第6話

 そのときは想像していたよりも早くやってきた。

 夕食を食べ終えて、ぎこちない動きでシャワーをし、部屋に戻った。

 僕は結構動けるようになった。もう少しで学校に復帰できるとの話しになっていた矢先、僕は眩暈を感じた。

 母が庇いに来るのを、急いで頸を振る。

「大丈夫」

 そう言って僕は寝床に戻り、布団を被る前に、その上に横たわった。

 あっという間に闇があたりを包み込んだ。

 差し込んでいた月の光も消えた。音も匂いも途絶え、何も見えない中、ぼくの身体だけが下に落ちていく。

 今はっきりと知覚できる。これはただの夢じゃない。あの世界には確かに生きている人たちがいる。

 ティナが生きて、僕を呼んでいる。

 ――ティナ!

 声とともに、暗闇が裂けた。

 僕の吐き出した炎が哮り、延びて、地面に振り下ろされた。

 そこには、敵はいない。

「元気そうだね」

 どれくらいの日数が経っていたのだろう。異世界においては、僕の世界よりももっと長い時間が流れていたのかも知れない。

 ティナの見た目は少し変わり、どことなく大人びた。装備も大きく、強度を増しているようだった

 それでも、そこにいるのがティナだということは一目でわかった。

「ごめんね、呼んじゃって。いやだった?」

 ――まさか。

 火の粉が舞い上がるのを、彼女は目を細めて見つめた。

「よし、行こうか」

 僕が呼ばれたということは、その理由はただひとつ。戦うためだ。

 彼女は僕の鱗を蹴り上げ、僕の背中に跨がった。

 所作のひとつひとつが滑らかで、様になっている。

「飛んで」

 ――応。

 炎を噴き上げ、僕は翼をはためかせた。

 岩場を抜けると一気に大音量が飛びかかってきた。怒号が飛び交い、鉄器がぶつかり合い、砂煙が巻き上がる。広大な戦場が眼下に広がっている。禍々しい魔物の群れを相手に、武装した人間たちが武器を手に立ち向かっていた。

 彼らの背には旗が掲げられている。青い下地に黄金の文様、翼を広げた竜が空へ向かって顎を広げている。

「私の呼びかけに応じてくれた戦士よ」

 背中のティナが耳打ちしてくれた。

「あなたと別れてから、街に出て、魔王を討伐するための仲間を集めた。誰も彼も相手にしないと思ったけれど、一人だけ足を止めてくれた人がいた。戦士になりたかったけど、片腕がない人だった。そのせいで国軍には所属できなかったそうだけれど、魔王に立ち向かおうとする意志は本物だった。彼は今、前線で指揮を執っている。私が一番信頼している人よ」

 他にも、とティナは続けた。「私達が魔物討伐の功績を挙げ始めると、見直してくる人が段々増えてきたの。私の目標を真剣に聞いてくれる人も現れた。そのうちとある国の言王様が、魔王の配下を討伐した褒賞として、国軍の特別指揮権をあたえてくれたの。魔王との対決のときには、全面的に支援してくれるって」

 その結果が、眼下に広がる光景なのだ、とティナは付け加えた。

 粉塵を上げて戦い続ける人々が、僕の姿を見上げている。ティナが身を乗り出して手を振ると、歓声が上がった。

 皆がティナの存在を認めている。

 細かい事情はわからない。僕はただ、この世界に呼ばれて、ただこのひとときを感知しているにすぎない。

 ティナはどれほどの努力を払ってきたのだろう。

 戦士達の厖大な雄叫びに合わせて、僕の胸も高鳴った。

「あのときはごめんね」

 ティナの声が再び僕に向けられた。

「あなたの気持ちがわからないまま、遠ざけてしまった。私は自分のことしか考えられなかった」

 ――気にしなくていいよ。

 火の粉がうねる。風にまぎれて消えた。

「ううん、言わせて。せっかく会えたんだから」

 彼女の自然な応対に、僕は小さく息をのんだ。

 見開いた僕の瞳にティナが笑いかけてきた。

「私が仲間を作るきっかけを与えてくれたのは火竜なんだよ。あなたが何を考えていたのか、ずっと、考えて、ここまできたんだよ」

 ――僕は。

 耳障りな怒号が正面から飛んできた。黒い蝙蝠のような翼を持つ悪魔のような魔物が槍を手にして向かってくる。敵意を持つ赤い瞳がいくつも突き刺さってくる。

「ガーゴイルよ。魔王直属の部隊」

 ティナが剣を握る。あのとき折れた大剣と同じ柄だが、刀身が違う。より細く、しなやかな刃。水晶のような質感に、ほのかに赤みが差し、輝いている。

「あなたの鱗から作った剣よ」

 言われて、頸元から毟り取られた感触がまざまざと思い出された。

 ――あれは結構痛かった。

「あはは」

 ティナは笑い、それから脇を締めた。すらりと長い剣の先を正面に向ける。

 旋回するガーゴイルに向けて、「そのまま」とティナが据わった声で僕に指示を出す。槍が僕の頭上を越える。ティナは身を躱し、槍の柄を断ち、ガーゴイルの片翼を切り裂いた。黒い飛沫がその身体とともに下降していく。残りのガーゴイルから怒号が飛び、槍が続けざまに襲い来る。ティナの剣劇を横目で確認し、彼女の背後に回り込んだ敵を尾で弾くと、ティナが口笛を吹いた。勢いづいたティナの剣が敵の頭をたたき落とす。

「見て! あれが魔王の城」

 戦いの合間にティナが前方を指し示した。山よりも高く聳える、歪な巨岩を積み重ねたような建造物が見えた。空へと向けられた頂部は蓮の花のように開き、その中央には甲冑を着た男が一人立っていた。魔物特有の黒々とした皮膚が男の顔を覆っていた。

 ――あれが魔王。

 僕が呟いているうちに、魔王が剣を腰高に、黒光りする刀身の先端を僕に向けた。固定し、瞬間、撞く。空気の層を切り裂いて、具現化された衝撃波が襲い来る。

「避けて!」

 ティナに言われ、僕は高度を落とす。頭上で衝撃に揉まれたガーゴイルが散り散りに砕けていった。

 ――今からあれと戦うの?

 僕の口から漏れた炎を見て、ティナは歯を見せた。

「今までもずっとそうだったよ」

 体勢を整える。高度を上へ、塔の先を目指す。ガーゴイルはいなくなった。魔王の動きを注視する。

 誰かの声が僕の耳に届く。ティナを呼ぶ声。空を飛ぶ大鷲が見えた。宙に浮かぶ舟のようなものも見える。それに乗る人々が皆、ティナの名を呼んでいた。

「私が見えたら突撃するように伝えておいたの」

 ティナが誇らしげに言った。

 ――僕を呼べなかったらどうするつもりだったんだよ。

「来てくれるって信じていたから」

 ――そういうところは相変わらずだな。

 細切れの炎がいくつか空に浮かぶ。それらを背後に置き去りにして、僕は今一度翼をはためかせ、高度を稼いだ。塔よりも高くなると、翼を横へ張り、空気を掴む。かかる風に乗り、魔王目がけて飛び込んでいく。

 鬨の声が聞こえてくる。ティナの集めてきた仲間たちが目的を同じくしている。名前の知らない彼らが、皆ティナを知っていることが、今はとても誇らしかった。

 ティナが一際声を張上げる。陽の光を受けた剣が今や真っ赤に燃え盛っている。

 僕の鱗であるそれが、ずっとティナを守っていたのだ。

 僕は一段と速度を増した。

 魔王の剣が翻る。再びの斬撃の予感に、僕の胸が高鳴った。鼓動は熱を帯び、喉を焼き、込み上げてくる。

 ――相殺する。

 ありったけの炎が渦を巻き、顎のように衝撃波を捉える。炸裂した輝きの中で、炎が波を捉え、噛み潰し、消し去る。舞う火の粉の先で魔王の構えが見えた。

 僕は今一度炎を放つ、が、全力とは程遠い。蛇のような炎を魔王は苦もなく切り裂いた。

 僕の身体のどこを探してももう炎が残されていなかった。僕には打つ手はない。僕の力では魔王には一撃も加えられない。

 突きつけられた現実に身体が強張る。逃走の本音が一瞬口から零れそうになる。

 暗く染まりかけた頭の中に、

「ここまで来てくれてありがとう」

 ティナの声。それから僕の背を蹴る感触。彼女は真っ直ぐ魔王へ飛びかかり、赤い剣で斬り込んでいく。

 彼女の傍を僕は身を逸らして飛ぶ。彼女は顔を歪ませ、声の限りに叫んでいた。赤い剣と魔王の黒い剣がかち合い、鐘のような音を響かせる。それを合図にするかのように、彼女の仲間達が塔の上へと到着する。

 僕の視界がゆるやかに黒く染まっていく。眠りに落ちるときのように、瞼が重くなる。風を切る感触が次第に離れていく。

 次に目を開いたときには、カーテンの隙間から明るい日差しが差し込んでいた。鳥の声が聞こえてくる。目元を擦ると手の甲が湿った。いくら拭っても、新しい涙が溢れて止まらなかった。


 僕がティナと会ったのは、そのときが最後だ。あれ以来彼女は一度も僕の夢に出てこなかった。

 彼女の戦いの結末を僕は今でも知らないままだ。

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