小人閑居して不善をなす


神崎律はニワトリの時計を思い出していた。

特に意味はないが、それを思い出すことで平常を保っていられると思ったからだ。隣でクチャクチャと物を食べる不快な音から逃れるために。


何故こんな状況になったのか。

話はほんの三十分ほど前まで戻る。


穏やかな天候に休日が被った。神崎に休日会って遊ぶような友人はいない。休日は殆ど眠っているか、スーパーへ買い物に行くだけだ。

深夜バイトから一夜明ければ、昼を過ぎていた。ベッドから抜け出し、母の写真の前のコップの水を替える。ミネラルウォーターのペットボトルを開けて一口飲む。ソファーに座ってテレビを点けた。

画面の隅に映る天気マークは明るい日が続いている。この前感じた梅雨の気配は何だったのだろう、と神崎は少し笑ってしまった。笑うついでに空腹に気付く。部屋着から着替えて、外に出た。持つものは鍵と財布と携帯のみ。パン屋に行けば良いと踏んで出たものの、まさかの定休日だった。落胆しつつも駅の方へ向かう。

さくら祭り手前に、ナツノというクラブのママに会った場所で丁度立ち止まった。ナツノの姿を見たからではなく、この前津山が話していた実結の姿があったからだ。男女に挟まれて、ファミレスへと入っていく。引き摺られるような形でも脅されているわけでもなく、何か穏やかな顔で喋りながら歩いていた。家族には見えないが、年上の知り合いか? と考えながら神崎はその背中を見た。と、思っていた次の瞬間、同じくファミレスへと足を踏み入れていた。

ちょうど昼を過ぎた時間だったからか、店内に人は少ない。笑顔で迎え入れた女性店員に、実結たちの席とあまり離れていない席へと通される。神崎はメニューを見る素振りをしながらそちらを注視した。実結の隣に中年の女が、正面に男が座っている。

その間に被さったのは、通りを挟んだ向こうのテーブルに座っていたスウェットを着た若い男だった。目が合ってしまって、神崎は自然と背けた、はずだった。


「おねーさん、ひとり?」


下卑た笑い方をして、神崎の隣へと急に移ってきた。舌打ちをしたい気持ちを抑えながら、頬杖をついて視線を合わせないようにする。


「関係ない」

「俺さあ、今日カノジョにドタキャンされちゃってさあ」

「あっそ」

「一緒に飯食おーよ! ね!」


声がでかい。神崎は男の方も実結の方も向くことはしなかった。今更ではあるが、神崎は絡まれ体質である。厄介事も厄介な人間も引き寄せる。そういう能力は母の胎内に置いてきたかったものだ。


「おねーさんはここの近くに住んでんの?」


そして、冒頭に戻る。


とりあえず迷惑なので店員を呼ぼう、とベルを押そうとしたときだった。人影が近付き、神崎は顔を上げる。パンツスーツを着た女性だった。目があって、それからテーブルの前で止まる。どこかで見たことのある女性だ、と神崎は持っている記憶の片隅まで探し始めた。


「神崎さん。ごめんね、遅れちゃって」


神崎より少し年上に見える。女性が宣った言葉に神崎はその顔を凝視せざるを得なかった。そんな神崎には構いもせず、隣に座る男へと視線をやる。


「どちらさま?」


男が顔を上げた。


「どーも。おねーさんをナンパしてたとこです」

「そうなの? でもねえ、神崎さんにはこわーい彼氏がいるからねえ」


小指でスッと自分の頬を撫でた女性。その意味が通じるのか? 神崎は疑わしい視線を女性から男へと移した。なんと、驚くことに怯えているではないか。

その顔を見て、人の好い笑顔を作り近づけた。


「分かったらさっさとどきな」


低く小さい声で囁いた。耳の良い神崎にもやっと聞こえるほどだった。

男は逃げるようにして伝票を持ち、振り向かずに会計をしてファミレスを出ていく。残った冷めたパスタを挟んで、女性と神崎は見合った。


「何か頼みましたか?」

「……誰?」

「私もアメリカン頼もうっと」


先程神崎が押そうとしていたベルを簡単に押した。すぐに店員が来て注文を取っていく。何故かアメリカンコーヒーを二つ。

神崎の空腹はどこかへ消えていた。


「あんたの顔、見たことある」


神崎がその正面に座った女性の顔を見て言う。彼女が動じることは無かった。


「どこにでもいる顔ですから」

「去年、年末に蕎麦屋に行った。あたしは人に会う為にそこへ行った。あんたはカウンター席の端に座っていたな、店内を見回せる席だった」


女性は返すべき言葉を見つけられなかった。的確な店内の俯瞰、位置把握、顔の認識。

ちょうどコーヒーが届いたことに感謝してしまったくらいだ。


『――窪、離脱しろ』


窪と呼ばれた女性のスーツの内側につけられていたマイクから声が漏れた。神崎はコーヒーに口をつけてそれを見る。

窪はコーヒーに口をつけることなく、ポケットから札を置いてテーブルに置く。それから神崎を見たので、神崎は手を伸ばした。反射的にそれを掴むと、ぐっと距離が近付く。

油断した。

と、思った瞬間には殺されている。そんな物騒な世の中だ。

幸い、神崎は人殺しをしたことはない。半身をテーブルに乗り上げ、握っていない方の手で窪の襟ぐりを掴んでいた。内ポケットの上から見えるのは小型の機械。


「見てるんだろ、七尾。優雅な昼食時を邪魔すんな」


それに向かって話せば、マイクの向こうで口を噤む気配がした。こちらでは窪がハラハラとそれを見ていた。ここで何かあれば、減給されかねない。なんて、ブラックなことを思ってみる。


「それとも、お前は"結城"か?」

『神崎さん、今日はあのパン屋は定休日ですよ。コンビニでいつも買ってるサラダも売り切れていてここまで来たのかもしれませんが」

「もういい、黙れ」


ぺらぺらと喋られたのは個人情報。しかも神崎の今日の行動が筒抜けである。げんなりした顔の神崎は、窪から手を離した。


『――窪、彼女を連れて離脱』


無機質な声色。戻るの嫌だな、と思いながら窪はコーヒーを飲む神崎を見る。


「……あなた、何者なんですか?」

「ただファミレスで昼ごはんを食べようとしていた一般人。そちらは?」


答えは返ってこない。


「名乗れないなら最初から聞くなよ」


嘲笑うようにして立ち上がる。神崎のコーヒーカップの中身は無くなっていた。窪は苦笑いして伝票を持った。

名乗れるものなら、名乗りたかった。






キッチンの片付けを終え、レジを締めて休憩室へ入れば何故か園柄がいた。副店長もその姿を見て目を丸くする。


「忘れ物?」

「……ではなくて、今日ここに泊まって良いっすか?」


神崎はコックコートを畳みながらその会話を聞いた。


「え? 園柄くんって一人暮らしでしょう?」

「それが、アパートが火事になって。隣が火元だったらしくて、俺の部屋殆ど燃えてて消火でびっしょびしょで」

「はあ!?」

「保険がおりて金はどうにかなるんですけど、寝泊まりできる場所がなくてですね」


副店長の顎が外れるのでは、という程口が開いている。神崎と園柄は少しばかりそれが気にかかったが、当人はすぐに次の言葉を発した。


「ご家族は知ってるの? てか友達の家とかは? そういえばすごい消防車の音聴こえてたけどあれって園柄くんのとこだったの?」

「まあ夜遅いんで。たぶん俺のとこです」


神崎は質問のひとつに答えなかったことに気付いた。副店長はとりあえずタイムカードを切って、電話を手に取る。店長に確認を取るつもりらしい。


「でもここ、時間になるとセキュリティーの何かが入っちゃうんだよね。大丈夫か聞いてみるよ」

「あたしのとこ泊まる?」


ぴたりと動きが止まった。二人の視線が神崎に集まる。


「宿泊費は後で請求するけどな」

「……神崎さんも一人暮らしじゃなかった?」

「もう一人眠る場所くらいはありますよ」


副店長は既婚だ。しかも新婚らしく、旦那との空間に園柄が転がり込むのは難しいというか、気を遣うだろう。神崎は合理的に考えてそれを提案した。

どうするか、と副店長が園柄の方を見る。二対一。次は園柄へと視線が集まった。園柄の判断により電話をするしないが決定される。

視線に耐えかねて、園柄が手のひらを見せた。


「……お邪魔します」



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