第5章 玉都

  第五章 玉都




      1


 三年前、とまやが傷つき果てた小さな少女を邑のはずれで助けたことを、たすくは知らない。

 回復の兆しが見え、やっと口がきけるようになっても、しかし少女はとまやに多くを語ろうとはしなかった。

『都』から来た。けれども『行くところ』はない。

 それだけだ。

 途方にくれた海原を宿す瞳には追い詰められた怯えがあった。だから、とまやは面倒を見られる限りとどまることを許した。

 とまやが知っているのはただ、それだけだ。

 ――それを壊すことを決めたのは、少女。

 限界を悟った彼女の訣別――。



 とまやはなにもいわずにたすくの腕に手当てを施していった。たすくは床に横たわり黙っていた。

 激しい痛みに頭蓋までじんじんする中で、わずかな声さえ上げまいと。そうしないと――少しでも声を上げれば悲鳴混じりに叫んでしまいそうな、痛みだったのだ。

「……とまや様……申し訳ありません……私が、たすくに、怪我を」

 両の拳を頬に当て、声を洩らすゆのかに、とまやは小さく首を横に振った。落ち着けてやるように、少女の頭を撫でる。

「すまなかったね……何もしてやれなくて」

「そんな……」

 ときおり堪えがたく呻き声を上げるたすくの方を、ひどく痛ましそうに眺めやり、ゆのかは言葉を詰まらせた。

「私は君に何も聞かなかったね、ゆのか。……だから私には何もわからない……けれど、抱えているよりも吐き出した方が楽になることも、あるんだよ」

「……でも、それは」

 ふとゆのかが顔を上げ、それを受けてとまやは淡く微笑んだ。

 安堵させるように。

「もうひとつ、余計なことを君に教えて上げよう」

「とまや様?」

「けしてなげやりになってはいけない。いいかい? 生きてさえいれば、必ずまたどこかで逢えるのだからね」

「……!」

 もう一度ゆのかの頭を撫でてやり、そしてとまやは立ち上がった。

 耳を澄ましても、風の音しか聞こえない。 手早く治療のための道具を片付けて纏め、懐にしまい込む。痛みを和らげるためにたすくに呑ませた薬蕩の匂いまでは隠しようもなかったけれど、そのうち風に流されて薄れるだろう。

 皮肉なものとでもいうべきか。先日たすくがゆのかのところへ納品できなかった鎮痛薬だ――。

「ここで、朝までおとなしくしていなさい。楽師たちは警備の者たちとやり合っているが『力』を使っても取り敢えず逃亡するに精一杯といったところだろうからね」

 そういって、とまやは隠し部屋の扉を閉めて出ていった。床板が軋む――足音が遠ざかってゆく。

 棘に包まれた嫌な静寂が残った。

 たすくは横になったまま、重い吐息を吐く。

 鋭い痛みは、とまやが無理やり口腔に流し込んだ鎮痛の薬湯のおかげで、徐々に遠のきつつあった。

 悲鳴は呑み下だされ、怒鳴りたいことはみな吐き出してしまったものだから――静かになった。かすかに痛みの残滓はあったけれど。

 吐息――。

「……たすく……」

「ああ……?」

 ゆのかが呼んだ。答えたつもりが、かすれた喘ぐような声しか出なかった。

「……痛む?」

「……おさま……りそう、だ……よ」

 やっとのことで喉からつむぎだし、たすくはいった。

「私、朝まで眠れそうになくて。さしつかえがなければ……聞いてほしいの……」

 何を? 瞳だけで  構わないから、とたすくは頷いた。

「ごめんなさいね……」

 この隠し部屋は、『宮』の離れの部屋の何処かなのだろう、板張りの間はわずかに冷たく、風に乗ってときおり届く嬌声は、宴のものなのだろうか。

 それとも。流血沙汰などけして起こしてはならない『大巫の祭り』において、弓などを持ち込んだ

 楽師たちが、捕らえられでもしたのだろうか。

 格子戸の外は月明り。

 蝋燭ひとつ灯されはしない、この部屋の中で、けれどふたつの光輪がたすくの向かいの壁に背を凭せかけているゆのかを照らしだす。

 仄かな明りに瞳を凝らすことに、たすくはなんとなく耐えていた。

 『聞いてほしい』というのは、相手に罪を負わせない言葉。けれど何かが抉りだされることを、たすくは知っていた。

 おのれがそうさせるのだ、ということも。

 ゆのかは自嘲するみたいに嗤って。膝を抱いたまま、語り出した。

 この世の何処にも伝わる、童話。お伽話。けれども、ゆのかの言葉はそれを裏切るもので、やがて

 たすくをひどく驚愕させるものだった。




      2


「たすくは、『玉響』の話をを知っているかしら」

 唐突だった。

 それは『都』に棲み、海宮を守護するという神女。いつ何時もすべてを見守り導くという聖女。

『都』の主であり、守護者。勿論知っている――それは伝説。昔語り。

 しかし……。

「私は……その方にずっと仕えてきたの。仕えるように、と生みだされたの。『都』においては『姫』と呼ばれていたわ」

「……神殿の巫女だったの……?」

 風のせいでがたがたいう格子戸から、ゆのかは夜の闇を見やった。

「いいえ。……いうなれば侍女……かしら」

「……侍女?」

「私は、玉響という方に、仕えました。『都』にいてはかの君がすべて、かの君が絶対。……守護者だから。……人は、その足では辿りつくことがかなわないところなの。『都』は……大海原に包まれた守護者の土地。なにもかもが透明に澄んでいて綺麗で。玉の都。藍にいろどられた玉都」

 滔々と遠くどこかを見つめる眼で、ゆのかが語りだした。玉敷の都の物語――彼女はそこに生きていた都人なのだ。

「仕えた……? だってそれは神話だろ」

「いいえ。……いいえ。あなたは知らない真実なの。神話などではないのよ……」

 荒唐無稽な童話は、人の身には禁忌の領域。

 それが夢でもうつつでも――いま、ゆのかは儚い遠くの人だった。

 たすくはそっと半分だけ瞼を下ろした。

「……でも、ゆのかは……追われているね」

「そう。……私は逃げたのよ」

 ゆのかが、視線を引き戻した。

 たすくが初めてみる瞳だった。そこには儚さなどかけらほどもない。剛く、そしてしなやかな意志があった。

 まっすぐたすくを見据えてくるそれは、不敵、といってもかまわないほど、鮮烈。

「私にはね……その気になれば何でもできる『力』が与えられているの。破壊も創造も、意の儘になる『力』。――いまは、使えないの。『封印』されているから、あなたの怪我を治したのはせいいっぱいのことね……」

「……?」

「『都』から逃げ出そうとするときに、『封印』された『力』だけど、それはやがては解けて無効になるでしょう。私には、『都』さえも焦土に変える『力』があるから、都人はそれで焦っているのね。

……玉響に仕えるために与えられた『力』は、いちど反旗を翻せば『剣』だものね……私が追われるのは、だからよ」

「……どうして……」

 それを選んだというのか。

「なにもかも、駄目になってしまったの。壊れてしまったのよ、たすく。『姫』は『姫』でいられなくなってしまったの。あの日。玉響に見えることが叶わなかったの」

 謎かけのように。

 そしてそれは、やがて穏やかに苦渋と懊悩に満ち始めた。

「私は、玉響に使えるために生まれて、そして生まれてからずっとかの君に仕えていた。少なくとも、いたはずだったの」

「……神話の玉響姫の話、だよね?」

「ええ。そうよ」

「……神女がまるで生きているようなことをいうんだね……?」

 空寒さを、たすくは感じていた。失われた血のせいで体温が下がったためだけではない。

 ゆのかの話があまりに理解に難い代物だったからだ。

「……これは『都』から持ち出しては行けない秘密。そして、禁忌です。……玉響は、老いることもなく、滅することもない永遠の存在なの」

「……」

「それは真実なの。……それを信じていたのよ。信じなくてはならなかったの。信じてるんだって、いいきかせなければならなかったの。自分に。私が、私に!」

 刹那、ひそめられた声に叫びが混ざった。絶叫するより苦しげであったのは、たすくの見紛いか。

 否、違う。

「そうしなければ、自分というものが崩れてしまいそうだったから」

 座った瞳。

「あなたたち島界の人は当然だというでしょう。玉響は神話の神女だと。けれど『都』ではそうではない。……ああ、うまくいえないわ。あなたたちのいう、国王さまのような存在なのよ」

 神ではなく、それほど親しい方なのだと。 ゆのかの唇は、皮肉げな笑みを刻んだ。正面から見つめられないほどに、凄絶な微笑。

 唇が紡ぎだす言葉。

「私は――生まれてずっと、その方の声も姿も、知らない……!」

 人の世界では。

 それはたしかに当たり前の事だろう。ごく自然な事だろう。けれど、ゆのかが例えるところの国皇陛下だったとしたらどうだろう。

 自分という存在を賭して忠誠を誓った側近は、けれど主人の声も姿も知らず紛い物の何かに踊らされ、ある日国皇などという存在がなかったことを知る。



 そう、裏切られたのはゆのかだ。盲目の忠誠は、手酷い裏切りを受けた。

『人』が触れることのかなわぬ『伝説』の聖地に暮らしていた少女は、玉響に仕えていながら、誰よりも御方に近いところにいるひとりでありながら、足を踏み入れたこともなかった『玉響』の『間』にある日至る。

 そこが、ただの豪奢な石造りの伽藍洞であることを知ったとき。

 神女の姿を見出だせなかったとき。

 ゆのかの中で、疑念は真理となり、忠誠は音を立てて崩れ去り、存在は無と化した。

 ゆのかが敬意と忠誠を捧げてきたものは、真理ではなかった。姿も声も知らぬものに己を騙し騙し仕えていたことに気づかされた。いられるわけがなかった――そのようなところには。

 逃げ出すしか、なかったのだ。

 たすくたちにとって遥かに現実を凌駕する『夢物語』人の住むという海原の向こうの『現実』へ。




      3


「あなたをまきこんでしまって、ごめんなさい」

 ゆっくりと、ゆのかは膝を解いて立ち上がった。たすくに、歩み寄ってくる。

「まきこまれたなんて……思ってない」

 凪いでゆく笑み。静かに、穏やかに。

 けれどそれは、何かを投げ捨てたあとのような空しさを漂わせていた。

 腕の疼きが、痺れに変わりつつあった。

「ゆのか、おれ」

 豹変を遂げた和やかな微笑みは、静かで、あまりにも静かで、静かすぎてたすくの中の静寂を掻き乱した。

 ふいに、歌舞のときに包み込んだ少女の冷たい手の感覚を思い出し、たすくはどうしてか無償に胸が苦しくなるのを自覚した。

 何か、言葉はないか。

「……ゆのか」

「いいの」

 波ひとつたたないゆのかの声が、いっそ冷たく冴えた無表情とさえ、感じられた。

 不安。

 掻きたてられる不安。

「あなたのいう通りだった。あなたに迷惑をかけてしまって。……確かに、そうね」

「ゆのか。そんなつもりじゃない」

「もういいの。ただ、ひとつ私のこと。ひとつ、とどめておいてね」

 ――え。

 両開きの扉に、繊細な指が触れる。

 強い風が春の暖かさを張らんで怒濤の如く崩れ込んできた。

 唸るように。

 闇を見据えたゆのかの髪を嬲るように舞い上げる。

 萌えはじめたばかりの葉が生み出す湿った香りが、流れた。

 開け放った扉はおもての庭かどこかに面しているらしく、もれ来る二つの月の明りが白くゆのかを照らしだしていた。

「ゆのか――ゆのか!?」

 そして言葉が続かない。何が言いたいのだろう――何か、いわなくてはならない。

 ひとつ、ゆるやかに足を踏み出すゆのか。

 思わず、たすくは半分立ち上がりかけて。よろめいて振り向いたゆのかの細い腕にそっと抱きとめられた。痺れと、貧血。

 どきりとした。

「いつか……また、いつか逢えるといいわね……」

「……そ、んな」

 ふらりと囁く。

「私……もう行かなくては。もう、おわかれ」

 耳許に。

 最後に覗き込んだのは、あの、微笑みだった。横顔に刺す、仄かな陰り。

 それが、何かを……嫌、誰かを求めてしまうがための寂しさなのだと気づくには、たすくはあまりに幼すぎた。

 幼すぎて、痛いほどの少女の切なさを汲むことができないのだ。

 自分の胸の痛みが、苦しさが、なぜなのかたすくにはわからないのだ。

 けれども……。

 ゆのかは、少年の頬に、ひとつ口接けた。

「……ゆ……のか……」

 そして優しい香り。

 触れ合う唇。

「――!」

 刹那。不安。恐怖。ゆのかに叩きつけた慟哭。

 ――ずっと伝えたいことがあったのよ。たすくに。ずっと一緒にはいられないから、選んだことだったけれど、勝手なことをして自分で満足しようとしてた。私。だって、離れられなくなりそうで……怖かった。

 ゆのかが、『力』で――たすくの心に滑り込ませた、それはありったけの気持ち。幼い気持ち。だけれどだからこそ純粋に強い気持ち。

 ――ああ。

 それは残酷な告白だった。想いを告げ、同時に別れを告げているのだ。

 いまになって告げられたくなかった。 想われることなどないと思っていたから諦めていられたのに、残酷だ。

 さしのべたたすくの腕はするりと空をつかみ、ゆのかは軽やかに身を翻して夜の中へ飛び出していた。

 闇の唸りの中へ。それはゆのかにとって過酷な恐怖への扉だったはずだ。けれども、ゆのかはすべてを払いのけたような瞳をしていた。

 覚悟  だろうか、潔くあった。

「怖くないことはないけれど、私はそういう都人だから。真実を確かめなくてはならないの。神女を私は捜し出す」

「探すって……そんな……」

「必ず」

 立ち去るための決意。それは、たすくに伝えられた。

「人は守護されている。だから玉響姫はこの海宮の何処かに必ずいらっしゃる。私、だからもう行かなくては……次の土地へ。本当は……ここにいたかったけれど、無理なの。だから、私が壊したの……。逃げない。真向かうから」

 あなたはすべて忘れて。あなたたちにとって意味ももたない夢語は忘れ去って。

 海原に守られた島で、この邑で、人として暮らしていってね。

 生きていてね。

 瞳が、潤む。

「……」

 たすくは口を開いたけれど、言葉がなにもでてこなかった。いいたいことがあった。いわなくてはならないことも山のようにある気がした。

 薬蕩のせいか、痺れがひどい眠気に変わりつつあった。

 卑怯だと思った。こんな想いを残して、想いだけを残して、他には何も残さずに消えてしまうなんて卑怯だ。

「……ゆ……のか……」

「たすく。たすくと逢えたからきっと……きっとこの先も生きていけるわ」

「ゆのか……この先、逢える? ……戻ってくる!?」

 せいいっぱいだった。

 無我夢中で吐き出した問いだ。

 それでも、それだけでゆのかにとっては満ち足りるものだったろう。

 月の光のせいではなく――涙を浮かべて光るゆのかの瞳が、至上の微笑みを浮かべたのは、その刹那。

「ねぇっ! ゆのかっ!」

 ゆのかが――たすくに背を向けたゆのかが肩越しに振り向いた。

 風。

 生きてさえ……いれば……きっと……何処かで……。

 唇は動いたけれど、たすくの元までそれは届かなかった。轟々いう風に消される。

「聞こえ……聞こえない、よ……!」

 床板の爪を立てるように、くいさがるように、たすくは叫んだ。

「全然! 聞こえないよ……!」

 いってしまうのだ。

 こんなに悲しい気持ちだけ残して、少女はもういってしまうつもりなのだ。

 そして――届いたのは微かな響きだけ……。 

 ――さよなら。

「どうして……」

 溶けてゆく、ゆのかの後ろ姿。さよならなんて。

 それより何か告げなくてはならないことがある。二度と逢えなくなる前に、自分の心を伝えたい。

 だって自分は何も告げてないのだ。なのにいってしまうのは、ひどい。

 ――ひどいよ……。

 眠い、眠い。

 麻痺してゆく

 眠い。なにもかも消えてしまう。

 ろれつがまわらなくなって、夜と闇の区別がなくなった。

 眼の裏から闇が来る。

 ゆのかを追いながら、たすくは意識を手放した――。


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