此岸の国

伴和花千

         此岸の国

 

 

 

 彼は毎年三日間だけ、そこに姿を現す。

 三年前に起きた飛行機事故が彼とわたしの時間を永久に分断した。



 ◇



 今年も二日間を彼とともにすごした。今日も例に漏れずわたしは教室へ向かう。


 彼は最終日だけは現れる時間が遅いので、一緒にいられる時間がすくないのがちょっぴり残念だ。


 窓からそそぐ落日の赤い光が燃えるような色に廊下を染めあげている。事故があった日と同じように蝉がないていた。


 いつもは生徒たちの話し声であふれ、騒がしい廊下には今は誰もいない。


 普段とは雰囲気の違うその廊下を走って、三年前わたしたちの教室だった扉を勢いよく開ける。


「いさみ!」


 柴崎勇は毎年のように窓側の席の前から三番目の場所に立っていた。

 そこは事故が起きる前、彼の座席だった場所だ。


 熟れた柿のような色の光に照らされて、墨よりも濃い影が机や椅子の合間合間にたまっている。


 勇はゆっくりと振り返り、昔と変わらぬ笑顔をわたしに向けた。


「いち」


 昨日も会ったばかりだというのに、わたしは顔が溶けてしまうのではないかと思うほどの喜びを感じた。思わず駆け出して勇に抱きつく。


 だけどわたしの手は勇に届かなかった。触れることのできない手を絶望的な気持ちで見つめ、わたしは顔をゆがめた。手をぎゅっと握りしめ、笑って振り返る。


「ごめんね~。さわれないっていうのわかってるのに、またやっちゃったよ。昨日も失敗したのに」


「いち……」


 勇は泣き笑いのような顔をしたあと、いきなりわたしを抱きしめた。


 その手はわたしの体をかすめて、勇が自分の体を抱きしめるようなかたちになった。

 涙が出そうなくらいに嬉しかった。

 実際に泣きそうになったが、ぐっとこらえてかわりに吹き出すようにして笑った。


「何だよ」


「だって、おかしかったんだもん」


 いつもは大人びた勇の、すねたような顔が本当におかしくて、わたしは笑った。



 わたしたちはいつものようにとりとめもない話をした。


 さして重要でもない本当に日々のつまらない話ばかりで、勇にとっては退屈なだけだろうとも思ったけれど、彼があんまり一生懸命に聞いてくれるものだから調子にのって話しすぎてしまったのだ。


 気がつくと、もうすっかり日は暮れていた。

 昼間あれだけなきかわしていた蝉の声も、今はこおろぎたちの合唱に様変わりしている。

 明かりのついていない教室は、机や椅子のシルエットがうっすらと見てとれるという程度にしかわからない。

 夜空にのぼる月に照らされている外のほうがまだ明るいくらいだった。


 怖くはないのだろうか。


 そう思って勇を見るが、彼は大丈夫、と笑って、わたしの手に自分のそれを重ねた。

 手が触れあうことはなかったけれど、見つめているだけで胸がいっぱいになった。


 いつまでもこの時間が続けばいい。今日がいつまでも終わらなければいい。


 けれども時は止まってはいなかった。


 勇と別れる時間は刻一刻と近づいてくる。気がつけばもう別れの時間となっていた。


 校舎の中心にうずまった時計が闇夜の中に浮かびあがり、時刻を知らしめている。

 

 勇はまだ話していたが、わたしは机の上からおりて、彼に告げた。


「残念。もう時間」


 勇は顔をしかめて、わたしを見た。

 非難するようなそのまなざしをさけてうつむくと、わたしは勇が重ねてくれた手を握りしめるようにして、彼を見上げた。


「帰らなきゃ……」


 勇は何も云わず黙って、顔をそらした。


 わがままを云う子供のようなその表情に思わず抱きしめてやりたい衝動に駆られた。

 そういう表情は、事件前とまるで変わらない。


 あの事件以来変わったのは、たがいに触れあうことができなくなっただけなのだ。それ以外はまるで変わりはしない。

 でもそのたったひとつがわたしには泣きそうなくらい耐えられなかった。


「いさみ!」


 不安感を消し去るように勇のそばに駆け寄ると、わたしはのびあがって彼に口付けた。感触はなかった。ひとり芝居をしているような気になり、わたしはやりきれない思いでいっぱいになった。


「いち……」


 目を見開く勇にわたしはどんな顔をすればいいかわからなかった。


「ごめ……」


 謝ろうと口を開きかけたとき、勇に抱きしめられた。

 とはいっても、そういう形を作ったというだけで、実際には何の感触もない。


 勇は泣きそうな目をしていた。

 

 実際、泣いているのではないかと思うくらい目が揺れていた。

 どうにかしてあげたくて、わたしは勇を見つめたまま彼の頬に触れた。


 ゆっくりと近づいてくる勇の顔に、わたしの体はしびれたようになった。魔法にでもかかったようにまぶたが自然に閉じる。


 勇がキスしてくれたのかどうかは目をつむっていたからわからない。

 けれどまぶたを開けると、驚くほど近くに勇の顔があった。


 たがいの息がまじりあいそうなほど近い。

 わたしはくすぐったいような気分になって笑った。

 勇はちょっと恥ずかしそうな顔をして、それから触れあうことのできない頬に口付けてくれた。離れていく唇が名残惜しくて、そのあとを追ってしまう。



 下駄箱がある玄関まで連れだって歩いた。

 一歩一歩踏みしめるように歩き、勇との時間をすこしでも長く保とうと、最後の抗いをみせてみる。

 階段をおりるときも一段足を踏み出すのに、おそろしいほどの時間をかけた。


 あとすこし。


 階段の踊り場の向こうには玄関が暗い口をあけて待っている。そこは地獄への入り口のように見えた。


 あともうすこし。


 ゆっくりと、しかし確実に正面玄関は近づいてくる。

 立ち並んだ下駄箱の間を通り、ついにガラスの引き戸の前にまでやってきた。

 

 ガラス戸の向こうは月明かりのせいか、学校の内部よりも闇の色が薄く見える。

 色の異なるそこが決して交わることのない勇との世界の境目のように感じて、わたしは思わず彼の腕をつかんだ。


 その手は勇の腕をとおりぬけ、空気をつかんだだけだった。何とも云いがたい感情を含んだ目で勇はわたしを見る。


 何か話さなくては。


 云わなくてはならないのに、言葉が出てこない。話題もどうしてだか出てこない。たくさん話したいはずなのに、もう一言も出てこない。

 わたしは自分の話題のなさに愕然としながらも、勇から体を離し、精一杯の笑顔を見せた。


「――じゃあ……」


 勇は眉根を寄せた。


 そんな顔をしないで欲しい。

 

 別れたくないという気持ちを懸命におさえ、わたしはふりきるようにもう一度、口を開いた。


「じゃあ……ね」


 また、とはとても云えなかった。

 わたしは勇の顔を極力見ないようにして、ゆっくりとあとずさった。


 来年、勇は現れないかもしれない。今日が最後かもしれないのだ。そう思うと、もう何も云えなかった。


 息が詰まったようになって、言葉のひとつでも発しようものならば、嗚咽が代わりに出てくるであろうことはあきらかだった。

 わたしはゆがんだ顔を勇に見せたくなくて、きびすをかえした。


「いち」


 背中に勇の声が突き刺さる。

 幼い頃からずっとそばにあって、ずっと支えてくれていた声だ。その声を聞くだけで、わたしはこらえることができなくなった。


 背を向けたまま、片手で口元をおさえて声が漏れるのをふせぐ。


「忘れないから」


 勇の声がゆっくりと近づいてくる。


「お前のことも、クラスのやつらのことも皆忘れないから」


 耳元で声がしたと思ったそのとき、勇がわたしを抱きしめた。

 運動部で鍛えていたしっかりとした腕が、貧弱なわたしの首のまわりにある。


「毎年必ずお前に会いにいくから」


 わたしは声にならない嗚咽をあげながら何度もうなずいた。


「絶対……」


 振り絞るようにか細い声が鼓膜を震わせる。

 わたしは勇の腕に自分の手を乗せた。震えているせいで何度も勇の腕をすりぬける。わたしは泣きながら何度も何度も腕を重ね続けた。


 じゃあ、行くから。


 勇の声が耳元でした。わたしの視界から腕がゆっくりと離れていく。

 じょじょに勇の気配が遠ざかっていく。

 わたしは背を向けたまま、その場にしゃがみこんだ。


 やがて勇の気配は感じられなくなり、それとともに校舎の中のほうから声が聞こえてきた。



 ◇



 かつてこの学校に飛行機が墜落した。

 受験勉強の対策で夏休みも登校していた高校三年生は、柴崎勇たち欠席していた数名の生徒をのぞき、全員がこの事故で死亡した。


 残った校舎は壊され、更地となった。



 勇は事件後引越しをし、盆の間しかこの町へは戻ってこない。

 だからわたしも家に帰ることなくここにとどまり、三日間だけ勇と過ごすのだ。


 いつか勇の記憶が風化して、勇がこの場所を訪れなくなるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

此岸の国 伴和花千 @sirah

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ