第7話

 電車のアナウンスが街の名前を告げる。僕が生まれ育ち、大学生になるときに離れてしまった故郷の名前だ。

 降りる人は僕しかいなかった。寒々とした風に吹かれながら、改札を通り抜ける。秋の名残の落ち葉が隅に押しやられたコンコースを静かに歩いた。自分の足音だけがやたらと大きく響いていた。

 家までにはそれなりに距離がある。迎えに行こうかと母に訊かれていたが、久しぶりの街を歩きたいからと断っていた。実際歩いてみると様々なことを思い出す。駅は街の外へと続く玄関だ。小学生の頃は行くだけでワクワクしていたが、中学生のときに突然脚が動かなくなってからは、遠いところになってしまった。

 僕が歩けるようになったのは、倒れてから半年後のことだった。原因はよくわからず、治ったときも同じようにわからなかった。僕は当たり前のように歩けるようになり、かつて通っていた中学校へ、最初のうちは母の送り迎えで、慣れてきたら自転車で、再び通い始めた。長い間不在にしていた僕に対して、クラスメイトたちはどことなく距離があった。それでものけ者にされるほどではなかった。同じ時を共有していないので余所者ではあるけれど、それをいちいち見咎めてくる人は、少なくとも僕の傍には現れなかった。そのうち受験の時期になり、市外の高校の生徒になれば、中学時代のクラスメイトとはめっきり会わなくなってしまった。高校には気の置けない人が多く、僕はすっかり前を向くことに夢中になって、中学生だった頃の記憶は薄れていった。

 中学生のとき、僕はよく夢を見ていた。ここではないどこかの世界で、魔王を倒す冒険をする。そんな内容だった気がするが、詳細は曖昧だ。高校を卒業して、大学生になって、様々な人と紛れているうちに、過去は遠く離れていった。

 こんなことを思い返すのも、故郷の街を歩いているからだ。普段は車などで通り過ぎる景色を眺めていると、記憶にあるそれよりも幾分古びてしまった建物たちが窺える。全く知らない建物も増えた。僕が無駄に大きくなっている間に、街は少しずつ変わっていっていた。

 僕はあまり外に出るような人間ではなかった。歩けなかった時期もあるのでなおさらだ。本を読むか、夢を見るか。そればかりをしていた気がするけれど、街に対しての懐かしさは不思議と胸に湧いてくる。

 何かに悩んでいた時期の、ささやかな感触の名残が街のどこかにある気がした。

「おかえり」

 玄関を開けると、母が迎えてくれた。その後ろには父もいた。二人とも、少し縮んだように感じた。

「ただいま」と僕は返す。おきまりのようにぎこちなくなって、苦笑いが勝手についてきた。

 父が定年退職をし、そのお祝として僕は呼ばれた。本当はただ会いたいだけなのだろうと思いつつ、断る理由もなかったのでのこのこやって来た次第だった。

 仕事とアパートの往復ばかりをし、浮ついた話のひとつもない僕のことを父と母の二人して小突いてきた。家を出てからの話はあまり続かなくて、家にいた頃までの話がやけに長く続いた。僕がどんな子どもだったかを母が話し始めて、長くなりそうな予感がした僕と父は顔を見合わせる。お風呂の沸いた合図が電子音声で流れてきた途端、父が素早く席を立った。食後の皿を片し始める母の隣で、僕も手伝うことにした。

「それにしても、元気そうでなによりね」

 母が感慨深げに目を細めて僕を見る。

「小さい頃は病院通いだったのに」

「いつの話だよ」と、僕は鼻で笑った。「中学生のときに倒れたのが最後だったろ」

「そうそう、あのときが一番大変だった。覚悟しておかないといけないって、お医者さんも言っていたんだから」

 まさかと思ったが、母の表情が神妙なのを見て、僕も真顔になった。

 お風呂場からは父の鼻歌が聞こえてきた。二十年くらい前の流行歌だ。昔から変わらない、長風呂のサインでもあった。

「でもね、すぐ良くなるかも知れないって、入院してしばらくしてから言われたのよ」

 母はスポンジで皿を擦りながら話し続けた。

「入院している人って、夜になると不安で眠れなくなるんですって。病院の個室の中って、何も無いでしょ。だから自分のことばかり考えちゃって、塞ぎ込んじゃう人が多いの。でもあなたはそういう顔をしなかった。まるで眠ることが楽しみって感じで、しっかり寝て、しっかり起きていた。だからきっとすぐ回復するって言ってたのよ。本当だかはわからないけどね。私を勇気づけるために言っていたのかもしれないし、実際そうだったし」

 母のスポンジはいつの間にか動きを止めていた。僕は母の横顔を見つめた。くたびれたように見えたけれど、そこにいたのは確かにあの頃、病室でいつも僕のそばにいてくれた人だった。

「あなたが帰ってきたとき、夢の話をしてくれたこと、覚えている?」

 母に訊かれて、しばらく間を置いてから僕は肯定した。

 かすかにだけど覚えている。ここではないどこかで、誰かのために戦っていたこと。

「そのときの話、私ちゃんとメモを取っておいたのよ。読む?」

 母の瞳にいたずらっぽい光がともるのに、若干怖じ気づいたものの、僕は頷いた。


 自室は僕が出て行ったころと何も変わっていなかった。

 壁に貼られたサッカー選手のポスターも、アパートに持って行くことを断念した小説や漫画の山も、隅でぺしゃんこになったボールも、真ん中に敷かれた布団までもが、僕が高校生だった頃と全く同じ配置だった。

 灯りの明度を落として、布団の上にあぐらをかく。膝の上に載せて、母のくれたノートを広げた。

 ティナ――

 記憶の彼方にあったその名前が、字面とともに強烈に僕の脳裏に浮かんだ。

 僕は彼女と一緒に旅をしていた。故郷を去り、一人で頑張ると決めた彼女の元に僕は召喚され、共闘した。彼女に頼られる自分に酔いしれて、次第に会えなくなることを畏れ、彼女の身を案じた。その想いが伝わらなかったときのもどかしさ、自分の不甲斐なさ、それらが胸のうちに溢れてきた。

 今ならば、はっきりとわかる。

 僕は彼女に会えるからこそ、生き続けていられたんだ。

 メモを読み終えても、興奮は冷めやらなかった。

 目を閉じて、あのときの夢を思い出す。掠れきった記憶の断片を手繰り寄せる。

 竜となった自分が最後に召喚されたとき、彼女は僕の背に乗って、魔王の城を目指した。多くの仲間とともに、敵の斬撃をかいくぐり、そして彼女は魔王と剣を交えた。

 僕の記憶はここまでだ。

 あのとき、僕は彼女の無事を願った。きっと勝利しただろう。その予感を胸に、一人で勝手に満足していた。

 だけど、きっと違う。あの世界は、あの物語は、まだ終わっていない。

 使いかけたノートが本棚に挟まっているのを思いだし、いくつか引っ張り出した。昔馴染みの机の上にそれを広げ、ボールペンを走らせる。

 言葉はいくつも思い浮かんだ。僕の指先が震える。何から書けばいいのかわからなくなる。混沌とした思考にくらくらしながら、言葉を漉す。書くべきものを選んでいく。

 きっとまだまだ技術が足りない。あの世界をどこまで僕が表現できるのか、全く以て自信はない。

 それでもペンを止めるわけにはいかない。

 あの勇者の少女、ティナは僕を救ってくれた。

 今度は僕が彼女を助ける番だ。

 やがてペンは震えるのをやめ、粛々と、ノートの上を転がり始める。

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火竜の僕は勇者の君と一度も言葉を交わさない 泉宮糾一 @yunomiss

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