さよなら、さよなら、さよなら、またおいで

 食事を終えると非日常お婆ちゃんは、孫のために作った特別なデザートをあなたに振る舞った。


 手のひらサイズのマフィン。バターの香りがあなたの口の中を唾で満たす。


 非日常お婆ちゃんは言う。


 「このマフィンに使っている柘榴は庭に生えている特別な柘榴なのです」と。


 「私がここにやってきた時、故郷から持ってきたとても大切な柘榴なのです」と。


 「この柘榴を食べた人は、全員、私のものになるのです」と。


 「ずっと私の素敵な孫になるのです。永遠にです」と。


 あなたは非日常お婆ちゃんの物言いに奇妙なものを感じたけれど、「まぁ、外国の人だから」と自分を納得させた。


 あなたは言われるがままにそれを食べた。

 あなたは騙されたわけではない。

 非日常お婆ちゃんはあなたにきちんと説明をした。その言葉に嘘はなかった。

 あなたは毒だと知りながら、それを口にしたのだ。


 幸運か不幸かはあなたの考え方によるけれど、次にこういったことが起きた。

 実のところあなたは生まれて初めて柘榴を食べたのだ。

 柘榴ジュースや柘榴味のデザートを食べたことはあったが、本物の柘榴を使った何かを食べるのはこの時が初めてだったのだ。


 ルビーのようにキラキラと輝く柘榴を目にして、あなたの期待値は上がりすぎていた。

 そのため、口の中に広がる柘榴の味と、思わぬ種子の硬さはあなたにより一層の失望を与えた。

 あなたは生まれて初めて柘榴を口にし、そして「私、この柘榴、嫌いなのよね」と思ったのだ。


 それであなたは非日常お婆ちゃんがお湯を沸かしにキッチンに引っ込んだタイミングで、舌の上に残した柘榴をペッペと吐き出して、ティッシュでくるんで捨てたのだ。なんてお下品で、礼儀のなってないことでしょうね!


 あなたは夏休みを非日常お婆ちゃんの家で過ごす。

 非日常ご近所さんに連れられて、森や小川を冒険し、非日常お婆ちゃんが作ってくれた料理を食べる。

 どの料理にも柘榴が入っており、あなたはいつもこっそり柘榴を捨てる。

 インターネットもショッピングモールも映画館もゲームセンターすらない非日常世界だが、やることはたくさんある。退屈している暇などない。

 あなたが嫌うものは何もなく、あなたを嫌うものも何もない。

 あなたは幸福であるはずだ。全てがここにあるのだから。


 だが、今、あなたは少しも幸福ではない。

 今、あなたは恐怖の中にいる。


 友達以上恋人未満のロマンチックな関係になったあの男の子と森の中を散策していた時、あなたはこんなことを言った。


「夏休みが終わったあとも連絡とろうよ。スマホ持ってる?」


 あなたは自分が核爆弾の投下スイッチでも押してしまったのではないかと思う。

 だって男の子はそんな風な目であなたを見ていたし、鳥たちは鳴かなくなり、風すらも止まったから。

 何か決定的なことをしてしまったのだとあなたは思ったが、それがなんなのかはわからなかった。


 沈黙。


 沈黙。


 沈黙。


 恐怖を感じるほどの。


 そして男の子は言った。

「君、食べなかったんだね」

 男の子はあなたにぐいっと近寄り、耳に口を寄せてこう言った。


 「絶対に柘榴は食べちゃいけない。食べていないことをあの人に悟られてもいけない。あれを食べると、ここの世界の人間になってしまう。あれを食べると、君はあの人のものになってしまうんだ。俺や、他のみんなみたいに、あの人のいいようにされてしまうんだ。そしてここから出られなくなってしまう。あの人は、君のお婆ちゃんなんかじゃない。あんなお婆ちゃん、君には最初からいないんだ。この世界は全部、嘘なんだ。思い出すんだ。君は何かをして、あの人を呼んでしまったんだ。例えば、星に願いをかけたりしてないか? 願いをかけたコインを湖に投げたりしてないか? 俺は遊園地にあるおもちゃのサンタに願い事をしたんだ。『優しいお母さんが欲しい』って。そしたらあの人が迎えにきた。あの人がチャイムを鳴らし、俺がドアを開けて、あの人が俺に向かって『お母さんと遊びに行きましょう』って笑った瞬間に、あの人は俺のお母さんになったんだ。そして俺はここにやってきた。今は君のための世界だけど、前は俺のための世界だった。俺の望むものが全てあった。けどある日、あの人は俺に飽きた。『男の子はもういいわ』。それで、俺はあの人の大切な息子ではなくなって、ただのあの人の所有物になったんだ。俺、本当はこんな顔じゃない。こんなに子供でもない。ここにきたのはずっと昔なんだ。今はもう元々自分が誰だったのかなんてほとんど覚えてないけど。あの人は、誰かにとって大切な誰かのふりをして遊ぶんだ。ごっこ遊びなんだよ。俺たちはあの人のごっこ遊びのために粘土みたいにぐにゃぐにゃと弄り回されて、別のものにされてしまうんだ。逆らったらどうなるか、逃げようとしたらどうなるかは、君の部屋に吊るされてるガラス瓶の中を見てみることだ。あれは全部、俺や君の成れ果てなんだよ。俺はもう逃げられないけど、君は違う。君はまだあの人のものじゃない。だからまだ、自分の名前も顔も本当の家族も覚えているだろう? 今すぐ逃げるんだ。そして2度と戻ってきちゃいけない」


 言われてみればその通り。


 あなたのお父さんの方のお婆ちゃんはあなたが生まれる前に亡くなっていたし、あなたのお母さんの方のお婆ちゃんは柏のモダンな集合住宅地に住んでいて、IKEAの血など1滴も入っていない。

 もちろん、あなたにもだ。


 あなたは急に怖くなった。

 非日常お婆ちゃんは、あなたのお婆ちゃんではないし、人ですらない。


 あなたは男の子の手を握り、一緒に逃げようと言った。

 でも男の子は首を横に振り、「もう、本当に手遅れなんだよ」と言った。


 男の子はあなたに帰り方を教えてくれた。

 非日常おばあちゃんが眠っている朝早くになったら、非日常おばあちゃんの家の庭を流れる小川に沿ってずっと歩いてゆけばいいという。

 あなたのどうしょうもないお父さんとどうしょうもないお母さんとどうしょうもない日常のことを思い浮かべながら歩き続ければ、非日常おばあちゃんはあなたに手を出せないのだという。


 男の子は言った。


「覚悟しておくんだよ。君が庭から外に出た瞬間、あの人は君が逃げようとしているのに気がつく。君を追いかけてきて、君の周りであれこれと嫌なことを言って、君の心を恐怖でいっぱいにしようとしてくる。恐怖でいっぱいにして、ここにくる前のことを思い出させないようにしようとしてくる。この世界の外側がどんな世界だったのかとか、今が夏休みなのか、冬休みなのかすら、思い出させないようにしてくる。そして、君が怯んだ瞬間に、君を捕まえてしまうんだ。耳を貸してはいけないよ」


 あなたは言った。


 「あの人は一体、何が目的なの? どうしてこんなことをするの?」


 男の子は答えた。


 「あの人は時々、魂があるふりをしてみたくなるんだよ。さぁ、もう家に帰るんだ。あの人がどんなに怖くても、怖がってるそぶりを見せちゃだめだよ。いつも通りに振舞って、そっと逃げ出すんだ。……それからもし、もしも君がよければ、ここから出て行く時にあの柘榴の木を燃やしてくれないか。きっとあれがあの人の力の源なんだ。あれがなくなれば、この世界もあの人も、きっと切り落とされた花のように枯れてゆくだろう」


 あなたは言った。

「あなたはどうなるの?」


 男の子は答えた。

「俺もまた枯れるだろう。でも、このままあの人に弄り回されて、次々と自分じゃないものに作りかえられ続けて、それでずっと永遠に生きるよりも、ずっとずっと幸せだよ」


 あなたは男の子に忠告されたように物事をこなした。

 非日常おばあちゃんと会話し、食事をし、家事を手伝い、昔話を聞いた。

 あなたはまるで旧式のお風呂だ。

 表面はぽかぽかと暖かいのに、底の方は冷たく凍っている。

 あなたは目の前にいる非日常おばあちゃんが、自分のおばあちゃんではないことを完全に理解している。

 それなのに非日常おばあちゃんの顔を見て、声を聞くと、あなたは非日常おばあちゃんが自分のおばあちゃんではないことを忘れそうになる。


 あなたは男の子から受けた忠告を胸に、ここにくる前の日常を思い出す。

 全然好きじゃなかったダサい両親のダサい姿を思い出す。

 それで、あなたはなんとか正気を保つ。


 あなたは「もう寝るね」と非日常おばあちゃんに告げ、自分の部屋に戻る。

 猫足の椅子の上で爪先立ちになり、天井からぶら下がったガラス瓶の底を見つめる。

 床から見上げていた時はガラス瓶の中は見えなかったが、こうすればよくみえる。

 非日常おばあちゃんはこのガラス瓶の中には精油とハーブ、あるいはお花、あるいは貝殻が入っているのだと言っていたが、あなたはそれが全て嘘だと知る。


 そこには歯が入っている。

 あるいは爪が入っている。

 もしくは手の指。

 場合によっては耳。

 大体において眼球。

 ごく稀に舌が入っている。


 ガラス瓶にはそれぞれラベルがついていて、そこにはこんなことが書いてある。


 「わがままな嫌な子。歯だけは綺麗」

 「泣き虫な嫌な子。爪は素敵」

 「怒りん坊な嫌な子。指は気に入った」


 あなたは震えながら椅子から降りると、ドアの前に座り、ただ時がすぎるのを待つ。


 少しだけドアを開け、耳を澄ます。

 そして、じっと待つ。


 3時を少しすぎた頃。

 あなたは足音を立てないように慎重に廊下を歩き、階段を降り、玄関に向かう。

 あなたは何度も振り返り、非日常おばあちゃんが起きてきていないかどうかを確認する。


 「こんな時間に何をしているのです?」


 突然、非日常おばあちゃんが廊下に現れて、こんな風に声をかけられるのではないかとあなたは思うが、幸いにもあなたは玄関まで無事にたどり着く。


 あなたは玄関のノブに手を伸ばそうとするが、途中で止める。

 あなたはくるっと玄関に背中を向け、キッチンに向かって歩き出す。

 あなたの両目は恐怖で見開かれ、涙は止まることなく流れ続けている。


「逃げなきゃ。こんなことしてる場合じゃない」とあなたは頭の中で繰り返す。

 でも、あなたはこんなことをしてしまう。

 具体的に言えば、キッチンの食器棚の小さな引き出しを開け、マッチとペーパータオルを手にとり、スカートのポケットにねじ込んだ。

 それから、紅花油を瓶ごと抱きかかえる。

 あなたは自分自身を救いようのないお人好しの大馬鹿だと心の中で散々詰りながら、再び玄関に向かう。


 非日常おばあちゃんの姿はまだない。


 あなたは音がしないように慎重に玄関ドアを開け、外に出る。

 深夜の庭を月明かりが照らしている。

 あなたは何度も振り返り、非日常おばあちゃんがついてきていないことを確認しながら、柘榴の木に向かって歩く。

 そして木の前までくると、紅花油を柘榴の根元や、幹や、枝葉にふりかけた。

 あなたがマッチをスった時、あなたは非日常おばあちゃんの家の2階、あなたの部屋に灯りがともるのを目にした。


 丸い窓が黄色く光る。

 黒い影が窓の前を行き来する。

 もちろん、あなたにはその影が誰なのかわかっている。

 影は何度か窓の前を通り過ぎたあと、窓の前で止まる。

 窓に近づき、そして両手で窓に触れる。

 あなたは影が、非日常おばあちゃんがあなたを見ているのを感じる。

 あなたの全身の皮膚がザワリと波立つ。


 非日常おばあちゃんの影が窓の前から消える。

 2階廊下の灯りがつき、階段の灯りが付き、どだだだだだだだだと、階段を駆け下りてくる足音が夜に響く。1階の灯りがともる。


 あなたはマッチを柘榴の木に投げつける。

 火はつかない。


 あなたはもう1本マッチをスる。

 玄関が勢いよく開く音がした。この世のものではない存在の、怒りと殺意でみちた咆哮が空気を震わせる。

 あなたは恐怖のあまりマッチを手から落としてしまうが、幸いにもそれは柘榴の木の根元に転がっていた乾いた雑草にうまいこと着火した。

 あなたはスカートのポケットからキッチンペーパーを取り出し、それを生まれたての小さな火に向かって投げつける。

 火はぬるぬると柘榴の木の根元から幹、枝へと広がってゆく。


 非日常おばあちゃんの悲鳴が迫ってくる。

 あなたは恐怖で震える膝を無理やり動かし、小川に沿って走り出す。

 小川に沿って走り、あなたは庭を抜け、森に入る。

 非日常おばあちゃんだったものはあなたのすぐ横を走っている。


 その姿はあなたが恐る全てのもののパッチワークだ。


 消えないニキビ、ゴキブリのお腹、クラスの意地悪な女子の笑顔、白いスカートに滲み出た生理の血の染み、テレビでみた心霊写真に写っていた幽霊などなど。


 万華鏡のように、それらの姿が次々と現れる。


 あなたの恐る全てのものから、別のあなたの恐る全てのものに変化する時、非日常おばあちゃんだったものはグロテスクな正体を見せる。


 それは無数の人間の腕が集まってできた、巨大な球体だ。リボンの代わりに腕で作ったポンポンだ。

 無数の腕は地面を転がりながら、腕だけの組体操をして複雑な形を作り上げる。

 例えばあなたが小学3年生の時、友達と別れて通学路を歩いていた時に遭遇した変質者の姿を作り上げる。

 そうすると非日常おばあちゃんだったものは、まさにあの時の変質者になり、あの時の変質者と同じようにあなたに下半身を見せつける。

 それからまた元の腕に戻り、また組体操。

 今度はみーちゃんの姿を作り上げる。

 あなたの膝にのって喉を鳴らしていたみーちゃんではなく、あなたが目を離した隙に玄関から外に飛び出し、あなたの目の前で車に轢かれた時のみーちゃんになる。割れた顎から飛び出した舌と尻の穴から飛び出した糞まで再現する。


 あなたは悲鳴をあげ、非日常おばあちゃんだったものを見ないように心に決め、全力にさらに全力を重ねて走る。

 非日常おばあちゃんだったものは一定の距離を保ったまま、ずっとあなたについてくる。

 あなたと並走している。

 しかし、あなたに直接手を触れようとはしない。

 触れたいのだが、できないのだ。


 あなたが「家に帰りたい」と思っているから。

 あなたが家のことを覚えているから。

 あなたはまだ、日常に属しているから。


 「お前が私を呼んだのですよ」と非日常おばあちゃんだったものはとても穏やかに言うが、そこかしこに苛立ちが滲んでいる。


 あなたは叫ぶ。

「私は誰も呼んでない!」


 非日常おばあちゃんだったものは突然、男でも女でもない甲高い声で「呼んだだろうが!」と叫ぶ。


「お前は鏡に願いをかけた! 『クウォーターに生まれたかった。おばあちゃんが北欧の人だったらよかったのに。あーあ。今からでも本当のおばあちゃんが来てくれないかな』って。お前は願いをかけた! だからわざわざきてやったんだ! お前は私が必要だと言ったんだ! 願ったんだ! 私はお前の願いを叶えたぞ! お前の身に余る世界を味あわせてやった! 今度はお前が私の願いを叶える番だ! 私のものになれ! 私を楽しませろ! 私のためだけに永遠に生き続けろ! お前の腹を割いて、柘榴のタネを植えてやる! 柘榴が元の大きさに戻るまで、お前の中で育ててやる! お前が燃やした柘榴もそうやって育ったんだからな!」


 非日常おばあちゃんだったものは、あなたに向かって様々な呪詛を吐く。


 あなたは耳を塞ぎ、大声で叫ぶ。

「私の名前は小林鏡子! あだ名はきょーちゃん! 15歳! 千葉県津田沼本町生まれ! お父さんの名前は晃典! お母さんの名前は美津子! 8月生まれ! O型! 猫が好き! 友達の名前はよっちんとしろぴょん! 好きな食べ物は抹茶ミルクのかき氷!」


 非日常おばあちゃんだったものはゲラゲラと笑い、あなたを「怖くて頭がおかしくなったのですか?」と嘲る。

 しかし、それでも非日常おばあちゃんだったものは、あなたから少し離れたのだ。


 あなたは叫び続ける。

「好きなお菓子はコーラグミ! 好きな色は黄色! 好きな花はクロッカス! 高校生になったら水族館でバイトしたい! マンボウが好き!」


 非日常おばあちゃんだったものは笑い続けているが、あなたからどんどん離れている。

 あなたが空気感染する毒でも纏っているかのように、あなたを警戒している。


「私が寝転がってるとふざけて背中を踏んでくるお父さんの、手加減してる足の重さが好き! 私が落ち込んでいると側にくるけど、私が自分から話し始めるまで何も言わないでおせんべい食べてるお母さんの横顔が好き! 寒い日になると私の家のあちこちから響くピシピシって音が好き! 通学路の途中にある家の金木犀の花が好き! セブンイレブンのあの店員さんのゆっくりした日本語が好き! 舗装されたばかりのアスファルトからのぼってくる熱と匂いが好き! 電車の窓から斜めに差し込む細長い日差しが好き! スマホのクリック音が好き! 新学期初日の体育館のワックスの匂いが好き! 彫刻刀で木を削る時のサクサクした手応えが好き! ヘアアイロンで髪の毛がサラサラになるのが好き!」


 あなたは叫び続ける。


 思い出せる限りの日常を。


 思い出せる限りの素敵な瞬間を。


 自分が1度は捨てたものを、自分が1度はいらないと言ったものを、あなたは思いつくまま叫び続ける。


 あなたは祈り方を知らないし、祈るべき神のイメージも持たない。


 神様って髭とか生えてて、杖とかもってて、雲の上にいるんでしょ? とあなたは思っている。


 さらには「まぁ、どうせいないけど」と思っている。


 だが今、あなたは祈るしかないのだ。


 今、あなたを追いかけてきている『向こう側』の存在よりも、ずっと大きな存在がいると信じて、祈るほかないのだ。


 日常の神に祈るしかないのだ。


 あなたは叫ぶ。


 あなたの知りうる限りの美しいものを。


 マーニーでもなければ、福山マサハライズ関連のものでも、クリエイテッドバイスタジオジブリでもなく、作り上げられた数々の美しいために美しくある美しいものたちのイメージでもない、あなた自身が美しいと感じたささやかなものたちの名を叫ぶ。


 あなたは祈る。


 『どうか私の知る限りの美しいものへの賛美を、『あなた』への祈りとしてください』


 『これでもって、祈りとしてください』と。


 あなたは『あなた』とは誰で、なんなのかを知らない。

 しかし、それは問題ではない。

 大事なのはあなたのみじめで不恰好で笑える祈りが、祈りとして受け入れられたということなのだ。誰とも何ともわからない存在に。


 森は開け、あなたは突然、コンクリートの壁に両側を挟まれた細い路地にいる。


 あなたが走るのをやめたのは、細い路地から飛び出し、通りを歩いていた女性に思いっきりぶつかって地面に倒れた時だ。

 女性は「いきなりなんなのよ! 危ないでしょ!」とあなたに怒鳴り、地面に転がったハンドバックを拾い上げ、スカートについた汚れを払う。

 女性はあなたを睨み、舌打ちし、それからあなたには見向きもせずに立ち去った。


 あなたは地面に座り込んだまま呆然としている。

 あなたの横を会社員風の大人たちが次々と通り過ぎてゆく。

 あなたは家から10分ほど歩いたところにある商店街の入り口側にいる。

 商店街の入り口アーチに設置された大きな時計は朝の7時をさしていた。みんなこの商店街を抜けて駅に向かっているのだ。

 あなたはふらつきながら立ち上がり、自分が今、通り抜けてきた路地へと視線を向ける。

 朝なのに夜みたいに暗い路地に、非日常おばあちゃんだったものは非日常おばあちゃんの姿で立っていた。

 いたずらを咎めるような顔であなたを見ている。


「仕方がありませんね。そんなに帰りたいのならもう止めませんよ。あなたももう15才なのだし、立派なレディですもの。あなたの意思を尊重します。体に気をつけてくださいね。柘榴の件は次に会う時にまたお話しましょう。私としてはあまり厳しいことを言いたくはないけれど、悪いことをしたらきちんと償わないといけませんから」


 あなたは震える声で言う。

「2度と会わない。あんたなんか、2度と呼ばない。2度とあんたにいてほしいなんて願わない」


 非日常おばあちゃんは優雅に肩をすくめて、人差し指を伸ばして「ノン、ノン、ノン」とフランス人風に左右に振る。いたずらっぽい顔で。


「あなたは現実では決して存在しえない素晴らしい場所にいたのですよ。これから先、あなたがどんなに素晴らしい場所に足を運んでも、あの庭や家や部屋ほど素晴らしい場所にはたどり着けません。あなたがどんなに美味しいものを食べても、私が作ってあげた料理以上に美味しいものはありません。あなたがどんなに素敵な人と出会っても、私が用意した男の子ほど素敵な人はいないのです。あなたはこれから死ぬまでずっと、ずーっと、何に対しても満足できないのです。私の庭は、これからもずっとあなたの中に広がっているのです。そしてあなたはいつもこう思うのですよ。『あれ以上はもうない』のだと。一等賞がすでに出てしまっている、残念賞しか残っていないクジを引き続けるような人生を、あなたはこれから送るのです」


 あなたは「そんなことない!」と反論するけれど、非日常おばあちゃんは上品に笑って「はいはい、そういうことにしておきましょう」と言うだけで、あなたの反論を取り合わない。


「あなたはあなたの色あせた人生の中で必ず消耗し、そして遅かれ早かれ私に祈るのです。『あそこに戻れたらなぁ』と。その時までに、新しい柘榴も育つでしょう。私は力を取り戻すでしょう」


 非日常おばあちゃんは「絶対に迎えにきますからね。あなたを歓迎するのがとても、とても、楽しみです」と言い残し、路地の奥へと戻っていった。


 あなたは非日常おばあちゃんの姿が全然見えなくなってからも、ずっとそこから顔を反らせなかった。

 非日常お婆ちゃんが、あなたの日常からドロン。

 散々引っ掻き回してドロン。


 あなたは階段の下に物置小屋のない家に帰る。

 あなたが非日常おばあちゃんにのこのこほいほいついて行ってから、時間は全く進んでいなかった。

 あなたは下世話な週刊誌を読んでいたあなたのもたいまさこではないお母さんに抱きつく。

 あなたの日常お母さんは「ちょっとちょっと、どうしたの!? どっか具合でも悪いの!?」と驚くが、あなたはそんなこと知ったことかとばかりにわーわー泣く。


 ドラえもんに泣きつくのび太みたいにわーわーなく。おかえもーん、ぼく、非日常おばイアンにいじめられたんだぁーくやしいよー。


 お母さんがあなたを持て余しているうちに、向日葵みたいな名前のあの俳優とは似ても似つかない日常お父さんが帰ってきたので、あなたはまたしてものび太になり、日常お父さんに泣きながら抱きつく。おとえもーん。


 あなたがあまりに泣くものだし、挙動不審なものだから、お父さんとお母さんはあなたが何かしらの犯罪に巻き込まれたか、あるいは渋谷か池袋のクラブから広まった薬物汚染が中学生にまで広がったのか、または頭の打ち所がわるかったのかと、真剣に心配しはじめ、あなたは誤解を解くのになかなかのエネルギーを使う羽目になる。


 あなたは小学生低学年の時以来、お父さんとお母さんの間に布団を敷いて眠ることにする。


 あなたはビルボで、バスチアンで、ドロシー。

 恐ろしい冒険の後にお家に帰ってきたのだ。


 あなたは目を閉じ、自分に言い聞かせる。


「大丈夫。絶対に2度と、あんなものを願ったりしないんだから」


 しかしあなたの胸に広がる素敵な庭は、どうやっても消えさってはくれないのだった。






 非日常おばあちゃんが手をふって、あなたの帰りを待っている。


 あなたは必ず、あそこに戻る。


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