星の王子様に恋をした
久里
前編*「どうしてオルフェウスは、振り返ってしまったんだろうね?」
どんなに手を伸ばしても、絶対に届くはずがない人に恋をした。
「あっ、夏の大三角形だ!」
隣を歩く
生温い夜風にさらさらとなびく、触ったら柔らかそうなヘーゼル色の髪。
夏の海のように蒼く、透き通っている瞳。いつも、やわらかな微笑をたたえている形の良い唇。ブレザーの制服に包まれている、しなやかな筋肉をそなえた長い手足。
星空から降り注ぐ慎ましい光を浴びた彼は、誰よりも綺麗だ。
道行く誰もが彼の麗しさにハッと瞳を見開いて、ぼうっと見惚れてしまっているほどなのに、当の本人は、夜空に浮かぶ星の大三角形に夢中で、人々からの熱視線を気に留めている様子は欠片もない。
彼が、「ん?」とあたしをのぞき込んで首を傾げた時、心臓がどきりと高鳴った。頬に浮かび始めた微熱をかき消すように、あわあわと返事をする。
「えっと……デネブ、ベガ、アルタイルでしたっけ?」
「流石だね。早坂さんは、星のことをよく知ってる」
「い、一ノ瀬先輩程ではないです」
「でも、大好きでしょ?」
「へっ!?」
「星のこと」
「っ。も、もちろんですっ……」
「なんで、そんなに動揺してるの。おかしな早坂さん」
くすくすと鈴を転がしたように笑われて、頬が燃え上がるほどに熱くなった。夏のぬるい夜風を涼しく感じるくらいに。
時々、この先輩は、あたしの気持ちを分かっていてわざと弄んでいるんじゃないかと憎らしく思ってしまいそうになるけれど、この人に限ってそれはない。
だって、
どこまでもマイペースで、天然気味で、少し不思議。
夜空に浮かぶ星々を眺める時間を、他の何よりも愛している。
あたし、
でも、不思議と、彼女という特別は作らない。
平凡なあたしが輝かしい彼の隣をこうして歩けているのは、部活後の帰り道が途中まで一緒だからというただそれだけの理由で、それ以上でも以下でもない。
言い知れぬ哀しさに言葉を詰まらせてしまったあたしに気づいた様子もなく、彼は、いつも通り楽しそうに大好きな星の話を続ける。
「その三つの星の中でもひときわ明るく輝いているベガは、日本では織り姫星の名で親しまれているけれど、北欧では夏の夜の女王って呼ばれているんだって。ベガは、こと座の一部でもあるんだよ」
一ノ瀬先輩が、その細長い指先で、宙にベガを起点にした三角形を引く。
続けて三角形の左下に小さな平行四角形を描きながら、すこし淋しげに言った。
「あの琴は、哀しい音色を響かせ続けているんだ」
「えっ! どうしてですかっ?」
思わず身を乗り出してそう聞くと、先輩はきょとんと瞳を見開いた。
それから彼がやさしい光を滲ませて微笑んだ時、心臓が痛いくらいに高鳴った。
「あれは、オルフェウスの琴なんだよ。琴の名人だった彼には、愛するエウリディケという妻がいた。彼は、毒蛇に噛まれて死んでしまった彼女のことを忘れられなくて、冥界まで、迎えに行くんだ」
愛する妻を忘れられずに、死者の国まで……!
なんて、一途で、勇敢な人なのだろう。
心臓をドキドキと波打たせながら、彼の紡ぐ物語に聴き入る。
先輩の語る星座の物語に耳を澄ませるこの時間が、たまらなく好きだ。
「死者の国までの道のりは、様々な困難が待ち受けていた。でも、冥界の入り口を守っていた地獄の番犬も、三途の川の渡し守も、みんなオルフェウスの紡ぐ琴の音色のあまりの美しさに聞き惚れて、うっかり彼を通してしまう。その音色の類稀なる響きは、冥界のハデス神すらも感動して涙を流すほどだった」
蜜のように甘い声で紡がれる物語に耳をゆだねながら、想像する。
オルフェウスの奏でた、最愛の妻への想いのこもった愛の唄を。
「感動したハデス神は、オルフェウスにエウリディケを返すと約束した。ただし、『地上に帰りつくまでは、決して後ろにいる妻を振り返ってはいけない』とあわせて忠告する。彼は喜んで約束をすると、愛する妻を従えて暗い洞窟を上っていった」
幸せな結末に向かっているはずなのに。
暗雲が垂れ込めてきたように胸がざわつくのは、何故だろう。
「やがて洞窟の中にうっすらと地上の灯りがさしてきて、あともうすぐで地上に着く、もうすぐだと思ったオルフェウスは、うっかり後ろに振り返ってしまう。その途端、愛する妻は小さく悲鳴をあげて、死者の国へあっという間に連れ戻されてしまったんだって」
エウリディケのか細い悲鳴が耳の奥から聴こえてきた気がして、哀しい気持ちに浸された。
「身が張り裂けそうなほどの悲しみにくれたオルフェウスは、自らも川に飛び込んで命を落とした。一連の様子を見ていたゼウス神が拾いあげて星座にしたのが、あの琴なんだ」
一ノ瀬先輩はそう締めくくってどこか物憂げに瞳を伏せた後、じいっとあたしのことを見つめてきた。
なに……?
その、あんまり麗しいお顔で見つめられると、体温が上昇して困ってしまうのですが……なんて言えるはずがないけれど、内心ではわたわたしっぱなしだ。
対する先輩は、呑気に首を傾げた。
「ねえ、早坂さん。どうしてオルフェウスは、あともう少しだったのに、振り返ってしまったんだろうね?」
心臓が、びっくりして飛び跳ねた。
「そ、れは……」
あたしには、彼が振り返ってしまった理由が、分かったからだった。
でも、言えない。
先輩に、どうしてそう思うのか聞かれることが、怖い。
心の内を見透かされるのが怖くて口ごもってしまったあたしに、彼は「そんなこと、分からないか」とおっとり微笑んだ後、マイペースに続けた。
「ところで早坂さん、明後日の日曜日は暇?」
「いや。特に、何もなかったような気がします」
「よかった。じゃあ、一緒にお祭りに行かない?」
「え! やったあ、嬉しいです! 天文部のみんなで行くんですよね?」
「んー、それも楽しそうだけど……早坂さんと二人きりがいいかな」
「へ?」
「ダメ?」
ことりと首を傾げられてふわりと微笑まれた時、あまりの衝撃に、心停止するかと思った。
*
その問題の日曜日は、びっくりするぐらいあっという間にやってきてしまった。
日が沈み、あたりがゆっくりと暗くなり始める頃。
蜜柑色の空を、カラスの群れがゆったりと飛び去ってゆくのをぼんやりと眺めながら、あたしはこれまでの人生で一番に緊張していた。
普段の静けさが嘘のように賑わっている神社の前で、同じように待ち人を待っているらしい人々にまぎれながら、腕時計を一瞥する。
もう、待ち合わせ時間まで、あと五分しかない。
もうすぐ、一ノ瀬先輩と待ち合わせの時間だ。
震える手で、泣きそうになりながら何度も何度も手鏡をのぞき込む。
髪、はねてないよね? 化粧は、濃すぎていないよね?
どんなに鏡とにらめっこをしても、安心できるどころか逆に不安が募っていくばかりで息苦しい。喉からは、ひゅーひゅーと頼りない息がこぼれる。
でも、緊張するなっていうほうが難しい。
だって、相手は、あの一ノ
桜ヶ丘高校に入学して、星を眺めているのが好きだったからという理由で入った天文部で、あたしは彼と出逢った。
一ノ瀬先輩をはじめて見た時、現実にも王子様っていたんだなぁとすっごくびっくりして、数秒間くらい固まってしまった。あの時のことは、半年経った今でも、昨日のことのように思い出せる。
もう何度も部活で顔を合わせているのだから、今更幻滅することもないだろうけど……ほんの少しくらいは、可愛いと思ってもらいたい。
それにしても、一ノ瀬先輩は、本当によく分からない人だ。
二人きりで夏祭りに行こうだなんて……こんなのまるで、デートみたいだ。
いや、あのマイペースな先輩のことだから、やっぱりそんなに深い意味はないのかも。
いつも星で頭をいっぱいにしている無邪気な先輩には、自覚が足りなさすぎる。自分が女の子に及ぼしている甚大なる影響力について、もっとはっきりと自覚をもってもらいたい。切実に。
哀しくなってきて眉をへの字に曲げながら、手鏡をのぞき込んでいたその時、
「早坂さん? 難しい顔をして、どうしたの」
「はうっ!? い、一ノ瀬先輩……!」
えっ、いつの間に来たの…………!?
あたしよりも後にやってきた先輩に『そんなに待ってませんよ』ってしとやかに微笑むためだけに、待ち合わせ時間よりも三十分も前についていたのに! その結果、よりにもよって、鏡をのぞき込んでいるところを不思議そうに見つめられるなんて、最悪も最悪だ……!
「こ、ここここれはっ。な、なんでもありませんっ」
高速で手鏡をバッグにしまいながら、早速、顔がゆでだこのように熱くなり始める。
痛いぐらいに心臓を高鳴らせながら、恐々と顔をあげたらそこには――いつ何時でも王子様然としている、浴衣姿の一ノ瀬先輩がいた。
――って、浴衣!?
黒の浴衣が、その白い肌を燦然と際立たせていて、あまりの艶やかさに思わずごくりと唾を呑み込んだ。開いた胸元からくっきりと浮き出ている鎖骨に、否が応でも視線を奪われてしまう。
「ダメだよ、早坂さん」
「えっ!」
ふおあっ!? もしかして、鎖骨の辺りをガン見してたのが早速バレた……!?
で、でも、そんなのはだけさせてる一ノ瀬先輩が悪い! あんな芸術的な形の鎖骨、見惚れない訳がない!
頭の中で騒がしく言い訳をしながらパニックになっていたら、
「なんで、浴衣じゃないの。早坂さんの浴衣姿、楽しみにしてたのに」
頬をむくっとふくらませて、ジト目で見下ろされた。
浴衣で行くべきか、私服で臨むべきか。
あたしだって、知恵熱が出そうなほどに、思い悩んだのだ。
でも、彼女でもないのに張り切って浴衣を着て行って、万が一にも優しい先輩に
なに勘違いしてんだこいつ! 重い! って思われたら、もう天文部に行けなくなる。
不安の方が勝った臆病なあたしは、無難に私服を選択してしまった。
「ま、まさか、先輩が浴衣で来るとは思ってもいなくて……」
「えー。夏祭りといったら、浴衣でしょ?」
なるほど。
一ノ瀬先輩クラスの半端ないモテぶりになると、夏祭りで連れの女の子が浴衣を着てくることは、当たり前だったのかもしれない。
さっきからあたし、失敗ばっかりだ……と泣きそうになっていたら、一ノ瀬先輩はじいっとあたしのことを見つめてにこりと微笑んだ。
「まあでも、早坂さんの可愛いワンピース姿が見れたから、いっか」
なに、この人。
どんどん、好きになる。息苦しいくらいだ。
思わず固まってしまったあたしに、先輩は眩しい太陽のような微笑を浮かべながら「じゃあ、行こうか」と言った。
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