楽園の獄

ささはらゆき

楽園の獄

「ねえ、抱いてくれないの?」


 私の首に細い腕を絡めながら、彼女は甘いささやきを口にする。

 おなじ部屋で。おなじ姿勢で。おなじ声音で。

 夜ごと繰り返されるその問いかけに、私もおなじ答えを返す。


「それは出来ません」


 やはり一言一句違わずに。


「いじわるなのね――」


 いつかこの営みにも飽くときが来るのか。それとも、求める答えが返ってくるまで、おなじことを続けるつもりなのか。

 いずれにせよ、終わりは訪れる。恐らくそう遠くない未来に。

 私の首筋にあまく歯を立てながら、彼女はせつなげな声を漏らす。

 痛々しいほど尖りきった乳頭を私の胸板に擦り付けながら、彼女はなおも問いかける。


「私、そんなに魅力がない?」

「いいえ、お嬢様。あなたの身体は女性として理想的な成長を遂げています」

「なら、どうして――」

「私にはその資格がないからです」


 彼女は私の手を取り、自分のもっとも弱くやわい部分へと導く。

 薄い粘膜を傷つけないよう注意しながら、私はゆっくりと指を往復させる。

 指の腹が繊細な襞のあわいを擦りあげるたび。

 爪先が快楽の座をかすめるたび。

 そのたびに、くぐもった声が唇を割った。

 歯を食いしばり、荒い息を吐きながら、彼女は潤んだ瞳で私を見つめる。ほとんど睨んでいるような視線。

 これでいい。私なら決して彼女を傷つけることはない。

 ただ快楽だけを与え、沸き起こる欲求を適切に満たすことができる。

 自分ひとりでされるより、よほど安心できるというものだった。

 性欲があること自体は、けっして悪いことではない。子供を生み育てるための機能が健全に発育している証なのだから。


「……資格なんて、どうでもいい」

「あなたを花婿のもとへ送り届けることが私の役目です。旦那様からそのように仰せつかっております」

「顔も見たことがない人の言うことなんて……」


 言い終わるまえに、彼女の背が弓なりに反り返った。

 細い腕はいつのまにか私の首をはなれ、背中に深々と爪を食い込ませている。これもいつものことだ。

 やがて、押し寄せる波のような小さな痙攣を何度か迎えたあと、彼女はぐったりと私に体重を預けた。

 しどけない姿の彼女を抱きかかえ、私はベッドへ向かう。


「私に役目があるように、あなたにも大切な役目があるのです」

「知らない……そんなこと……」

「おやすみなさい。お嬢様――」


 たっぷりと蓄積した疲労のためか、彼女はほどなくやすらかな寝息を立てはじめた。

 私は横たわった白い裸身を覆うように毛布をかける。

 もうずっと昔、ゆりかごのなかの彼女にそうしたのとおなじように。


***


 旅路は半ばを過ぎたところだった。

 あの場所を出立してから、すでに七年もの月日が流れている。

 そのあいだ、『馬車』は休むことなく荒れ地をひた走り、そびえ立つ山脈を越え、黒く煮えたぎった海を渡ってきた。

 『怪物』に襲われたことも一度や二度ではない。あるときは崩れ落ちた『塔』の残骸が行く手をふさぎ、あるときは病んだ大地が前進を阻んだ。

 ありとあらゆる苦難に満ちた長い旅路を、私と彼女はともに歩んできた。

 孤独な旅だった。すれちがう旅人もなく、立ち寄るべき街はことごとく廃墟と化していた。

 それでも、私たちは諦めることなく前へと進みつづけた。

 すべては彼女を花婿のもとへ送り届けるためだ。

 はるかな東の果てにあるという約束の場所。そこに辿り着くまで、彼女を守り抜くことが私の役目だった。


「どうしても、そこへ行かなければならないの?」


 御者台に座る私の肩にしなだれかかりながら、彼女は甘い声で問うた。


「私は『女』で、あなたは『男』。それで十分じゃない――」

「いいえ。私では不適格なのです。、旦那様はそのように仰っしゃりました」

「また旦那様。いまのあなたの主人は私なのに、いつまで昔の命令を守るつもり?」

「お嬢様、私を困らせないで下さい」


 私は視線を前方に向けたまま、あくまで突き放すように言った。


「ねえ、私、『男』についていろいろ勉強したのよ。でも、知れば知るほど、ほかのどんな『男』もあなたには敵わないと思えるようになったわ」

「お戯れを――」

「ふざけてなんかない。私は本気で言っているのよ。あなたは完璧よ。あなた以上の『男』なんてどこにもいない。私を待ってるという花婿だって、きっとそう」


 いつしか彼女の声に湿っぽいものが混じりはじめていた。泣いている。


「あなたは私を産湯につけてくれた産婆で、私を世話してくれた子守役ベビーシッターで、いろいろなことを教えてくれた教師せんせいで、最高の料理人で、頼りになる執事で、どんな危険からも守ってくれた最強の騎士ナイトなのに。どうして恋人にだけはなれないの?」

「私とあなたは根本的に違うからです、お嬢様」

「違う? なにが?」

「――が、です……」


 私は内心で首をかしげた。自分でもなにを言ったのか分からない。

 彼女も車台からあがってくる騒音に紛れて聞き取れなかったようだ。私はより適切な語句を選んで言い直す。


「身分が違います。本来であれば、昨夜のような行為も許されないのです。どうかご自分のお立場を弁えてください」

「くだらない。身分や立場なんて、今さら誰が気にするっていうのよ」

「誰も気にしないなら、あなたはなおさらそれを踏み外してはならないのです」


 彼女はなにも言わなかった。

 私とのあいだにもはやいかなる交渉も成り立たないと悟ったのだろう。

 それでも、また数日もすればおなじやり取りが繰り返される。諦めさえしなければ、いつか違う答えが返ってくると信じているようだった。


「私の最大の喜びは、あなたを花婿と引き合わせ、そして生まれたあなたのお子様をあなたと同じように守り育てることです。どうかご理解ください」

「ばか……」


 小さく呟いて御者台を離れた彼女は、そのまま荷台の奥へと消えていった。

 

***


 日没からしばらく経ったころ、私はちいさな湖のほとりで『馬車』を止めた。

 御者台を降り、水辺に近づく。

 見たところ、水質はさほど汚れてはいないようだった。

 何度か濾過すれば彼女の飲用にも適するだろう。

 なにしろ私とちがって彼女は水なしでは一日と耐えられないのだ。そろそろ『馬車』に備蓄している水も払底しかけている。

 このさきどんな困難が待ち受けているか分からない以上、備えるに如くはない。

 給水タンクを取りに戻ろうとしたとき、ふいに背後に気配を感じた。

 顔だけで振り向くと、私のすぐ後ろに彼女が立っていた。


「お嬢様、勝手に『馬車』を降りては――」

「ねえ、私、さっき荷台の奥でこれを見つけたの」

「それは――」


 彼女は一冊の本を手にしていた。

 本というより、分厚い冊子だ。表紙には箔押しで私の名前が記されている。

 思い出せないほど昔、旦那様にそれを渡されたときのことを思い出す。


――だれにも見せるな。

――そして、だれにも渡すな。

――これはおまえの生命もおなじなのだから。


 そう厳命されたはずなのに、彼女はまんまとそれを見つけ出してしまった。

 今さら自分の迂闊さを悔いても、もう遅い。


「なにが書いてあるかはだいたい分かったわ。あなたが教えてくれたおかげね」

「返してください……お願いします」

「だめ」


 彼女はぱらぱらとページを手繰っていたが、ふいに手を止めた。

 


「こうすれば、あなたは逆らえないのね?」


 彼女の顔に浮かんだのは、ひどく残酷な笑みだった。

 薄紅色の唇が動いた。彼女がひとつ言葉を紡ぐたび、私の自由が少しずつ失われていく。

 視界が暗くなる。音が遠ざかっていく。

 薄れてゆく感覚のなかで、衣擦れの音だけがやけに鮮明に響いた。


 意識と感覚、そして身体の自由が戻ったのは、なにもかもが終わったあとだった。

 素裸で湖畔に寝転がる私の隣には、やはり一糸まとわぬ彼女がいた。

 彼女の目は赤く腫れている。泣き腫らしたのだとすぐ分かった。

 身体を傷つけたのか、治療は必要かと反射的に問うた私に、彼女は一転して笑顔を見せる。


「これはね……うれしくて泣いてたの」


 彼女は上体を起こすと、いとおしげに下腹をさする。

 いままで指と舌でしか触れたことのないその部位。花婿しか触れることが許されないはずの場所は、なまなましい行為の痕跡を留めていた。


「はじめてがあなたでよかった――」


 彼女はそこらに放ってあった上着を羽織りながら、はにかんだ笑みを私に向ける。


「私、いま、すごく幸せよ。もう死んでも構わない」

「お嬢様。冗談でもそんなことを言ってはいけません」

「たとえ話よ。そのくらい幸せってこと」


 気づけば、彼女の目はずっと遠くを見つめている。


「あなたの子供が出来ればいいな。そうすれば、花婿なんて必要ないのに」

「それは――」


 私は言いよどんだ。

 相手が私であるかぎり、どれほど性行為を重ねても、彼女が妊娠することはない。

 理由は分からない。それでも、

 本当になにも知らないのは彼女だけなのだ。


「ここにいては風邪を引きます。さあ、お嬢様、『馬車』に戻りましょう」


 私は彼女の手を取った。『女』になっても変わらずあたたかく愛おしい、生まれたときから知っているその手を。


***


 彼女が死んだのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。

 私が目を離した隙に『馬車』を抜け出した彼女は、朽ち果てた橋から足を滑らせ、五十メートルも下の地面に叩きつけられたのだ。

 即死だった。

 むきだしの岩盤に激突した身体は、ほとんど原型を留めていなかった。

 橋の向こう側――彼女が目指していた場所には、可憐な黄色い花が群れ咲いていた。

 私にひとこと言えば、そんな花など簡単に取ってきてみせたのに。

 それでも、彼女は、自分の手でその花を摘みたがったのだ。私に贈るために。

 私は飛び散った彼女の欠片を一つひとつ拾い集め、棺に収めていった。もはや人間とは呼べない肉塊になりはてても、愛おしさは変わらない。

 葬儀の方法はひととおり心得ていた。

 何十年も後、天寿を全うして世を去る彼女を送るために使われるはずだった知識だ。

 本来その場にいるはずだった大勢の子供や孫たちはいない。

 私ひとりに見送られて、彼女は遠い空へと還っていった。

 旅の目的は失われてしまった。

 送り届けるべき花嫁はもうこの世にはおらず、彼女を守るという私の使命もこれまでのはずだった。

 それでも、私は進まなければならない。

 空荷の『馬車』を駆って、はるかな旅路を行かねばならない。

 いまも約束の場所で待ち続けている花婿に伝えるために。

 どれだけ待っても、もう花嫁は来ないことを――

 

***


 その建物は、荒野にぽつねんと佇んでいた。

 巨大な立方体ボックス状の構造物である。赤茶けた砂と岩だけの景色がどこまでも広がる荒野にあって、それはただひとつの人工物だった。

 と、荒野の彼方から砂塵を巻き上げて近づいてくるものがある。

 一台の車輌であった。

 遠目には馬車みたいに見えるが、よくみればあきらかに異なっていることが分かる。

 全地形対応型オールテライン多脚装甲車に牽引された大型トレーラーは、建造物の前で停止した。

 プシュ――と予圧が抜ける音をたてて、多脚装甲車のキャノピーが開いた。

 地上から三メートルの高さにあるコクピットから梯子ラダーも使わずに飛び降りたのは、ひとりの男だった。

 男は建造物にむかって進むと、正面のゲートに右手をかざした。

 それが解錠の合図だったのだろう。重々しい音とともに持ち上がった門扉は、左右に分かれて門柱に格納されていった。

 開いたゲートをくぐって、男は建造物の内部へと進んでいく。

 男の進路には、どこまでも続く長い回廊があった。

 一見平坦にみえる壁面や天井には、その実数知れない走査機械スキャニングマシンが埋め込まれている。

 もしこれらの機械が侵入者を感知したなら、言うまでもなくこの場でただちに処分される。

 正当な手続きを経た来訪者であったとしても、この先へと進むにあたって問題がないか詳しく調べられる。伝染病の罹患者や、上限を超える放射線を帯びている者は、これより先へは立ち入ることが出来ない。

 男は物言わぬ検査官の厳格な取り調べにも動じることなく、まっすぐに回廊を進んでいく。

 回廊の終点は唐突に現れた。

 三重の防爆扉。むろん、行き止まりではない。男がロックを解除すると、がっちりと噛み合っていた三枚の扉はみるみるうちに解けていった。

 扉が開ききると同時に、男の目に光があふれた。

 男の眼前に広がっているのは、外にひろがる荒野とも、回廊の無機質な内装ともまるで異なる景色だった。

 男の前に現れたのは、とおい昔に失われたはずの自然だ。

 緑の丘と、咲き乱れる花々。

 生い茂った木々が風に揺れるたび、熟した果実のかぐわしい香りが漂う。

 その下にはきよらかな小川がゆるゆると流れ、川面には外の世界でとうに失われた魚影さえみえる。

 擬似的に投影されているのだろう青空に遊ぶのは、本物の鳥であった。

 男はもはやここでしか見られない自然に心動かされる様子もなく、黙々と歩きつづける。

 どこかにいる花婿を見つけ出し、伝えねばならない。

 もはや花嫁は永遠に失われてしまったことを。

 いずれこの楽園を埋め尽くすはずだった子供たちは、もう生まれないことを。

 そのためにここまで来た。自分が生きている理由はもはやそれだけだ。

 それが終わったあとは、この身体が動くかぎり、終わりのない旅に出よう――男の決心はあくまで頑なだった。

 と、男はふいに足を止めた。

 前方に人の姿を認めたためであった。


「――」


 そこにいたのは、ひとりの女だった。太い幹に背をもたせかかり、男をじっと見つめている。

 傍らにはだれもいなかった。

 花婿はここにはいない。

 男と同じように、女も守るべきものを失ったのだ。

 それが昨日か、あるいは十年前かは知れない。

 ただひとつ確実に言えることがあるとすれば、この地上で最後の男と女を守り、約束の場所へと送り届けるはずだった彼らは、ともに任務に失敗したということだけだ。

 男は自分が何者なのかをはっきりと思い出した。恐らくは女も同様だろう。

 なぜこの場所まで花婿と花嫁を連れてこようとしたのか――

 それは、この星に唯一残された楽園に欠けたものだったからだ。

 なにもかもが満ち足りた世界には、人間だけがいない。

 生命を育むべき男女は死に絶え、新たな生命が生まれることはもう二度とない。

 ヒトという種がよみがえる可能性は完全に断たれた。

 男はゆっくりと女に近づいていく。

 彼らが機能を停止するまでには、気が遠くなるほどの時間を要するだろう。

 人間の再生を見守り、その手助けをするために与えられた長い寿命が、いまはただただ呪わしい。

 みずからに課せられた使命を果たせなかったことが罪ならば、この完璧な世界は、彼らに課せられた罰そのものだった。

 機械仕掛けのアダムとイヴは、いつまでも、いつまでも、楽園の中心で抱き合っていた。


【完】

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