第27話記憶の海の岸辺にて

肉体の、古びたスイッチを何度も押そうとするけれど、叩き疲れた指先は痺れ、もはや応答することもない。記憶の海の底に蓄積した罪を拾い集めて首飾りにして首にかけ、その一つひとつに刻まれた罪状を呪文のように唱えても、鴎ばかりが鳴き交わすこの地で聞く者もおらず、風にちぎれて消えてゆく。やがて砂浜を踏み締める音とともに男が私に迫り、無言で首飾りをその手で掴んで海へと投げ捨て、血の色に染まってゆく海をふたりで眺めていた。どこから来たのかと問う私に、水平線の彼方から、と言葉少なに応じて、それきり沈黙が流れる。ここは静かだな、海も凪いで。この果てでは諍いばかりさ。男は新旧の傷跡を頬に、腕に刻んでここまでたどり着いたのだった。左足には金属製の義足が取り付けられていて、それを片手で抱えて男は笑う。この海から生まれるはずの鯨が、まだ生まれない。生命は、とうに息絶えたよ。海の向こうでは。罪を背負って生まれる命があるとすれば、それは災厄そのものでしかないのだろうか。祝福したい、それでも、生まれることを、私は。うまく言葉を紡げないまま、やがて月が昇るのを待って、男とふたり、ひとり分の空白を置いて座ったまま海を眺める。男の傷に夜風がさわる気がして焚き火をおこす。潮風の中でぱちぱちと燃える炎を見ているうちに、男はぽつぽつと語りはじめる。この海の向こうで起きている戦のこと、その戦火の中を逃れて、地雷を踏んで義足となって流浪していたこと。途中で出会った人々のこと。その中に母親を失った、年端もいかない子どもたちがいたこと。耳を傾けながらも、言葉をうまく返せない。戦火の中を見てきたのだな。そう、見ていただけだった。ただそれだけさ。見殺しにしたも同然だ。見ていることしかできないこと、それは罪だろうか。あ、生まれる。血の色に染め上げられた海から、赤子の鯨が潮を吹いて身を踊らせる。我々は、今こうして新たな命を見守った。それもまた見ることだ。そしてそれをおまえとともに語り合う。そうして記憶を継いでいく。もはや失われてしまった記憶も、痛みも、癒えない傷も、元には戻らない。それでも明日生きるための言葉を、おまえと語りたい。私たちの間に空いたひとり分の余白は縮まらない。おまえの故郷の話を聞かせてくれないか。男は静かな口調で、海へとふたたび去った鯨の軌跡を追いながらその唇を開く。


BGM:アニメ版BANANA FISHの自作のプレイリスト

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