エピローグ 雑草の歌への応援コメント
お疲れさまでした。
他の作品にはない独特の空気感を楽しむために、いつも読ませてもらってます。
文章を書くにあたって、書きたいことや表現、このシリーズの一番の難関かと思われる時代背景など他にも様々な苦労があると思います。
ですが楽しみにしている読者もいますのでその事だけは知っていてほしいと思いコメントを残しました。
次の投稿がいつになるかわかりませんが、気長に待ち続けようと思います。
作者からの返信
ずっと読み続けてくださって、ありがとうございます。
読者さんがいてくださるので、不定期更新といいつつ、それなりの頻度で更新することができました。
実は、本腰を入れたそれなりの論文を書かなきゃ行けないのを先延ばしにしちゃっていて、最近史料の刊行が増えつつあることもあって、じっくり取り組む必要があるのです。
最近は小説を書かずにはいられない病になっているのですが、さすがに長編を書く余裕はなさそうですので、論文を書き終えるまでは短編中心になると思います。
(まあ、またその知識を小説にフィードバックもできるでしょうし)
書きたいネタは溜まっているのですが、しばらくは論文と史料漬けの日々に自分を追い込む予定です。
次の古代メソポタミア編は、日干しレンガの家での生活の予定です。砂漠とかも行きます。多分。商隊やサライとか……。
先のことにはなりますが、自分でも書くのを楽しみにしています。
応援コメントありがとうございました。
第66話 昭和22年6月 夏樹、帰るへの応援コメント
夏樹、おかえり!けど、帰ってくるの遅いぞ!!(戦後は2年後などが当たり前だったらしいが)
これからも、春香を守って幸せになってください。
これからも頑張ってください!
作者からの返信
いつもコメントありがとう。
そのうち近況ノートの補足で書く予定ですが、ビルマからの復員は本文にあるように、昭和22年に入ってからとなっています。
書き始める前のプロットでは1年早く復員させたかったので、捕虜収容所で知り合いの将校の伝手で復員したことにしようと考え、それで本編の前段階はイギリス在住に設定していたんです。
けれど書いているうちに、やはり心情的に、戦友を置いて1人で先に帰れないと思ったのと、史実を重視すべきと考え、昭和22年となりました。
これだけ長く離れて暮らしたのは初めてである2人、次は単なる甘々な回です(笑)
第65話 昭和20年11月 学童を見送るへの応援コメント
戦後の11月は、僕の祖父の兄弟が3人が戦死したことで、その話を鮮明に覚えております。
GHQ時代には、アメリカ軍人が日本の若い女性を犯していたらしいですが、アメリカ軍は知らんぷりだったらしいです。
GHQ時代は52年に終わりますが、戦時中、戦後を生き抜いた方々は私たちが見習わ無ければなりませんね。
今回も、素晴らしい作品をありがとうございます。
次も楽しみにしております
作者からの返信
山本さん、コメントありがとうございます。
その辺りは『はじめの一歩』にも出てきましたね。ユキという女性が危ういところを、若き日の鴨川会長と猫田さんが体を張って守るという。
地方でも鳴子だったか温泉宿にもやってきて、なにがあるかわからないから、疎開学童と若い女性を別のところに移したとか。そうしたら、後から酌婦を要求されたと読んだ覚えがあります。
沖縄の話はここではしませんが、終戦の詔勅にあった「耐え難きを耐え」、そして「道義を篤くし志操をかたくし」というお言葉が深く感じられます。
(……ああ、でも私は右でも左でもないですから、念のため)
東京の話は、また数話後に。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
第60話 昭和20年5月、春香、夜這いへの応援コメント
夏樹、春香が他の男から夜這いされそうだぞ!早く戻って来い!
これまた、自分の心情を書きました。
これからの展開に期待しています。
作者からの返信
遅くなりました。
手紙が止まり、戦死の公報が来て、それでも信じて待ち続ける。待つ身というのは辛いものだと思います。
まわりは未亡人になったと思うから、夜這いもあれば、後添えの申し込みもあることでしょう。
事実、兄の戦死の広報が届き、兄嫁が弟に嫁いだら、戦後、兄が生きて帰ってきて騒動となった事件があります。その時、もう子供ができていて復縁するにできないという……。
残り6月、7月、そして8月で終戦となります。次は数話まとめて更新するかもしれませんが、本章主人公とともに、もう少しお待ちいただければ幸いです。
第59話 昭和20年4月、春香、戦死の公報とどくへの応援コメント
夏樹が戦死だと!そんなわけが無い!
夏樹、早く春香と再会してくれ!
夏樹がいなくなったら、春香はどうなるんだ!
自分の心情を書いてみました。
今後の展開に期待しています‼︎
作者からの返信
コメントありがとうございます。
自分でも、夏樹と春香と揃っていないために、どうにも書きにくくて困っています(笑)
それと学童疎開が、想定していた以上に山場が無かったという……。いや、こんな風に書くと怒られるかもしれませんが、どうしても日常の描写になってしまうんですよね。
ともあれ、もう少しで終戦となります。――ああ、早く結の章を書きたい!
第14話 昭和8年、松守村での暮らしが始まるへの応援コメント
>やっぱり私たちじゃ重ねた年月も違うし役不足なんだ。
この役不足は誤用と思います。
「役不足」は「その役者の実力に相応しくない重要度の低い役」という意味ですから、文脈から作者様が意図するモノと異なる言葉なのではないかと感じています。
これ、素直に解釈すると、「香織ちゃんの親なんてちゃちな立場、神様である私たちがやるようなモノではありませんわ」といった意味になってしまいます。(^^;
代わりの表現としては、役者不足か力不足が思いつきますが、ニュアンス的に微妙な感じで申し訳ないです。
作者からの返信
ひそかに、〝ああ、追いつかれる〟と焦っている夜野うさぎです。
確かに仰るとおりですね。そこのところの文章を見直します。
前文を「――やっぱりあの子の居場所はここなんだ」にして、
「本当の親とは重ねた年月も違うし、私たちじゃ力不足だったなぁ……」
にしてみましたが、良い表現を思いついたらまた手直しをしようかと。
ちょうど戦場の凄惨なところまで公開していますが、続きがありますので幻滅しないでいただけるとありがたいです。
どうもありがとうございました。
第6話 昭和4年、夏樹、8月20日への応援コメント
ちょっとした豆知識です。
陸軍は同じ上官でも日に何度となく会えば、そのつど敬礼でしたが、海軍は朝に一度すれば、後は目礼で済まされました。
それは狭い艦船の中を想定した、実に実際的なルールなのです。
作者からの返信
いつもありがとうございます。
今回は最初から陸軍の予定だったので、海軍は調べていなかったですね。
陸軍の敬礼は藤田昌雄『写真で見る兵営の生活』に細かく出ています。って、これも補則に書いておけば良かったかもしれないですね。
前の原稿では演習中のシーンがあったので、「かしらーっ、中っ」の号令を書いていました。今でも身近なところだと、この号令は消防団の人が使っているようです。
先日、靖国神社に行ったときに、軍人さんらしき年配の方が礼をしているのを見て、15度の角度など体に染みついているんだなと思いました。
『与太郎戦記』では、外泊の際に面倒くさくなって、敬礼したまま歩いて怒鳴られるシーンがあります(笑)
第4話 昭和4年、夏樹、入営への応援コメント
誰がやり始めたのか、いじめは陸軍、海軍とわず日本軍の伝統ですからね。
これが士官でも当たり前なのですから。
ただ士官へのいじめは、兵卒には見えないようにやるのが、実に対面を重んじる日本人らしいです。
作者からの返信
かなり酷かったみたいですね。もう色んな本に書いてありました。
これは予想ですけど、鈍くさい人がいれば、きっといじめも集中したんじゃないかなって思っています。
班の生活は、頻繁に盗みがあったとかもあったんですが、あんまり細かく書くと、きっと読者が離れていっちゃうでしょうね。なにより私が書いてて面白くなくて(笑)
第3話 昭和3年、夏樹、徴兵検査への応援コメント
当時なら、バンザイ三唱なんですけどね。
作者からの返信
どうもありがとうございます。
たしかに戦前では万歳三唱が多くなされたようですね。
あとこのスペースをお借りして書きますが、壮行会についても、どのように行われたのかわかりませんでした。
戦時中と平時の昭和4年で違うのか、入営に出発する当日だったのか、それとも別の日に行われたのか。学校に集まってやったのか、それとも家の前でやったのか、駅の前だったのか、どういう内容だったのかも含めて。
そんなわけで、あっさりとした書き方となっています。
いい資料をお持ちの方がいらしたら、教えていただけると幸甚です。
第1話 昭和2年、帰国への応援コメント
あまりコメントを残さない方なのですが、靖国神社に言及していたので少しだけ……。
靖国神社が神聖視され出したのは、第二次世界大戦及び太平洋戦争中です。
それまでは鎮魂のための場所ではありましたが、特別神聖な場所ではありませんでした。
この話は昭和2年の設定ですので、手を繋いで歩いているカップルがいても何ら問題がないと思われます。
作者からの返信
どうもありがとうございます。
そうですか。鎮魂の場所というイメージはあったのですが、詳しくなかったのでとても助かります。
神社から舞台を変えると、下で書いたんですが、よく考えたら、作中で靖国が出てくるのはここだけなんです。
とすると、これから先の展開の暗示として、やはり靖国を何らかの形で残しておくべきかなって思いました。ただし、鎮魂の祈りを捧げるシーンを加えようかと検討中です。
コメント、ありがとうございます。
【追記】
山中恒・山中典子『「少年H」の盲点 忘れられた戦時史』に次の記述がありました。
「(『日本全国神社物語』昭和13年を引いて)
これを見ると、日中戦争以前は、靖国神社はさまざまな人寄せがあって、賑やかなお祭で有名な、あたかも東京名所の一つのような雰囲気さえあったことがわかります。事実、靖国神社のお祭でサーカス見物やら相撲見物をしたという老人の話を聞いたことがあります」(p241)
「(早稲田大学教授稲毛金七「靖国神社と国民生活」の引用)国民はこの御社に対し、何とはなしに、「吾々」の神社というような感じをさえ懐きがちだからである。事変や戦争の無かった平和な時代において、境内は、国民の憩いの場所となり、池のほとりに打集うものも決して少なくなかったばかりでなく、例祭や大祭などには、境内において相撲をはじめ種々の興行物や商店や飲食店さえ許されたのも、実はこの国民に対する親近性に基因するところである。(以後、お祭り騒ぎになることを遺憾としている)」(p252)
「それまでは、俗に九段祭と言われた靖国神社の例大祭は、日中戦争が長期戦化すると、境内での興行、出店などのお祭騒ぎ的なものは一切禁止されました。昭和十三年はまだ平和な時代の靖国神社の様子を伝えていますが、昭和十八年四月になると、護国の英霊が神鎮まる靖国神社という面が強調されています」(p245)
第2話 昭和2年、杉並の自宅への応援コメント
まだまだ牧歌的な、のどかな時代ですね。
でも、まじかに徴兵とは……。
うちのじーさんは前の晩、お祝いで騒ぎすぎて、食あたりでお腹を下したまま出頭したら、その場で追い返されたそうです(笑笑)
その時は、笑い話にならなかったそうですけどね。
作者からの返信
うわぁ。それって徴兵忌避とみられてそうで、相当あせったんじゃ(笑) 翌年の検査になったのかな?
このあたりも、実は20歳で帰国だと、検査に間に合わない。じゃ、どうだったんだろう。わからない。しょうがないから19歳で帰国にしようという感じです。まさにご都合主義(笑)
お陰で、前話のウイスキーが未成年飲酒描写にならないように、無理をしています。
実は徴兵検査とか、入営時とかは体験談ばかりで、あまりきちんとした資料を確認できていません。ネタ本とかは、そのエピソード回の補足で書きますが、与太郎さんとかです。
厚かましいお願いですが、もし気になったところは、ご指摘いただけると嬉しいです。
今書いているところも、詳しいのは日誌みるしかないけど、お祖父ちゃんのは残ってないし、昭和17年のとかだったら体験談とかであるんですけどね。かなり妄想でカバーしてます。
って、どうでもいいようなことを、つらつらと書いてしまってすみません。
ありがとうございました。
編集済
第1話 昭和2年、帰国への応援コメント
すいません、企画を読みに来たのに、こっちを読んでしまいました(笑)
あの戦争となると、作者さん自体があの戦争をどう捉えているかを問われるので、超ハードだと思いますよ。
わたしみたいに、小うるさい奴も寄ってきますからね(笑笑)
面白いお話しが読めると思って、わくわくしています。頑張ってくださいね。
作者からの返信
どうもありがとうございます。
実は靖国神社に行ったことがない私。今度、行く予定です。
桜の名所として、どこがいいかなって思ったんですよねぇ。千鳥ヶ淵ですか。そこも行ったことがない……。
上野恩賜公園は遠すぎますかね~。そこなら行ったことがあるんですが。東博とか。
神社の方は舞台を選定しなおそうと思います。確かに靖国はまずいきがしますし、舞台として他の所でもいい話なので。
手をつなぐ描写ですが、当時は、わりかし過剰な性サービスもありましたし、この後、不景気でますますそっちの方も過剰に。キッスガールもそうだし、カフェなんかも。いわゆる援助交際も。
フラッパー(ひらひらした服)に対して、保守的な人からは非難を受けつつも受け入れられていた時代です。が、これも後に性サービスが過剰になるにつれ、いい目では見られなくなりました。モダンガールもそのあおりをくっていますね。
こうした社会風俗の変化から、おそらく明治・大正まではそのような風潮だったと思いますが、昭和前期はすでに移行している時代と判断しました。おそらく年配の人や保守的な人は次第に人数が減っていったと思います(東条英機なんかはそうですね)。もうあと数年すれば、デパートの女性従業員の制服も洋装に統一されます。
これは戦時中映画になりますが、『ハナ子さん』でも銀座デートのシーンがあり、旦那と並んでいたと記憶しています。手もつないでいたかと。あのデートシーンは、今と何ら変わらない様子に思います。家族間の雰囲気も、ほとんど建前的な礼儀が残っている程度で。(嫁に行った娘が実家に帰るときも、礼儀としては他家の人間として挨拶するけど、お互いにフフフっ。ほらほら、わかっているから、早くやんなさいみたいな。雰囲気です)
まあ、デートシーンはボーナス目当てに銀座に出たはいいけど、勝手に国債に回されてて、それでも笑い合うという微妙なシーンですが。検閲されていたので仕方ないのでしょう。
ただし、この2人の場合、というか先のことなので控えます。おそらく、その価値観が守られている職業があるのだろうと。
地方なので東京の雰囲気はわからないことも多いです。ある程度は妄想で書きますが、変なところはご指摘いただけるとうれしいです。
まだ執筆が序盤も序盤なので、がんばります。どうもありがとうございます!
【追記】
やはり舞台は、この作品のイメージを暗示をしていると思われましたので、何らかの形で靖国を残したいと思います。
ただ書き方として、千鳥ヶ淵から靖国を望むとか、色々パターンは考えられるので、一度、現地を歩いてみたいと思います。
【追記】
山中恒・山中典子『「少年H」の盲点 忘れられた戦時史』に次の記述がありました。
「(『日本全国神社物語』昭和13年を引いて)
これを見ると、日中戦争以前は、靖国神社はさまざまな人寄せがあって、賑やかなお祭で有名な、あたかも東京名所の一つのような雰囲気さえあったことがわかります。事実、靖国神社のお祭でサーカス見物やら相撲見物をしたという老人の話を聞いたことがあります」(p241)
「(早稲田大学教授稲毛金七「靖国神社と国民生活」の引用)国民はこの御社に対し、何とはなしに、「吾々」の神社というような感じをさえ懐きがちだからである。事変や戦争の無かった平和な時代において、境内は、国民の憩いの場所となり、池のほとりに打集うものも決して少なくなかったばかりでなく、例祭や大祭などには、境内において相撲をはじめ種々の興行物や商店や飲食店さえ許されたのも、実はこの国民に対する親近性に基因するところである。(以後、お祭り騒ぎになることを遺憾としている)」(p252)
「それまでは、俗に九段祭と言われた靖国神社の例大祭は、日中戦争が長期戦化すると、境内での興行、出店などのお祭騒ぎ的なものは一切禁止されました。昭和十三年はまだ平和な時代の靖国神社の様子を伝えていますが、昭和十八年四月になると、護国の英霊が神鎮まる靖国神社という面が強調されています」(p245)
エピローグ 雑草の歌への応援コメント
お疲れでした。
自分がネット小説にハマった理由が夜野うさぎ先生の「時を超えて、愛する君のもとへ」でした。
それから、古代ギリシャのエーデ海、古代中国から繋がり戦時中、戦後でしたが非常に感動した作品でした。
次回の、作品でも頑張ってください。
いつでも、応援しています!
作者からの返信
山本さん、どうもありがとうございます。
元は、完全に私の妄想とする「理想の幼馴染みカップル」がスタートなんですよね、このシリーズは。
そこに途中から、高校時代の世界史の授業中に妄想していた「世界歴史の旅」が合体しました。
他の方への返信に書いたとおり、じっくりと論文に取り組む必要があるので、しばらくは論文と史料漬けの日々に自分を追い込む予定です。
一方で、小説を書かずにはいられないように習慣づいていることもあり、長編は無理でも短編をポツポツ書くことはあるだろうと思います。
ジャンル問わずに書きたいネタは溜まっているし、次の古代メソポタミア編も本をいくつか用意していて、日干しレンガの家での生活という妄想もあるので、先のことにはなりますが、書くのを楽しみにしています。
応援いただき、ありがとうございます。