似合っていない。

 セミロングの黒髪はアイロンで巻いてハーフアップにし、結ったところをくるりんぱにした。そこに、ヘアスティックを留めている。

 スカートは氷水で、髪と肩はジン・トニックで、濡れてしまった。髪は水分の重さでまっすぐになっている。

 人に会うから、と気合いを入れてきた自分が愚かだった。

 責められ、笑いものにされることは充分に予想してきたのに。

 あの後すぐ、大木は店から逃げ出した。

 ガラスに映る自分は、醜い顔をしている。

 大木は頭を軽く振った。

 泣きたくない。さっさと帰ろう。今すぐここを出れば、日付が変わる前に埼玉県の自宅に着くから――そう自分に言い聞かせる。

 しかし、その意気込みはすぐに崩れた。

「大木さん!」

 低く大きい声が大木を呼ぶ。

 その方を見ると、通行人の間を縫うように走ってくる人がいた。

「良かった。間に合った」

 肩で息をする彼は、先程“女子会”につっかかってきた男性だった。

 童顔でバリトンボイスの彼だ。

「タオル、使って下さい」

 彼は、部活動で使うようなエナメルバッグから白いタオルを出した。ビニール袋に包装されたそれは、真新しいようだ。

「失礼します」

 ビニール袋をやぶり、タオルを広げ、大木の頭にかぶせる。フェイスタオルサイズで、ほっかむりのようだ。

 路上だというのに、彼はタオルの上から大木の髪をわしゃわしゃ撫でる。熱っぽかった地肌に、ひんやりした風が通った。

 タオルで視界が遮られているが、人の目が気になる。

 大木は反射的に手を伸ばし、彼の無遠慮な手を振り払った。

 大木は軽く頭を下げた。

 勢いでタオルが肩に落ちる。

「お気持ちだけ頂きます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

「いいえ。迷惑だなんて、とんでもない」

 大木は一瞬の隙をついてきびすを返したかったが、彼に即座に言葉を返され、その隙を失ってしまった。

 彼は言葉を続ける。

「この後、お時間あります? ふたりで飲み直しませんか?」

 大木は、予想していなかった提案に面食らってしまう。

 自分の理性が「断れ」と警告してくる。

 しかし、拒否する言葉は喉につっかえてしまった。それどころか、胸部に妙な感じをおぼえる。

 それは嫌なものではなく、優しくじんわりと浸み込んでくるようなものだった。

 大木はその感覚を知っている。本を読んだとき、映画を見たとき、仕事でもたまに感じるものだった。

 心に浸み入る――大木がそう解釈している感覚だ。

 彼の声と言葉が、なぜか大木の心に浸み入るのだ。

 心が弱っていたのかもしれない。

 大木は、彼の提案に乗ってしまった。

「やったあ! じゃあ、行きましょう!」

 彼は満面の笑みになった。まるで無垢な少年みたいだが、力の入った声は一層低くなっていた。

 全くもって変な人。

 しかし、そんな彼に心を許してしまう人もいそうなものだ。

 大木もそのひとりになりつつある。



 改札を通り、東急田園都市線のホームの端で電車を待つ。ホームの外を眺めれば、すぐそこに多摩川が流れている。ホームの端は、地上ではなく高架の一部なのだ。

 川は暗く、周りの明かりが煌々としている。

 大木の隣には、童顔バリトンボイスの彼。

 彼は“ゴトウカズキ”と名乗った。

「“キ”は“コジキ”の“キ”です」

 そう言って、学生証と運転免許証を見せてくれた。

 漢字表記は“後藤和記”。

 『古事記』の“記”と言いたかったらしい。

 さりげなく生年月日を見て年齢を暗算したところ、彼は28歳であるようだ。

 26歳の大木よりも年下かと思ったが、年上だったのだ。

「タオル、もっと使う?」

 彼に訊かれ、大木は首を横に振った。

「新しいタオルがあるから、遠慮しないでね」

 実習先の施設で、餞別代わりにと事務所にたまっていたタオルをごっそり渡されてしまったそうだ。営業の人が年末年始のあいさつで配っていたものが使いきれずに事務所に残ってしまうのは、大木の職場も同じだ。

 彼と一緒に実習を受けていた学生も、タオルをもらったのだろうか。

「一緒にいた人達は、あそこに残っているのですか?」

「うん。まあ、俺がいない方が、あの子達も気楽だろうし」

 半蔵門線直通の快速列車がホームに来た。

 列車の中は、そこそこ混んでおり、シートに座る余裕はなかった。

 大木はドアの近くに立ち、下を向いてやり過ごすことにした。タオルは首にかけたまま。年配のかたのようだけど、その方が何となく楽だった。

 電車の揺れと共に、“女子会”の記憶がフラッシュバックする。

 入れ食いのように好き放題言いまくる女子達。

 故意に倒されたであろう氷水のグラス。

 介護職への偏見。

 頭からかけられたジン・トニック。

 あのときは何も感じなかった。それなのに、今はふとした瞬間に涙が出てしまいそうだ。

 大木は俯うつむいたまま下唇をかんだ。

 電車の音が、少し変わった。

 地上を走行していた列車は、地下に入ったのだ。

 快速の列車は、二子玉川を出ると、用賀、桜新町、駒澤大学を通過して三軒茶屋で停まることになっている。

 大木はふと、自分の前が翳かげっていることに気付き、顔を上げた。

 すると、前に立っていた彼と目が合った。

 直後、電車の揺れと共に彼はよろけた。近くの手すりにしがみついたものの、大木とは密着しそうな至近距離だ。

「ごめん!」

 バリトンボイスは慌てていた。

 大木は「いえ」と呟き、また顔を伏せる。

 自分の頬が熱を帯びているのがわかったが、照れているのか恥ずかしいのかまでは判断ができなかった。

 なぜか彼の顔が直視できない。公衆の面前で赤面していることも恥ずかしい。

 それでも、彼が前にいることで他人の視線をシャットアウトしてくれている気がした。

「……どうして」

 大木は言葉をこぼしていた。

「私なんかを、かばうの」

 独り言のつもりだった。

 彼も何か言った。大木には「元ネタがわからなかったら、ごめん」と聞こえた。

 確証がなく、大木はおそるおそるおもてを上げる。

 それが訊き返しだと思われたのか、彼ははっきりと発音した。

 大木の耳元で、無駄に良い声で。

「きみが、歌を忘れたカナリアだと思ったから」

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