7コマ目  どっちですか



 考えなしに先輩の地元まで行ってしまった結果、先輩がひとりで住んでいるアパートの一室に泊めてもらって、翌日の放課後、やっぱり私は地学室にいる。

 ペン先をインクに浸してから、下描きに沿って、人物の指のラインを描いていく。先輩の手を見続けたせいなのか、少しばかり美しいものが描けている気がする。

 私の向かいには、相変わらず糸子いとこ先輩が陣取っている。水色の天板の上にある、トレース台の向こうに。ストーブはまだ置かれていなくて、やっぱりふたりきりだ。どちらもブレザーで、胸元のリボンの色だけが違う。やはり一学年上なのだとわかる。

「要するに、糸子先輩、ぼっちだったんですね」

 これでは私が無神経だと罵られても文句は言えないのだが、しかし気を遣ってみても、私が損をするだけなのだ。返ってこないから。

「そういう、目上を立てない、身もふたもない言い方ってどうなのかなあ」

 先輩は不服そうだが、気に障ったという様子はなかった。私としても目上を立てたいので、普段から、先輩らしい言動を心がけてもらえないものか。

「あんまりそういう気配なかったから、びっくりしてるんです」

 これは弁明ではなくて、本当だった。浮いているようには感じたが、神経の図太さ――その時はと思っていた――ゆえにそう見えるのだと思っていた。

「一年生のほうには、私の噂、あんまり行き渡ってないみたい。二、三年生には浸透しすぎてて、すごいものだよ。この前なんか、私、密売人の総元締めの愛人やってることになってたから」

 極上の笑顔でそんな物騒なことを言われて、私はどんな顔を向ければいいのか。見当もつかず、下を向いてペンを走らせた。

「いいんですか。それで」

 問いかけてから顔を上げれば、糸子先輩の微笑みには揺らぐ気配がない。私にまっすぐ向いている。

「自分で選んだことだから、平気だよ。あやちゃんと友達になるって、そう決めたから」

 正直なところ、すごく重いには重くて、うっかり罵ってやりたくもなる。しかし泣かれては面倒だし、これがやはり一番の原因なのだが、私は律儀で人に甘い。私をずっと待っていたのなら、長い人生のうちの少しくらい、先輩に合わせなきゃいけない気もしてくる。で済ませてもらえるかはわからない。

「それに、彩ちゃんの漫画を読んでから、違うものが見えてきたんだ。私をそういうふうに見ない人も多くいるって、わかった。気づけるようになったよ」

 それは非常に喜ばしいことではある。あるのだが、結局、私以外と友達になろうとは思わなかったんですね。

「文芸部の今の部長さん、同じクラスで、西館にしだてさんっていうんだけど、私が小説を書くのに悩んでた時に、アドバイスをもらったりしてね。全部、師匠の受け売り、なんて言ってたけど、彼女自身も相当なものだよ。彼女の小説読んで、敵わないなぁって」

 私は文芸部の発行しているものをちゃんと読んでいないので、糸子先輩の主観による評だけの話なのだが、それにしても何なんだ、昨年度に在学デビューした先輩がいて、糸子先輩と、それを上回るという西館先輩と、この高校には文才を引き寄せる魔力でもあるのだろうか。

「あっ、そうだ。私が描いたネーム、読んで欲しいの」

 昨夜、ごくごく簡単に、ネームについて説明していた。まさか翌日に出てくるとは思っていなかったから、足りないところもあった。今日改めて、詳しい説明を加えるつもりでいたのに。

 私の返事を待たず、先輩は鞄からコピー用紙の束を取り出して、トレース台の隣に置いた。

「えっ、もう、こんなにですか?」

 それはちょっとした厚みがあって、とても、昨日今日で描ける分量には思えない。

「うん。昨日、彩ちゃんと一緒にいたら、ずっとどきどきして眠れなくて。だから、ひと晩ずっとネームを描いてたの。おかげで授業中、ほとんど寝てた」

 それにしたって手が早い、そう思いながらコピー用紙をめくってみれば、私は先輩への認識を改めなければならなくなった。

 二枚、三枚、四枚、ページをるほどに確信が深まる。五枚。もう十分だ。十分すぎる。こんなもの、喉元に押し込めておけるはずがない。

「糸子先輩、私のこと、馬鹿にしてるんですか?」

 この人の場合、神経がない、というよりも、神経がない、とするべきなのだ。

「えっ、言われたように描いたつもりなんだけど、何かだめだった?」

 私が昨日、ネームについて説明したことの一切は活かされている。コマ割りがあり、セリフがあり、そして――だめなところは何もない。それどころか。

「異様に丁寧に描き込んであるのは、この際いいです。それはいいとして、先輩、じゃないですか!」

 正確に言えば、この漫研にいる部員の誰よりもうまい。なんでこんなに難しいアングルで描いてデッサンも陰影も完璧なんだ? なんでフリーハンドで描いてるっぽいのに三点透視まで完璧なの? ぼっちのくせに人の表情は完璧に知ってるんですね! なめてんのか!

「糸子先輩、身のほどをわきまえてもらえませんか。ただし、逆の意味で」

 天上人なら天上人らしく、下界にちょっかいを出さないで欲しい。

 先輩は困惑顔で、早くも瞳は潤む様子なのである。この人、けっこう泣き虫だ。私が自作で人を泣かせたという栄誉が、今すごく軽くなった。

「えっと、その、よくわからないんだけど、怒ってる?」

「怒ってます。とっても。糸子先輩、どうひいき目に見ても、これは人としてやってはいけないことです」

 うろたえて、今にも涙をこぼしかねない先輩を尻目に、私はやれやれと息をく。そして思い出す。先輩の暮らすワンルームにあった、熊のぬいぐるみのことを。

 私がかつて描いた漫画は、拙かったとしても、そうして誰かのもとに届き、息づいた。その誰かは目の前にいて、言わば私の漫画の愛読者で、作家というのは、読者を大切にするものだ。仕方ない。

「糸子先輩、よく聞いてください。以下ふたつのうち、どちらかを選んでください」

 我ながらどうかと思うが、こういう言い方でもないと、私の気が収まらないのだった。

 完全に涙ぐんだ目で、先輩は私を見つめて、言葉の続きを待つ。これでどうやって目上として扱えばいいのか。私は指を一本ずつ立てながら、続きを言った。

「一、私と絶縁して、もう二度と会わない。二、今後、私に原作を提供する際は、全てシナリオの形式にする。さあ、どっちですか」




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