第28話夜の果てに見出される光を

まだ延々と降りつづく雨に打たれる窓辺を開け放って、遠ざかる鐘の音を聴いていた。この都市の中央に鎮座する教会、その頂に吊り下げられたいくつもの鐘は午前零時を告げる。不眠に煩わされる私にとって唯一のなぐさめでもあり、また同時に望みのついえた夜のはじまりを告げる音でもあった。

朝七時になるまでふたたび音を潜める鐘の音は、やがて朝の散歩者たちの道標となる。故人は朝を愛した。そのやわらかな光のうちに見出されて旅立った。晩年、私たちが言葉を交えることは稀だった。私は夜に生き、ひとり静かにその底を歩み、朝刊が届く頃に至ってもなお目は冴え、一通り誌面に目を通して不穏な事件に胸の内をざわつかせながら眠りにつくのが常だった。不安だけが私の夜の友だった。朝日のうちに故人は目覚め、きちんとしつらえられた朝食を取り、それから散歩へと出かけた。

道中、重苦しいカーテンが閉ざされたままの私の部屋の前を通りかかり、その闊達な足は歩みを止めることなく行き過ぎる。交わらない時間の中で、一瞬故人の面影が私の夢によぎり、そして故人の胸の内に私の横顔が重なったかと思えば消える。そうして互いのうちにかつて交わした挨拶が響くも、他言語同士のその言葉は、互いが翻訳した意味によってのみつながれたのだった。

故人は異国語で書いた手紙をカーテンに閉ざされた部屋の郵便受けに投げ入れて、夕刻に起き出した私はそれを翻訳しては、郵便箱に投函した。朝夕の時間を越え、言語の壁を越えて、私たちは心を通わせ合ったかに思えたが、故人はある朝に散歩に出かけたきり失踪し、その報せを私は母国語で書かれた朝刊によって知ることとなった。

幾夜かを経て、朝日の照らす湖の畔で故人は見つかった。葬儀に参列した遺族たちを前に、私はたどたどしい故人の国の言葉で弔辞を述べ、それきり朝刊は郵便受けから溢れ出した。紙束は風に乗って街を飛び回り、迷惑に耐えかねた隣人は何度も私の部屋の扉を叩くが、それに応じることもなく、私の不眠はますます重くなった。いよいよ食物は部屋から尽き果てて、最後の林檎をかじり、私はようやく部屋から彷徨い出て、夜市へと向かう。

怪しい露店が並ぶ中を、故人の影がかすめたように見えて追えば、そこには故人と瓜二つの青年がミートパイを売っていた。静かな面持ちに真摯な瞳が私をじっと見つめ、これをあなたに、と告げて、異国の銅貨を差し出す。

「いつか我が国にもお越しになってください。それが兄の望みでした。それからこれも」

故人の弟は私に一通の封筒を手渡した。

「兄が最後に書き残した詩です。あなたにだけにお見せするようにと託けられました」

私は銅貨と封筒を外套のポケットにしまい、ミートパイを頬張りながら夜の街を歩く。今夜もうまく眠れそうにない。しかし故人の遺した詩は朝を運んでくるだろう。

私は湖畔を照らす街灯に背を預けてミートパイを食べ終えて帰路につき、シャワーを浴びて詩を読んだ。異国語で書かれた詩を翻訳するうちに夜は更け、気づけば机に伏して眠っていた。やがて朝日が重いカーテンの隙間から差し込み、世界に光が満ちはじめる。


谷川俊太郎さんに寄せて

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うつし世とかくり世のはざまにて 雨伽詩音 @rain_sion

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