後編*「あたしは、分かる気がします」
神社に足を踏み入れた瞬間、じゃがバターの香ばしくほくほくとした香りとお好み焼きのソースの甘辛い匂いが、鼻をかすめて、頬が緩んだ。
小さな子供たちが、お母さんから手渡された綿あめに嬉しそうにかぶりついているのを見た時、緊張しっぱなしだった心が、だんだんと溶けてくる。
「早坂さん! なにをしたい?」
楽しくて仕方がないというように瞳を輝かせて、赤い提灯の下を軽やかな足取りで進んでいく一ノ瀬先輩のまわりは、本当にきらきらと輝いて見える。女の子だけじゃなくて男の子まで、みんなが彼のきらびやかさに視線を奪われてる。
少しだけぼんやりしてしまったあと、我にかえって前方の射的屋さんを指差した。
「射的、しませんか?」
二人で肩を並べながら射的屋さんの前に着いて足を止めると、気のよさそうな店主のオジさんがニヤリと瞳を細めながら出迎えてくれた。
先輩と肩を並べながら、おもちゃ箱をひっくり返したような色とりどりの射的の景品に視線を滑らせていく。その時、かけ棚の真ん中に小さいけれど厳かに光輝いている金色のハープを模した置物が一目散にあたしの目に飛び込んできて、ハッと息を呑んだ。
「早坂さん。どれがほしい?」
「あれがいいです」
躊躇うことなくその金色のハープの置物を指すと、射的屋のオジさんが、おお! と感嘆の声をあげた。
「お嬢ちゃん、目が利くねー。難易度も価値も一番高い代物だよ」
しまった! と、手で口を覆った。
言われてみれば射的の的にしては小さすぎるし、どう見ても高難易度だ。
先輩に、変なプレッシャーを与えてしまったかもしれない。気軽に聞いてみただけなのに、面倒くさい注文をしやがってとけむたがられていたらどうしよう。いますぐに取り消さなきゃ……!
「早坂さんはどうしてあれを選んだの?」
濁りの無い蒼の瞳にじっと見つめられて、あたしは口ごもりながら答えた。
「なんだか……先輩の話してくれた、オルフェウスの琴を思い出して」
その瞬間。
一ノ瀬先輩は、とろけるように甘く、嬉しそうに微笑んだ。
「凄いね、早坂さん。君は、どうしてそんなに僕の考えていることが分かるの?」
すっと伸びてきたその手が、自然とあたしの頭を撫でた時、このまま心臓を吐き出してしまうかと思うほどにびっくりして、血液が泡立って、息が浅くなって。
でも、それはほんの一瞬の出来事だった。
するりと離れていった手を名残惜しく思いながら、痛いくらいに高鳴る胸を鎮めるようにそっと手を当てる。
「あれを取ろう」と彼が勇んで射的を構えた。
その姿はすごく様になっていて恰好良かったのだけど、放たれた玉は予期せぬカーブを描いて飛んで行き、狙いの品どころかどの景品に当たることもなく壁に激突してむなしく落下した。
あれ? と雲行きが怪しいことに勘づき始めたのも束の間、予想通り、先輩はその後も鮮やかに的を外し続け、結局、一ゲームでなにも当てることができなかった。
五回連続で玉を繰り出し、ただただ射的料だけを払い終えて気まずそうにお店を立ち去る先輩を慌てて追いかける。彼が「……かっこわる」といつになくしょんぼり漏らしているのを見て、あたしは思わず口元が緩んだ。
「早坂さん、ごめんね。はあ……こんなつもりじゃなかったんだけどな」
「あたしは、嬉しいです」
「へ?」
容姿端麗、成績優秀、運動神経抜群。
外見だけでなく内面まで完璧な王子ぶりを発揮している彼の、思わぬ弱点発見だ。
あたしだけの知っている、先輩のひみつ。
こんなの、嬉しくないわけがない。
「一ノ瀬先輩の弱点、やっと見つけられて嬉しいんです。先輩が、なんでも完璧じゃなくてよかった。ほんの少しだけ、先輩が近づいた気がします」
思うままに口にしたら、彼がびっくりしたように瞳を丸くして、あたしをじっと見つめた。心なしか、雪の頰がほんのりと桃色に染まってる。
「…………早坂さん。それ、天然でやってるの?」
「えっ?」
天然は先輩の方じゃないだろうか。
きょとんと首を傾げた。
*
予想はしていたけれども。
その後も隣をゆく一ノ瀬先輩は、多くの人の視線を集めまくりだった。
「モデルさん? 超絶格好良いんだけど」
「あー。桜ヶ丘高校二年生の、一ノ瀬 光君だよ。ほんと、麗しいよね」
他校の子たちですら、彼の名前を知っている。隣を歩くあたしにも、あの子は誰? という好奇と嫉妬の入り混じったような視線がとんできて、不安の海に飲み込まれそうになる。
暗い気持ちに沈み込んで、顔がうつむき気味になったその時。
「光くん」
「ん?」
振り向けば、しっとりとした黒い髪をハーフアップにした、水色の浴衣の女の人が元々雪のように白い顔をさらに蒼白くして立っていた。
あれ。
この美人な人、どこかで見たことがあるような……。
「光くん、今日は用事があるっていってたよね?」
「そうだね」
思い出した!
二年生の、
茶道部所属の、清楚系美人さん。
うちのクラスの男子の間でも話題になっていたけれど、たしかに、上品な白百合のようにほっそりとした綺麗な人だ。
白石先輩が戸惑いながらあたしに一瞥をくれた瞬間、心臓が締め上げられるように痛んだ。
だって、分かってしまった。
瞳に揺らめく焔を見れば分かる。
この人は、一ノ瀬先輩に本気で恋をしてる。
「うん。早坂さんと、先に約束していたから」
あの白石先輩に、誘われていたの……!?
隣にいるあたしも、目の前にいる彼女も彼の悪びれない様子に愕然とする。
じんわりと背中に汗が伝うような嫌な空気が流れだしてから、ややもして。
白石先輩は、あたしが最も触れられたくなかった決定的な一言を放った。
「その子は……光くんの彼女なの?」
一之瀬先輩は、曖昧に微笑んで困ったように言った。
「ちがうよ。早坂さんは、天文部の後輩」
心臓が狂おしく高鳴って、胸が痛い。
そうだ。
彼は、間違ったことをなにひとつ言っていない。
そんなの、分かりきっていたことだったのに。突然、深い海で溺れてしまったように息苦しい。
「ね、早坂さん?」
同意を求められるようにあの笑顔を向けられて、さらに息が浅くなる。
ダメだ。ちゃんと笑わなきゃ、不審に思われちゃう。
強張り始めた唇をどうにか動かして、震える声でなんとか言葉を押し出す。
「そう、です。一ノ瀬先輩には、部活で良くしていただいていて」
「……そう。光くんが、特別を作るはずがないものね」
白石先輩が淋しそうに、でもどこか安堵しているようにそっと瞳を伏せた時、心臓がバラバラに千切られるようだった。
嗚咽がこぼれそうになるのを、どうにか堪える。
これは、一之瀬先輩に近づけたかもしれないだなんて思いあがった罰なのかもしれない。
彼にとってあたしは、ただの天文部の後輩だ。
特別でもなんでもない。
一之瀬先輩は、どんなに手を伸ばしても届かない、星みたいな人だ。
地上で立ち尽くしているあたしには、あまりにも、遠すぎる。
*
どうしてあたしは、先輩の隣を歩いているんだろう。
心に穴の開いてしまったような虚無感を抱えながら、ふらふらと頼りない足取りで先に進む。屋台の客寄せに威勢よく声を張り上げている店主さんたちの声も、楽しそうにはしゃいでいる子供たちの声も、全てがぼんやりと色あせていく。景色が、匂いが、色が遠のいていく。
その時、彼がすっと人の波を逃れるようにあたしの腕を引っ張った。
「早坂さん、気分悪い?」
「えっ」
「さっきから、ずっと辛そうだから」
「ち、がくて……あたしは、ただ」
あなたが、あまりにも遠いところにいて、苦しい。
さっき白石先輩と遭遇してから、ずっと、心臓が鉛のように重たい。
でも、ただの後輩で、良くしてもらっているだけのあたしには何かを言える権利は欠片もない。押しつぶされたようになった喉からは、ただ細い息がこぼれる。
「ねえ。次はなにをしにいく?」
そんな風に輝かんばかりの笑顔を向けられても、今はただ、胸が余計に痛くなるだけだった。
だから、つい、口にしてしまった。
「あ、たし……そろそろ、帰らなきゃ、かもです」
あたし、なにをいってるの……?
ずっと憧れていた一之瀬先輩に、折角、誘ってもらえた念願の夏祭りなのに。
なんて、かわいくないの。
彼が、ひゅっと息を呑んで、今にも泣きそうに張りつめているあたしのことをまじまじと見下ろしている。
先輩とあたしの間に、薄くて透明な壁が見えた。
こんなにも近そうに見えて、この壁は絶対に超えられない。
もし、この壁を壊そうとしたら、後輩ですらいられなくなる。
「ゴメン。僕、何か気に障ること、しちゃったかな」
どうして、そんなに優しくするの。
これ以上、勘違いしたくないのに。
無意識のやさしさは、時に、どんな刃物よりも残酷だ。
「せ、んぱいは…………オルフェウスが、どうして直前で振り向いたのかわからないって、言ってましたよね」
「うん」
あたし、こんな時なのに、何を話しているんだろ。
「あたしは、分かる気がします」
あともう少し。
あともう少しで、最愛の人と再びこの世界で暮らしてゆける。
後ろについてくる妻を振り返りたくてたまらない気持ちで、一歩一歩、地上を目指して歩くオルフェウスの気持ち。
「オル、フェウスは……きっと、嬉しくて嬉しくて、仕方なかったんです。愛おしくて愛おしくて仕方のない人と、もう一度、この世界で暮らしていけるかもしれないって思ったら……あたしも、冥府の神様の忠告なんて忘れて、振りむいちゃいます」
決して手の届かない遠いところにいってしまった愛おしくて仕方のない人を、一目でも早く見たいという気持ちだったんじゃないか。
幸せで胸がはちきれそうになって、でも、期待したその瞬間に、エウリディケはもう二度と手の届かないところに連れていかれてしまう。
それはきっと、身を引き裂かれるような、絶望だったんだ。
あたし、なにを、語っているんだろ。
喉を詰まらせながらいきなり語りだしたりして、バカみたいだ。
彼は、固唾をのんで、眦に涙をため始めたあたしのことをじっと見つめている。
「先輩には……わからないかもしれませんけど」
謂れのない憎まれ口をたたきながら、また自分に絶望した。
かわいくない。
本当に、なんて、愛想の悪い後輩だ。
「ご、めんなさい……今日は、すごく楽しかったです。も、う行きますね」
瞳から涙がこぼれ落ちそうになって、慌ててその場を立ち去ろうとした瞬間、一之瀬先輩から、いつになく強い力で腕を捕まれた。
「そんなにも深く想われていたエウリディケは――幸せ者だね」
いま、なんて。
恐々と見上げると、そこには、いつになく幸せそうに甘い笑顔を浮かべている一之瀬先輩がいた。
「生きている人からしたら果てしなく遠い死者の国まで、躊躇わずに迎えに来てくれるだけじゃなくて……神様の忠告も忘れちゃうくらい、一刻でも早く、逢いたいと思っていたんだね。エウリディケは、そんなにも一途に愛されて、すごくすごく幸せだ」
やさしく微笑む先輩が、今まで見てきたどんな時よりも、一番輝いて見えた。
泣きそうになっていたことも忘れてぼうっと見とれていたら、じっと胸の内まで見透かすようにのぞきこまれる。
「ねえ、早坂さん。キミにもそんな風に想う相手がいるの?」
「い、ないです」
「ふうん、そう」
その次の瞬間。
淋しそうに瞳を伏せた彼が、予想を宇宙にまで突き抜けてくるとんでもない発言をこぼした。
「……残念、告白する前に失恋しちゃったか」
え。
「っ!? え。え、あ、あの。い、いま、な、なななな、なんて言いました?」
「どうして、そんなに驚いてるの」
「えっ、えと……い、いまのって、どどどどどどういう意味……?」
「どうもなにも。僕が、早坂さんを好きっていう意味だけど。そもそも、好きじゃない女の子と二人で出かけようなんて思わないよ」
なに。
なんなの、この人。
心臓をめがけて放たれたあまりの剛速球に、卒倒して気を失いそうになる。くらくらと眩暈までしてきた。
「な、なんで、あたしなんですか? 一ノ瀬先輩には、もっともっとふさわしい女の子がが――」
「ん。そんなの、簡単だよ」
慌てふためいて、顔をトマトみたいに真っ赤にして混乱するあたしを安心させるように、彼は女の子ならば誰もがとろけてしまうような極上の笑みを浮かべる。
「僕が、可愛い早坂さんに恋をしたからに決まってるでしょ」
なにこれ。
こんなの、夢みたいだ。
その後、驚きと嬉しさのあまりぼろぼろと泣きながら、早とちりで振ったことになってしまったことを撤回すると、先輩は、星空を見上げた時みたいに眩しい笑顔を浮かべて微笑んだ。
「ほんとにほんと? じゃあ、もう、彼氏だって宣言していいんだね? ああ、ほんとに嬉しいなぁ。これからもよろしくね、早坂さん。ううん、日菜」
これが、どんなに手を伸ばしても届かないと思っていた星の王子様が、地上にいたあたしの下にころりと落っこちてきた夏の日の出来事だった。
【星の王子様に恋をした 完】
星の王子様に恋をした 久里 @mikanmomo1123
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