第2話
石膏ボードの天井を、気づけばぼんやりと見つめていた。
上半身を起すと、強張った身体が軋んだ。関節が痛み、擦っていると、僕を呼ぶ声がした。傍にいた母が僕を抱きしめていた。化粧っ気のない顔がくしゃくしゃに歪んでいた。
家で身体が動かなくなってから、救急車で病院へと運び込まれ、そこから三日間眠り込んでいた。その間、父と母が交代で僕のそばにいてくれたらしい。
目覚めたのは三日目、面会の刻限である八時が迫っていた時だった。母は僕をなかなか離さず、連絡を受けて仕事を早めに終えてきた父が来るまで泣き続けていた。
翌日、僕の前には医師が現れた。恰幅のいいその人は、わざとらしいほど優しい声色で、これから長期療養に取りかかる旨を説明してくれた。僕の病気は特殊だけど、最新の医療を施せば救われる可能性があり、両親はその可能性に賭ける所存でいる、とのことだ。
実際に始まってみると、僕がすることは休むことだけだった。
母は毎日のように僕と面会をした。実家にある僕の部屋から、僕の好きだった本やCDを持ってきて、衣服を取り替え、下着を交換し、タオルをおいていった。僕は感謝を伝えようとしたけれど、口はからからに渇いてしまっていて、なかなかうまく動かなかった。何かを言うだけでも疲れてしまうので、僕はじっと横になっていた。
実のところ、話すことが少し怖かった。何かを言う度に火の粉が舞う気がしてしまい、それらが幻想だと割り切るのは難しかった。
あの日見た夢の記憶は生々しく、清潔な病室内のどこにも、あのときの感触を越える質感は見つからなかった。
ぼんやりと日々を過ごしているうちに、僕は手術室に搬送された。心臓の器官に関わる重要な施術であり、成功すれば、生き残る可能性が高くなると意志から説明されていた。
「生きようという意志を持つように」
大柄な医師は相変わらずの優しい言葉で言い切った。
案外細い注射器が僕の腕に刺さり、内容液が注入されると、瞬く間に世界が滲み始めた。
横たわっている身体が僕のものとは思えなくなり、逃げられなくなる。ベッドに沈み込む気がした。僕の周りで世界が闇に包まれて、僕の身体から、僕の意識だけが遠ざかっていった。
反り立つ岩肌の合間から、いくつもの星が見えた。やや肌寒い夜、柔らかな風がどこからか薫りを運んできていた。
「火竜さん」
聞き覚えのある少女の声がする。
顔を向けると、少女の顔が一気に頬が綻んだ。
「よかった、うまく召喚できたみたい。聴いて。これから魔物の巣を叩くから」
指し示した岩の窪地に野営の炎が揺らいで見えた。先日見かけた緑色の人たちがたむろして、串でまるごと突き刺した猛禽を食べていた。
あれらが魔物なのだろう。それを倒そうとする少女は
「これも勇者の仕事の一巻」
ということらしい。
僕が翼を広げると、勇者の少女はそれにまたがった。
鱗の皮膚は感覚が鈍い。彼女の身体の重みも、温かさもほとんど感じなかった。
それでも、彼女の吐息が僕の肌を撫でるのがわかり、心地よかった。
「飛んで」
彼女の背丈ほどもある大剣が魔物を指し示す。つられるように、僕は地面を蹴飛ばした。
滑空など初めてだというのに、翼は思うままに横に突っ張り、風を捉えて身を浮かせた。眼前に迫る野営で、魔物たちが慌てふためいている。
――逃げるな。
声にならない叫びとともに、炎があたりを焼き尽くす。
背中から少女が降り立ち、魔物たちを斬り伏せる。爆ぜる炎をかきまぜ、大剣はきらめいた。魔物を突き刺し、気合いの声が甲高く空に響いた。
僕には武器はなかったが、炎はもちろん、爪も、翼も、脚さえも、魔物に対して脅威になった。彼らの武器である斧がいくら振られても、鱗が全てを撥ね返した。倒れ込む魔物を踏みつぶして、肉塊へと変化させる。不意打ちしてくる奴らを尻尾で叩きつけ、咆哮あげて火で炙った。
「火竜さん! 炎を!」
少女が叫ぶ。手にした剣を突き上げて、僕に視線を飛ばしている。
僕は口に熱を蓄え、剣に目がけて噴射した。剣は炎の渦を纏い、勢いよく光を放つ。少女は大きく頷いて、嬉しげに魔物へと飛びかかっていった。
真円を描き、炎の剣が敵を真っ二つに切り裂いた。
それが最後の一撃だった。
動くものの姿は、僕ら二人のほかには誰もいない。
「ありがとう! 火竜さん」
剣を突き上げ、少女が僕の足を叩いた。ハイタッチのつもりだったらしい。僕は爪をそっと添えて、応えた。
目が覚めると、手術は終わっていた。
成功だ、と口頭で伝えられても実感は薄かった。僕自身が何をしたわけでもないからだ。
眠りの中で、少女とともに分かち合った勝利の方が、遥かに強い実感があった。
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