終章

   終章




 ――夢を、見た。

 白い、小さな小さな鳥が逃げてゆく。追いかける。そして少年は必死に手を伸ばす。

 捕らえたいのに。何処にもいかないでほしいのに。

 待って。

 深い森がやがてとぎれ、見渡す限り視界を埋め尽くす草原が広がった。

 その向こう。

 遮るものなど何もない天空が、東雲に燃え上がる。

 夜明け。薄紫がかった暁色の、果てしなく広大な天空。

 なめらかなはばたきを残して、小鳥は行く――いってしまう。

 焦燥と絶望が、少年の胸を満たした。灼けるようだ。

 草原は乾いた土に覆われたひびの大地に変貌を遂げ――ふと足元を見やると――たすくは崖っぷちにたたされていた。

 海原。茜の空を映しながら打ちよせる真紅の波。

 遥か下に緋色の波。

 たすくはためらった。

 足を止め、そして小鳥はいってしまった。 何も見えない海原の彼方にその身を滑らせていく。

 純白の軌跡を朝陽のなかに残して。

 もう、戻らない。永遠に。

 佇むしかなかった。どんなことをしても、もう手が届かないのだから。

 そうして。

 海原と天空の交わりから、輝く朝陽が、現れた――。



 閑かな朝だった。

 浮上したなにかにつられるように目を開けると、白木の板張りの――少し煤けた天井が目に入った。

 身動ぎすると、腕に痛みが走った。おして、上体を寝台の上に起こす。

「たすく……目が、覚めたかい」

 とまやがいた。

 壁に凭れてこちらを見ている。わずかに疲労が滲んだ感だった。

 ここは、どこか――そんなことを尋ねそうになったしまったけれど、聞くまでもなかった。家だ。

 たすくの部屋だった。

 天井には見慣れた染み。

 どうして。家に自分の足で戻ってきた記憶がない。

 頭を軽く振って見て、たすくはゆうべの記憶が、ひどくあやふやなことに気づいた。何度思い返してみても、帰宅した覚えはないのに――とまやがいて。部屋で寝ていて。腕が痛む。怪我が、ある。

 真新しい白の包帯が腕から肩にかけて巻きつけられて、窮屈である。

 ――あ、れ? 大巫の祭りがあって。


 

 寝台を下りる。頭に幕がかかったみたいにぼやけて、霞んでいた。

 なんということもなく、ふいに外の景色が見たくなった。

 寝台を軋ませて、下りる。

 とまやはなにもいわなかった。

 ゆっくり海に向いた窓を開ける。

「あ……」

 穏やかな空気が流れ込んで来て、たすくを包んだ。

 風は朝凪ぎだった。

 窓から身を乗り出して仰ぐと、空はみごとなまでに晴れ上がっていた。はじけるように青い。遠く、どこまでも。そして海へ向かうにつれ、青さは淡くなり、すんだ碧を増している。海鳥の影がいくつもいくつも。

「い……っ」

 ずきん、と痛みが走って鋭すぎるそれがたすくの頭を駆け抜けた。

 そう。これは矢傷。

 あの少女を庇って受けた傷み……。

 その瞬間、どっと昨夜のできごとが脳裏に蘇ってきて、たすくの喉を詰まらせた。

 そうだ。

 ――さよなら。

 蘇る。それは、闇の中でかろうじてたすくに残された少女の訣別の言葉だった。声音さえ鮮やかに、脳裏に蘇る。

 そしてたすくは意識を手放したのだ。

 もう、いないのだ。

「そうか……いっちゃったん、だ」

 そう呟いた途端、唐突に込み上げてくるものがあって、それはほんとうにいきなり双眸に押し寄せ、涙になってぽろぽろと零れだした。

「あ……れ。何、で」

 空のいろが目に染みるような気がした。どうしたのかわからずに、たすくは片手で顔を覆ってあふれる涙を止めようとしたのだけれど――失敗した。止まらなかった。

 どっと。鼻孔の奥がつんとなり、喉が詰まった。

「と……まや……」

 どうにかしてくれ、といいたかった。どんどん悲しくなる。とまやは、たすくをそっと抱き抱えただけで、何もいわなかった。そして、何を尋ねようともしなかった。

 涙が――止まらない。

 少女は、無事だろうか。

 楽師たちは、どうしただろうか。

 翼羽は、まだ怒っているのだろうか。

 何もわかるはずはなかった。旅立つ少女を見送っただけだ。自分にはそれしか許されなかったのだから。

 ただもう、少女がこの邑にはいないことだけは確かなことだった。もうふたたびあの追っ手たちに追われてるのか、窮地に立っているのか、そんなことはわからなくなってしまった。

 ――この、涙は。

 涙は止めることができない。やっと自分があの少女に伝えなくてはならなかった言葉に気がついたからだ。

 少女が都人であるとか、玉響がどうとか、そんなことは、本当はなにも頭に残っていないのだ。

(……ありがとう……)

 もう遅いのに、伝えることができはしないというのに、霧が晴れていくような澄んでゆくように鮮烈な気持ちは、今更になってはっきりわかる。

 今だから……。

(おれは何も知らなくて、ただ君に憧れるように想っていた。君のことが好きだった……)

 どうか、どうか。

 たすくは窓枠に両手を突いて、堪えきれずにかがみこんだ。

 涙は祈り。

(……今度いつかどこか出逢えたとき、大事だと思うものを傷つけないですむように。守り切れるようになりたいよ)

 海原を渡って去ってゆく風の如く、たすくの生涯のほんの片隅を駆け抜けた少女の後ろ姿に、言葉になりはしなかった想いの代わりにせめて捧げられるものなのだろう。

(君のように……強くなるよ。ありがとう……ゆのか)

 たすくの心に刻まれたのは、あの儚く可憐な花のような微笑みではなかった。生きてゆける、といった強い光を宿す真摯な姿だった。

 だから自分も強くなろうと思う。

 いつか。



 願わくば再び出逢えるように。

 あの、青藍の玉都の、海原の――瞳に。

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