生活は簡単に、思想は高く


本格的に梅雨がやってきた。雨が降る日が続く。長く、悪い夢を見ているようだ。

神崎律はカーテンの隙間から滴が落ちるより先に雨を察知する。



津山は神崎から聞いたことを考えていた。バス停で傘をとじて、傘の先から伝って流れる雨を見る。それは思考と同じくどこまでも流れて、終いにはどこか遠くへ行ってしまう。思考に海があったら、こんな感じかと哲学的なことを考える。

とりとめのない、とはまさにこのことか。

空白を埋めるように考えて、それは自分にどうにかできる問題なのか、考える。出来なかったらどうする? 誰かに助けを求めなくてはいけない。誰かって、誰に?


「日和、実結と連絡とれた?」


講義室に行くと、席を取っていてくれた友人に声をかけられる。津山はそこでやっと我に返った。

「ううん」と力なく首を振れば、友人は「そっかー」と軽く返す。


「実家に帰ってるんじゃない? きっと大丈夫だよ」

「……うん」


津山は実結と特別親しかったわけではないが、同じ合コンに行った情のようなものが芽生えていた。そして、津山の中で何か嫌な予感があった。






アイスコーヒーを飲む神崎に、園柄が携帯の画面を見せた。視線だけがその画面に向く。休憩室には園柄の正面に柳もいた。


「これ、ここら辺だと一番大きいサークル」

「オレンジコクラブ……へえ」

「内容は主に街の清掃、ゴミ拾いだって。合宿もあるらしい」


オレンジとエコと掛け合わせているのか。頬杖をつきながら神崎はそんなことをぼんやりと思った。社会人サークルだと言ったか。じゃあこの前合コンに来ていた男側の中にそのサークルに入っている人間がいても可笑しいことは少しもない。

思考を組み立てようとして、辞めた。先入観と偏見の入り混じった仮説を誰が受け入れるだろう。

実結が消えた件はさておき、そのサークルの実態が気になる。園柄も同じことを考えており、携帯で詳しく調べた。


「駅前のゴミ拾いをしたり、この前のさくら祭の時も手伝いをしてたって」

「普通のボランティアしてるな」

「あ、参加レポート書いてある。四月に歓迎会があって、ボランティア活動があって……六月に合宿」

「合宿では何してんの」

「そこで終わってる」


アイスコーヒーを飲み干し、グラスを置く。

ぱっと顔を上げると柳と目が合う。


「七尾さんって忙しいんですか?」

「知らない」

「全然返信来なくなったんですけど。今日出勤じゃないんですか?」

「いや、知らないっつの」


携帯と睨めっこしていたのはその理由から、らしい。

そもそも、あの様子では柳と連絡を取っていたのは七尾本人ではないだろう。神崎も七尾が存在していると確認できたのは、先日実結の姿を見たときが最後だった。その後、職場でさえ会っていない。

あの男は、この街では気配を殺している。どこかで擦れ違う、ということが一度もない。いつも見つけられるのは神崎の方だった。


「おはよーございまーす」


着替えて休憩室に入ってきた津山が長く挨拶をする。全員の視線が集まり、各々挨拶を返した。


「実結やっぱり来ないです」


言うつもりはなかったが、やっぱり言ってしまった。へら、と津山は笑ってタイムカードを通す。


「神崎さんの言ってたファミレスの辺りも行ってみたんですけど、会えなくて。やっぱり実家に帰ったんですかね?」

「かもな。急に学校が嫌になったのかもしれない」

「ですよね……」


同意を口にしながら、津山は全く納得した顔をしていなかった。神崎はそれを見上げて尋ねる。


「実結と仲良かったのか?」

「え? あ、いえ、そんなに。会えば話すくらいの感じでした」

「じゃあなんでそんなに心配してんの?」


親密さと心配の度合いは比例するものだと思っていた。少なくとも、一般人の中では。

柳は二人の会話を聞くことはなく、携帯をじっと見つめていた。


「嫌な予感がするのもあるんですけど。ここにいる誰かが急に来なくなっても、同じくらい心配しますよ」


その答えに、神崎は目を丸くする。

成人済の女が一人二人居なくなったところで社会は無関心だ、と喉元まで上がっていた。それがすとんと腹まで落ちた。津山の中で、心配に度合いは無い。


「……善人だな」

「そんな大げさな」

「津山は近年稀にみる磨れてない女子大生だから」

「いたんだな、こんな奴」

「なんの話……?」

「まあちょっと、調べてみる」


アイスコーヒーのグラスを持って立ち上がる。園柄はそれを見上げた。視線が合う。

大丈夫か、と視線が問うている。

熟、視線で語る人間だなと神崎は思った。


「なんかあったら骨は拾ってくれ」

「なにそのフラグみたいな……」

「あと仏壇の水は毎日替えろ。以上」


神崎の母、響子のいる場所だ。家に入ってすぐに響子に気づき、園柄は手を併せた。それを見て、良い育ちなのだろうと悟った。

休憩室を出ていく神崎の背中を黙ったまま見る。柳の視線がふと園柄に向いたことに気づき、目をやる。


「仏壇って何のこと?」

「……別に」

「もしかして一緒に住んでんの?」


変なところで変な勘が鋭い。全てを話したところで柳は津山では無い。文章を字面通り受け取るはずもない。面倒な考察と思惑と偏見が入ってくるだろう。

そういうものが、園柄は苦手だった。何も柳だけに限ったことでないのは分かっている。人間誰もが、事実と考察を入り混じって生きている。


「柳さん、休憩明けじゃないですか?」


時計を見て津山が声をかけた。それを確認して、柳が立ち上がる。出ていった後、津山の方を見る。


「助かった」

「いーえ、私もいってきまーす」


学生の頃の一歳差は大きい、とよく言われる。しかし津山はほんわかしている様に見えて、柳や園柄よりも周りが見えているのだろう。




腕の傷が痛む。ふと顔を上げると、雨が降ってきた。神崎は傘を広げる。

携帯をじっと見る。ある番号を起こして、通話ボタンを押した。


『お前な』


開口一番にそれ。警戒心と行為に相違が見られるが、電話を取ってくれたことがありがたい。


「倉木さん、お久しぶりです」

『どこに居るんだ、今』

「冬に雪がたくさん降るとこです」


あの街を離れたのが遥か昔のことのように思える。あれは寒いときだった。


『で、用件は。お前までお元気ですか、とか言うなよ』


お前まで、と言ったか。そんな口調で倉木に話しかけるのは一人しか浮かばない。神崎の前に電話した人物。

切られても困るので、神崎は答えた。


「サークルを装った宗教勧誘って知ってます?」

『俺をなんだと思ってるんだ』

「そこから一人の人間を救うことって可能ですかね?」

『無理だろうな』


倉木は即答した。躊躇う余地もない。


『お前一人でやるなら尚更』

「どうしたら良いと思いますか」


神崎がこうして思考を投げられる相手は数少ない。外回りの最中なのだろう、電話の向こうで車が近くを通る音がした。

倉木は、神崎が前にいた街の職場の上司だ。いつも神崎が何かに巻き込まれると、やんわり諭す。今回もまた、そうなのだろうと予想する。

暫しの沈黙の後、倉木の声がした。


『七海に頼れ』

「……何故」

『あいつが居たら、きっとお前は無事だ』

「その絶大な信頼、あたしに寄せて貰いたいんですけど」

『人捜しで殴られて帰ってくる奴に寄せる信頼はない』

「……あいつはあいつで、忙しそうなんで」


同じ時期に街から姿を晦ました二人。内一人はもう七海という名前ではない。その二人が揃ってここにいることは、倉木にはお見通しだったらしい。


『じゃあ首根っこ掴んで引き戻して来いよ』


そんな無茶な。

神崎は無意識に自分の腕を掴んでおり、その掌を開いた。





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めぐりあわせ 鯵哉 @fly_to_venus

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