イメージ的みたいな雰囲気風・ザ・ワールド

千葉まりお

ようこそ、ようこそ、ようこそ、ようこそ

 非日常お婆ちゃんが、あなたの日常にジャジャジャジャン。


 あなたの人生をあなたのPOVで語るのなら、あなたは階段の下の物置部屋で暮らしていた……と言えなくもない系少女らしきものでござーまさーね。

 そんな経験1度もないし、そもそも物置部屋がない家で生まれ育ったけれども、あなた的にはあなたはアナター・ポッターその人に他ならないのでござーまさーね。


 不幸。不幸。そこそこの不幸。


 喰うに困るわけではないし、命の危機もないけれど。


 不幸。不幸。見るに耐えない程ではないけどTwitterで大げさに騒ぎ立てれば常時「毒親」というワードで検索している意識高い系アテクシ達に取り囲まれてチヤホヤしてもらえる程度の不幸。あなたの不幸に共感していいねしてバズらせてあげるね!


 「この程度」と言えば怒られるけど、「その程度」と切り捨てることも可能な程度のそこそこの不幸。

 そこそこの幸福と言い換えられる程度の不幸。

 つまりあなたは幸福に似た不幸と、不幸に似た幸福の世界の申し子。


 そんな魔法界の救世主の元に非日常お婆ちゃんが満を持してのご登場なんですよ。ババババーン。


 ジャジャジャジャーン。ジャジャジャジャーン。  

 すっかり安っぽくなり、本来の意味などもはや殆どの人が知らないベートーベンの造り上げた革新的な音楽があなたの頭の中でライトニングサンダー。


 非日常お婆ちゃんは非日常からの使者。  

 ありそうでない、でもちょっとありそうな桃屋スピリットにあふれた非日常へあなたをテイク・アウェイ。


 そこは中つ国やもしれない。  

 ヘイ・ユー・ビルボ!  

 もしやファンタージェンやもしれない。  

 ヘイ・ユー・バスチアン!  

 あるいはOZと呼ばれる土地なのやもかもしれない。

 ヘイ・ユー・ドロシー!  

 いずれにせよ、あなたは物語の主人公。  

 ヘイ・ユー・ヒロイン!    


 非日常お婆ちゃんのお供は、白い歯と陽気さと清潔感を装備した、レベル100・カンスト状態の田舎者。

 瓶ビールの入ったケースを持ち上げて、二の腕をムキッとさせるのが似合う感じ。

 これ以上「いい感じ」のご近所さんなんてないんじゃないかしらん? とあなたは思う。SSRご近所さん。  

 彼がもう少し若かったら、恋の始まりだったかもねん? なんて思う。  


 非日常ご近所さんの運転するクリーム色のトラバントが、あなたを非日常お婆ちゃんの暮らす非日常田舎へと連れてゆく。

 開け放たれた窓から吹き込む風が、このトラバントにエアコンがついていないことを忘れさせる。  

 ラジオでユーミンが歌う。  

 あなたのスマホにユーミンの曲など1曲も入っていないし、彼女の曲のタイトルなど1つも知らない。  

 あなたはユーミンの曲はおばさんが好きそうな曲だと思っている。

 厚化粧で、香水臭くて、アイラインとかひいちゃうおばさん達のBGM。

 加齢臭半端ない。固まったファンデーションとムースと麝香と汗と防虫剤の臭い。授業参観の臭い。  

 あなたにはそもそもなんで松任谷由実がユーミンなのかもわからない。マツユミ。あるいはマミンじゃだめなのかと思う。  

 なんでムーミンみたいな名前なんだろうと思う。パクったのかなって思う。

 しかし、こういう場面ではユーミンでなくてはならないのだとあなたにはわかっている。  

 だって、トラバントだ。ヨーロッパの車だ。なんだかお洒落だ。シャレ乙だ。  

 こういう車にはユーミンでなくては。  


 本当の所を言うとあなたはこの車がトラバントだということを知らない。  

 「ルパンが乗ってそうなお洒落なやつ」だと思っている。  

 「古い車の、恰好いいやつ」としか認識していない。

 あなたはこの車がトラバントという名前で、ルパンが乗ってるメルセデスベンツSSKや、アルファロメオ・ジュリアGTとは違うのだということもわかっていない。  

 いいのだ。それで。  

 この車の名前がニッサンとかトヨタとかミツビシとか、そういう現実的な名前でさえなければ。  

 ラジオから流れてくる曲がセカイノオワリやマン・オン・ザ・ミッションみたいな日常的なものでさえなければ。

 どちらもろくに聞いたことがないけれど、新しい音楽は、JPOPは、ロッキンオンは、程度が低いとあなたは思っている。

 サマソニは死ね、フジロックは生きろ。

 あなたはそう思っている。どちらにも行ったことはないけれど。


 あなたはユーミンを聞きながら、黄色いお洒落なトラバントの後部座席で体を揺らしている。  


 あなたは振り返る。  

 あなたの家は大分小さくなっている。  

 車が角を曲がり、あなたの家は見えなくなる。  

 車はあなたが暮らす日常的な街の中で、あなたが通ったことのない道を走る。  

 存在は知っているが、一度も入ったことのない道を進む。  

 全く知らない道の景色に、時々「あのビルはここからも見れるんだ」とか「この道はここと繋がっていたんだ」という日常が見える。  

 でも、それもやがて消えてゆく。  

 波打ち際に転がっていたガラス瓶や打ち上げられた砂まみれの海藻や死んだクラゲが、満ち潮になって消えてゆくように。  

 あなたの日常が、非日常に沈んでゆく。  


 これはあなたが望んだことだ。  


 『女性自身』を世界の全てだと思っている的で、大衆的で笑い声が下品系日常お母さんにタイム・トゥー・セイ・グッバイする時がきたのだ。

 あの日常的お母さんはあなたに相応しくはないと、あなたは常々思っていたので何1つ後悔はない。

 あなたは、あなたに相応しい日常お母さんは、PASCOのコマーシャルに出てきた小林聡美的な佇まいの人だと思っている。

 大きな木製のお皿に素朴なおにぎりと沢庵を乗せる系お母さん。

 『暮らしの手帳』や『クウネル』が愛読書で、料理をする時にかならずエプロンをつける系お母さん。

 手からイーストの匂いがする系お母さん。  

 かもめ食堂的お母さん。  

 もたいまさこでもいいんだぜぃ?  


 あなたはかもめ食堂的お母さんの娘的存在は、井上真央的な少女でなければならないことは考えてはいない。


 トイレのドアを開けっ放しにして、灰皿代わりに使った空き缶をテーブルの上におきっぱなしにし、あなたがあなたの頬に出来た新しいニキビをめがね拭き用ハンカチで泡立たせた『ビオレ』で洗っているのを「洗ってもブスはなおんねーぞ」と笑う系の日常お父さんにもタイム・トゥー・セイ・グッバイする時が来たんだぞなもし。

 あなたは、あなたに相応しい日常お父さんは、色々なドラマに出て入るけど今一名前を思い出せない例のあの人的な佇まいがいいと思っている。  

 ほら、あの人。

 テレビドラマで「いいお父さん」の役をやると大体でてくるあの人。

 平たい顔族で、はげてて、人が良さそうな笑顔の、あの人。

 向日葵みたいな名前の。小さいとか、文とかがついていたような、いまいち読み方のわからない、あの人。

 「まれ」とかにでてるあの人。大泉洋じゃない方のお父さん。  

 あなたはその大泉洋じゃない方のお父さんこそが自分の生産元であるべきだったと思っている。  


 大泉洋じゃない方のお父さんに相応しい娘的存在は、堀北真希系お嬢さんでなければならないことは考えない。  


 あなたを乗せた非日常トラバントはやがて非日常田舎へ到着する。  

 あなたの家からここにくるまでに大分時間がかかったはずだけれども、まだ太陽は空の天井でペッカー! としている。  

 そうでなくてはならない。  

 非日常は、ファンタージェンは、ホビット庄は、ジュラシックワールドは、物語の始まりは、必ず明るく爽やかでなければ。  

 クリエイテッド・バイ・スタジオジブリ。

 そんな塩梅の風景にあなたがウェルカム。  

 スマホも通じない、ショッピングモールも、本屋さんも、映画館も、TSUTAYAも、コンビニすらない非日常田舎で、あなたは五月かメイになる。  


 非日常田舎の、非日常川にかけられた、非日常橋を越えた先にある、非日常森の奥に、非日常お婆ちゃんの家がある。  

 そのあまりの素敵さに「こんなの初めてー」とあなたの中の石原さとみが叫ぶ。  

 ハーブ、ハーブ、ハーブ、多分ハーブ。メイビーハーブ。  

 ハーブだろうと思われる草が茂る庭。ハーブ的な勢いで満ちた庭。

 キューピーハーブ・アンド・ハーブ。  

 思わず福山雅治を中央に配置したくなる庭だ。  

 晴天の日ではなく、少し曇った、青灰色の日に。  

 雨が降り出す直前のこの庭に、福山雅治を配置したくなる。そんな庭だ。


 彼に野菜を持たせたい。  

 ピーマン、人参、タマネギ、なんていうような2流3流の一般野菜は相応しくない。  

 インスタグラムに断面図の写メをアップされているようなスタイリッシュな野菜達、お洒落さで殴り掛かってくるファッショナブルアクセサリーベジタブルズを福山雅治に持たせたい。  

 そしてそれにマヨネーズをぬってバリッとやって欲しくなる。  

 そんな庭。  

 福山雅治がいないのが不自然に思えるような、そんな庭。  


 ウェルカム・福山マサハライズ・ガーデンへ。  

 おぜうさん。


 「アメリ」でみた陶器の小人の人形と、いい感じにコケが生えた木製の馬車のホイールがいいポジションに配置されている。ここは何もかもがいいポジションだ。

「こんなのはじめてー!」 

 再び石原さとみが叫ぶ。  

 あなたが「進撃の巨人」を見ているかどうかは問題ではない。  

 あなたの頭の中で誰かが歌う。  


 フーンフ、フーンフ、フーフフフーン、パセリセージロズマリーアンターイム。 


 あなたはこの歌のそこしか知らない。  

 誰が歌っているのかもしらない。  

 頭の中で延々とパセリセージロズマリーアンターイムの部分だけが繰り返される。   あなたは庭に生えているハーブらしき何らかの草の名を、パセリしかしらない。

 どれがセージでどれがローズマリーで『アン』タイムがどれかもわからない。  

 あなたはYoutube経由でゴールデンボンバーの呪いを一身に受けた哀しきネット世代のモンスター。  

 あなた・カースド・バイ・鬼龍院翔。  

 鬼龍院翔の呪いはあなたの細胞を浸食している。  

 だからあなたは英語の歌を聞くと自動的に英語ってカッコイイなと叫ぶあの曲が再生されてしまう。  

 あなたの頭の中でその歌は勝手にミキシングされて、パセリ、カッコイイな、セ、セ、セ、セージ、ブラザー、ロズマリー、ブブブラザー、アンターイム、オンリーモスキート! ブンブンチェケラッになっている。

 あなたの脳内DJにミキシングのセンスはないし、ゴールデンボンバーはチェケラッとは言わないし、今時チェケラッというDJはいない。  

 今時じゃなくてもいない。  


 けれどそんなことはあなたには関係のない話だ。  


 庭には小さな川がある。  

 ホースの水を出しっ放しにしてできただけなんじゃないかと思うくらいの浅くてささやかな川だ。

 昔、この川はもっと大きくて、深かったのだと非日常お婆ちゃんは言う。


 非日常お婆ちゃんの日本語はとてもとても丁寧だ。

 非日常お婆ちゃんは孫であるあなたのことすら「さん」付けで呼ぶ。  

 非日常お婆ちゃんの声には少し訛りがある。  

 非日常お婆ちゃんの瞳はちゃんとしたモンブランの色をしている。  

 栗金時みたいな色じゃない。

 きちんとした栗を使った、きちんとしたモンブランの色だ。

 非日常お婆ちゃんの体にはIKEAの国の血が流れている。

 瞳の色はIKEAの国の大地の色だとあなたは思う。

 IKEAの国のことは「IKEAの国でしょ」としか認識していないにも関わらず。


 革新的かつ斬新でグローバリズム的見地からあらゆる言語での説明文を廃し、ベジェ曲線で描き上げられたシンプルisベストなイラストだけで構成された組み立て説明書に従い、ビスケット並みの耐久力しかない合板の穴を付属ネジで留め、扉の図の位置に金属パーツをはめ込み、最後に脚を開いて完成する引き出し付き花柄コーヒーテーブルに、そのコーヒーテーブルをデザインした新進気鋭の北欧メガネ男子が彼の7歳になる娘の名前にちなんで『ヴィルヘルミーナ』と名付けたりするその安物家具屋のスピリットを、あなたは最高に素敵だと考えている。


 北欧製家具——あなたには何の関係もない人の名前が付けられた素敵なもの。

 北欧製ブレックファースト——ただの両面焼きの卵焼きをサニーサイドアップと呼んだ素敵なもの。

 北欧製テキスタイル——丸と三角と四角。黄色と青灰色と黒。森と動物と花。素敵なもの。

 北欧製幼児玩具——それは木製でなければならず、1つ1つが職人の手作りでなければならず、赤、青、緑、黄色のビビットな色でなければならない。プラスチックやシリコンなどもってのほか。子供が欲しがっている仮面ライダーの人形は最初からカタログには載せられない。

 そんな北欧製ライフスタイル。 ザリガニだってオシャレに平らげる。

 非日常お婆ちゃんの瞳の色は、あなたとIKEAを結びつける。

 あなたの瞳はおせちに入っている黒豆みたいな色味だが、そこにはIKEAが潜んでいるのだ。

 安い合板の椅子に『ヴィルヘルム』、1ヶ月で壊れる傘立てには『ラウラ』、ただのハンガーに『ヨセフィーナ』。そんな風に名付ける精神が潜んでいるのだ。

 あなたはそれに優越感を覚える。

 北欧式あなた。

 洗いざらしのリネンなあなた。

 肌触りのいい天然素材のあなた。

 1つ1つが職人の手作りなあなた。

 それは実に心地よい思いつきだ。  


 非日常お婆ちゃんの家は蔦で覆われた1軒家。2階建て。

 昔、まだ川が川らしかった頃は水車小屋だったという。

 木製の水車は今は花壇になっていて、奇麗なお花が咲いている。


「こんなの初めてー」

 もうあなたの頭の中の石原さとみは止まらない。石原・アンストッパブル・さとみ。

 あなたの頭の中で彼女は無限に増殖し、あなたが非日常的な素晴らしいものを見る度にあの魅惑的なたらこ唇をぷるりんぷるりん言わせながら、些か性的な含みがあるような気がしなくもない台詞を絶叫し続ける。こんなの初めてー。


 あなたの部屋は非日常1軒家の2階。2階兼屋根裏部屋。

 床は板張り、壁は漆喰、天井の梁は剥き出しで、魚の形をしたガラス瓶が何本か、そこから紐でぶら下げられている。

 中にビー玉らしきものが入っているように見えるが、埃を被っているのでよくわからない。

 家具には布がかけられているが、埃はそれにもつもっている。


「ごめんなさいね。急だったから掃除がまだなのですよ」

 非現実お婆ちゃんがいう。

 非日常お隣さんが弟達を連れて掃除を手伝いに来てくれるという。

 1つだけある窓は大きな丸窓。

 埃で茶色く汚れていて、外は見えない。

 あなたは窓に近づくと、それを開く前に目と口を描く。

 ニコちゃんマーク。

 もしも自分がジブリのヒロインならそうするだろうと思ったから。

 あなたの頭の中で、あなたはマーニーになった。

 五月でも、メイでも、キキでも、シータでも、ナウシカでも、アリエッティでも、ソフィーでもない。

 あなたの脳内で、あなたはマーニーライズされている。

 本編の内容がまるでわからない、少女同士の同性愛を匂わせるやや居心地の悪い予告編でしかマーニーのことは知らないが。

 ふわふわの髪。

 白いお肌。

 ひらひらの服。

 夢遊病患者のような女の子。

 そこにあなたらしい要素は何1つないが、そんなことはあなたにとって問題ではない。

 あなたがマーニーならそれで良い。

 マーニーがあなたである必要はない。


 あなたは窓を開ける。

 風が吹き込み、魚のガラス瓶が揺れて、家具にかかっていた布が落ちる。

 そこにはアンティーク調の足踏みミシンがあり、丸いテーブルがあり、ガラス扉付きの本棚があり、天涯付きのベッドがあり、大きな鏡があり、洋服ダンスがある。


 古い家具だった。

 汚れていた。

 壊れている部分もあった。

 だが全てが素敵な古さであり、素敵な汚れであり、素敵な壊れ方だった。

 あなたは全てを気に入る。

 石原さとみが止まらない。

 彼女達のたらこ唇の震えはやがて1つに収束し、振動は光となり、世界を照らす新たな太陽となるのだ。天照大さとみ。

 全てがマーニーライズされている。


 なによりもあなたが気に入ったのはそれらの家具の脚が、猫の手の形をしていたことだ。

 丸めた猫の小さな可愛い手が真鍮や鉄で再現されている。

 あなたが家具に望むのは、その猫の手の脚だった。

 そしてそれは、ここに全てあったのだ。


 パーフェクトマーニー。


 窓の外から人々の声がしたので、あなたは非日常お婆ちゃんと一緒に庭を見下ろす。

 お隣さんが福山マサハライズガーデンの真ん中にいて、あなたを見上げて手を振っている。

 画面の右下にキューピーのロゴをつけて、糸井重里的お洒落なキャッチコピーをつければ、広告批評にも載るだろう。

 彼の後ろでは七歳ぐらいの男の子が浅い川を足でバシャバシャやっている。

 やんちゃそうな男の子で、小さな男の子が苦手なあなたは少し警戒するが、その男の子はあなたの方に顔を向けると大きく手をふって挨拶してくる。

 あなたはその子を好きになる。

 頭に青い大きなリボンをつけた女の子はお隣さんの後ろに恥ずかしそうに隠れていて、顔を半分だけのぞかせてあなたを見ている。

 あなたと目があうと、その子は小さく小さく手を振る。

 顔はトマトのように赤く、緊張しているのは明らかだ。

 あなたはその子を好きになる。

 1人だけ少し離れたところにあなたと同じくらいの年齢の男の子がいる。

 それはまさに、お隣さんが若返ったような素敵な雰囲気の男の子で、その子があなたに小さく頭を下げた瞬間に、あなたは恋の始まりを知る。

 あなたの星の瞳がシルエッティ。


 お隣さん一家と一緒にあなたは部屋を掃除する。  

 非日常お婆ちゃんが言うところによると、この家にはキッチン以外にはコンセントはなく、キッチンからこの屋根裏部屋に届く程の長さの延長コードもないのだそうだ。

 だからあなたは非日常お婆ちゃんの持ってきた「汚れても良い服」に着替えて、マスクをして、三角巾をつけて、帚や、ブラシや、ぞうきんで部屋を掃除する。

 それは決して面倒な労働ではない。

 あなたはキキがおそのさんのパン屋の二階に住まわせてもらうことになった時のことを考える。

 あの素敵なお掃除を。

 程々の心地よい労働を。


 お隣さんや、お隣さんの弟や妹達が掃除を手伝ってくれる。

 何度かあの格好良い男の子と目があう。

 男の子の顔は赤くなる。

 男の子はあなたにはあまり話しかけてはこないけれど、あなたのことを目で追いかけている。

 あなたはいい気分になるが、彼の目線が好意からなのか、単に珍しがられているだけなのかがわからず不安になる。

 すると絶妙のタイミングで、窓を拭いていた男の子の妹がよってきてあなたにそっと「お兄ちゃん、あなたのことが好きみたい」という。

 あなたの体はホッカイロみたいにぽっぽする。


 あなたは素敵な魔女子さんだ。

 ブラシもよく似合ってる。  


 掃除を終えると非日常的お隣さん達は非日常お婆ちゃんから「いつもありがとね」と声をかけられ、お礼のバスケットを受け取る。

 それにはあなた達が部屋を掃除している間に非日常お婆ちゃんが焼き上げたパンや、庭でとれたブルーベリーで作ったジャムを使ったマフィンや、ラベンダーのドライフラワーや、ふかしたジャガイモ、それにお洒落な瓶に入った林檎サイダーが入っている。

 栄養成分と原材料とお客様サービスセンターの電話番号と賞味期限とバーコードが印刷された薄っぺらい透明フィルム、あるいはアルミ蒸着フィルムで包装されたものなど1つもない。

 ただの1つも。


 お隣さん達は大げさに喜び、そして「また困ったことがあったら呼んでくださいね」と言って去ってゆく。  

 あなたは子供たちととても仲良くなっていたので、また明日遊ぼうねと約束をしている。

 あなたにこの非日常田舎を案内してくれるのだそうだ。

 きっと全てが非日常に違いないとあなたは思い、そして勿論あなたはまだ知らないが、それはその通りなのだ。  


 あなたは非日常お婆ちゃんとテレビのないリビングで食事をする。

 リビングは広く、窓は大きく、床はペルシャ絨毯で、スリッパを履いたあなたの足を2、3センチ程食べる。

 壁は日本の住宅ではお目にかかれない柄の壁紙で覆われている。

 あなたはそんな柄の壁紙をBBC版「シャーロック」のシャーロックの部屋でしか見たことがない。  

 ベネディクト・カンバーバッジか、マーティン・フリーマンの背景にたたずむのが似合う壁だ。

 言うなれば本場BBC仕上げ、ベネディクトカラー、マーティン模様、商品番号BBC-SH-S1-E3だか4だか5。

 それが今、あなたの目の前にある。

 勿論、壁紙などはあなたがこのリビングに入って、周囲を見回して、最後に気がついたささいな部分だ。

 非日常お婆ちゃんに導かれてこのリビングに足を踏み入れた時、あなたの頭の中にいるジャック・スパロウ船長が平田広明の声でこう言ったのだ。


「ここが例の場所だよ、おわかりぃ?」


 まさしく。その通り。

 ここは例の場所だった。

 あなたの鼻は着色水の匂いを思い出し、あなたの耳はヨーホーヨーホーを再生する。

 あなたの感覚はあなたが7歳の時に戻る。

 7歳のあなたは千葉の偽マイアミにいる。

 あなたの背はまだ低く、あなたは楽しみにしていたビッグサンダーマウンテンに乗れなかった。

 あなたは7歳にしてミッキーマウスに対して殺意を抱える。

 ロケットランチャーでミッキーマウスを吹き飛ばす代わりに、あなたは日常親に連れられてカリブの海賊に乗る。

 まだ「パイレーツ・オブ・カリビアン」が公開される前のあの夢の国では、カリブの海賊は待ち時間が殆どない不人気アトラクションの1つだった。

 その気になれば延々と乗り続けられたのだ。

 あなたは着色水の匂いを思い出す。

 偽物のカリブ海の匂い。

 あなたの乗ったボートのような何かは緩やかな坂を降り、暗闇に飲まれ、暗闇を抜ける。心地よい重力の変動。

 作り物の船があり、作り物の大砲が飛ぶ。

 右側に提灯が見え、オレンジ色の淡い明かりの下で誰かが食事をしているシルエットが見える。

 そこが「ブルーバイユー」というレストランだということをその時のあなたは知らない。

 あなたはからくり人形の海賊達を見つめる。

 財宝を強奪し、奇麗な女性をおいかける海賊。

 太った女性に追いかけ回される海賊。

 それらはそこそこに楽しいが、あなたの頭の中にある「ビッグサンダーマウンテンに乗り損なった」という悔しさを拭い取ってはくれない。

 あなたの心のロケットランチャーは未だミッキーマウスに向けられている。その綺麗な面を吹っ飛ばしてやる。


 だがしかし。

 あなたはカリブの海賊の終盤で、その例の場所を見つける。

 死んだ海賊の残した財宝。

 宝箱。宝石。堆く積まれた金貨。

 あなたはそれほど素晴らしい場所をみたことがなかった。

 ビッグサンダーマウンテンのことはもう頭から消えていた。

 あなたは武装解除した。

 ロケットランチャーは足下に落ちている。  

 あなたはその場所でボートのようなものが止まってくれないかと思った。

 あなたはボートのようなものからその場所へ飛び移り、金貨の山の中に隠れ、そしてそこで暮らしたかった。

 その素晴らしい場所で。


 そこでは何もかもが輝いていた。

 偽物の骸骨に張った、偽物の蜘蛛の巣ですらも。  

 あなたはその場所にスタックされた。


 今。

 あなたは15才。身長は163cm。

 あなたはもう全てのディズニーランドの乗り物に乗れる。

 ディズニーシーの乗り物にだって乗れる。

 だが、あなたの心の一部は今もまだカリブの海賊のあの金貨の中にスタックされている。

 あなたがスタックされているのは、現実のカリブの海賊のあの場所ではない。

 あなたがスタックされているのは、あの瞬間にカリブの海賊のあの場所を通して出現した、「例のあの場所」だ。

 そして非日常お婆ちゃんの家の、非日常リビングは、あなたが十数年振りに再び目にした「例の場所」だったのだ。


 おわかりぃ?  


 あなたは生まれて初めてセピア調の大きな地球儀を見る。

 それらの地球儀では全ての国名がラテン語で描いてあるし、海には人魚とトリトン王と海賊船とクラーケンが描かれている。

 国の名前とか、経度や緯度とは何ぞやとか、赤道というのはなにかとかを覚えさせるための地球儀ではないのだ。

 あなたは生まれて初めてコロコロコミックぐらいの分厚さで、革張りで、金の飾りがついた本を見る。

 あと一歩で焦げてしまうキャラメルみたいな色の大きな本棚に、そういった本は大きさや色ごとに整列している。

 本の手前には天使や妖精の形をした陶器のお人形がぽつぽつと。

 リビングに物は多い。

 ごちゃごちゃしている。

 しかしどれ1つとして素敵ではないものはない。  

 アンティークの小物。

 アンティークの家具。

 「耳をすませば」の嫌な奴のおじいさんの家のようだとあなたは思う。

 猫のバロンも探せばみつかるだろう。

 金槌で叩き割れば暗闇の中で青い光を発する不思議な石すらも。

 「これはなに?」と聞けば、非日常お婆ちゃんから返ってくるのは非日常の物語。

 そのゼンマイ仕掛けのブリキの兵隊は、非日常お婆ちゃんが北欧にいた時に当時の恋人から貰ったもの。  

 その万華鏡は非日常お婆ちゃんの、更にまたお婆ちゃんから貰ったもので、ビーズではなく、エメラルドやルビーや水晶が使われている。

 木枠に入った鉱石の標本があり、中にお花の入った琥珀の置物があり、何かしらの動物の骨の標本があり、繊細なガラス細工があり、全てに素敵な物語が付属している。


 あなたはここが「メトロポリタンミュージアム」の言うところの「大好きな絵の中」であることをまだ知らず、ミイラと共に踊っている。


 間もなく閉じ込められようとしていることも、あなたはまだ知らない。


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