5コマ目  四ページ



 ディスプレイで読むものではないように思えてならず、糸子いとこ先輩の小説、そのうちの三作目をプリントアウトした。父の書斎にあった中でもっとも上質な紙を選び、勝手ながら表紙もつけさせてもらった。

 先輩の力量、才能を目の当たりにするにあたっての、心構えの段取りとしての色合いが濃かった。ただ、丁重に扱うべき名作であるだろうと、そのことに疑いはなく、それならやはり、ちゃんと整えて読みたい。どちらが本意か結局は曖昧で、求められる行動は一緒だった。

 本文が印字された紙がA4で十ページ分、加えて表紙と、裏表紙にあたる白紙、計十二枚を自室に持ってきて、右上に穴を開け、紐でじた。漫画の習いでは、こういう場合、ホチキスなのだが、小説の流儀にのっとろうとしてしまうあたり、やはり律儀者なのか。

 部屋の照明を消し、相棒である学習机のライトだけをともし、椅子に腰かけて、糸子先輩の小説と正面から向き合う。息を呑み、緊張で指の動きがぎこちないのを自覚しながら、表紙をめくった。



 ひとりの少女の話だ。

 ただ、ひたすらに、その彼女のことだけが描かれている。

 他の人物は漠然と書かれるのみで、登場実物としての役は負わない。

 名前さえ出ないのことだけ、ひたすらに続く。

 高校に入ってから三ヶ月余りが過ぎた頃、昼休み、彼女は校内をさまよい歩く。目的地はない。気づけば日課のようになっていた。これからずっと続くというのか。彼女は願いながら歩く。なるべく人を避けられるようにと。会わないように、見られないように、見てしまわないようにと。人気ひとけのないところから、人気ひとけのないところへ。今日の屋上には人がいた。体育館の裏ではカップルが弁当箱をつついていた。トイレの個室はだいたい回ってしまったじゃないか、あまり繰り返しては、余計に話のたねになる。

 そんなふうに、彼女は巡りゆく。

 答えの存在しない問いを解かされているような。

 もともとが、生きづらさを抱えたままで入った高校だった。家庭内での不和が、彼女をひどく臆病にさせていたし、中学生だった頃も、教室にいることのほうが珍しかった。ささいな出来事も、彼女が受け取れば、立派な恐怖に変貌した。それでなお勇気を奮って、進学することを選んだ。生まれ変われるかもしれないと、密かに望んだ。

 高校に入り、教室にいることを熱心に続けると、俄然がぜん人目を引くようになった。美しさに恵まれすぎたことで、人間関係の破綻を招いた。

 恋人などいない。いたこともない。それでも、二度、三度、交際の申し出を断れば、火種としては十分だった。噂は駆け巡る。尾ひれがつく。彼女のことを気にくわない女子たちの創作が混じる。

 誰かと誰かの話の中では、大金さえ出せば応じるのだとみなされていたし、それは、あの美貌でこれまでいくら稼いだのかという話題にすり替わった。また誰かの話の中では、彼女は教師と関係を持ち、成績を上げてもらっていた。そしてそれは、入学試験も同様だったのだと話されるに至る。

 どうして彼女にそんなことができようか。

 入学直後でさえ、クラスメイトと目を合わせるだけで十分に恐怖だったというのに?

 奮い起こした勇気のまま、必死に耐えていたというのに?

 今やもう、耐えることもままならない。彼らは彼女のことを、同級生への視線では見ない。本当は違うのかもしれない。中には違う視線もあるのかもしれない。けれど、もうわからない。彼女にはわからない。皆、同じ目を向けているように見える。どうしても、どうしても同じに見える。蔑みと羨望が融け合い、そして、その目は彼女を対岸へと押しやる。強く拒絶しながらも、しかし――そして? どう言えばいい? もし玩具だったならよかった。楽しいものを、あえて壊そうとはしないじゃないか。

 見たくなかった。見られたくなかった。

 そんな折、家庭内での不和から逃れるためとして、転校の話が持ち上がる。全寮制の女子校へと。家を出られるし、女子校ならばあるいは、彼女に矛先が向くことはないかもしれない。やり直せるだろうか。生まれ変われることを、また望めるのだろうか。

 彼女が、最後のつもりで登校した日は、九月上旬、ちょうど文化祭が催されていた日。どうせ転校してしまうのなら、改めて来る必要もなかった。クラスの出し物の人員には、彼女は実質、数えられていない。

 それでも彼女が来たのは、ささいなものでいい、証となるものが欲しかったからだ。何でもよかった。ポスターでも、チラシの一枚でもいい。何なら、その辺に落ちている空き缶だっていい。

 実らなかったかもしれない、けれど、自分の抱いた勇気の証となるものが、何か欲しかった。決意して、勉強の末、試験に受かって入った高校、そこに自分がいたことを、いつか思い出したい時がきたなら、それをしまった引き出しを開けよう。

 ふと目にとまったのは、漫画研究部が売っている冊子だった。校舎はどこも人にあふれ、とても長居はできない。彼女は焦る指先で硬貨を出して、その冊子を買い、逃げるように高校をあとにした。

 もう、あの学校へ行くことはないのだろう、そんなふうに思いながら、彼女は地元の公園にいた。ベンチに座りながら、何とはなしに、買った冊子をめくる。

 見出しがひとつ目に入った。『来年入部予定の期待の中学生!』と、ある。どうやら、部員の知り合いのようで、ゲストとして呼ばれた形らしい。誰ぞやが原稿を落とした、ということも書いてあった。

 たった四ページの漫画だった。


 闇の中で、熊のぬいぐるみが泣く。悲しいのだ。自分が薄汚れていることが。ところどころが破れ、綿がはみ出しているのに、誰も直してはくれない。昨日は破けていなかったところが、今日、新しく破けた。悲しくてたまらない。

 闇の中で、ぬいぐるみは思う。

 ――僕を直してくれる人はいないのかな。

 ふと、少女が現れる。

 僕を直してくれるのかい、ぬいぐるみはそのように問うけれど、私には直せない、少女はそう返す。

 けれど少女は言うのだ。

 私はこの暗い場所に光を灯すこともできないし、あなたの綿を押し込んでも、それはすぐに出てきてしまうけれど、でも――

 ――私は、トモダチだよ。

 光は差さない。

 闇の中で、傷も癒やせぬまま。

 でも、寄り添い合う少女とぬいぐるみは、トモダチなのだ。


 誰とも知れない中学生が描いた漫画を読み終えて、彼女の見る世界が滲む。どうして。わからない。涙があふれる。彼女は思う。願う。

 ぬいぐるみになりたい、と。

 少女が訪れるのを待っていたい、と。

 綿がはみ出したままでも、傷口が日ごとに増えても、闇の中にいても、寄り添い合えれば、それは間違いなく、トモダチなのだ。

 もちろん、読んでいたのはフィクションで、闇の中に現れた少女なんて、どこにもいない。けれど、この漫画を描いた人はいる。その人にとってのトモダチになれないだろうかと、彼女は思い描いてしまう。いい迷惑だと言われれば、無論それまでのことではあるけれど。

 それでも、それでも。

 彼女の頬を涙が伝う。どうして。わからない。

 来年入部予定という。転校してしまえば、生涯、その人との接点はないだろう。

 彼女の脳裏に、誰とも知れぬ視線が浮かぶ。胸奥きょうおうに巣くい、食い散らかしていく。目と噂話の渦中は、きっと自分にとって悲しい場所なのだ。

 そこから逃れ、転校するのか、それとも――



 そこで、物語は終わっていた。

 息を吐けば、やっと、全身が汗ばんでいると気づく。糸子先輩の才能に打ちのめされるより先に、物語に意識を奪われていた。話に大きな動きはないものの、鬼気迫るほどの描写が胸をえぐった。

 でも、その何もかもが先輩の才能ではないことを、私はもう知っている。

 体験談と、そう言っていた。これは糸子先輩の身にかつて起きていたこと、そのままなのだろう。

 だとすれば、作中に出てきた、漫研の冊子にゲストで呼ばれた中学生も実在する。

 たった四ページの漫画で、先輩の人生を変えてしまったのは誰か。

 先輩が待ちたいと願ったのは?

 考えるまでもない。

 私なんだ。




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