旅の終わり
その少女は、海原の色の瞳をしていた。
☆
彼は、幼い頃に両親を亡くし、拾われて、養い親のもとで薬師になった。
もう、八〇の歳を数える昔のことである。
こうして床に就いて起き上がることもできなくなってから、もうどれくらいたつのだろう。最近、遠い昔のことを不意に憶い出す時間が多くなったと、彼は思った。
床の上で、生きてきた道を逆に辿る旅が、最近続いているような気がする。もう、間もなく自分の生命の火が消えるときがくるのだろう。そんな気がする。
大陸の北の果て。季節は――。
ここが、終焉の地となるのだ。あちこちを旅してきたけれども、それもじき、終わるだろう。
「おじいちゃん、お水いる?」
重い瞼をあげると、部屋の戸口に娘がたたずんで、彼のほうをじっと見ていた。泣きそうな顔をしている、と思う。
彼は、病に倒れてから、長いことこの辺境の宿に厄介になっていた。彼女は、宿の主の娘だ。
「ああ……」
「苦しいの?」
「いいや」
「お水、いる?」
「ああ……そうだね。……汲んできてくれるかい?」
宿の主は親切な主人だった。病を抱えた老人に逗留を勧め、こうして面倒をみてくれているのだから。老人の言葉に、娘は踵を翻して、階段を下りていった。
静かだ。
季節は、萌月。大巫の祭りまで後、幾日もない。
彼は、目を閉じた。
穏やかな気分だった。いつものように苦しくないし、痛みもない。
ここで終わるのだろうか――つばさをもぎれた鳥のように、もう、どこへもいけない。やはり、辿りつけなかった、と彼は思った。
薬師として独り身をたてられるようになってすぐ、彼は生まれた邑を出た。
そしてあてのない旅を続けた。
――あの、少女を探して。
けれどそれも、もう終わる。
――とうとう、逢えなかったね。
彼は、少女の名前を呼んだ。大事に胸に抱えてきた名前だった。
――ゆのか……。
憶い出にはできなかった。
都の姫君の後ろ姿が、脳裏に刻まれている。
☆
うつらうつらしていたと思う。
羽ばたきが聞こえた。
そう、思った。
遠く。軽く。空を渡る鈴の音のような――。
「――たすく」
懐かしい――。
「たすく」
懐かしい声が、彼を呼んだ。
「たすく。ああ……お願い、目を開けて」
だから、彼はゆっくりと首を捩って目を開ける。
そして。
彼はそこに少女をみた。
「たすく……っ」
「……ゆの……か……?」
あの日――彼の記憶の中に在ると少しも変わらない少女を。
けれど思えばそれは不思議なことでもなんでもなかった。彼女は、都人だったのだから。
だから、老いることなどないのだ。
――ああ。
「……ゆのか」
指先を伸すと、少女がそれを握り締めてくれた。少女は、枕元に跪いて、彼の顔を覗き込む。
――あの、海原の色の瞳で。
黒く艶やかな髪が、さらさらと肩からこぼれて流れる。
金色の髪飾りが、ちりちりと音を立てる。
薄い水色の衣に身を包み、かんざしやら玉やらで身を飾った少女は、まるで祭りの舞姫のようだった。こんな辺鄙な国境の宿にはちっとも似つかわしくない姿だった。華美で、眩暈がするほどだ。
「夢……? なのか……な……」
「違うわ。わたしよ、たすく」
「……ゆのか? ……本当に? 本当に、ゆのかなのか……?」
「よかった……。ああ、よかった。間にあって……」
「ゆのか……なんだ……」
「そうよ」
「だからいったじゃないさっ。あんたは全然成長してないよ」
「だって……。だって。もう! 黙ってて頂戴!」
――翼羽だった。
掌に収まるくらいの、もうひとりのゆのか。都人の半身は、ゆのかの肩に座って居た。
彼は――たすくは、ほほえんだ。
「夢でも……嬉しいよ」
「……たすく」
「ずっと、君に逢いたかった。……逢いたかったんだ……」
その言葉は、最後まで声にならなかった。
皺の刻まれた双眸から、涙があふれた。
「やだやだ。年寄りはこれだから。泣くな!」
「もうっ、華乃由!」
ゆのかが翼羽を睨みつける。たすくは涙を拭かずに尋ねた。
「……どうして。……君が迎えにきてくれるなんて、おもってなかったな」
「ええ。でも迎えにきたのよ、たすく」
少女は少し首を傾げるようにして、微笑んだ。泣きそうな顔で、静かに微笑んだ。
本当に、ゆのかは昔のままだった。
それに比べて、自分は。
長い歳月を重ね、なんとずいぶんとくたびれてしまったことだろう。
もう、いかなくてはならないのだ。この体ではもうどこへもいけないし、長くはないだろう。ただ、どういう奇跡かしらないけれどもこうしてひとめ逢えただけでもいいと思った。
「……ありがとう」
やっとそれだけ、たすくはいった。
「いいえ。いいえ。あなたをひとりでいかせたりしないわ。だから迎えにきたのよ」
「もったいなくも海原の都の姫さまがよ? もー、破格のことよ?」
翼羽も胸を反らしていう。
「え……」
たすくの戸惑いの表情に、ゆのかは誇らしげな笑顔で答えた。
何があったのかは語らなかったけれど、たすくにはそれで十分だった。
自分が生きてきたのと同じだけの時間をゆのかも生きた。その時間の中で、ゆのかのいきる場所も変わったのだろう。何があったのか何てわからない。どんな風に生きてきたのかもわからない。けれどいま、彼女がその誇らしげな表情を持てることが心底嬉しかった。過去を現在につなげることができたのだから。
彼女の旅も、終わったのだろう。
「ゆの……か……」
「あなたが私を支えてくれたのよ。あなたに逢って、あなたが私に生き延びる力と、想いと、術をくれたのよ。だから、私は都に戻ることができたの……」
「……」
「もっと早く、迎えにきたかったわ。……もっと早く、あなたに逢いたかった……」
寝台に顔を寄せて、ゆのかは瞳を閉じる。
「私と一緒にきてくれる?」
「……『都』……へ……?」
「ええ。私と一緒に生きてほしいの」
たすくは力なく肩をすくめた。
「そうしたいよ。だけどもうよぼよぼだ。……行けるかな、君と一緒に」
「どこまでもいけるわ」
「自分の足で歩くこともできやしないよ」
「心配ないわ」
柔らかな微笑みを宿したまま、ゆのかはいった。そして唇が近づいて、それがたすくの皺の刻まれた唇に軽く触れたと思った瞬間だった。
ほんの瞬きの一瞬。
「……う……うあ……ええ!?」
自分の躯が不意に軽くなったので、たすくは驚きの声を上げたのだ。
「私でも、一生に一度しか使えない『力』よ。最初で最後の術なの」
自分の手を見下ろすと、滑らかな肌があった。くたびれた体の痛みも、骨の関節の隅々に澱のように溜まった疲労もすっかり消えてなくなっていた。顔に触れてみる。髪に触れてみる。
「これで自由になれたでしょう?」
「すごいな。これが、君の……都人の本当の力なの?」
「半分は、あなたの想いの力よ」
「馬鹿いうんじゃないの。ゆのかくらいよ。誰でもってわけじゃないんだからこの世の理を曲げられるのは!」
「こんなことって。ゆのか……すごいんだな。本当にすごいんだな。ああ……おれ、君と一緒にいけるんだ」
ゆっくりと、寝台を降りる。自分の足で立てる。
たぶんこれは、遠い昔、彼女にであったときの姿だ。
「遅くなってしまって、ごめんなさい。たすく」
ゆのかが手を差し出す。
たすくは、その――白く滑らかな手に手を重ねた。
「……うん。いこう。ずっと一緒に行こう」
「ええいきましょう。そうだ、騎竜に乗せてあげるわ。初めてでしょう? 『晶』というの。お利口な子よ。あなたにもすぐ懐くと思うの」
「うん。ずっと一緒だ」
少女の手が、窓を開く。
天空へ向かって。
☆
「おじいちゃん」
少女は水差しを持って呼びかける。
返答がないので、そのまま部屋に入った。
「おじいちゃ……」
かたん。ばしゃっ。
少女は水差しを取り落とした。
「うそ……」
両手で、口許を覆う。
寝台の布団の中は、空だった。
「おじ……ちゃん……?」
少女は、両手で口許を覆う。窓が大きくあいていて、風がカーテンをはためかせている。その窓から差し込む陽光に照らされた寝台の上には、誰もいない。
そこには、動くこともできない老人が横たわっていたはずなのに。
――一体、どうしたことだろう。
うつむいた少女は、どうしてか涙でかすみ出した視界のすみ、自分の足元に白いものが風に舞い散るのを見た。しゃがみ込んで、それを拾い上げてみる。
それは、小さな小さな羽根だった。
爪の先ほどの真っ白い羽根だった。
☆
「ねぇゆのか。おれ、宿の人達に挨拶しなかったよ」
「そうね。でもきっと許してくれると思うわ」
天空を渡る――翼を持つ騎竜の背で、ゆのかは笑った。
眼下には青藍の海原がどこまでもどこまでも広がっている。
「……ゆのか、ひとつだけ聞いていい?」
「なに?」
「辛いおもいはしなかった?」
「……ええ」
「本当に?」
「ええ。いま、あなたがここにいてくれるから、何も辛いことなんてなかったわ」
そういう青色の瞳には、曇りはなかった。
海と同じように穏やかで、どこまでも透明で、あの日、月の光の下で見たときと同じように綺麗なままだった。
☆
遠い海の向こうには、青藍玉都が在るという。
遠い海の向こうには、神女・玉響が眠るという。
遠い、海の。
向こうには――。
それは。
海宮の都の物語。
青藍玉都 さかきち @sakakichi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます