終
いつの間にか陽の光は赤く染まっていた。
四年前から何度も読み返してきた『相原見聞録』と題されたそのノートに書かれていたのは、相原という聞いたこともない街の話だった。
夢香という夢を見せるお香。雨が降るその時をぴったり当てる小型の機械アメコル。涙型の遙米餅という餅。ぷるりとして柔らかい乗り心地の遙米球。風を動力として進む風動船。人で賑わう歌観町通りという名のアーケード街。その歌観町通りの地下に広がる地下市場。五人組の人気バンドのあいざし。奪えない物はないと豪語する盗賊団カガナミ。田中。沙織。武清さん。亜紀さん。そして、心咲。静流彰心咲。
ページをめくった瞬間から僕は、『相原見聞録』の虜になった。
『相原見聞録』の主人公の僕とはたぶん僕のことで筆跡からすると書いたのも僕だった。
四年前、僕は病院のベッドの上でそのノートを読んだ。
その年の八月最後の週。僕は東京駅周辺で行方不明となり、その一週間後、行幸通りに面した新丸の内ビルの脇で倒れているところを発見された。浴衣のような服装に雪駄という格好で、隣には洋服とスニーカー、それに『相原見聞録』と題されたノートが入った紙袋が転がっていたそうだ。
僕は『相原見聞録』に魅せられ続けた。
特に主人公である僕を救ってくれた心咲という女の子に。優しくて、一生懸命で、相原に迷い込んだ僕を東京に帰すために尽くしてくれた女の子。
行方不明になっていたその時を境に、僕は東京駅周辺に足を向けるようになった。特に新丸ビル七階のテラスには何度足を運んだか数え切れない。そこから東京駅を眺めると心が安らぎ、同時に胸を締め付けるような切なさを感じた。
今日僕が向かったのはその新丸ビルのテラスではなく行幸通りだった。
整然とした行幸通りの真ん中から眺める東京駅は新丸ビルの七階テラスからの景色とはまた違った魅力がある。
そうして行幸通りのベンチで東京駅を眺めていたところ突然後ろから声をかけられた。
「はるくん」、と。
振り返ると、黒い浴衣を着た女の子が立っていた。
「お久しぶり。忘れてなんていないわよね。元気にしてた?」
長い睫毛に真っ赤な唇。太い眉にピンク色の頬。そして、香水の香りなのか、これまで嗅いだことのないとても良い匂いがした。
僕が黙っているとその子は僕のことをフルネームで呼んだ。美成陽都君、と。
僕は首を傾げた。女の子の顔見知りはいても、知り合いはいない。
「なによ、忘れちゃったの、本当に。びっくりしすぎて倒れちゃいそうなんだけど」
もう一度今度は逆に首を傾げると、その子はバッグの中から一冊のノートを取り出し、僕の手に押しつけるように渡してきた。そして、読み終わった頃にまた来るから、自分のことをよく思い出しておくようにと、そう一人勝手に怒ってどこかに行ってしまった。
『トオキョオ』
表紙の文字を見て心がざわついた。
トオキョオ。
それは『相原見聞録』の中で何度も登場した東京を指す言葉で、心咲が僕との時間を書き綴っていたノートの題名だったからだ。
なにがなんだかさっぱりで狐につままれたような気分だった。僕は側のベンチに腰掛け、ゆっくりと『トオキョオ』と書かれたそのノートをめくった。
あの夏、私はトオキョオの虜だった――――
それは僕がよく知りながらも初めて読む物語だった。
気がつけば陽は赤味を帯び、東京駅はオレンジ色の輝きを受けていた。
『トオキョオ』の中で僕は自分のことを美成陽都だと言っていた。北区立桐香中学校の三年だと。転校した友人と皇居前で会う約束をしていたのだと。それは僕以外の誰でもなかった。
信じがたいけれど信じるしかなかった。四年前の八月。行方不明となっていた期間僕は相原に行っていた、ということを。
▽▽▽▽▽
「ちゃんと読んでくれたかな。はるくん」
顔を上げると、またあの女の子だった。
「どうだった? 心咲ちゃんが記したはるくん日記は」
ぱたぱたと長い睫毛が忙しそうに揺れていた。
僕は頭の中で何度か反芻してから、こう呼びかけた。
沙織、と。
『雨とトオキョオと君と』 シンイチ @shin-ichi
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