1話 夏、汽車に乗って
予讃線の汽車は、1両編成だった。15分ほど通勤ラッシュでぎゅうぎゅうになった後、すっかりがらんどうになり、視界の端に地図をしげしげと眺めている初老の女性2人しか見えない。あとはモスグリーンの古びたシートが全体的に毛羽だっているだけだ。平日の早朝から県境に用事がある人なんていないらしい。予想した通り、車内はクーラーで冷え込んでいて、僕は逃げるみたいにパーカにくるまった。くたびれていて、黒の掠れたインクの跡が袖についている灰色のパーカ。
スマホを見ると、「今駅についた」と、流から連絡が来ていた。「おっけー」手短に返して、ほっと溜息をつく。キャリーケースがあったら絶対に間に合わなかった。大方の荷物を先に送っておいてよかったと思う。一旦安心すると不思議なもので、だるさと眠気が襲ってくる。窓の外では濃い緑が黒い影とともに線のように引かれていった。
それにしても、ゴミ出しが出来なかったのは痛い。あれがしばらく湿気と熱のこもったあの部屋に放置されると思うとぞっとする。
「……ほんと、勘弁してほしいよな」
慌ただしい朝に、なぜあの人は電話をかけて来るのだろうか。ゴミを出せなかったのも、ぎりぎりの時間に汽車に駆け込むはめになったのも、今不快な気持ちになっているのも、全部、あの執拗な電話のせいだった。「陽人、元気でやってるの?」「やってるよ」「野菜ちゃんと食べてるの?」「食べてるって」
陽人は昔からトマトが嫌いだったからねえ。小学校入りたての時なんかあなた……。僕はほとんど話を聞いていなかった。お婆さんを相手にしてるみたいだ。僕の母は、特に精神年齢的な意味で、初老の域をとっくにこえている。僕が三人兄弟の末っ子で、一人だけまだ社会に出ていないということが、母がより過保護な傾向にある一因なのだろう。
「母さんごめん、今日は急いでるから――というか、これから1か月忙しいから電話かけてこないで」
「どこか行くの?」
「うん、セミナーに」
ほとんど憮然とした声で言った。20にもなって、どうしてそんな話をしなければならないのか、僕にはよく分からなかった。母はゆっくりと、けれども確かめるように言った。
「漫画の?」
「うん」
「大丈夫なの?」
何が。
主語や目的語を一切省いて、そのくせこちらに察することを求める、その教育的な話し方が、僕は昔から嫌いだった。
「……うん」
この年にもなって、親に乱暴な言葉遣いをするのも恥ずかしくて、けれど感情としての棘は隠せなくて――結局、僕は自分が最も子どもっぽいと思う嫌味な口調で「大丈夫だよ」と言ったのだった。初日から、僕の心は熱情や躍動感よりも雑念のほうが多かった。
モスグリーンが、ずん、と沈んだ。ぼうっとしたまま目をやると、荷物が横に流れ出ていた。あわてて落ちた筆箱を拾う。と同時に、駅員のアナウンスがぼんやりと聞こえ、蝉しぐれと湿気を含んだ熱気がわっと車内に流れ込んできた。
「よう」
低い声がした。はっとして顔を上げると、目の前に端整な顔つきの青年がいた。一文字に結ばれた口が、現代に生き残った侍みたいだ。
「流、おはよ」
「お前、すげー眠そうな顔してるな」
流は、僕を見下ろして言った。
ごとりと汽車が動き出す。流は「あちー」と言いながら、ペットボトルを取り出した。自分で入れて来たのだろうか、あきらかに中身が市販のとは違う、濃い茶色が波打った。それすらも様になっている。
いいよなあ。心の底からため息が出る。
流は僕と同じ、国立大学の文学部で芸術分野を専攻している2年生だ。普段それほど親しくしている訳ではないが、僕はいつも、その涼しげな眼や思いつめたように気難しい眉がとても羨ましかった。顔立ちが整っている上に学部の首席ときたから、欠点なんてあったもんじゃない。それだけ成績が良ければ都会に出ればよかったのにと言うと「金がない」と一蹴された。流は絵に描いたような苦学生だった。どことなく苦労している風な整った顔立ちの青年。そんな人を、女の子が放っておくはずがない。実際、学内で会う度、流の隣にいる女の子は変わっていた。
そんな時、僕はなんだか自分の中の汚い感情が見え隠れするのを自覚する。流は何かと言うと金銭のことについて嘆くけど、僕からしてみれば、彼は金以外の全てをすでに手に入れているように思えるのだった。
「何だよ」
「あ、ごめん」
気がつくと、流が困ったようなおかしいような顔をして僕を見ていた。妙に申し訳ない気持ちになって目を逸らすと、外の景色が青一色になっていた。山の中を通ったり海沿いを通ったり、不思議なところだ。
「あと2駅か……意外と早いね」
看板に書かれた駅名と僕の記憶だと、あと少しで目的地に着くようだ。腕時計を見ると、9時過ぎになっていた。伸びをしていると、流が真っすぐ僕を見ていた。僕は、思わず笑ってしまった。流は、大した話じゃないことでも、人の目を見て話す。本人は無自覚なんだろうけど、一番初めに話した時には、この目が恐ろしかった。流は、訝し気に僕を見てから、また元の顔つきに戻った。
「すみれ、現地集合希望だってよ。昨日結局大阪で一泊したらしい」
「あ、そうなんだ」
何ならもう来なくてもいい。
何も考えてない風を装って、僕ははっきりとそう思った。
僕は岡見すみれちゃんに初めて会い、その場で短い漫画を見せた時のことを思い出す。テーブルに片肘をついて、綺麗な長い茶髪を弄っている。彼女が形のいい唇に笑みを浮かべて、ぱらりぱらりと原稿用紙をめくっていくその時、僕は生きた心地がしなかった。値踏みされているような気がしたから。いや、多分されていたからだ。
ドアが開く。あと1駅らしい。
正直なところ、まだ僕は彼女との距離を測りかねている。すみれちゃんは、なぜだか今回僕らと一緒に2週間一緒に生活することになった別の学部の女の子だった。けれど、僕はすみれちゃんと2回しか会ったことがない。それに、連絡先を最初に交換してから、まだ1度だって個人的に連絡を取ったことがないのだ。
「やばい、緊張してきた」
「はあ?」
何にだよ。意味不明だと言わんばかりに、流が首を傾げる。がたん、ごとん、トートバッグが微かに揺れている。流は僕の言葉をどう受け取ったのか、
「まあ……やるしかないだろうなあ」
両手を前に伸ばした。アナウンスが聞こえる。ドアが開いて、うわっと夏の風が入って来た。流と僕は、それぞれの荷物をもって、立ち上がる。
「事前課題やってきたか?」
「何とか。実は昨日の夜までかかった」
正直、徹夜を覚悟した。結局数時間寝ることができたけど、だからこそ、あのタイミングで電話をしてくる母が鬱陶しかった。僕たちは夏休みの間に開かれるセミナーに参加する。僕はもう、あの人に自分の限界を決められたくなかった。
汽車を降りると、身にまとっていた冷気すべてが無くなって、焼けるような太陽の熱を肌に感じた。周りを見渡すと、緑ばかりだった。見るからに山間地域だ。黄色い点字ブロックがかすれてほとんど意味をなさなくなっているのを見ながら、無人の改札を通り、古びた木造の小屋みたいな待合室に入る。うす暗くて、何となく黴が生えてそうなところだった。僕は、埃っぽいベンチに座った。青のペンキが剥がれきっている。
「ここで待つ? すみれちゃん」
「そうだな」
流は、隅にある自動販売機の横に置かれたゴミ箱を眺めているところだった。
「……何してんの」
「お前、これ何色に見える?」
覗き込むと、空になったコカ・コーラのペットボトルと、ひしゃげた缶が転がっていた。それから、何かお菓子のパッケージらしきものもあった。分別できてないのが気になる。
「……赤と白と、銀色、あと緑?」
「ふーん」
流はそう生返事をしたまま、またじっとそのゴミを見つめている。しゃあしゃあしゃあ、と外で蝉が鳴いている。僕は意味も分からず沈黙したまま流を見つめた。いやいや、何なんだ。これ以上何か言っても、返事をしてくれない気がしたので、仕方なくベンチに座る。そこでまた、今朝のゴミ袋事件を思い出して、一人で勝手にげんなりした。
ふいに、車の止まる音がした。
眩しい外に目をやると、すらりと背の高い女の子が、白のフリルシャツに、デニムのミニスカ姿で、つやつや黒に光る車に手を振っている。思わず「うわあ」と声に出してしまう。車は早々に走り去った。誰がこんな山の中にあんな車を走らせて来るんだよ。あのかっこいい男の人は誰。そしてそんな男の人にここまで送らせた女の子の力って何。僕が自分の手汗に困り出してパーカに手を伸ばしたと同時に、流が隣で大きな声を出した。
「おい、すみれ」
その呼びかけに、女の子が振り向く。大きな瞳が、すうっと滲むように細くなる。さらりと茶髪が揺れて、それから彼女は、にっこりと口角をあげて笑った。
「やあやあ、お二人さん。久しぶりやなあー」
なんかどうしようもなくうさん臭い。
「元気にしてたん?」
この感じだ。僕は逃げ出したくなった。白くて長い足を惜しげもなく出して、すみれちゃんはゆっくりとこちらに歩いて来る。ぱっと鮮やかな色をした唇が、笑みを浮かべている。
ああもう、とんでもないな、と僕は思った。
これだ、と思った。あの子の値踏みするような目つきが、僕は怖いんだ。
はっきりとした青い空、アスファルトのぎらぎらした光。シャワーみたいに降る蝉の声。その真ん中に、ドラマみたいにばっちり化粧をした、きれいな女の子がいる。どんどん、鮮明になる。僕は、じっとりと汗を感じながら一歩を踏み出す。隣で流が手を挙げている。
「ひ、久しぶり」
こうして、僕たちの夏は幕を開けたのだった。
僕は菫の魔法使い 七野青葉 @nananoaoba
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