6コマ目 せめて袖
糸子先輩は私より余裕がなかったようで、寝間着の上にノースリーブのロングコートを着ていた。いくら何でも余裕がなさすぎではないかと思わないでもない。私が思っていたよりもっと、駅から遠くに住んでいるとのことではあったのだが。せめて
「まさか、呼び出されるとは思ってなかった。明日でよかったんだよ」
糸子先輩の地元、駅近くにある公園、おそらくは、先輩が私の漫画を読んだのであろう場所に来ていた。先輩と私は並んでベンチに腰かけている。
「ごめんなさい。衝動的に動いてしまって。まだ終電に間に合うと思ったら、つい、走っちゃって」
夜中に女ふたりでこんなところに来るものでもないが、公園を出てすぐに交番があるし、叫べば聞こえるだろう。警官に見つかったら帰宅させられてしまうだろうから、公園にパトロールに来ないことを祈る。
先輩の小説、三作目を読んですぐ、私は家を飛び出していて、それと同時に先輩へ連絡を入れた。いてもたってもいられず、ではあったのだが、別な思惑もある。
「それに、今からする話は、昼間の明るい地学室じゃなくて、できるだけ暗い場所でするほうがいいんじゃないでしょうか」
願いのまま叶うのかどうか、それはわからない。
けれど、出会って欲しかった。
闇の中で、ぬいぐるみのもとに少女が訪れる日が、今ここにあって欲しかった。
「読んでもらえたんだね。ありがとう」
暗がりでも、糸子先輩が微笑んだことがはっきりとわかる。今なら、たとえ明かりがひとつもなくても、ちゃんとわかりそうな気がしてしまう。
糸子先輩は微笑みを崩さずに、話を続けた。
「
先輩の表情に、陰りが混じる。
「でも、実はわからなかった。会えたとして、どうやって、寄り添いたいと言えばいいんだろうって。それで、原作って言っててね。そうすれば、彩ちゃんと同じひとつの作品をつくれる、そう思ったから」
最初から、私が入学する以前から、糸子先輩の原作は、私の作画ありきだったということだ。
「勝手だよね。本当に、ごめん」
先輩は俯く。呼び出しておきながら、言葉をうまく返せない自分がいた。確かに、その思い入れは勝手だし、会ったこともない人に押しつけるには重すぎるし、私には私の描きたいものがあるわけだし。
「でも、本当でもあるんだよ。彩ちゃんと一緒に作品づくりができるなら、そんなに嬉しいこと、ないよ」
先輩が潤んだ声音で言うのを聞く。知ってはいたけど、この人は声帯にも恵まれている。ずるい。
やっぱり私は甘いと思う。でも、優しい言葉では言えそうにない。
「謝るところ、そこじゃないと思います」
私が言うなり、先輩はうろたえたような顔つきになった。私は笑顔が見たいのに、こうして困らせてばかりいる。
「だって、結局、自分の原作で書いて欲しいだなんて、真っ赤な嘘じゃないですか。私と友達になりたかっただけ、私と一緒に作品がつくりたかっただけ、そうでしょう? それなのに、変なごまかし方をして」
先輩は押し黙ってしまったが、それは私の言うことを認めたと捉えることにして、話を続けた。
「一緒にやるっていうなら、原作じゃなくてもいいんですよね。キャラクターを一緒に考えるとか、ベタ塗りを手伝ってもらうとか、そういうのでも」
「そうだね。うん、嘘ついて、ごめん」
あまりにも申し訳なさそうに言うので、私としては、本当に罵倒してやりたい気分だった。
「先輩、察し悪いですね」
さすがに、神経のない人にそれを求めるのも酷なんだけど、こういう段取りでもないと、私の気が収まらないのだった。
「私の原稿のベタ塗りとか、消しゴムかけとかトーン貼りとか、手伝ってもらってもいいんですけど、やりますか? それとも嫌ですか?」
「えっ」
もし、これが漫画だったら、先輩の目は点になっていたはずだ。
「やる! やります! やらせてください!」
先輩の目はきらきらと光をたたえていただろう。漫画だったら。どうも上下関係が逆転している気配があるのだが、今この瞬間に限ってのことだと思うことにする。先輩を敬っていられるならそれに越したことはない。望み薄だとしか思えない。
「あと、まあ、その、せっかく先輩、たくさん原作書いてたみたいなので、やっぱり、没にするのも惜しいかなって。ネームにしてきてもらえれば、描いてみます」
「ネームって?」
先輩から、本当にわからないという顔で問われる。予想はできていた。できてはいたけど、やはり漫研部員の口から聞くと衝撃的だ。
「下描きの下描きみたいなものです。後で詳しく教えます。とにかく、先輩の小説はうますぎて逆に描けないですし、私、読むと落ち込むので。だからネームに直してください。そしたら描きますから」
私がそう言うのを聞けば、糸子先輩は喜色満面なのだ。
背景はどこかに消えて、きらっきらのトーンを背負って、はしゃいで一メートルくらい跳ねていた。漫画だったら。
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