火竜の僕は勇者の君と一度も言葉を交わさない

泉宮糾一

第1話

 最初は小さい胸の痛みがあった。すぐに治まると思ったのに、痛みは増して、立っているのが辛くなった。

 僕がいくら悲鳴を上げても、心臓は日常よりもずっと速いペースで動き続けた。それはやがて熱を帯び、肺を圧迫して呼気を遮った。目を開けていることさえ難しかった。

 自室へ向かう階段をのぼる途中だった僕はバランスを取れずに転がり落ち、駆けつけた母に抱え上げられて名前を何度も呼ばれたが返事をすることはできなかった。酷い耳障りの合間を縫うように救急車のサイレンの音が聞こえてきた。泣き叫んでいる母の声と、救急隊員の呼び声が重なった途端、僕は真っ暗闇の中に落ちていった。

 僕の心臓が脆弱であることは昔から言われていた。小学校入学時は自分一人だけ心臓に関する診断書を提出した。おかげで体育の授業は内容によっては休むことを許されたが、その代わり一ヶ月に一回は必ず検診を受けなければならなかった。検診日の前日は友達と外で遊ぶことはもちろんのこと、ゲームをすることも許されなかった。読書だけは、母の検閲のもとでだが、検診の直前まで大目に見てもらえた。

 中学生になっても通院の頻度は変わらなかった。それでも両親は喜んでくれていた。どうやら僕は大人になることさえ危ぶまれるほどの大病だったらしかった。そんなことは気づかなかったと正直に言えば、両親はこれまた喜色満面になった。

 他の子たちと比べて、僕の身体はどうしても弱かった。身体を動かすことに制限があったため、皆と同じように遊ぶということが時折とても難しかった。友達だと思っていた人たちがそっと距離を置いていくのを離れて見ていることしかできなかった。

 それでも塞ぎ込まずに済んだのは、両親がいてくれたからだろう。

 だから、真っ暗な意識の中でまず申し訳なく思った。大人しくしていた心臓が暴れてしまったことや、僕の神経がおかしくなってしまったことのせいで、彼らを驚かせ、悲しませてしまった。

 僕は死を覚悟した。

 もしも生まれ変わりがあるのなら、もっと丈夫な身体になりたい。せめて走り込んでも息切れしないようであってほしい。

 願い事はなぜかつらつらと重ねることができた。

 真っ暗な中にいるのに、妙に意識ははっきりしていた。

 まだ生きている。

 自覚すると、真っ暗な世界に横一文字の亀裂が走り、広がった。黄金の光が入り込み、僕の瞳を刺激した。

 抜けるような青空がまず目に映った。強い陽光に堪らず目を逸らすと、奇妙なほど視界が大きく揺れた。鬱蒼と茂る木々が一気に迫ってきて、僕の顔を覆った。葉っぱのひとつひとつがとても小さい。それどころか木々そのものも、僕の頭ほどの高さしかなかった。

 誰かが声を張上げている。怒鳴り声のようにも、恐怖で悲鳴を上げているようにも聞こえた。

 顎の下に何かが当った。消しゴムでもぶつけられたかのような感触だった。見下ろせば、とても小さい人が立っていた。体付きは老人のようで、顔は岩のように膨らんでいる。薄汚れた緑の肌に、襤褸布の腰巻きを纏っていた。手にした斧を振り回す姿は危険きわまりなかったが、距離があるせいか、不思議と怖くなかった。

 僕はとても高いところにいた。緑の奴の斧よりも、そちらの方がずっと怖かった。どうしてその高さに自分がいるのか、感覚が上手く掴めなかった。

「やった……上手くいった」

 震えを帯びた声が耳に届いた。

 僕の下のあたりに少女がいた。こちらもとても小さく見える。幼さの残るその顔つきは、笑っていたが、青ざめている。疲労の程が窺えた。

 少女は僕と変わらない年齢のように見えた。簡素な作りの服装に、手にした無骨な大剣が不似合いだった。

 ――君は。

 声に出したつもりだったのに、どこからか、ものすごく近いところから唸り声が聞こえてきた。視界の先に火の粉の舞うのが見えた。

「こっちじゃない、あっち!」

 少女に指し示されて、緑の人が竦み上がった。

 振りかざした斧が日の光を照り返す。目つきが鋭い。僕の顔を見据えている。

 状況はわからなかった。ただ僕にあの斧が叩きつけられようとしているのだとしたら、それは勘弁願いたかった。先ほど死にかけたばかりなのに、また死んでしまっては忍びない。

 ――やめてください!

 叫んだが、言葉にはならなかった。代わりに、地響きのような音がした。それから僕の目線のすぐ下から火の柱が延びて緑の人を包み込んだ。

 僕は跳び上がるほど驚いた。すると、眼前に壁が現れた。鱗のようなものがびっしりと詰められたそれは、空へ向けて反り返っていた。

 僕は悲鳴を上げたけれど、それもまた唸りに巻き込まれた。次いで、炎。どうにもおかしい。まるで僕が操っているかのようだ。

 そのとき少女が叫び、未だ燃えている緑の人に飛びかかった。振りかざした大剣が半月を描き、脳天を穿つ。噴出する黒い血を見て僕はまた叫んだ。炎が舞う。思った通りだ。

 鱗の壁と自分との距離感が、頭の中で繋がり出す。真下では、長い爪のある脚があぐらをかいていた。色素の薄い、柔らかそうな腹も見える。呼吸をすると、筋肉質の胸が大きく膨らんだ。

 得体の知れないその身体は紛れもなく僕のものだった。足の先から頭の先まで、今現在の僕の感触に全てがぴたりと当てはまっていた。

「倒したよ!」

 黒い靄に包まれて、緑のやつが消えていく。足下に残った斧を担ぎ上げ、少女が声を弾ませた。

「ありがとう、火竜さん」

 少女の言葉はしかと耳に届いた。自分に向けられた「火竜」という言葉が、不思議と迷うことなく変換できた。

 僕の口から火の粉が舞い、鼻先で渦を描いた。

 紛れもなく僕の意志が通っている。

 仰ぎ見た空に向けて、僕は一際大きく咆哮した。

 僕は竜になっていた。

 耳が裂けるような声量に、森の木々が揺らぎ、倒れ、僕自身も驚いて、音を立てて倒れ込んだ。

 体力を一気に果たした気がした。

 薄れていく視界の中で、少女が僕に駆け寄るのが見えた。

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