第26話海へと投げ渡されない手紙
もはや発語することも忘れ、寝食も置き去りにして誰にも見せない手紙を書き続ける私の机からは、封筒の束が雪崩落ち、部屋の床を侵食してゆく。そのいずれも判別のつかない文字で書かれた手紙の封を切る者もおらず、書きつけられた引用文のみがわずかにその意図を伝えるのみで、発語しかかった最初の母音のみが書き連ねられたものもある。病によって声を失った私に残されたのは文字ばかりで、それらも記憶の片隅からどんどん消え、読みさしの本が延々と続きのページを捲られないまま、新たな本が届いてうずたかく積み重なってゆく。友人が訪ねてきたのはもう何年前だったか。コントラバスを弾く彼の残して行った楽譜も、封筒へと詰め込まれてしまって、そのいずれのうちにあるのかもわからない。ただ彼が労苦を厭わず持ち込んだコントラバスの音色に合わせて、ピアノを奏でた日のことをかすかに思い出す。そのピアノはすでに物置と化して久しく、中には鼠が巣食っている。調律師が来たのが十三年前、それより前のことは記憶が乏しい。呆れ顔の調律師は、手入れもなされないまま伸び切った髪を厭う理髪師のようにピアノをこじ開けて彼の仕事を終えるまで、渋面を隠そうとはしなかった。そうして十三年の間に鼠の家族が巣を作り、殺鼠剤を撒いたのだったか定かでない。こうして書いている間にも小さな物音がかすかに聞こえてきて、見渡せば紙類の数々に齧られた痕跡がある。それももう随分と月日を経たらしく、日光に当てられ、傷んだ手紙の数々を私はようやく拾い集めて、無心に数えはじめる。指折り数えるうちに記憶があやふやになり、どこまで終えたのだかわからない。初めから数え直す気も失せて、ピアノの蓋をこじ開ければ、そこには無数の鼠の死骸があり、悪臭を放っていた。さすがにこのピアノを担ぎ出すには人手がいる。私は友人に宛てて手紙を書こうとして、彼の名を忘れていることに気づく。海を意味する名だったが、人違いかもしれない。そうしてどこにも届かない手紙がまたひとつ、増えてゆく。
BGM:伊福部昭/シンフォニア・タプカーラ 第三楽章:ヴィヴァーチェ
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