第2話

 朝か。ようやく東の空が白っぽく変わったのに、そこからが長い。とてもじゃないが我慢なんてしてられない長さだ。隣で寝転がっているこいつだってほら、脱力感で満ちている。だけど僕は、夜徹しここで遊び呆けていた報いを真摯に受け止めるべきなのだ。



 市民プールの上空は、三割増しで青い。きっとカルキ臭が関係している。

 「花」「うう」

 「起きろ」「起きと…ふわ……っるよ」

 「じゃあ行こう。バレたら大変だ」「とっくに気付いた人、居てそうやけどなあ。どんだけ繰り返してん」

 「証拠は何もない。今夜こそやめにしよう。それなら…」「今さら変えれればええがね。そんな無駄話よりもうちょい寝かし」

 「いいけどさ」「…ちゅーか、うちらだけ変われたかて、どうせ町中があの一日を手放しはせえへんよー」


 言う通り少し待ってやる。車の往来する音が少しずつ増えていく。

 「そろそろ本当にまずくないか」「しゃあないなあ」

 花が気怠く起き上がる。僕たちは水泳バッグから服と、型通りにバスタオルを取り出して、それぞれ着替える。肌は熱を逃しきらずに渇いていた。お互いを見ない。


 記憶が確かなら、こうなる以前プールへと誘ったのは花だった筈だ。それも他愛のない理由。日中はいつも混んでいるし、夕方は水泳クラブが占拠していて、1コースを個人で取るのはなかなか難しい。早くしないと学校で水泳が始まる。その前に秘密の特訓がしたい。用心棒に抜擢された僕も単純で、二人揃って、誰知らず泳ぐのは気分がいいだろうといういたずら半分の考えしかなかった。でも―――、

 二の腕あたりで蚊を叩く。そいつは真っ赤に咲いて、僕の血液を撒き散らす。行きとは反対の手順で琵琶の木に抱き付いて、フェンスを越える。路地を遠ざかって、手を振っている花。僕も曖昧に手を振って見せる。眠くて考えがまとまらない。正直、考えたくもない。



 帰るともう母親が、早起きで弁当の支度にかかっていた。そしてなんとなく僕を見咎める。目が冴えたからコンビニへ散歩に行っていたと、初日から貫いてきた言い訳を口にする。母さんもすっかり覚えた上で訊いているから、心配も何もなく、それで引き下がる。「いつもと変わらないこと」を確認されたんだ。いつ打ち明けてもよかったけど、大人は助けちゃくれないだろう。

 学校へ行ったものかは考えものだ。歴史は戦国時代で足踏み中。たまに「テスト範囲は135Pの…」なんてげんなりする事を言い出しすらする。あいつはもうダメだ、どんな落第生でだって分かる。二限の生物はとにかく慣れない。花を見比べるのは苦手なまんまだ。四限の数学教師は早々に、授業時間を雑談で全解放してくれた。教師自身も小話の引き出しが多い人なので、出ても少しは楽しめる。タバコくさいのは、まあ、我慢あるのみ。

 女子の水泳の授業は、準備ができないようで始まらなかった。クラスの男子はと言えば、半数以上がすっかりバレーが上手くなり、バレー部員とも勝負になった。やってても意味があるとは思えなかったけど、体育だし、意味はなくてもいい。

 さて。母のエプロンの柄は縞模様で、妹が観てるアニメは第5話。雲は気持ち多めに思えたので、今日は学校に行くことにする。父親の手前持ってきた教科書は、四人組で捨て場所を探し歩いて、川に決めた。橋の上をしばし舞って、あえなく沈む。明日の朝には元に戻っている物に対して、粗末も何もない。邪魔っけだとは思う。


 授業中、花からチャットが来た。

<今夜行くの忘れてないよね

         既読  忘れてないよ>

<12時だからね

       既読  わかってまんがな>

<それかなりジジくさいわ!

                まじき>

               ミスった

          既読  まじかww

 会話内容は一字一句一緒だった。強いて同じにしようとしたわけではないのに「同じになってしまう」。直接会っている間には、もう少しまともに話せる。



 あっという間に放課後になっていた。陸上部での走り込み中、なぜか河川敷に冷凍の魚が突き立ててあって、後輩と死ぬほど笑い転げた。

 それから駅前まで来た所でワゴンに突っ込んで、僕は死んだ。いや、タクシーだったか。三回前か、三十回前か、三百回前かの今日、屋上で座って昼飯を食べている花の言葉が頭の中に響く。

 『なあ陸、こう同じ日ばっか来とってよかった気もせん?

 いっぺんしかない人生、ほんとならあの日よりうしろ、全部、あそこでああやればー、こうしとけばー…って。絶対お互いに後悔しながら過ごしとったで。うっす暗~~いテンションしてな。

 こない陸が手え尽くしてくれ、あれこれ考え試して、ほんでもずっとこのままなんやろ。したらな、うちらそこ分かったぶん、儲かったのとちゃうんかな?いっちゃん理想的な道は、そらありえへん、絶対ムリ~ゆうのを一応分かっとって、そいでも、進んでくもんやないんか。前か、どっか向いて。

 …なんなん、ダメなん。陸う、そうゆんじゃ、いけんの?』

 鈍痛で朦朧としてきて、僕は呻く。どうしても花が好きだ。花に好かれている自分を捨てられない。死にたかったけど、どうせ頭に瘤を作って伸びただけだった。



 玄関口に突っ立つ僕はハッとする。午前零時だ。時計がなくとも、「死んで過ごした」記憶の穴を埋めずとも、この瞬間は確実に午前零時なのだ。無風が流れる。右手に提がる水泳バッグ。そうか、プールへ行く途中だった。花と泳ぐ為に。

 どうしてこの足は駆けたがる。どうして僕は同じあやまちを犯し続けて、平気でいられるのだろうか。慰めをくれる花を信じたくても、今の僕らが間違ってないなんて間違いだと思う。大人は助けてくれない。別に、自分で自分を導けないやつのことなら、いつでも監視して、縛ってでも連れて行ってやるのが大人の義務かもしれない。だけど賢すぎる子供が何かしでかす度に、その背中から責任を取り上げていたら、もっと痩せ細って立てなくなるばかりだから。この町のどんなに強かった大人だって、今や自分の足許さえわかっちゃいないから。…僕は今夜にも、ひとりで立って、後始末をできなければならないのに。


 鬱血した思いは、コンクリの波打ち際で泡と散り、また夜に目が眩み出した。水の向こう側、涸れない原生の花。花びらをむしって頬張っている、餓鬼は僕だ。


 きっと。

 「…やめえ!」そちらが花の本心なのだ。その一言は、欠かさず聞いた。

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眩んだ私鉄は家かち割るが 九層霞 @DododoG

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