第5話
病院側から退院の予定日が通達されると同時に、市の福祉協議会からの一時借用という形で車椅子が宛がわれた。操縦する訓練を一週間行ったのち、車椅子用の措置を施した父の車に乗せられて、僕は実家へと帰った。
久方ぶりの家には懐かしい匂いが残っていた。僕の忘れていた僕の家の匂い。自室は二階にあるので入ることはできず、代わりに客間があてがわれた。車椅子から簡単に乗り移れる小型のベッドが置かれ、小さな本棚や、勉強机も用意されていた。医者に最初に忠告されたときから、時間をかけて準備をしていたらしい。
父は会社を休まなかった。母は父と相談したうえで、中断していたパートを再開し、日中は仕事に出かけるようになった。
僕は学校にはまだ行かなかった。車椅子はあるものの、自宅療養と言えば、担任の先生はそれ以上何も言わなかった。
四ヶ月、僕は入院していた。それだけで、学校がなんだかとても遠いことのように感じられた。入院中も何人か見舞いにきてくれることはあったけれど、僕が余所余所しくしていたせいか、みんなそそくさと帰ってしまっていた。
僕は何の変哲もない中学生だった。碌な人間関係も気づけないまま小学校を卒業して、周りの人たちと変わらない地元の中学校に入った。いじめの対象にはならず、かといってクラスの中心に立つこともできず、ただひたすら周りの人たちから敵意を向けられないように気をつけながら生きていた。
僕が思いの丈をぶつけたのは、実のところティナが初めてで、もしかしたら唯一かもしれなかった。
僕はティナと過ごした日々を度々思い返した。夢の中だったのか、異世界でのできごとだったのか、いまだにわからない。解説なんてどこにもない。それは小説や漫画の世界ではなく、僕が見て感じていたことだ。目が覚めると跡形も無く消えてしまう異世界の感覚は、記憶にだけ残り、僕は時折自分が竜になることを夢想した。
大きな牙や鋭い爪。喋ると言葉の代わりに噴き出す炎。何ものをも通さない鱗、長い首。自由に揺らぐ尻尾。敵を薙ぎ倒すときの快感と、いつでも快哉を上げてくれるティナ。
夢想はいつもベッドの中だった。身を捩っているうちに目が覚めて、薄暗い部屋をぼんやり見回した。薄暗い客間にいるこの僕はどうみても竜ではなかった。魔物を倒すような強さもなく、他の人間と同じように自分で立つことさえできなかった。
立つことはそんなに難しいことだったろうか。僕にはわからないし、思い出せない。
夢の中では空を飛んでさえいたのに。
苛立っているうちに、脚を無理矢理畳の上に置いた。体重をかけようとして、転んで、それでも這いつくばってベッドに縋り付いた。何度も、何度も、せめてこれくらいできるようになれよ、と自分を叱った。
その甲斐あってか、季節が秋に変わる頃には車椅子から立ち上がることができるようになっていた。そこから一歩、二歩。廊下の壁を伝いながら歩く訓練をした。
僕は少しずつ元に戻っていった。
父も母も喜んでいた。それは言葉を交わさずとも雰囲気で伝わってきた。病院に来るときの母はいつも悲痛そうな顔をしていたが、今となっては本心からの笑みを湛えていた。退院が良かったのかも知れない、と二人で話している姿もたびたび見かけた。
そんな声を耳にする度に、僕の脚は内側から張り詰めて皮を押した。
僕が歩けるということは、あの世界が遠のくと言うことだ。
ティナとはもう二度と会えない。彼女が僕を召喚しても、僕はそれに応えられない。
再び歩くことを止めた僕に、父は白い目を送り、言葉では何も言わなかった。
やがて母が来て、僕のベッドの横に座り、頬杖をついて、僕を見下ろしてきた。
「歩けない理由ってあるの?」
母の問いかけは穏やかで、心の奥深いところに響いてきた。
そのときは昼下がりで、木漏れ日が庭の木々から差し込まれてきていた。それらは眠気を誘うように、僕と母の顔を斑に照らしていた。
「多分、信じてもらえないと思うけど」
前置きを緩衝剤にして、僕も記憶を蘇らせる努力をした。
初めて病院に搬送されたあの日、僕は夢を見た。こことは違うどこか別の世界で、魔物を倒したときの記憶。そこで出会ったティナという少女の話。
僕は眠る度にティナと出会い、冒険をした。彼女の旅を支えることが自分の使命だと思うようになり、彼女の役に立ちたいと思うようになった。しかしそれが、自分の身体が回復することによって次第に叶わなくなっていった。
最後にティナと会った日、ティナを介抱して、街まで飛んだ話は、言わないでおいた。はっきりとは言えないが、それはなんだか、とても個人的なことのように感じたからだ。
僕の口からは止めどなく言葉が溢れた。
今まで一度も言わなかったことは、その実、言いたかったことだったらしい。
信じてもらえないと思ったから、そして、僕の回復を祈る父や母への後ろめたさから、僕は気づかないうちに、僕の言葉を封じてしまっていた。
母は全てを聞き終えた。
すぐに怒られると思った。あるいは笑われるかとも思った。歩けない理由とするにはあまりに荒唐無稽だった。言い終えてから頬が火照り、喉の奥がからからに渇いた。
沈黙が流れた。風の音がさらさらと耳に届く。過ごしやすい空間だった。
「そうか」
母の唇が、柔らかな弧を描いた。
「ずっと病室にいたから、てっきり淋しがっていると思っていたけれど、そうじゃなかったんだね。知らないうちに、とても、大事なことを経験していたんだね」
伝わった。
僕の胸の奥にあった、もやもやしたものが、すうっと消えていく気がした。
「母さん」
無意識のうちに、僕は口を開いた。頬のほてりも気にせず、母を見据えた。
「もしもあと一度でも呼ばれることがあれば、あの世界に行きたいんだ」
僕は前のめりになって、必死になった。腕を組んで祈るようにつきだした。
「きっと長く眠ってしまうけれど、そのときは、慌てないでほしい。じっと、待っていてほしいんだ」
母は呆然としていた。笑いもせず、眉を顰めて、それからしかと頷いてくれた。
「約束する」
こみあげてくるものが、炎なんかよりもずっと熱くて苦しくて、僕は声にならない叫びを上げた。
やがて母は夕食の準備をするといって部屋を出て行った。
ひとり残された部屋で、僕は毛布に顔を押しつけた。
暖かい香りがする。
もう少しで日が暮れるだろう。
ティナ。
勝手に諦めていたのは、僕も同じだったんだ。
声にならない、誰にも届かない声が、炎にさえならず消えていった。
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